蓮實重彦の「伯爵夫人」を読んだ。この巨大な、とんでもない、べらぼうな、怪物的な作品を論じたり語ったり分析するのは相応の能力が求められるような気もし、気が引けるというか、びびって何も言えないというか、何も言わないほうが賢明というか、何かを語ることが不可能というか予め禁じられているような気もするが、その作品の魅力に触発され、何かを言いたくなり、何かを言うべきだ、とまで思ってしまう。ここはあえてざっくばらんに丸腰感覚でざっくり乱暴に分析してみたい。この作品はざっくり極めて乱暴に、その内容に相応しくなく、キャッチコピー的に要約すると、「戦争をテーマにしたメタフィクション」であり「エロティックなアクションコメディ」である。ここでは「戦争をテーマにしたメタフィクション」という部分に焦点をしぼりたい。またもやとてつもなくこのとんでもない作品をざっくり犯罪的に要約すると私の見立てではこの作品は「金玉を打って気絶した男の見た夢」である。この作品は細部のリアリティーなど凄いのだが、全編に渡って夢うつつをさまようような雰囲気であり、明らかに「これは夢だろう」という部分も存在する。大きく分けると「伯爵夫人と二朗」の部分と「ルーゲーリックのサインボールが金玉に当たって気絶した二朗が意識を取り戻しエロティックにハーレム的に介抱される話」が交互に現れる。私の見立てでは「伯爵夫人と二朗」の部分が夢で、「ルーゲーリックのサインボールが金玉に当たって気絶した二朗が意識を取り戻しエロティックにハーレム的に介抱される話」が現実と考える。つまり伯爵夫人は存在しない。もしかするとボールが当たって気絶したままであり、意識を取り戻し介抱されているのも夢かもしれないが。すると全編、金玉の痛みに満たされ下半身の話、性的な快楽、性的な苦痛、性的な物語に満たされているのも納得がいく。なにしろ「金玉を打って気絶した男の見た夢」なのであるから。すると全編マゾヒスティックなイメージが頻出するのも理解できる。時代は1940年ごろ、場所は日本、東京と思われる舞台。戦争が迫っている。戦争の足音が聴こえてくる。そんな時代、「ルーゲーリックのサインボールが金玉に当たって気絶した若い男」はどんな夢を見るのか?この小説、印象的な部分がいくつもあるが、というか印象的な部分は無数にあるが、ここで気になる部分を二つ挙げたい。何度か繰り返される「主人公二朗の失神」において「白っぽい空が奥行きもなく広がっているのが首筋越しに見える」という文章と、「ココア缶の図柄」である。ココア缶に描かれた女は戦争を見ている。戦争を見据えている。無限に無へと近づくかに思われる入れ子式の無限連鎖を断ち切る戦争へ向けたその視線。失神を繰り返し、入れ子状になった物語の中で二朗はいつも戦争を見据えていたのではあるまいか。自分の三日前に生まれた一郎が自分なのではないかと二朗は思う。女は次々に去り、戦争は近付く。二朗は思う。伯爵夫人は母なのか母は伯爵夫人なのか。戦争が近付く時勢、ルーゲーリックのサインボールで金玉を打って失神した男は夢を見る。謎の地下室で母ときわどく愛し合い損ねる夢を?彼の目は戦争を見ている。女も戦争を見ている。ココアを運ぶ蓬子さんも赤毛の女も伯爵夫人も、たぶん母も。
みなさん!昨今のテレビに満足していますか!私は大いに不満ですよ!確かに面白い番組はありますし、AKB もAKB グループも乃木坂も欅坂も好きですし、お笑いも好きですし、さんまのお笑い向上委員会もめっちゃ楽しみに観ているし、「あさが来た」もめっちゃ楽しみに観てましたし、アニメもジョジョをめっちゃ楽しみにして観てますよ!でも何か不満なんですよね!なんなんですかねこれは!別にデータや資料の用意もないし気ままに書いていきますよ!まずね!「いいとも」ありましたね!「いいとも」!「笑っていいとも!」ですよ!ほら!あの!タモリ!あの!タモリ!がやってた!長く続いていた番組ですよ!この頃「ごきげんよう」も終わっちゃいましたけどね!どうしますか!つまりですね!「いいとも」という超番組があったわけですよ。番組終了の数年間もタカトシとタモリさんとの絡みとかハライチ澤部とタモリさんとの絡みとかいろいろ観るべき所はありましたし香取くんもなかなか高次元なボケ司会をしていましたよ。非常にハイセンス、洗練の極みに達しておりました。「いいとも」なのです。