予科練とは『海軍飛行予科練習生』の略で、14歳から17歳までの少年を全国から試験によって選抜し、戦闘機乗りとしての基礎訓練を行った。
24,000人が戦地へ赴き、約8割の19,000人が戦死したと言われている。
幾何学的模様の平和記念館。
館内は写真撮影が禁止だった。
館内は、予科練の制服のモチーフである7つボタンに合わせて、7つの空間で構成されていた。
この7という数字は、7つの海(北大西洋、南大西洋、北太平洋、南太平洋、インド洋、北極海、南極海)のことで、全世界を表すようである。
7つの部屋は、入隊、訓練、心情、飛翔、交流、脅迫、特攻に分かれていた。
伯父から聞いて知っていたが、訓練生はベッドではなくハンモックで寝起きしていて、その実物大模型が展示してあった。
慣れないうちは、ハンモックからよく落ちたと伯父が言ってた。
訓練生の手紙などが飾ってあったが、選抜で選ばれたという高揚感や使命感に溢れた手紙が多く、鹿児島県知覧町にある『特攻平和記念館』の手紙とは違い、悲愴感はあまり感じられなかった。
1945年(昭和20年)6月10日、訓練を行っていた土浦海軍航空隊を攻撃目標とした空襲があり、住民など300人以上が亡くなった。
この空襲の恐ろしさを疑似体験できるシアターがあり、B-29爆撃機が落とす爆弾がリアルに再現されていた。
最初の特攻隊(特別攻撃隊)は、予科練の10期生を中心に編成されたことはあまり知られていない。
特攻隊による戦死者の約7割が予科練出身者だったようだ。
予科練平和記念館の開館5周年を記念して実物大の『ゼロ戦』の模型が、アルミ製で製作された。
日曜や祝日には、中庭で展示されているようだ。
別の場所では、『人間魚雷 回天』のレプリカが展示されていた。
人間魚雷を使った最初の特攻を行ったのが、予科練出身者ということで、ドラマ『僕たちの戦争』の撮影に使用されたものが寄贈されたものである。
人間魚雷は、その名のとおり1人乗りの特攻兵器で、先頭に1.5トンの爆薬を積んで敵艦に体当たりを行う。
平均年齢21歳の145名が人間魚雷による特攻で亡くなった。