朝吹真理子の『きことわ』の解説を町田康が書いていた。朝吹さんは以前新宿のイベント会場で見たけど萌え~ってなった。20日に池袋でイベントがあるみたい。行きたいけどリキッドルームに行く予定なので行けない。朝吹さんみたいな女房が欲しいものである。それはさておき町田さんの解説がおもしろかった。小説はまだ読んでいない。始めと最後を少し読んだけど。そういえばロブグリエの『消しゴム』も訳者の解説とあとがきだけ読んだ。小説のほうは最後の20ページくらいを読んだ。解説ではサルトルやカミュなど実存主義勢力との対立、構造主義との共通性が語られていた。実存主義の人間主義、人間的主体が運命を切り開くような世界観に対して事物主義というものらしい。客観的というか冷静、精密、非人間的な事物の描写。自我、自由な主体の廃棄、すべてがあらかじめ決定された構造の中にあるイメージだろうか。小説の構造、人間の構造、社会の構造、世界の構造、精神の構造、意識の構造、言語の構造を解析、解体し、新たに組み上げるイメージなのだろうか。そこには「世界の不条理に立ち向かう熱い自由な主体」のようなものはなく、クールな世界分析とその組み換え、非人間的、機械的な認識と思考、のようなものがあるのだろうか。人間から事物へ。しかしサルトルにも事物へのこだわりが重要な核としてあるように思う。しかしサルトルの場合、「主体と事物」という基本設定があるのに対し、ロブグリエの「事物」はそれが全面展開して「主体」や「自我」が消滅したイメージだろうか。訳者あとがきではジャズ史と文学史を対比させていて興味深かった。『きことわ』の町田さんの解説に移ろう。人間は脈絡を必要とする。脈絡無しの不安定さ不安さに耐えられない。目的地への道筋にしても住所や何番目の信号機を右、など簡略化というか抽象化というか分かりやすく整理する。とちゅうで目に入った印象的な物や奇妙な音や匂いは捨てて整理する。自分の存在、自分の人生も組織への所属の変遷や家族関係、友人関係などにより簡略化し整理し納得し安心する。自分の顔、自分の体、自分の生活の過去からの「一貫性」に安心する。その「一貫性」がいささかインチキくさくても気にしない。その「脈絡」がさまざまなゴミやノイズを無視することでなりたっていても気にしない。しかしゴミやノイズは消えない。それは夢や妄想、不安感として現れる。脈絡に反抗する。ゴミの復讐である。小説にも脈絡の小説とゴミの小説がある。いわゆる面白味は脈絡の小説にある。しかしゴミの魅力には抗い難いものがある。しかるに脈絡とゴミを奇跡的に両立させているのが『きことわ』である。との話。非常に哲学的というか思想的というか非常に重要なことをズバリとわかりやすくかつ面白く語っている。そしてそこからさまざまな思考を我々に誘発させる。町田康はガチのインテリだと思った。私もいつか朝吹さんをガチの女房として迎えたいものである。
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