人間は複数の環世界を自由自在に移動する存在だそうだ。環世界というのはユクスキュルの理論というか説というか考え方というか…。とにかくユクスキュルによれば動物、生物にはそれぞれ異なった「環世界」があると。ダニにはダニの犬には犬の鳥には鳥のミミズにはミミズの蟻には蟻のトンボにはトンボのセミにはセミのパンダにはパンダの魚には魚の「環世界」がある。それぞれ感覚も反応も違い、全く別の「世界」を生きているということである。人もそれぞれ年齢や性別、民族や宗教、性格や性質や趣味嗜好の違いにより見える世界、生きている世界が違うといえるだろう。興味関心のないものを無意識に除外して世界や記憶を構成しているかもしれないのだ。ここで國分さんは動物はひとつの環世界しか持たないが人間は環世界間を自由に移動する。と表現する。人間は人間の子供に「君には無限の可能性がある!」と言う。しかしライオンがライオンの子供に「君には無限の可能性がある!」と言うだろうか。蜘蛛が蜘蛛の子供に「君には無限の可能性がある!」と言うだろうか。人間だけが無限の可能性の中で「なんにでもなれるような気もするけど何になったらいいかわからない」と悩んでいるのだ。サッカー選手に憧れたり俳優に憧れたりお笑い芸人もいいな、とか「あのひと」の「環世界」にすっと入ってしまう。異性にも子供にも動物にも植物にも風にも石にも虫にも書物にもなれるのである。そこであえて環世界を「制限」することにより、つまりひとつの「環世界」に没入することにより創造性を得ることができるという。それは社会システムからの離脱、人間関係の切断、一種の引きこもり、閉じ籠りかもしれない。そこで価値を創出することが出来るのだ。可能性をそぎおとすことで可能性が生まれる。木にノミを入れることで形が生まれるように。閉じること切断することで生まれるものもあるのだ。「動きすぎてはいけない」。動くな、とは言っていない。開くな、繋がるな、働くな、とは言っていない。「すぎるな」ということだ。「適当」「適度」が大事だ、ということだ。「開く」ということ「閉じる」ということ「関係する」ということ「切断する」ということ。「管理社会」じゃなくて「リゾーム」を。「主体」じゃなくて「ダマ」を。「真実」は「これだ!」と積極的に提示できないものなのかもしれない。繊細だが強く、弱い光だが確かな、そんな何か。