巨大な傑作『あまちゃん』…。私なりに『あまちゃん』について考えてみたい。その巨大なあまちゃん世界…。どこから手をつけてよいかわからないほどの巨大なあまちゃん世界…。どんな切り口でズバッと切ったものか…。いろいろある。いろいろある。恋模様。夢。親子。友情。裏にとてつもない嫉妬の感情も見える。母と娘。アキとユイ。そして許し。壮大なる許しの物語。あの母の亡霊。ドラマのラスト近辺。少女時代の春子の亡霊。生きているから生き霊か。しかし成仏できない亡霊のような存在。その巨大な許しの場面がもうひとつあった。春子の母、夏子。なつばっぱ。夏子の春子への謝罪。春子の許し。『あまちゃん』は恨み、怨み、怨念に凝り固まった春子という怪物、怨霊、鬼が、世界を許す、人生を受け入れる、世界と和解する物語ともいえる。夢をぶっこわした二人の人間、母、夏子と鈴鹿ひろ美を許すまでの物語。ではアキは何を許したのか?アキは何を恨んでいたのか?これは見える形では描かれていない。しかしもしも恨んでいた存在、許した存在があるのならユイだろう。ユイへの憧れ。そして恋も絡んでの憎しみ。しかし立場は逆転しアキはユイの望んだ全てを手に入れユイは全てを失う。一瞬の勝利、優越、があっただろう。しかしそこに震災が起こる。それはアキとユイの大切な基盤をぶっこわした。そしてアキとユイは舞い戻る。夢の初めの場所へと。もうアキはユイへの過剰な憧れも嫉妬もない。「おらたち、熱いよね!」である…。『あまちゃん』の巨大な世界。もうひとつの巨大な物語はプロちゃんとあまちゃんの対立である。みなさんアキの動きを生き方をよく見て下さい!よく思い出して下さい!あれになりたい、やっぱりあれになりたい。夢も目標も変わりまくりです。とかく人は「この道一筋」とか「ぶれない生き方」を尊重しがちです。そして積み重ねて確かな成果、結果を出す。期待に応える。まさにプロの仕事、これは荒巻に象徴されます。中途半端だけど味がある。魂がこもっている。嘘がない。熱い。これがアキの生き方、考え方、価値観です。これが都会と田舎を行ったり来たりするなかでアキが育て、見つけた人生の意味なのです。アキは「あまちゃん」としての自身の生をまっとうすることでしょう。「あまちゃん」に幸多かれ!!



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人間は複数の環世界を自由自在に移動する存在だそうだ。環世界というのはユクスキュルの理論というか説というか考え方というか…。とにかくユクスキュルによれば動物、生物にはそれぞれ異なった「環世界」があると。ダニにはダニの犬には犬の鳥には鳥のミミズにはミミズの蟻には蟻のトンボにはトンボのセミにはセミのパンダにはパンダの魚には魚の「環世界」がある。それぞれ感覚も反応も違い、全く別の「世界」を生きているということである。人もそれぞれ年齢や性別、民族や宗教、性格や性質や趣味嗜好の違いにより見える世界、生きている世界が違うといえるだろう。興味関心のないものを無意識に除外して世界や記憶を構成しているかもしれないのだ。ここで國分さんは動物はひとつの環世界しか持たないが人間は環世界間を自由に移動する。と表現する。人間は人間の子供に「君には無限の可能性がある!」と言う。しかしライオンがライオンの子供に「君には無限の可能性がある!」と言うだろうか。蜘蛛が蜘蛛の子供に「君には無限の可能性がある!」と言うだろうか。人間だけが無限の可能性の中で「なんにでもなれるような気もするけど何になったらいいかわからない」と悩んでいるのだ。サッカー選手に憧れたり俳優に憧れたりお笑い芸人もいいな、とか「あのひと」の「環世界」にすっと入ってしまう。異性にも子供にも動物にも植物にも風にも石にも虫にも書物にもなれるのである。そこであえて環世界を「制限」することにより、つまりひとつの「環世界」に没入することにより創造性を得ることができるという。それは社会システムからの離脱、人間関係の切断、一種の引きこもり、閉じ籠りかもしれない。そこで価値を創出することが出来るのだ。可能性をそぎおとすことで可能性が生まれる。木にノミを入れることで形が生まれるように。閉じること切断することで生まれるものもあるのだ。「動きすぎてはいけない」。動くな、とは言っていない。開くな、繋がるな、働くな、とは言っていない。「すぎるな」ということだ。「適当」「適度」が大事だ、ということだ。「開く」ということ「閉じる」ということ「関係する」ということ「切断する」ということ。「管理社会」じゃなくて「リゾーム」を。「主体」じゃなくて「ダマ」を。「真実」は「これだ!」と積極的に提示できないものなのかもしれない。繊細だが強く、弱い光だが確かな、そんな何か。