飲食店宣伝代行!関東の頑張る家族経営の飲食店サポート -6ページ目

日々の事  川越・群馬行



 久しぶりに群馬に遊びにでかけた。実はお酒が切れたので、その補充が大目的(オイ)。

 さて、行きがけに埼玉県川越市に立ち寄ることにした。川越は江戸時代に作られた「蔵作りの町並み」が残っているところで、ちょっと町並みだけでも拝見、と思って寄ることにしたのだ。
 実は現地についてから知ったのだが、NHKの連続テレビ小説『つばさ』の舞台だったらしい。「蔵作り」というのは、どうやら耐火建築として発達したものということである。全国には「小京都」といわれる場所が幾つか点在してるが、川越は「小江戸」らしい。なかなか風情があった。

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 が、川越はあくまで群馬に行くまでの通過点。ここはサッと見流すつもりだったのだが、やたらと道が混んでいて中々辿りつかなった。なんの事はない、工事渋滞だったのである。その後、熊谷、深谷と通りすぎるのだが、この辺も混んでいて中々先に進めなかった。
 この渋滞中に助かったのが、もっていったCDである。この日は三遊亭金馬師匠と、桂三枝師匠のCDを持ち込む。金馬師匠はもう言うに及ばずなのだが、三枝師匠の「創作落語」の面白さ! 現代的なトピックを取り込みながらも、ちゃんと『上方落語』としての面白さがそこにはある。天才だ! 僕が言うようなことでもないだろうけど。

 さて結構、遅くなりつつも、いつもの大胡のグリーンフラワー牧場。まだ若干寒いせいか、人が少ない。ロック君は思いっきり走れて、大満足そうだった。

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動画:http://video.mixi.jp/view_video.pl?owner_id=16012523&video_id=8504490
動画2:http://video.mixi.jp/view_video.pl?owner_id=16012523&video_id=8504522

 銘酒『赤城山』も買ったし、野菜も買った。しかし時間は中途半端で、いつものように伊香保温泉にいくほどの時間はない。どうしようかと思ったのだが、「大室公園に行きたい」と奥さんが言うのでそちらに行くことにした。
 で、ちょっと地図を見てみると、近くにあるのに今までいったことのない「重要文化財・阿久沢家住宅」というのがあるので、道がてら立ち寄ることにした。

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 赤城山中腹部にあるこの民家は、赤城のふもとに養蚕が普及する前の民家らしい。通常の養蚕民家は茅葺の一部に吹き抜けの窓を作ってるのだが、この住宅にはそれがないのだ。
 裏から水を引いてる庭なんかもあって中々広いのだが、これで中規模民家ということである。入り口の戸の部分には、扉ではなく、サッシの方に輪っかが仕込んであった。柱と柱のつなぎには、楔が打ち込んであり、もしかしたら釘を使わない構造なのかもしれない。

 さて、それから大室公園へ行く。大室公園は赤城山を少し下ったとこにある、大室古墳群跡地を公園にした場所である。やたらと広くて散歩者が多い。気持ちのいい公園である。
 ここではさすがにリードは手放さないが、ロック君をたっぷり散歩させる。池越しに見る、夕映えに染まる赤城山が美しい。いつものことだけど、上泉信綱もこのような景色を眺めていたのだろうかとか思ったりする。

アルバム:http://mixi.jp/view_album.pl?id=44020979&owner_id=16012523

 例によって新鮮なホルモン食べて帰る。久しぶりに美味しかった。 
 
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  • 特撮最前線  超特撮論  3、分身と変身①



     「脱中心化」について語ってきた過程で、しかし元々「ヒーロー物」とは、中心化する欲望を幻想空間のなかで満たすものではないのか、という見解が出るだろう。それにどんな物語でも「中心」は何処かに存在する、という見解も浮かび上がる。

     後者は「ヒーロー物」というジャンル、あるいは自己の絶対化=「中心化」という原理を開き直って肯定する見解である。これは別に「ヒーロー物」に限らず、「恋愛物」や「悲劇」も似た中心化の機能を持っているため、物語自体を「中心化」のための薬、あるいは投射対象と見做す見解となるだろう。
     それは物語を受用する行為を、単なる「自己の勇気づけ」といった類の感情収拾のための「道具」としてのみ有用視する見解と言える。しかしそれは全ての単なる「有用なもの」同様に、経済的な意味しかもってはいない。つまりそれは消費の対象ということである。

