先日新宿バルト9で、まどか☆マギカの映画を観て来た。私は一種オタキング的なものを自認しているというかそれなりに自信がある気もするのだが流行にはうといようだ。エヴァンゲリオンを観たのもテレビシリーズの放送後だったし…。世間が随分と騒ぎ出してからであるし、テレビシリーズも未だにちゃんと通して観てはいないのである。今回のまどか☆マギカもそんな次第である。考えてみればオタキングと言ってもオタク世界の細分化がすすみ、アニメや漫画、ゲームやアイドル、テレビや映画、ネットや鉄道などすべてに精通し極めるのは至難のわざだし努力する性質のものでもないだろう。ひたすら好きなものに耽溺した結果、詳しくなったりコレクションが充実していたりするのである。作り手というかプロになるとまた、努力とか修業とかいうこともあるかもしれないが。しかしガチオタになるためのガチオタ修業というなもあるかもしれない。そのうち東京ガチオタ大学とかガチオタ予備校とかガチオタ塾とかできるかもしろない。花嫁修業でガチオタ教室に通ったり…。まあこの話はこれくらいにして、まどか☆マギカである。私はテレビシリーズを観ていなかった。最終回のみ弟が録画してくれていてそれを観ていただけどある。テレビ放送されていた頃だと思うが、Twitterなタイムラインに「ほむほむ ほむほむ ほむほむ ほむほむ ほむほむ ほむほむ ほむほむ」という謎の言語がしきりに流れて来ていたことがあった。今ならわかる。あの ほむほむ であると…。そして映画を観て、先日深夜テレビで放送された劇場版の第一作を観た。たいへんに興味深い内容であった。ちなみに映画館に行く前夜にWikipediaで予習していた。魔女っ子アニメで当然とされている前提に巨大な疑問符を突き付け、それがストーリーの核になっているのだ。また、巨大なエネルギーを手段を選ばず取り出すというところに現代の原発問題も想起させる。まず「なにかを願うこと」「希望を持つこと」「夢を叶えること」「奇跡を起こすこと」「魔法を使うこと」は本当に善なのか?という怖るべき疑問である。宇多田ヒカルの歌に「誰かの願いがかなうころあの子が泣いてるよ」というような歌詞があったがこれは本質である。人生が一種の椅子取りゲームであるならば誰かの幸せは誰かの不幸である。そしてそんなぎすぎすした競争社会へのアンチテーゼとして槇原敬之の世界にひとつだけの花や明石家さんまの生きてるだけで丸儲けがあるのである。まどか☆マギカにおける希望は果たして正義なのか?という問題。夢が大きければ大きいほどダメだった時の絶望は深くなる。そして夢がかなうということは誰かの夢を潰すことである。これは恋愛だろうが勉強だろうがスポーツだろうが仕事だろうがすべてそうである。そして生きること自体が他の生物を殺すことの上になりたっているのだ。多くの宗教がそんないかんもしがたい世界からの解脱、欲望の消滅をテーマにしていたりするのであろう。しかしここにも矛盾が生じる。天国へ行きたいという夢や祈りは独善ではないのか?という疑問である。天国やあの世の存在を否定する宗教もあると思うが天国に定員はあるのか?というような問題である。まさに芥川龍之介の蜘蛛の糸、ブルーハーツの「神様に賄賂を送り天国へのパスポートをねだるなんて本気なのか」である。天国へ行きたいと願うこと、誰かを救いたいと祈ること、それが必然的に世界に絶望を呪いを闇を撒き散らす。そして魔法少女は奇跡を起こす、魔法を使う対価として巨大な闇を背負い込む。そして誰よりも優しい少女まどかはこの摂理自体に戦いを挑むのである。この希望と絶望のプログラム、苛酷な競争社会。しかしそんな戦いの世界であるからこそ生きる実感が得られるのだ。闘うこと、競争、勝負のおもしろさ、というものもあるという考え方もあるだろう。スポーツであれば100%勝てるということがわかっている試合で勝ってもつまらない。スペックに出てくる未来が見透せる男のように人生が味気ないものになってしまうのだ。また、敗北や絶望、悲しみや怒りも人生の味わいのひとつとも言えるだろう。苦味、渋み、酸っぱさも味わいのひとつであり、それがあるから旨味や甘味がより引き立つといえるだろう。空腹の経験、貧乏の経験もそうだろう。しかしするとあらゆる悲劇は全て肯定されるのであろうか?確かに起きてしまったことは仕方ないかもしれない。当事者にとって悲しみ、苦しみを乗り越える一種の処世術としてその肯定は必要かもしれない。戦争や事故や犯罪の被害者などに「それも人生の味のひとつだよ」とか「いつかいい思い出になるよ」とは言えないだろう。まさに川本真琴の「いい思い出化できない傷を信じていたい」である。そんなモラルというか道徳というか倫理の問題もある。色々考えさせられる。もうじきテレビで劇場版二作目も放送されるらしい。楽しみである。