先日池袋リブロに千葉雅也さんと國分功一郎さんのトークイベントに行ってきた。とても面白かった。ドゥルーズについてのお話であったが、始めフランシス・ベーコンの絵から始まった。ポロックの絵では輪郭は完璧に溶けて崩壊し散乱し拡散しているが、ベーコンの絵画では輪郭はかろうじて残っている。この輪郭の重要性をドゥルーズは語っているそうだ。その溶け残った輪郭を國分さんは小麦粉を溶かした時に残ってしまう「ダマ」と表現した。この自我の痕跡のようなもの残存してしまう自己同一性の影のようなもの。そこに重要なポイントがあるらしい。80年代の日本では主体や自己同一性や共同体が嫌悪、否定され、そこからの逃走、自分をなくすこと、関係へと開くことがひたすらに称揚された。私とも当時の記憶として「開く」ことがもてはやされ「閉じる」ことが否定されていた風潮いうか言論界で共有する基本認識があったと思う。もちろんドゥルーズも「開く」人であり、「関係」の人であるが、あえて輪郭にこだわるドゥルーズ、「開き過ぎてはいけない」というドゥルーズ、「動きすぎてはいけない」というドゥルーズに注目してみようという戦略らしい。ドゥルーズというと何と無く際限のないアナーキストみたいなイメージがあるけれども「人間ほどほどが大事ですよ」というドゥルーズがいるというわけである。「何事もほどほどが大切」そんな人生の真理を語っているのである。今の時代、SNSの発達により、Twitterやラインで我々は四六時中誰かとつながっている。関係に社会に溶けた自己は完全に輪郭を失ってしまうようにも見える。そこであえて関係を切ること、自分の世界に閉じ籠ること、システムから身を引き剥がすことを肯定してみる。すると新たな可能性、創造性のようなものが生まれてくるという。関係に自分を開く、他者に自分を開く、社会に自分を開く。しかし「開き過ぎてはいけない」。「輪郭」や「ダマ」の重要性。開くこと、拡散することは受動的という話もあった。主体的な決意、判断、選択として「開く」「拡散」するのではない。子供が「気が散ってしまう」というように、「散らせる」のではなく「散ってしまう」のだ。「輪郭」も「ダマ」も「残す」のではなく「残ってしまう」ものなのだ。主体的な判断、意志決定として残す自分ではなく、否応なく、やむを得ず残ってしまう自分。自分でもどうにもならない癖や体質、生理的な反応や限界、そんなものが大切なのではないかと。自分を「開く」「社会」が共同体的、村社会的、管理社会的な社会なのか、共同体と共同体の間の空間のような、そこからしか「知」や「倫理」は生まれないと言われるような「社会」のことなのか、などいろいろ思索は尽きないが、買ったお二人の本を読み進みながらドゥルーズの本をつまみ読みしたりしながら思考を深めていきたいものだと思いました。大変有益なイベントでございました。私は幸せ者でございます。
先日新宿バルト9で、まどか☆マギカの映画を観て来た。私は一種オタキング的なものを自認しているというかそれなりに自信がある気もするのだが流行にはうといようだ。エヴァンゲリオンを観たのもテレビシリーズの放送後だったし…。世間が随分と騒ぎ出してからであるし、テレビシリーズも未だにちゃんと通して観てはいないのである。今回のまどか☆マギカもそんな次第である。考えてみればオタキングと言ってもオタク世界の細分化がすすみ、アニメや漫画、ゲームやアイドル、テレビや映画、ネットや鉄道などすべてに精通し極めるのは至難のわざだし努力する性質のものでもないだろう。ひたすら好きなものに耽溺した結果、詳しくなったりコレクションが充実していたりするのである。作り手というかプロになるとまた、努力とか修業とかいうこともあるかもしれないが。しかしガチオタになるためのガチオタ修業というなもあるかもしれない。そのうち東京ガチオタ大学とかガチオタ予備校とかガチオタ塾とかできるかもしろない。花嫁修業でガチオタ教室に通ったり…。まあこの話はこれくらいにして、まどか☆マギカである。私はテレビシリーズを観ていなかった。最終回のみ弟が録画してくれていてそれを観ていただけどある。テレビ放送されていた頃だと思うが、Twitterなタイムラインに「ほむほむ ほむほむ ほむほむ ほむほむ ほむほむ ほむほむ ほむほむ」という謎の言語がしきりに流れて来ていたことがあった。今ならわかる。あの ほむほむ であると…。そして映画を観て、先日深夜テレビで放送された劇場版の第一作を観た。たいへんに興味深い内容であった。ちなみに映画館に行く前夜にWikipediaで予習していた。魔女っ子アニメで当然とされている前提に巨大な疑問符を突き付け、それがストーリーの核になっているのだ。また、巨大なエネルギーを手段を選ばず取り出すというところに現代の原発問題も想起させる。まず「なにかを願うこと」「希望を持つこと」「夢を叶えること」「奇跡を起こすこと」「魔法を使うこと」は本当に善なのか?という怖るべき疑問である。宇多田ヒカルの歌に「誰かの願いがかなうころあの子が泣いてるよ」というような歌詞があったがこれは本質である。人生が一種の椅子取りゲームであるならば誰かの幸せは誰かの不幸である。そしてそんなぎすぎすした競争社会へのアンチテーゼとして槇原敬之の世界にひとつだけの花や明石家さんまの生きてるだけで丸儲けがあるのである。まどか☆マギカにおける希望は果たして正義なのか?という問題。夢が大きければ大きいほどダメだった時の絶望は深くなる。そして夢がかなうということは誰かの夢を潰すことである。これは恋愛だろうが勉強だろうがスポーツだろうが仕事だろうがすべてそうである。