     そのような「感動物語」は常に消費のサイクルに基づいて生産され、反復を繰り返す。「中心化」の機能とは、自らを自らの世界の中心に位置づけ、自らの世界把握の確かさを再確認する行為となる。そこでは自らの属する共同体の原理をメタ視することもなければ、整合的な「世界」そのものが持つ認識論的なパラドックスにも注視することはない。
     もちろんこれに対して「脱中心化」的認識は、自らを世界の外部あるいは卑少な一部にし、自己を満足させる確信を弱める。対して「中心化」の機能はもっぱら「感情の収拾」を補助し、自己を肯定する機能を果たす。

     消費の原理は感情に基づいて再生産される為、商品として市場に上るのは何らかの形で感情を高揚させるもの=「感動もの」が多くを占めることになる。その顕著な例はアメリカの映画産業だが、もちろん日本のドラマやアニメ、特撮も例外ではない。しかしここで問題なのは単なる「中心化」では、消費の主導となることもできない、という点にある。
     特撮からは離れるが、ここで『ガンダム』(79年)について考えてみる。「ガンダム」がロボットアニメにリアリズムをもたらしたと前記したが、それはどのような意味であったか。それは戦闘描写がリアルだった、戦争の局面が描かれていた、人を殺すということの意味が描かれていた…そういうことに尽きるものではない。

     『ガンダム』と『ガンダム』以降の富野作品には、決定的な違いがあるがそれは何か? それは唯一、「アムロだけが、戦いの大きな局面に何らの影響も与えていない」という一点に尽きるのである。
     その後の『ザブングル』『ダンバイン』『エルガイム』『Z』『ZZ』に至るまで、主役は最後には敵の「首領」と果たし合う。それは「ガンダム」のリアルな世界観を受け継いだ、『Z』(85年)『ZZ』(86年)でも変わらない。

     カミーユはシロッコと一騎打ちをするし、ジュドーはハマーンと一騎打ちをする。それは言うなれば第二次世界大戦において、イギリスの一兵士がヒトラーと一騎打ちするも同然の、およそ考えにくい馬鹿げた展開である。つまりそれはファンタジーである。
     「戦争に勝つ」とは、「戦いに勝利する」だけはではない、様々な要因が影響している。資源の備蓄、国民の意気高揚と生産力の関数、技術レベルの水準、他諸勢力との外交バランス等、戦争に勝つには一つ一つの戦いに勝利するとは全く別の、大局的な条件が重要になってくる。

     その中で現れる「戦地の英雄」とは、「物語」にすぎない。少なくとも『ガンダム』では、軍隊内部で「木馬」と「白いモビルスーツ」が、局面打開の「英雄」となる「物語」が生産され、その「物語」に違和感を持ちつつも、そのなかで戦う当事者達が「物語られていた」。
     「ガンダム」が戦争を勝利に導いたのでもなければ、アムロが英雄だったわけでもない。その「ガンダム」にまつわる物語は「作られた英雄伝」であることが、本来、作品『ガンダム』の持っている意味である。

     にも係わらずその後続作品は、「作られた英雄伝」=「既に神話化した物語」をまともに受け止め、英雄としての主人公、絶対的な局面打開力を持つ「ガンダム」を描いてしまうのである。『ガンダム』だけが依然名作であり、その後続作品がそうではない理由がここにある。
     つまり『ガンダム』には、少なくとも「ガンダム」を中心化する「物語」に対して、それを「脱中心化」する物語も同時に描かれていたのだ。人は中心化=自己肯定と絶対化だけを求めるのではなく、自己の脱中心化=客観的把握と相対化もまた必要とするのである。その二つの嗜好性に答えたからこそ『ガンダム』は名作とよばれ、反復される神話となったのである。
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  • 武道随感  目付け



     ヘンな話から。このmixiのアプリに『みんなの動物農場』というゲームがある。このゲームのなかで、農場にウサギが出て牧草を食い荒らすことがある。

     このウサギは白・灰色・黒の三種類がいて、このウサギを捕まえるミニゲームがある。それはにくったらしい感じのウサギの絵の上に、『BAN!』みたいな破裂マークが出て、それをマウスポインターで追ってクリックするというもので、幾度かクリックに成功すると捕まえることができるというものだ。
     この三色のウサギは、白が一番、マークの出現スピードが遅く、黒が一番早い。この黒のウサギを捕まえようと思うと、それなりの反応速度が必要になると思う。

     最初、一生懸命にこのウサギの破裂マークを追っていた僕は、追いきれずにウサギに逃げられたりすることもあった。しかしある時、座椅子に寝っころがったまま、遠く離れた場所から適当にやっていたら、なんなく黒ウサギを捕まえたことがあった。
     ふと思ったのだが、真剣になってマークを凝視してると、次の場所に移ったときに目で追いきれない。それで結果的に間に合わずに逃げられたりするのだ。

