『逃げ恥』は大変良いドラマだった。最後の3話ぐらいしか観てないけど。いろいろと考えさせるところがあるが、「やりがいの搾取」「好きの搾取」「愛情の搾取」というところを考えてみたい。みくりが青空市でバイトするというシーンで「低賃金で働かされる」というモヤモヤと、平匡さんにプロポーズされたシーンで「生活費のみで家事労働」をさせられるというモヤモヤだ。「やりがいの搾取」とはアニメーターやアイドルや芸人などでも何の仕事でも「好きなことやってるんだからこをなもんでいいだろ」と極端に賃金を値切られるブラック企業的なものだろう。「好きの搾取」「愛情の搾取」も愛の名のもとに結婚の名のもとに「家事労働」の対価を徹底的に値切り、継続的安定的に搾取し続けることだろう。それらの局面では「夢を諦めないこと」や「愛社精神」「旦那に尽くすこと」「よき妻よき母であること」が「経済合理性」に利用され「搾取システム」を延命させることになる。そこに「小賢しい」みくりはひっかかったのだ。それは「小賢しさ」ではなく健全な知性の活動である。『逃げ恥』の話は一旦おいておいてレヴィ=ストロースの話である。NHK100分de名著『野生の思考』である。中沢新一先生が解説で出演している。大変興味深い内容の番組であるが、その中で「サンタクロース」の話がおもしろかった。サンタクロースが異教的であるとの理由から火あぶりにされたという実際の出来事からレヴィ=ストロースがサンタクロースの起源を研究したのだ。細かいことは忘れたが、「ケルト神話」などに起源を持ち「死人の世界」からやってくるいわば「西洋のなまはげ」のようなものだとのこと。それによると、冬は太陽の力が弱まり生命の力が弱まり「死人の世界」が勢力を増す季節であり「死人の世界」からやって来た魔物に贈り物を送り丁寧にもてなし帰ってもらうという儀式がサンタクロースの起源にあるらしいのだ。「死人の世界からやってくる魔物」という世界観がサンタクロースの裏にあるのでキリスト教会はサンタクロースを「異教的」として火あぶりにしたらしい。そしておもしろいのはサンタクロース、プレゼント、という「儀式」「イベント」がアメリカの資本主義と結びつき、「クリスマス商戦」「プレゼント合戦」として爆発的に盛り上がったのだ。「死の世界に抵抗するための贈与の原理」のようなものが現在も働いているのである。それと興味深かったのが「贈り物をもらった方は負債を背負う」という心理である。それは「贈り物」であり「交換」ではないので別に「お返し」をする義務はないのだが、「贈り物」をされたほうは「負債感」を感じ「負い目」を感じてしまう。そして贈り物を送ったほうは心理的に優位に立ち、贈り物を送られた方はある意味で従属を強いられ、「返礼」の「責任」を感じるのである。これはどういうことだろうか? サンタクロースの正体は父親である。しかし幼い子供はサンタクロースの実在を信じている。そして毎年サンタクロースからのプレゼントを待ちわびる。贈与され続ける子供。しかし心の奥深くに負債の感情もたまって行く。そしてある時気付く。サンタクロースは父親だったと。それは「反抗期」に差し掛かる手前の年頃かもしれない。「家族システム」「親孝行システム」「資本主義システム」の維持にサンタクロース、クリスマス、プレゼントが使われているのである。それと「カジノ」である。近頃「カジノ法案」成立の絡みで「ギャンブル依存性」のニュースをテレビでよく観る。「カジノ」とは「ギャンブル」とは何だろうか? それは「等価交換」でも「贈与」でもない。「労働」でも「ボランティア」でも「プレゼント」でもない。「賭け」である。「賭ける人」は何かを賭ける。お金かはたまた命か。勝てば天国負ければ地獄である。「勝負」が「じゃんけん」であっても大金を賭けていたらおおごとである。もののやりとり、命のやりとり、価値のやりとりが行われている。これは「死の世界」なのか「生の世界」なのか? 「贈与」でも「交換」でもない「価値のやりとり」。それはどこか破滅への欲望、破局への欲望、死への欲望が隠されているのか? 「すっからかん」になりたい。という秘められた欲望があるのだろうか? 『逃げ恥』とレヴィ=ストロースとカジノ。搾取、愛、賭け、希望。
