予科練平和記念館の隣の陸上自衛隊土浦駐屯地内に『雄翔館』という建物があり、ここでは戦没された予科練生の遺書、遺影、遺品等の展示を行っている。
2枚目の写真にあるように学生さん達が社会見学で大挙して押しかけてきたので、残念だけど雄翔館内の見学は諦めた。

 

 

雄翔館の前には、山本五十六元帥の銅像が建ってた。

当時の海軍は大艦巨砲主義であったが、山本元帥は、霞ヶ浦海軍航空隊の副長として赴任したことで、航空機を兵器として高い評価を下し、搭乗員育成に多大な貢献をしたため、予科練の慈父と言われた。

そういった縁があったので、ブーゲンビル島で撃墜されてから、この地にコンクリート製の立像が建てられた。

ところが、終戦後、進駐軍の狼藉を恐れて、立像を半分に切断して霞ヶ浦に沈めた。

1952年(昭和27年)に霞ヶ浦の湖底から上半身の像が引き揚げられた。

現在、この上半身の像は広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)にあるようだ。

下半身も湖底にあるものと思われたが、2002年(平成14年)に台座の近くに埋まっているのを掘り出され、新しい台座の下部に収められている。

新しい銅像は、2004年(平成16年)に建てられたものである。

 

 

雄翔館のフェンスの向こう(陸上自衛隊武器学校)には、歴代の戦車が展示されてた。

 

 


門のところにいた自衛官に聞くと、2週間前までに所定の手続きをすれば、こちらも見学が可能なんだとか。

土浦近辺に行くことがあれば、見学してみたい。







 

 

ずいぶん話が脱線してしまったが、茨城県美浦村(みほむら)で打合せのあとに、美浦村の隣の阿見町にある『予科練平和記念館』に寄ってきた。
 

予科練とは『海軍飛行予科練習生』の略で、14歳から17歳までの少年を全国から試験によって選抜し、戦闘機乗りとしての基礎訓練を行った。

24,000人が戦地へ赴き、約8割の19,000人が戦死したと言われている。

 

幾何学的模様の平和記念館。

 

 

館内は写真撮影が禁止だった。

館内は、予科練の制服のモチーフである7つボタンに合わせて、7つの空間で構成されていた。

 

この7という数字は、7つの海(北大西洋、南大西洋、北太平洋、南太平洋、インド洋、北極海、南極海)のことで、全世界を表すようである。

 

7つの部屋は、入隊、訓練、心情、飛翔、交流、脅迫、特攻に分かれていた。

 

伯父から聞いて知っていたが、訓練生はベッドではなくハンモックで寝起きしていて、その実物大模型が展示してあった。

慣れないうちは、ハンモックからよく落ちたと伯父が言ってた。

 

訓練生の手紙などが飾ってあったが、選抜で選ばれたという高揚感や使命感に溢れた手紙が多く、鹿児島県知覧町にある『特攻平和記念館』の手紙とは違い、悲愴感はあまり感じられなかった。

 

1945年(昭和20年)6月10日、訓練を行っていた土浦海軍航空隊を攻撃目標とした空襲があり、住民など300人以上が亡くなった。

この空襲の恐ろしさを疑似体験できるシアターがあり、B-29爆撃機が落とす爆弾がリアルに再現されていた。

 

最初の特攻隊(特別攻撃隊)は、予科練の10期生を中心に編成されたことはあまり知られていない。

特攻隊による戦死者の約7割が予科練出身者だったようだ。

 

 

予科練平和記念館の開館5周年を記念して実物大の『ゼロ戦』の模型が、アルミ製で製作された。

日曜や祝日には、中庭で展示されているようだ。

 

 

別の場所では、『人間魚雷 回天』のレプリカが展示されていた。

 

 

人間魚雷を使った最初の特攻を行ったのが、予科練出身者ということで、ドラマ『僕たちの戦争』の撮影に使用されたものが寄贈されたものである。

 

人間魚雷は、その名のとおり1人乗りの特攻兵器で、先頭に1.5トンの爆薬を積んで敵艦に体当たりを行う。

平均年齢21歳の145名が人間魚雷による特攻で亡くなった。








 

 

 

 

 