そして生きること自体が他の生物を殺すことの上になりたっているのだ。多くの宗教がそんないかんもしがたい世界からの解脱、欲望の消滅をテーマにしていたりするのであろう。しかしここにも矛盾が生じる。天国へ行きたいという夢や祈りは独善ではないのか?という疑問である。天国やあの世の存在を否定する宗教もあると思うが天国に定員はあるのか?というような問題である。まさに芥川龍之介の蜘蛛の糸、ブルーハーツの「神様に賄賂を送り天国へのパスポートをねだるなんて本気なのか」である。天国へ行きたいと願うこと、誰かを救いたいと祈ること、それが必然的に世界に絶望を呪いを闇を撒き散らす。そして魔法少女は奇跡を起こす、魔法を使う対価として巨大な闇を背負い込む。そして誰よりも優しい少女まどかはこの摂理自体に戦いを挑むのである。この希望と絶望のプログラム、苛酷な競争社会。しかしそんな戦いの世界であるからこそ生きる実感が得られるのだ。闘うこと、競争、勝負のおもしろさ、というものもあるという考え方もあるだろう。スポーツであれば100%勝てるということがわかっている試合で勝ってもつまらない。スペックに出てくる未来が見透せる男のように人生が味気ないものになってしまうのだ。また、敗北や絶望、悲しみや怒りも人生の味わいのひとつとも言えるだろう。苦味、渋み、酸っぱさも味わいのひとつであり、それがあるから旨味や甘味がより引き立つといえるだろう。空腹の経験、貧乏の経験もそうだろう。しかしするとあらゆる悲劇は全て肯定されるのであろうか?確かに起きてしまったことは仕方ないかもしれない。当事者にとって悲しみ、苦しみを乗り越える一種の処世術としてその肯定は必要かもしれない。戦争や事故や犯罪の被害者などに「それも人生の味のひとつだよ」とか「いつかいい思い出になるよ」とは言えないだろう。まさに川本真琴の「いい思い出化できない傷を信じていたい」である。そんなモラルというか道徳というか倫理の問題もある。色々考えさせられる。もうじきテレビで劇場版二作目も放送されるらしい。楽しみである。
金曜日に国立新美術館にアメリカン・ポップアート展を見に行って来た。前々から行こうかな、と思っていたのだが、前日に柴田元幸さんのトークショー的なものがあると知り、金曜日に行くことにした。何回かこの美術館には行っていたのだが、道に迷ってしまった。乃木坂駅から地上に出てしまい、トンネルを通って結局引き返し、地下鉄の駅から直通の通路を通って美術館へ行った。ポップアートに関しては少し複雑な気持ちがある。何となく軽薄なイメージがあるのだ。それらの話は少々後回しにして、まず柴田元幸さんのトークショーの話だ。実際の順序としてもそちらが先だったのだ。テーマはアメリカの新聞に連載されていたマンガの話だ。二十世紀初頭技術的にカラー印刷が可能になりフルカラーの新聞コミックが愛読されていたのである。どれも興味深かったが『さかさま世界』というマンガに度肝を抜かれた。騙し絵的なもので普通に見ると女の人の顔で逆さまから見るとおじさんの顔になる、みたいなのがあるけれど、それを6コマのマンガで実現しているのである。おじいさんと少女が妖精と遊んだりするような話なのだが、その6コマをひっくり返して読むとおじいさんが少女になり、少女がおじいさんになり、妖精が怪物になり、まったく別の話、時には始めの6コマの続きが展開されるのだ。驚くべきことには何度かそれを台詞の文字の部分でも試みていたのだ。大変おもしろい話が聴けてよかった。アメリカン・ポップアート展に絡めた話で、そもそも「ポップアート」というのは語義矛盾というか、「大衆的なもの」と「高尚な芸術」という言葉をくっつけたものだ。ポップアートの芸術家たちはその境を取り払おうという意識もあったらしい。スーパーマーケットの陳列棚のような缶詰めやコミックのひとコマを題材にしたり。また、平面である「旗」や「標的」や「写真」や「数字」や「記号」を題材にする事で、立体を平面に再現するという絵画の伝統的な特性を揺るがすような試みもしている。絵画とはそもそも何なのか、みたいな。デュシャンの『泉』もありふれた便器を美術品として美術館に展示することで大衆的なものと芸術の境をとりはらったといえるだろう。やはりポップアートへと流れこむダダやシュルレアリスムや抽象表現主義の流れは感じた。それらの中でもアンディ・ウォーホルの「200個のキャンベルスープ缶」は圧倒的なものを感じた。まず思ったのはこの作者は完全に頭がおかしい、いっちゃってる、イカれている。ということだ。そしてそれがこの作品から受ける感動のほとんど全てだろう。やはり芸術のひとつの到達点なのかもしれない。絵画の題材が神話だったり聖書だったり人物だったり美しい風景だったり心象風景だったり夢だったり悪夢だったり幾何学的な模様だったりして缶詰めにたどり着いたのだ。これは北野武監督の『アキレスと亀』でも辿られている美術の歴史と共通する。というか美術の歴史というのはだいたいそんな感じなのだろう。昔なにかの本の帯の文を石野卓球が書いていて、「ポップアート=狂気」とあったけど腑に落ちた感じがした。柴田元幸さんの話で歌舞伎もシェイクスピアも浮世絵も昔は大衆文化だった。それが大学の講義とかになって高尚な芸術になった。というのがあった。SF的な想像力を働かせると便器も缶詰めもマンガも旗も写真も猿の惑星的に人類文明が滅んでその後の原始化した人類が再発見したら博物館や美術館に飾られる美術品になるかもしれない。ポップアートは我々に時を越えた視線を疑似体験させてくれているのかもしれない。


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