     しかし離れたところからボーッと見てると、ひょこひょこ現れるマークにサッと反応できる。この時に反応したときに凝視してはならず、あくまでボーッと全体を見つめたままの方が効果が高い。
     で、思ったのだが、薙刀では「相手の目を見つめる」という事を指導される。自分が面を打つときも脛を打つときも、見るのは相手の目である。そして防禦をするときも、相手の目から視線は外さない。

     これは実際に相手の目を凝視していたら、相手の薙刀に間に合わなくなる。相手の目を見ているのだけど、相手の目を凝視してるのではないのだ。視線はそこに合わせたまま、相手の「全体像」を把握しているのである。
     と、思いたったので、ウサギの目を見ながらマークを追うことにした。効果てきめんである。マークに対する反応の「リズム」とか「速さ」に対する感覚を「高める」という内的な準備も重要だけど、ウサギの目を見つめたまま、端々に出るマークを追うのは非常に効果が高い。

     判ったのは、視界と言うのは意外に範囲が広く、完全に見えてなくてもそれに反応できるということだ。それに、相手の挙動一つ一つを目線で追っていては、反応が確実に遅れるということである。
     さて、薙刀の稽古の話である。一昨日の稽古で、今年初の防具の稽古をやった。なかにBさんという若い高段者の女性がいるのだが、この人と試合稽古で当たったときに、とにかく「脛抜き」をされた。

     こちらが脛を打つ。と、ひょいと片足を上げてそれを空かされる。向こうは間髪いれず、面を打つわけである。何度も打つが、Bさんはこの脛抜きが異常にうまく、もの凄く空かされた。これは非常に悔しかったのである。
     で、ローテションで回っている間に反省をしてみた。そもそも薙刀は、型のときは相手の目を見たまま、相手の脛やその他の部位を狙う。僕は不意に、「ウサギを見る」感じができてないのではないかと思った。

     ので、回ってきて次にBさんと当たったとき、意識して相手の目から視線を外さず、相手の部位を攻撃してみた。すると今度は脛抜きされず、こちらの攻撃がよく当たるようになったのである。
     「目付け」の基本ってそういう事か。と、まず思った。やはり基本通りにやることが、有効な運用なのだと実感した。実は「相手の目を見る」というのは結構、迷っていたことであったのだ。これは薙刀を始めた頃の日記にも書いたかもしれない。

     というのも植芝先生は、「相手の目を見てはいけない。相手に吸い込まれてしまう」と言っている。僕は合気道、柔道をやってるときはそれを肝に銘じて、なるべき相手の目を見ないようにすらしていた。
     しかし古流空手家・宇城先生およびその先生である座波先生は「相手の目を見る」という事を言っている。特に座波先生などは、日常生活でも相手の目を見つめて話すので、相手が困ることがあるほどだという。

     しかし「ウサギを見る」感じだと、「相手の目を見ている」が、「相手を凝視してはいない」のだと判った。植芝先生の言ってることと、座波先生のいう事が両立するのだなと納得できたのである。
     問題は、まだ意識しないと、やっぱり自分の攻撃部位や、相手の攻撃を目で追っちゃうことである。なまじ視力がよくて(両目1.5)、動態視力も実は高いだけに、目で追うクセが結構強いのだ。これが「自然体」になるのが、これからの課題である。
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  • 武術散策  プロ格闘技論  ④修斗とUインター

     

     「戦い」をアルティメットとほぼ同じ認識で実現したのはシュート(現在では修斗)である。タイガーマスク・佐山聡はUに参加した後、Uが再び新日に吸収される前の85年にはUを脱退した。

     87年に修斗協会発足、89年にはプロ化を遂げる。修斗のルールは薄手のグローブによる顔面パンチOK、ロープエスケイプによる間接技のエスケイプがないという、当時ではほとんど考えられないルールだった。
     というのも、それが格闘技であるのはもちろんだが、それが興行として成立するためには「見せる」ことが必要なのであり、ほとんど逃げのきかないそのルールでは、一試合は一方的かつ短時間になることが想定できる。前田は佐山のことを「理想的すぎる」と評していたが、それをこのような形で実現することがその理念の明晰さを示している。

     しかし同時に、顔面パンチが許される場合、体重差が決定的な問題になることも佐山は知っていた。修斗は体重制がもちこまれ、かつ選手たちはボクサーのような減量をする格闘家となる。このような修斗の性格は、それがプロレスとは全く異なる格闘技であることを物語っている。
     グレーシーに対してもっとも早く反応したのも佐山である。第一回アルティメット大会の翌年、94年にはバーリ・トゥード・ジャパンで、佐山は当時『最強』と名高かったヒクソン・グレーシーを呼んでいる。

