『シャッターアイランド』を観ました。先日観た『インセプション』同様夢の話と言えなくもない。途中まで確固たる現実だと確信していた世界が「妄想の世界」へと変容し別の現実の世界が反転するように出現する。『ビューティフルマインド』や『ファイトクラブ』もこういう話だった。『世にも奇妙な物語』でもジュディ・オング主演の回でこのような話があった。「よくある話」だからつまらなかったという訳ではなく、なかなかおもしろかった。『インセプション』では『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』を連想したが、『シャッターアイランド』ではうる星やつらのTVシリーズの「そして誰もいなくなったっちゃ」を連想した。これはアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』のパロディーだ。最後「島の灯台」で「真実を知った」あたるが「廃人」になる…。ただ最後の最後であたるは「日常」に唐突に軽やかに回帰するのである。「精神の迷宮」の中で「廃人」になる主人公。うる星やつらの場合突然爆発的に平凡に回帰するのだ。それはあたるの「欲望」が契機になっていたと思うが。トラウマと精神分析の閉域を突破するあたるの多方向的な欲望の爆発。そこでは「すべての美女」が等しく欲望の対象になる。「ラム」は中心ならざる中心、不断に電撃的切断を強要する「リセットボタン」的中心なのである。その非建築的な砂漠的中心としての「ラム」。徹底的に電撃的な「非在の存在」としての「ラム」。その「嫉妬の電気ショック」で「正気」に戻るあたるは「あらためてトライ」「性懲りもなくトライ」し続けるのである。その「正気」は「安定した狂気」の別名であり、精神治療の電気ショックと反対のベクトルに働くのだ。いや、しかし精神治療の電気ショックによる精神の安定化が「正常」への回帰であるといえるであろうか。その静かな風景は「安定した狂気」のそれ、「リセットされ純粋化した狂気」のそれかもしれない。『シャッターアイランド』の監督はマーチン・スコセッシである。スコセッシ流の「映像美」がところどころに挿入される。例えばラストシーンの「光の差す緑の庭」それは徹底的に現実的、日常的でありながら奇妙な幻想性を帯びている。それは『救命士』で夜の花火をバックにベランダから救出される男のシーンにも感じたものだ。徹底的な日常、徹底的な現実が同時に奇妙な幻想性、非日常性を帯びて観る者に迫る。その現実の瞬間は余りにも充実した生の実感のことなのである。