投票率が低かったよそうだが、いっそ投票率0%を目指したらどうだろうか。丸山健二のブログにインスパイアされたのだが。くだらない政治家、くだらない政党、と心底思うのなら何処にも投票しなければいい。投票率0%なら政治家も政党も存在する根拠を失う。臨時政治家、臨時政党、として緊急時の政治を担う一時的な存在となるだろう。いつか真の政治家の芽、政党の芽、が出るその日までの繋ぎとして。日本が真の政治を真の政党を手に入れたら退場して貰おう。お疲れ様でした。しかし政治とはかなりこの現実を作っている重大要素である。なぜ君がそこにいてそれをしているのか?なぜ君の目の前にそれがあるのか?それらをすべて政治が決めていると言えなくもないのだ。若い頃は趣味や娯楽に関心が向きがちかもしれないが、それらを根底的に成り立たせているこの世界は政治が作っているとも言えるのだ。つまり世界を変えるには、生活を変えるには、人生を変えるには、政治を変えねばならない、とも言えるのだ。その政治がすべて腐っていてすべて信用ならないのであればリセットすればいい。瓦礫にすればいい。破綻させればいい。破壊すればいい。かんぷなきまで完璧に。投票率0%が50年続けばこの国も変わるかもしれない。この国を真に憂慮する人間は投票に行かないのかもしれない。大切な芽をその目にする日までは。



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フランス現代思想とかで『不可能なもの』
という言葉が出てくる。バタイユとかブランショとかフーコーとかで。その言葉に強く惹かれながらも意味をいまいちはかりかねていた。しかし『純然たる幸福』というバタイユの本に『不可能なもの=ありえないもの』という一文があり、なるほど、と思った。つまり、不可能なものとはキム兄言うところの「考えられへん」や、ロバート秋山の「ありえな~い」や「想定の範囲外」プロレスが予定調和ならガチンコの格闘技、奇跡や偶然性、観念の外としての現実や物質、意識の外としての無意識などであると理解した。自我や主体、意識や見通しの限界、極限を越えていくこと。あくまでも「妄想」に陥らないように…。しかし唯物論的妄想というか物質的観念というか物自体的意識というか外部的意思のようなものがあったらどうだろう。つまり自我のコントロールを離れた欲望や意思の無限の繋がり、連鎖、拡大、増殖のようなもの。それは内部的な不可能なものでありえないものであり奇跡であり偶然性であり現実性であり無意識の露出であり内部的な現実の露呈でありまさに狂気である。哲学者はよく「神秘化」を戒める。想定を越えること、自我や主体の支配から飛び出すこと、観念をぶち破ること。その行為や欲望はしばしば人を「現実とは別の」システム、構造、秩序へと誘うのだ。しかしそれは別の観念の軍門に下ることに過ぎないのである。「真の外部」「真の自由」に至る為にはどうしたらよいのか。目の前の現実的のあられもない露出に気付くだけでよいのだ。それが心の動きであろうと関係無いのである。


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うまくいっていたプロジェクトがうまくいかなくなる事がある。最近のドラクエはやっていないがドラクエの時にも感じた。ドラクエは抜群に面白く、信じられないほどうまくいっていたのだ。ハードがプレステに換わるとかスクエニとか聞いた時まずいなと思ったものだ。非常にうまくいっているときはメンバー構成みたいなものは極力変えないほうがいいのではないか、という考えである。モーニング娘。の卒業ラッシュの時も思った。勿論変わることで進化するとか絶えず血を入れ替えるとかいうのもあるが秋元康があれだけ前田敦子にこだわったのも「変えない力」なのではないか。「偉大なるワンパターン」である。ピカルの定理における大島麻衣は意外と肝であったと思う。代表的人気コント「白鳥美麗」と「ビバリとルイ」における大島麻衣の存在。大島麻衣は良くも悪くも女の子らしく、その意味で「女の醜さ」「女の愚かさ」「女の汚さ」「女の下劣さ」を強く感じさせるキャラクターである。それが各々のコントにおいて「酷い扱いを受ける」ことがどこか視聴者の溜飲を下げる所があったのではないか。女性視聴者も「可愛い女の子の汚い部分への嫌悪」というのがありコントを見てスッとする面があったのではないか。「魅力的なデブ」や「ゲイ」への愛と共に。大島麻衣のキャラクターは「ボーイッシュ」や「男勝り」や「中性的」や「エキセントリック」なタレントには演じられない。「俗っぽい女の子の嫌らしさ」を表現できる大島麻衣は大変貴重な存在だったのだ。ピカルの定理が新作コント作りに苦戦しているように見えるのもそんな理由があるのではないか。いささか調子に乗ってメンバーチェンジをし過ぎたのではないか。新メンバーも応援しているが。