フランス現代思想とかで『不可能なもの』
という言葉が出てくる。バタイユとかブランショとかフーコーとかで。その言葉に強く惹かれながらも意味をいまいちはかりかねていた。しかし『純然たる幸福』というバタイユの本に『不可能なもの=ありえないもの』という一文があり、なるほど、と思った。つまり、不可能なものとはキム兄言うところの「考えられへん」や、ロバート秋山の「ありえな~い」や「想定の範囲外」プロレスが予定調和ならガチンコの格闘技、奇跡や偶然性、観念の外としての現実や物質、意識の外としての無意識などであると理解した。自我や主体、意識や見通しの限界、極限を越えていくこと。あくまでも「妄想」に陥らないように…。しかし唯物論的妄想というか物質的観念というか物自体的意識というか外部的意思のようなものがあったらどうだろう。つまり自我のコントロールを離れた欲望や意思の無限の繋がり、連鎖、拡大、増殖のようなもの。それは内部的な不可能なものでありえないものであり奇跡であり偶然性であり現実性であり無意識の露出であり内部的な現実の露呈でありまさに狂気である。哲学者はよく「神秘化」を戒める。想定を越えること、自我や主体の支配から飛び出すこと、観念をぶち破ること。その行為や欲望はしばしば人を「現実とは別の」システム、構造、秩序へと誘うのだ。しかしそれは別の観念の軍門に下ることに過ぎないのである。「真の外部」「真の自由」に至る為にはどうしたらよいのか。目の前の現実的のあられもない露出に気付くだけでよいのだ。それが心の動きであろうと関係無いのである。
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という言葉が出てくる。バタイユとかブランショとかフーコーとかで。その言葉に強く惹かれながらも意味をいまいちはかりかねていた。しかし『純然たる幸福』というバタイユの本に『不可能なもの=ありえないもの』という一文があり、なるほど、と思った。つまり、不可能なものとはキム兄言うところの「考えられへん」や、ロバート秋山の「ありえな~い」や「想定の範囲外」プロレスが予定調和ならガチンコの格闘技、奇跡や偶然性、観念の外としての現実や物質、意識の外としての無意識などであると理解した。自我や主体、意識や見通しの限界、極限を越えていくこと。あくまでも「妄想」に陥らないように…。しかし唯物論的妄想というか物質的観念というか物自体的意識というか外部的意思のようなものがあったらどうだろう。つまり自我のコントロールを離れた欲望や意思の無限の繋がり、連鎖、拡大、増殖のようなもの。それは内部的な不可能なものでありえないものであり奇跡であり偶然性であり現実性であり無意識の露出であり内部的な現実の露呈でありまさに狂気である。哲学者はよく「神秘化」を戒める。想定を越えること、自我や主体の支配から飛び出すこと、観念をぶち破ること。その行為や欲望はしばしば人を「現実とは別の」システム、構造、秩序へと誘うのだ。しかしそれは別の観念の軍門に下ることに過ぎないのである。「真の外部」「真の自由」に至る為にはどうしたらよいのか。目の前の現実的のあられもない露出に気付くだけでよいのだ。それが心の動きであろうと関係無いのである。
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