昨日、哲子の部屋でドゥルーズがやっていた。変態、メタモルフォーゼという事で話を進めていた。自分が中途半端な変態であることに悩む主人公が登場する映画。変態度で勝るライバルの登場に挫折感、敗北感を感じ、自己否定にはまりこむ。理想の自分、本当の自分、なりたい自分、自己らしさ、にがんじがらめにされてしまい、叶わないと絶望する。叶うにしろ叶わないにしろ自分らしさ、アイデンティティー、自己同一性、に縛られていることは変わらない。その、なりたい自分、は、変態だったり、明るい自分だったり人それぞれ。夢を持ち、希望を持ち、理想を持ち、努力する。しかしいつのまにか固定的な自己イメージから出られなくなり、その維持にきゅうきゅうとしてしまい少しのズレも許せない。ぶれない自分に固執してしまう。ズレてもいいじゃないか、中途半端でもいいじゃないか、いびつでもいいじゃないか、不完全でもいいじゃないか、むしろズレ続けるほうがいいんじゃないか、変態のほうがいいんじゃないか、より変態になるべきなのではないか、変態度が高いほうがいいんじゃないか、変態性を追求しよう、変態になりたい、と、奇妙な循環に陥る気もするが、ドゥルーズが言うように「もはや「私である」とか「私でない」と言うことが意味を持たない地点に到達すること」なのだろう。自己同一性ではなく「変態」を。ズレ続ける、ズレまくる自分を肯定すること。自分が消え、自分があるとか自分が無いとか意味を失う程にブレまくること。