去年亡くなった清水アリカさんが翻訳した、『トルネイド・アレイ』を読んだ。ウィリアムズ・バロウズの短篇集であり、最初の三作品を読んだ。1992年に発行された本である。弟が近所のブックオフで買ったものらしい。バロウズはずっと関心はあったがほとんど読んでいない。10年くらい前に笹塚の近くの図書館で読んだ「ゴキブリホイホイ」はおもしろかったが。作品はあまり読まず、「カットアップ」などの方法などに興味があった。いつか読みたいと思っていたけど。『裸のランチ』とか始めの所は読んだけど。でもなかなか「カットアップ」っぽい所が出てこない。「カットアップ」などバロウズの事は椹木野衣さんの『シミュレーショニズム』とかで知ったのか。椹木さんの本はとても好きでほとんど持っているが。『トルネイド・アレイ』も「カットアップ」っぽい所は出てこない感じだ。今の所。しかし非常におもしろい。そして中原昌也への影響を濃厚に感じた。中原さんの小説は非常に好きでほとんど読んでいる。あらゆる場所に花束が…以外は。ロブ=グリエの「ニューヨーク革命計画」の冒頭数行を読んだ時も中原さんの小説に似たものを感じた。多分中原さんはロブ=グリエやバロウズの影響をかなり受けているのだろう。ベケットとかもだろうか。影響というか、後継者か。同じ道の先を行くというか。しかし私自身も『トルネイド・アレイ』を発見した事は大変に嬉しい事である。楽しみに読んで行きたいものである。「直接性」について。清水アリカさんがあとがきで「バロウズの小説に描写は無い。風景についての描写は存在しない。小説それ自体が風景であり、風景それ自体が小説なのである。」と書いている。これはベケットがジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』について語ったことを連想させる。「ここにおいては形式はすなわち内容であり、内容は形式である…ジョイスの作品はなにものかについて書かれたものではない。そのなにものかそれ自体なのだ」。風景それ自体、対象それ自体、とはどのような事なのであろうか。例えば「ウサギ」と「ウサギの絵」、「ウサギ」と「ウサギのイメージ」、があると、「ウサギそれ自体」と「ウサギのイメージ」の違い。それはウサギと「自分」の間に何らかの媒介物、距離、があるかどうか。その媒介物が「思考」だったり「知性」だったりするのか。それら「媒介」なしで「対象」に触れる事。触れている事。「直接性」。「それがそれ自体としてそこにある小説」。