昨日、哲子の部屋でドゥルーズがやっていた。変態、メタモルフォーゼという事で話を進めていた。自分が中途半端な変態であることに悩む主人公が登場する映画。変態度で勝るライバルの登場に挫折感、敗北感を感じ、自己否定にはまりこむ。理想の自分、本当の自分、なりたい自分、自己らしさ、にがんじがらめにされてしまい、叶わないと絶望する。叶うにしろ叶わないにしろ自分らしさ、アイデンティティー、自己同一性、に縛られていることは変わらない。その、なりたい自分、は、変態だったり、明るい自分だったり人それぞれ。夢を持ち、希望を持ち、理想を持ち、努力する。しかしいつのまにか固定的な自己イメージから出られなくなり、その維持にきゅうきゅうとしてしまい少しのズレも許せない。ぶれない自分に固執してしまう。ズレてもいいじゃないか、中途半端でもいいじゃないか、いびつでもいいじゃないか、不完全でもいいじゃないか、むしろズレ続けるほうがいいんじゃないか、変態のほうがいいんじゃないか、より変態になるべきなのではないか、変態度が高いほうがいいんじゃないか、変態性を追求しよう、変態になりたい、と、奇妙な循環に陥る気もするが、ドゥルーズが言うように「もはや「私である」とか「私でない」と言うことが意味を持たない地点に到達すること」なのだろう。自己同一性ではなく「変態」を。ズレ続ける、ズレまくる自分を肯定すること。自分が消え、自分があるとか自分が無いとか意味を失う程にブレまくること。
マルクスが言ったことに対して小林秀雄がそれが我々の脳中を横行する時その平凡な事実を忘れさせるという。商品の魔力性。街を歩けば・・・。コンビニに並ぶ商品のみならず、コンビニの店舗、土地、そのデザインも商品である。店員も店長も労働力商品である。流通も米も小麦粉も監視カメラも靴下も商品である。道路も看板もペンキも電柱も電線も電気も商品である。目の前に物がある。その商品性抜きに見てみればそれは物、イメージ、そのような物である。しかし商品であると見れば、そこに生産関係、社会関係がうきあがって見える。労働者が、経営者が、オーナーが、株主が、デザイナーが現れる。様々な人が企業がひしめきあっている世界があらわれる。とてつもなく奇怪な人体模型の中に放り込まれたかのような感覚。最近ロブ=グリエに関する批評などを読み、それによればロブ=グリエは自身の小説を客観的とは考えず、むしろ奇妙な拡大した主観を持つ人間の目と考えていたという。現実でも想像でもない。現実は崩れ去り想像の中に埋没し、想像の中の空想が現実化する。現実と想像の境界のない世界。マルクスの商品は物でも観念でもない。以前からそこにありながらその奇怪さを誰しも忘却していたリアルな世界のむき出しの構造。それは資本制の牢獄である。しかし牢獄からの脱出は牢獄を自覚するところからしか始まらないのだ。ロブ=グリエが見いだしたのは天国なのか地獄なのか。通常の自我や意識が拡大、変容することにより触れられる世界。商品と言葉は似ているという。ひしめきあい流通し交換され魔術性、奇怪さが忘却されている。商品や言語の分析、追及が、その奇怪さへの目覚めが人間を次のステージへとつれていくのかもしれない。
朝吹真理子の『きことわ』の解説を町田康が書いていた。朝吹さんは以前新宿のイベント会場で見たけど萌え~ってなった。20日に池袋でイベントがあるみたい。行きたいけどリキッドルームに行く予定なので行けない。朝吹さんみたいな女房が欲しいものである。それはさておき町田さんの解説がおもしろかった。小説はまだ読んでいない。始めと最後を少し読んだけど。そういえばロブグリエの『消しゴム』も訳者の解説とあとがきだけ読んだ。小説のほうは最後の20ページくらいを読んだ。解説ではサルトルやカミュなど実存主義勢力との対立、構造主義との共通性が語られていた。実存主義の人間主義、人間的主体が運命を切り開くような世界観に対して事物主義というものらしい。客観的というか冷静、精密、非人間的な事物の描写。自我、自由な主体の廃棄、すべてがあらかじめ決定された構造の中にあるイメージだろうか。小説の構造、人間の構造、社会の構造、世界の構造、精神の構造、意識の構造、言語の構造を解析、解体し、新たに組み上げるイメージなのだろうか。そこには「世界の不条理に立ち向かう熱い自由な主体」のようなものはなく、クールな世界分析とその組み換え、非人間的、機械的な認識と思考、のようなものがあるのだろうか。人間から事物へ。しかしサルトルにも事物へのこだわりが重要な核としてあるように思う。しかしサルトルの場合、「主体と事物」という基本設定があるのに対し、ロブグリエの「事物」はそれが全面展開して「主体」や「自我」が消滅したイメージだろうか。訳者あとがきではジャズ史と文学史を対比させていて興味深かった。『きことわ』の町田さんの解説に移ろう。人間は脈絡を必要とする。脈絡無しの不安定さ不安さに耐えられない。目的地への道筋にしても住所や何番目の信号機を右、など簡略化というか抽象化というか分かりやすく整理する。とちゅうで目に入った印象的な物や奇妙な音や匂いは捨てて整理する。自分の存在、自分の人生も組織への所属の変遷や家族関係、友人関係などにより簡略化し整理し納得し安心する。自分の顔、自分の体、自分の生活の過去からの「一貫性」に安心する。その「一貫性」がいささかインチキくさくても気にしない。その「脈絡」がさまざまなゴミやノイズを無視することでなりたっていても気にしない。しかしゴミやノイズは消えない。それは夢や妄想、不安感として現れる。脈絡に反抗する。ゴミの復讐である。小説にも脈絡の小説とゴミの小説がある。いわゆる面白味は脈絡の小説にある。しかしゴミの魅力には抗い難いものがある。しかるに脈絡とゴミを奇跡的に両立させているのが『きことわ』である。との話。非常に哲学的というか思想的というか非常に重要なことをズバリとわかりやすくかつ面白く語っている。そしてそこからさまざまな思考を我々に誘発させる。町田康はガチのインテリだと思った。私もいつか朝吹さんをガチの女房として迎えたいものである。
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