これを「タモリ論」とかから始めたり番組開始時から始めるのは私の手に余るので番組終了前の2~3年の動きについて少し考えてみたい。「笑っていいとも!」は時代に敏感で時の人とか時代の半歩前の人とかどんどん出演する印象がある。ジャンル問わずに。これはタモリという芸人の恐るべき教養の幅と類い稀なる対応力の為せる技なのだろうけど制作サイドもいろいろ考えてやっていたんだろう。特に番組初期は時代の流行り的な物やタモリの資質的なものもあるのだろうけど普通の芸能人と所謂文化人の出演が半々くらいの印象だった。あとは「面白素人」とか「変な外国人」なども。あと「お色気」もあり、タモリと鶴太郎が半ば本気で「ガル~~」「こりゃたまらん!」と発情していたのがなつかしい。タモリさんも40代の頃であろう。まあタモリさん個人への印象としてはその「毒」や「意地悪な感じ」が私が子供だったこともあり嫌いだった気もする。それはいいとも開始前から開始後数年くらいだろうか。私も小学生であった。タモリの巨大な知性や批評性や怪物的なセンスは理解出来なかったであろう。私のタモリ評価、というかタモリ愛はむしろ世間が冷めて来た頃からかもしれない。(今現在はタモリ再評価というかタモリ好感度は世間的に非常に上がっていると思うが)タモリ自身もボキャブラ天国かなにかでふともらしていたが1980年代後半から1990年代前半はスランプだったのではないか。しかし1990年代後半から吹っ切れたかのように突き抜けたかのように番組内で自由な動きを見せるようになった。「客席との対話型」から「自分の世界に没入しやりきる」という転換にも思えるが芸として見事に成立していた。1997年あたりから異様な輝きを放ち始め、それは番組終了まで続いていたように思う。まあテレビの世界は残酷でどんなにいい番組でも裏番組に負ければ終わるしかないのかもしれない。全員集合、ひょうきん族、加トちゃんケンちゃんのデッドヒートのように。話を「いいとも終了までの数年間」に戻すと、最後の数年間で「新たなスター」というかいろいろな人物が登場した。例えば指原莉乃や武井壮、久保ミツロウや桐谷広人、ウエスPや坂上忍、などである。どこかのメディアでグイグイ来た人物をいち早く引き上げる、といった感じなのだろうが、なかなかの面子である。他にもローラや林修、千原ジュニアやタカアンドトシ、ハライチ澤部などだろう。皆さん御活躍のようであるが、指原莉乃の頭の回転の速さやセンスの良さ、久保ミツロウや桐谷広人の引き起こした爆発的な笑いは記憶に残っている。そして結局の所フジテレビは「坂上忍」を「タモリ」の後継者に立てた。という事になっている。「毒」「毒舌」が大衆に愛されるというのはある。最近ではマツコ・デラックスや有吉弘行、古くはビートたけしやまさにタモリ、単発的には橋田壽賀子や野村沙知代、杉田かおるや、デヴィ夫人や西川史子などだろう。「本音、毒舌キャラ」である。これも簡単ではなく、センスやバランス感覚や知性、陰湿にならないキャラクターなどが必要だろう。「単発」といっても西川史子などは長く出ているし、たけしやタモリも現役だが。坂上忍がどのくらい人気があるのかわからないが、私の見立てでは瞬発的なものだと思っていた。今後「バイキング」や「坂上忍」がどうなるかわからないが、フジテレビとしては「報道ステーション」の古館伊知郎みたいな感じで長期戦で考えているのであろうか。まあ、私の「テレビへの不満」というのは「坂上忍」や「バイキング」への不満という事ではないだろう。また久保ミツロウなどについても考えてみたい。それではまた。
昨日の深夜テレビで放送されていた『トータル・リコール』を録画して観た。シュワルツェネッガーじゃないバージョンである。シュワルツェネッガーのものはずいぶん前に観た。原作は読んでいない。ブラピ風男性とベッカムの女房風女性が出てくる。なかなか面白い映画であった。おなじみの「一体全体夢なのか現実なのかわからない」というお話なのであるが、思ったことがあった。それは「夢」にあまりにも没入すると「現実」だと感じられる。ということである。それは当たり前といえば当たり前なのだが、「夢」の中には「これは夢です」という「テロップ」とか「注意書」は出てこないのである。しかしかし考えてみると「映画」や「テレビ」や「マンガ」や「小説」や「ゲーム」は「これは虚構ですよ」という「額縁」が露骨に「露出」しているといえる。