マルクスが言ったことに対して小林秀雄がそれが我々の脳中を横行する時その平凡な事実を忘れさせるという。商品の魔力性。街を歩けば・・・。コンビニに並ぶ商品のみならず、コンビニの店舗、土地、そのデザインも商品である。店員も店長も労働力商品である。流通も米も小麦粉も監視カメラも靴下も商品である。道路も看板もペンキも電柱も電線も電気も商品である。目の前に物がある。その商品性抜きに見てみればそれは物、イメージ、そのような物である。しかし商品であると見れば、そこに生産関係、社会関係がうきあがって見える。労働者が、経営者が、オーナーが、株主が、デザイナーが現れる。様々な人が企業がひしめきあっている世界があらわれる。とてつもなく奇怪な人体模型の中に放り込まれたかのような感覚。最近ロブ=グリエに関する批評などを読み、それによればロブ=グリエは自身の小説を客観的とは考えず、むしろ奇妙な拡大した主観を持つ人間の目と考えていたという。現実でも想像でもない。現実は崩れ去り想像の中に埋没し、想像の中の空想が現実化する。現実と想像の境界のない世界。マルクスの商品は物でも観念でもない。以前からそこにありながらその奇怪さを誰しも忘却していたリアルな世界のむき出しの構造。それは資本制の牢獄である。しかし牢獄からの脱出は牢獄を自覚するところからしか始まらないのだ。ロブ=グリエが見いだしたのは天国なのか地獄なのか。通常の自我や意識が拡大、変容することにより触れられる世界。商品と言葉は似ているという。ひしめきあい流通し交換され魔術性、奇怪さが忘却されている。商品や言語の分析、追及が、その奇怪さへの目覚めが人間を次のステージへとつれていくのかもしれない。