『君の名は。』のニュースで「体が入れ替わる」とか「心と体が入れ替わる」とか言っていたが何となく引っ掛かったので考えてみたい。リンゴジュースの入ったリンゴジュースの容器とトマトジュースの入ったトマトジュースの容器があったとする。リンゴジュースは青森に、トマトジュースは沖縄にあったとする。映画『君の名は。』では何がどう入れ替わったのか。ある土地にある体があり、「心」が入れ替わったといえる。リンゴジュースとトマトジュースでいえば「中身」が入れ替わったのだ。場所と容器はそのままに、「心」「ジュース」が入れ替わる。しかし「心と体が入れ替わる」といっても「体が入れ替わる」と言っても何となく意味が通じる。何故だろうか。自分自身がその入れ替わった「心」「ジュース」であったと考えるとどうだろうか。自分自身は変わらずに、変化したのは「外面」、「体」「容器」「場所」である。自分自身は昨日までの自分と持続している。しかし世界は昨日までの世界と一変している。入れ替わったのは心だ。しかし変化したのは体だ。場所だ。世界だ。男の子と女の子。「入れ替わった」のは「心」なのか「体」なのか「心と体」なのか?「交代」「交換」と考えると「世界」が交換された。「場所」が交換された。ともいえる。「入れ替える」というと「中身」の「交換」と限定されがちな感じもするが、「交代」「交換」と考えるならば「外面」「体」「場所」「世界」が「入れ替わる」としても不自然ではない。「交換」されたのは「交代」したのは「心」なのか「体」なのか「心と体」なのか。「心」も交換され「体」も交換され場所も世界も交換されたのであろう。「心」と「体」が交換された、というよりも「心」も「体」も交換されたと言ったほうが正確だろうか。しかし「心」を交換した後に「体」を交換したら元に戻ってしまう。同時に「心」も「体」も「場所」も交換されたら何も変わらない。何かが維持され何かが交換されるから「変化」があるのである。すべてが交換されたら何も変わらない。『君の名は。』入れ替わったのは心なのか体なのか心と体なのか。
大ヒット中のアニメ映画『君の名は。』を観た。どんなもんだろう、くらいの気持ちで観たのだが、とてつもなく素晴らしかった。ちなみに私は今ポケモンGOに激ハマり中なのだが、これも先月スマホが壊れ、買い換えた機会に「どんなもんだろう」と始めたものだ。先行するガチ勢には遠く及ばないが頑張りたい。『君の名は。』は「運命の赤い糸」で結ばれたかのような男女が「運命的な破局」をねじ曲げ変革する物語である。少し前、NHK のモーガン・フリーマンの番組で「運命はあるか、ないか」というのがやっていたが、何か物理学の先端では過去と未来は決定しているが、過程は決まっていないとか、云々言っていて非常に興味深かったがよくわからなかった。パラレルワールドとか平行世界とか過去とか未来とか『ドラゴンボール』や『まどマギ』など数多の作品でお馴染みだがなかなか面白いテーマである。『ジョジョ』のスタンドで良く出てくる「時を止める能力」やタイムマシンものの「タイムパラドックス」などそうだろう。それはドラえもんの映画『ぼく桃太郎の何なのさ』にも登場するテーマである。テーマというか物語の核である。物語の核をテーマというのか。まあいい。『君の名は。』では、この「時」というもの「時の流れ」というもの「時間」というものが「糸」や「紐」、「組紐」と表される。その「絡み合い」「もつれ合い」「ねじれ」「遡り」が語られる。それと「黄昏時」「かたわれ時」「誰そ彼時」が語られる。これには知的好奇心と破格のロマンティックな感情が刺激され堪らない。これはとてつもなく重要な事柄が語られているという実感が沸き起こる。君と僕が交錯し溶け合い、複数の運命がもつれ合い逆行する。ちなみにSFで「タイムマシン物」が現れるのはアインシュタインが相対性理論を発表した直後だと『しくじり先生』で観た。「タイムパラドックス」とは例えば殺し屋がタイムマシンで過去へ行き、殺したい人間の両親の仲を裂けば殺したい人間はそもそも生まれないが、その生まれなかった人間がタイムマシンの開発者だったらどうなるのか?というようなことだろうか。このパラドックスの解決法として『ドラゴンボール』では「複数の歴史」「複数の世界」、「パラレルワールド」「平行世界」、「複数の世界線」が採用されているのだろうか。「世界線」という言葉は先日『ナカイの窓』で聞いた言葉だ。何かのアニメで使われている言葉らしい。宇野常寛は『アラビアのロレンス』からのイケメン発言として「運命なんて存在しない」を挙げていたが、「運命」に「意志の力」を持って勇敢に立ち向かう姿は確かに格好いい。「運命」と戦うのか「運命」を受け入れるのか、そもそも「運命」は存在するのか、これは人生の大テーマに思える。しかし「すべては運命である」というのは生活の実感から遠いし、あまりに空しいものでもある。しかし「いかんともしがたい現実」に打ちのめされ続けているのも我々の生の実感である。『君の名は。』の「大破局」に私は「東日本大震災」、「広島、長崎の原爆」を連想した。その「悲劇」「事実」「運命」に我々はどう向き合うべきなのか、被害者に対して何が出来るのか、その瞬間そこでは何が起きたのか、その時までそこではどのような生が営まれていたのか。それは避けれなかったのか、「時は戻らない」のか。「たそがれ時」に人は絡み合いもつれ合い溶け合いどこでもなくどこでもある場所へ回帰する。運命の糸、時の糸も絡み合いもつれ合い回帰する。あの時、あの場所へ何度でも。運命が変わる奇跡の瞬間、運命と運命の闘い、それを僕たちは覚えているのだろうか?