昨日の深夜テレビで放送されていた『トータル・リコール』を録画して観た。シュワルツェネッガーじゃないバージョンである。シュワルツェネッガーのものはずいぶん前に観た。原作は読んでいない。ブラピ風男性とベッカムの女房風女性が出てくる。なかなか面白い映画であった。おなじみの「一体全体夢なのか現実なのかわからない」というお話なのであるが、思ったことがあった。それは「夢」にあまりにも没入すると「現実」だと感じられる。ということである。それは当たり前といえば当たり前なのだが、「夢」の中には「これは夢です」という「テロップ」とか「注意書」は出てこないのである。しかしかし考えてみると「映画」や「テレビ」や「マンガ」や「小説」や「ゲーム」は「これは虚構ですよ」という「額縁」が露骨に「露出」しているといえる。無惨に残酷に「露呈」しているといえる。もちろんそのなかには「ドキュメンタリー」「実話」と「名乗る」ものもある。そして「ドキュメンタリー」の「皮」を被った「フィクション」、「フェイクドキュメンタリー」もある。もしかすると「フェイクドキュメンタリー」の皮を被った「ドキュメンタリー」もあるかもしれない。まさに「二重スパイ」である。「現実」が「虚構」に潜り込み「虚構」の顔をする。その「虚構の顔をした現実」が「魂」を「虚構」に売り渡し「現実」に潜り込む。そんな「虚々実々の闘争」を我々は戦っているのかもしれない。「真実」という「テロップ」、「虚構」という「テロップ」ということでいうと、テレビドラマの後に「すべてフィクションです」というのが良く出る。これは視聴者の「誤解」、そこから発する誤った行動を防止するためだろう。反対に「ドキュメンタリー」の後に「これはすべて真実です」と出るだろうか。あまり記憶にない。『すべらない話』のオープニングには「すべて実話である」とでるが。そう考えると人はテレビの中の「映像」を「前提」として「真実」と捉えているのだろうか。しかしアニメなどでは「すべてフィクションです」という「テロップ」は出ないように思う。するとアニメは「虚構」という前提で観ているということだろうか。しかし「ドリフターズのコント」でも「これはフィクションです」という「テロップ」は出ないように思う。すると人は「ドリフターズのコント」を前提として「虚構」と捉えているということだろうか。「これは実話である」という「テロップ」について考えてみると「心霊番組」や「すべらない話」や「水曜スペシャル的な川口浩探検隊的なネッシー的な雪男的なオリバー君的なもの」が考えられる。「普通のまともなドキュメンタリー」では「これは実話である」とはあまり出ないと考えられる。すると人が「これは嘘だろ?」と思うものが「真実です」と主張しているように思える。「作り手的には実話」なものなのだが、人々は「真に受けない」と考えられるものに「これは実話である」と「テロップ」を出すのだろうか。しかし「作り手」が「心から」「真実」と思っているかはわからない。「心霊」や「ネッシー」や「すべらない話」は「虚構」なのだが「真実」だと思って観てもらったほうが「怖い」「不思議」「面白い」ということかもしれない。これは一昔前のマジシャンが手品の前に「タネも仕掛けもございません」というのと同じであろうか。手品師はもちろん観客も「タネ」も「仕掛け」もあることを「知っている」しかし「タネ」も「仕掛け」もないと「思う」ことでより「楽しめる」のである。これは「プロレス」もそうかもしれないし「サンタクロース」もそうかもしれないし、もしかしたら各種宗教の「神」もそうかもしれないし、もしかしたら「この人生」や「この世界」の「虚構性」に我々は気付いているのだが、「真実」だと「思いこんでいる」のかもしれない。なぜならそのほうが「面白い」から。そして実際のところはわからない。ところでこの『トータル・リコール』だが、まさに『夢』のように「これはフィクションです」と「テロップ」は出ない。今のこの場面は夢です。脳内の妄想、夢想です。とテロップは出ないのである。そこで『唇にBe My Baby 』である。前のブログで色々と考察したが、「Be My Baby 」というものがこの歌詞に登場する少年にとっての「キス」である。というのは真実として、そして凄く好きな女の子がいるのも真実として(ちなみに性別、国籍、年齢などは明記されていないが)「キス」が「現実」か、否か、というのはわからない。妄想であるかもしれないのである。「現実」であるかのように描かれているのは少年が「夢」に「イメージ」に「妄想」にあまりにも没入したためかもしれないのだ。「好きな女の子に告白したい」「でも何て言ったらいいかわからない」「気持ちをキスに込めてみよう」。そしてキス=Be My Baby を「イメージ」する。冬に近付くバスもキスもキスの甘い感触も2回目のキスも「イメージ」かもしれないのだ。イヤホンから漏れて聴こえてくる「究極のラブソング」も「イメージ」かもしれないのだ。でも、「この気持ちだけは本物」、そんな「実感」だけが「本物」であとは「すべてフィクション」なのかもしれない。「現実」と「夢」を行き来する「永遠の二重スパイ」それは世界一幸福な二重スパイなのかもしれない。