「誰にも似ていない」「何にも似ていない」と言っても「伝承の線」が切れているだけで一万年前にはそんな人は沢山いたかもしれない。「オリジナリティ」や「自分らしさ」とは何であろうか。「自分にしか出来ない」「自分以外いない」。確かにそれは「希少価値」だろう。しかし「自分らしく咲いた花」が、「普通の花」であったり、「何処かで見た花」に似ていたりという事はあるだろう。すると「自分らしさ」のために「自分らしさ」を歪めるという奇妙な事態にもなりかねない。「自分らしさ」「オリジナリティ」「個性」「希少価値」を追求し主張する人々の群れ。そんなことにもなりかねない。「自然に咲いた花」、「その人らしい花」、例えそれが珍しくなくどこにでもあるありふれた目立たない普通の花でもそれが素晴らしいのかもしれない。しかしそれが「自分」なのかそれとも「流されている自分」なのか、という見極めは難しいのかもしれない。自分と直に触れ合う事、本当の自分を見出だす事「自分探し」。自分の欲望探し。「自分の本当にやりたい事」「自分の本当に好きなもの」それを見つけるのはとても難しいのかもしれない。長い自分との対話、自問自答が必要なのかもしれない。自分の魂に問い続ける。自分の魂を見詰め続ける、孤独な時間。そこに生まれてくる何か。鼓動。波動。波長。それが自分と全宇宙を貫きひとつのリズムを奏で始める。もはや誰かに似ているとか何かに似ているとか自分らしいとか関係なくなる。そんな境地、事態。「自分らしさの檻の中でもがいてるなら僕だってそう、誰だってそうなんだ」というミスチルの歌詞があったが。人は何かになりたがる。誰かみたいになりたがる。人は自分を探す。本当の自分を追い求める。何者でもない自分を許せない。何者かでありたいと願わずにいられない。しかし何者でもない人がいるだろうか。君も私もすでに「何者か」なのであり、それはそのままで素晴らしいことなのではないか?