金曜日に国立新美術館にアメリカン・ポップアート展を見に行って来た。前々から行こうかな、と思っていたのだが、前日に柴田元幸さんのトークショー的なものがあると知り、金曜日に行くことにした。何回かこの美術館には行っていたのだが、道に迷ってしまった。乃木坂駅から地上に出てしまい、トンネルを通って結局引き返し、地下鉄の駅から直通の通路を通って美術館へ行った。ポップアートに関しては少し複雑な気持ちがある。何となく軽薄なイメージがあるのだ。それらの話は少々後回しにして、まず柴田元幸さんのトークショーの話だ。実際の順序としてもそちらが先だったのだ。テーマはアメリカの新聞に連載されていたマンガの話だ。二十世紀初頭技術的にカラー印刷が可能になりフルカラーの新聞コミックが愛読されていたのである。どれも興味深かったが『さかさま世界』というマンガに度肝を抜かれた。騙し絵的なもので普通に見ると女の人の顔で逆さまから見るとおじさんの顔になる、みたいなのがあるけれど、それを6コマのマンガで実現しているのである。おじいさんと少女が妖精と遊んだりするような話なのだが、その6コマをひっくり返して読むとおじいさんが少女になり、少女がおじいさんになり、妖精が怪物になり、まったく別の話、時には始めの6コマの続きが展開されるのだ。驚くべきことには何度かそれを台詞の文字の部分でも試みていたのだ。大変おもしろい話が聴けてよかった。アメリカン・ポップアート展に絡めた話で、そもそも「ポップアート」というのは語義矛盾というか、「大衆的なもの」と「高尚な芸術」という言葉をくっつけたものだ。ポップアートの芸術家たちはその境を取り払おうという意識もあったらしい。スーパーマーケットの陳列棚のような缶詰めやコミックのひとコマを題材にしたり。また、平面である「旗」や「標的」や「写真」や「数字」や「記号」を題材にする事で、立体を平面に再現するという絵画の伝統的な特性を揺るがすような試みもしている。絵画とはそもそも何なのか、みたいな。デュシャンの『泉』もありふれた便器を美術品として美術館に展示することで大衆的なものと芸術の境をとりはらったといえるだろう。やはりポップアートへと流れこむダダやシュルレアリスムや抽象表現主義の流れは感じた。それらの中でもアンディ・ウォーホルの「200個のキャンベルスープ缶」は圧倒的なものを感じた。まず思ったのはこの作者は完全に頭がおかしい、いっちゃってる、イカれている。ということだ。そしてそれがこの作品から受ける感動のほとんど全てだろう。やはり芸術のひとつの到達点なのかもしれない。絵画の題材が神話だったり聖書だったり人物だったり美しい風景だったり心象風景だったり夢だったり悪夢だったり幾何学的な模様だったりして缶詰めにたどり着いたのだ。これは北野武監督の『アキレスと亀』でも辿られている美術の歴史と共通する。というか美術の歴史というのはだいたいそんな感じなのだろう。昔なにかの本の帯の文を石野卓球が書いていて、「ポップアート=狂気」とあったけど腑に落ちた感じがした。柴田元幸さんの話で歌舞伎もシェイクスピアも浮世絵も昔は大衆文化だった。それが大学の講義とかになって高尚な芸術になった。というのがあった。SF的な想像力を働かせると便器も缶詰めもマンガも旗も写真も猿の惑星的に人類文明が滅んでその後の原始化した人類が再発見したら博物館や美術館に飾られる美術品になるかもしれない。ポップアートは我々に時を越えた視線を疑似体験させてくれているのかもしれない。
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