もう一つ朝ドラ『エール』のネタを。

高校野球の予選が各地で始まっているが、夏の甲子園を象徴するテーマ曲が『栄冠は君に輝く』である。

この曲も古関裕而さんが作曲し、ドラマの中では佐藤久志役(伊藤久男さんのこと)の山崎育三郎さんが歌った。

で、実際の甲子園大会で山崎育三郎さんが独唱したときのYouTubeを見つけたので、これも貼っておく。

 

リアタイで見てて、鳥肌が立ったことを覚えている。今見ても、感動する。

 

 

 


また、予科練の学生と同年代である今の高校生が甲子園大会をきっかけにダンスでもがんばってるところを第100回大会のダンス編で見てみる。キレッキレのダンスが鳥肌ものです。

この応援ダンスは、2015年の97回大会から始まった。



メイキングムービーを見ると分かるが、このダンスは、高校ダンス部では全国的に有名な同志社香里高校、大阪府立今宮高校、大阪府立登美丘高校のダンス部員たち自身が振付を考えている。演奏は、あの尼崎市立尼崎高校である。



 

脱線ついでに、古関裕而さんは、阪神タイガースの応援歌『六甲おろし』や読売ジャイアンツの応援歌『闘魂込めて』も作曲している。


脱線しまくったけど、次回はタイトルの7つボタンの話です。(汗)












 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先週の火曜日は、茨城県の美浦村(みほむら)で打合せだった。
土浦駅で待合せかと思ったら、『ひたち野うしく駅』という東京に住んでたときにはなかった駅を指定された。
駅を降りると、二所ノ関親方(元横綱稀勢の里)の大きな看板がお出迎えした。
そうだ、親方は、牛久市出身だった。
 

 


さて、タイトルの『7つボタン』から何を想像しますか?

 

進学校で有名な暁星高校の制服ですか?

それとも、予科練(海軍飛行予科練習生)の制服ですか?

 

僕は断然、予科練の制服ですね。

先日96歳で亡くなった伯父は、終戦のとき予科練の学生だったので、呑むとよく予科練のときの話をした。

また、小さい頃、おばあちゃんの家で『予科練の歌(若鷲の歌)』をよく聞いていたので、今でも耳に残ってる。

たぶん、歌えるかな。(笑)

 

おばあちゃん家では、美空ひばりさんが歌ってたけど、ここでは原曲である霧島昇さんの歌を貼っておきます。

 

 

 

 

NHKの連続テレビ小説『エール』は、この歌を作曲した古関裕而さんがモデルのドラマだった。

ドラマ内で主人公の古山裕一(古関裕而さんのこと)に召集令状が来たが、予科練を題材にした映画『決戦の大空へ』の主題歌(若鷲の歌のこと)を依頼されていたので、召集は免除されたという話になってた。

さらに、当初、長調の曲としたが納得がいかず、作詞者の西條八十さんとともに予科練に1日だけ入隊し、その体験をもとに短調の曲を書き上げた。

そして、長調と短調の両方の曲を予科練生の前で歌い、生徒の挙手で短調の曲に決まったようだ。

 

と、ここまではドラマでの話で、実際には生徒に発表する前に教官達にも披露したようで、教官達からは圧倒的に長調の曲の方に賛同が得られたんだとか。

 

曲を聴いていただくと分かるが、短調のどことなく哀愁を帯びた感じが国威発揚を是とする教官たちには受けなかったんだと思う。

だから、『若鷲の歌』は軍歌ではなく、戦時歌謡と言われているのかもしれない。

 

なお、この曲は戦時中にも関わらず、異例の大ヒットとなったようだ。

 

歌詞の中に出てくる『桜と錨(いかり)』は、帝国海軍や海上自衛隊のシンボルなので、『よこすか海軍カレー』のパッケージにもちゃんと描かれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先週の月曜日の臨時透析先で、あり得ないことが起きた。
 
V側の穿刺が終わり、A側の穿刺をしたときに、一端挿入した針が血管から顔を出し、あっという間に血の海になってしまった。
臨時透析を受けるときは、穿刺の手技を凝視することにしているが、一瞬の出来事だったので、何が起こったのかが分からなかった。
 
下の写真は、1枚目のシートがあまりに血だらけだったので、2枚目のシートに取り替えたときに撮ったもの。
 
 
刺したナースさんは、あまり動揺することなく、「浅く刺しすぎました。ごめんなさい。」と言ってた。
 
いつものクリニックに戻って、状況を説明したけど、皆あり得ないと言ってた。