無惨に残酷に「露呈」しているといえる。もちろんそのなかには「ドキュメンタリー」「実話」と「名乗る」ものもある。そして「ドキュメンタリー」の「皮」を被った「フィクション」、「フェイクドキュメンタリー」もある。もしかすると「フェイクドキュメンタリー」の皮を被った「ドキュメンタリー」もあるかもしれない。まさに「二重スパイ」である。「現実」が「虚構」に潜り込み「虚構」の顔をする。その「虚構の顔をした現実」が「魂」を「虚構」に売り渡し「現実」に潜り込む。そんな「虚々実々の闘争」を我々は戦っているのかもしれない。「真実」という「テロップ」、「虚構」という「テロップ」ということでいうと、テレビドラマの後に「すべてフィクションです」というのが良く出る。これは視聴者の「誤解」、そこから発する誤った行動を防止するためだろう。反対に「ドキュメンタリー」の後に「これはすべて真実です」と出るだろうか。あまり記憶にない。『すべらない話』のオープニングには「すべて実話である」とでるが。そう考えると人はテレビの中の「映像」を「前提」として「真実」と捉えているのだろうか。しかしアニメなどでは「すべてフィクションです」という「テロップ」は出ないように思う。するとアニメは「虚構」という前提で観ているということだろうか。しかし「ドリフターズのコント」でも「これはフィクションです」という「テロップ」は出ないように思う。すると人は「ドリフターズのコント」を前提として「虚構」と捉えているということだろうか。「これは実話である」という「テロップ」について考えてみると「心霊番組」や「すべらない話」や「水曜スペシャル的な川口浩探検隊的なネッシー的な雪男的なオリバー君的なもの」が考えられる。「普通のまともなドキュメンタリー」では「これは実話である」とはあまり出ないと考えられる。すると人が「これは嘘だろ?」と思うものが「真実です」と主張しているように思える。「作り手的には実話」なものなのだが、人々は「真に受けない」と考えられるものに「これは実話である」と「テロップ」を出すのだろうか。しかし「作り手」が「心から」「真実」と思っているかはわからない。「心霊」や「ネッシー」や「すべらない話」は「虚構」なのだが「真実」だと思って観てもらったほうが「怖い」「不思議」「面白い」ということかもしれない。これは一昔前のマジシャンが手品の前に「タネも仕掛けもございません」というのと同じであろうか。手品師はもちろん観客も「タネ」も「仕掛け」もあることを「知っている」しかし「タネ」も「仕掛け」もないと「思う」ことでより「楽しめる」のである。これは「プロレス」もそうかもしれないし「サンタクロース」もそうかもしれないし、もしかしたら各種宗教の「神」もそうかもしれないし、もしかしたら「この人生」や「この世界」の「虚構性」に我々は気付いているのだが、「真実」だと「思いこんでいる」のかもしれない。なぜならそのほうが「面白い」から。そして実際のところはわからない。ところでこの『トータル・リコール』だが、まさに『夢』のように「これはフィクションです」と「テロップ」は出ない。今のこの場面は夢です。脳内の妄想、夢想です。とテロップは出ないのである。そこで『唇にBe My Baby 』である。前のブログで色々と考察したが、「Be My Baby 」というものがこの歌詞に登場する少年にとっての「キス」である。というのは真実として、そして凄く好きな女の子がいるのも真実として(ちなみに性別、国籍、年齢などは明記されていないが)「キス」が「現実」か、否か、というのはわからない。妄想であるかもしれないのである。「現実」であるかのように描かれているのは少年が「夢」に「イメージ」に「妄想」にあまりにも没入したためかもしれないのだ。「好きな女の子に告白したい」「でも何て言ったらいいかわからない」「気持ちをキスに込めてみよう」。そしてキス=Be My Baby を「イメージ」する。冬に近付くバスもキスもキスの甘い感触も2回目のキスも「イメージ」かもしれないのだ。イヤホンから漏れて聴こえてくる「究極のラブソング」も「イメージ」かもしれないのだ。でも、「この気持ちだけは本物」、そんな「実感」だけが「本物」であとは「すべてフィクション」なのかもしれない。「現実」と「夢」を行き来する「永遠の二重スパイ」それは世界一幸福な二重スパイなのかもしれない。