     このトーナメントの一回戦でリングスの山本が、そして決勝戦で修斗の中井祐樹がヒクソンに敗れた。後のPRIDEを始めとする総合格闘技のルールの原点とも言える修斗の競技が、プロレスと決定的に違ってくる点はエスケイプなしの試合であることで、先手を取った者が即勝利者となることである。
     UWFスタイルのルール(リングスやUインターがそうなるが)では、試合全体の総合ポイントが重要になるが、修斗では先手必勝が勝利の原則である。そのためにダメージに耐える脂肪が不要であり、動きをより機敏なものにするために選手には減量が課せられることになるのだ。

     しかしこのような身体性それ自体を問題にしない「戦い」に対する認識は、アルティメット大会も開かれていない87年頃には異例すぎる認識である。無論、アルティメットという「喧嘩」大会が開かれたことにより、先手必勝、グラウンド技術の優位、顔面パンチが許される際の体脂肪の不要性などは次々と現実的に証明されていった。
     しかしこれは結果的にアルティメットのような興行が催されたため理解されたことなのであり、87年の時点ではそれはむしろ「強さ」の認識のなかでは蔑視に値するものだったはずなのである。この点において修斗(あるいは佐山)の「理念」の驚くべき先見性、徹底性が評価されるだろう。

     修斗はやがて佐藤ルミナなどのスター選手を生み出し、その高度の技術性、スピード感で観衆をひきつけていく。大柄とは言えない日本人が階級制という枠の存在により、選手層の厚みを増したことも高結果の要因の一つだろう。
     佐藤ルミナなどは身長167cmほどだが、プロレスがほとんど180cm以上の選手でないとトップになれないことを考えると、選手層は必然的に増えることが理解できる。

     と同時に、ボクシング的な細かい階級制を導入することで、減量に基づく身体調整までが勝敗を左右するかなりシビアな競技土壌は、ボクシング同様に選手生命をごく短期間にすることが考えられる。現に修斗では、もはや30才を越えると選手として厳しい条件と言わねばならない。
     40代の長州力の力強さを見ると、逆にプロレスはかなり選手生命が長くあれる競技だということが言えるだろう。修斗は日本において最も早く総合格闘技に先鞭をつけ、そして洗練させてきた団体である。それはもはや熟成を越えて先鋭の段階に達している。選手生命の期間や、興行性の問題も含めて修斗の命運はここから問われるだろう。だがそれは修斗が当初から見せた「戦い」に対する認識のシビアさと並行しているのである。

     身体性を絞り込んでいった修斗に対して、技術を重点に置きつつも身体性の強さを残していたのがUインターだと言える。それはより技術的な側面へと以降していったU発祥の他団体(修斗、リングス、パンクラス)のなかで、最もプロレス的な要素を残す団体となった。
     U時代、最も前田の隣で光っていた高田信彦を筆頭に、ほとんどのU選手が91年インターへ移籍した。その世界ヘビー級王座決定戦開催や、主力外人選手であるゲーリー・オブライトなどがハイパーウェイトと言っていい選手であることを考えれば、インターが身体性を重視する団体であることは疑いがない。さらに重要な要素は、スープレックス・ポイントという投げ技に対して得点を与えたことである。
     
     本来、投げ技は蓄積ダメージとしては打撃技以上に衝撃が高く、さらにそれはウェイトの重い選手であればあるほど効果的な攻撃となる。その最大の敵となったのはアメリカの8冠レスラー、スーパー・ベイダー(元ビックバン・ベイダー)や、ロシアのレスラー、ハシミコフなどである。
     ただ基本的には彼等は大半がプロレスラーであり、サンボのような未知の技術がそこで見られた訳ではない。ただ正規の技術を持っている選手達ですらも、体重のプレッシャーによって倒されることが多く、身体それ自体が武器となることを、U系の団体としては唯一取り入れたことは評価できるだろう。

     インターには技術的な面では特に際立った認識は見られない。そしてリングスのように世界に広がった訳でもない。インターには特筆すべき明晰な理念がなく、またエースの高田がそういうことにほとんど口出しをしなかったというのが特徴であるとまで言える。それは恐らくは興行、経営のことまで考えて口出しをして非難され、Uを解散することになった前田のことを念頭においてのことだろうと思われる。
     インターにおける高田は戦略指示者(リングスの前田)でも、理念の提唱者(修斗の佐山、パンクラスの船木)でもなく、ただの一ファイターとしてフロントが用意した相手と戦い続ける。インターにおいて興味深いのはその進むべき道を目指して進む様子ではなく、その道が次第にずれていき解散に至るまでの過程の方なのである。

     恐らくインターが、インターとしての興行を純粋に盛り上げることができたのは95年の高田vsベイダーの最終対決にまつわっての、オブライト、ハシミコフ、そして既にはっきりとした実力を示していた田村潔司らの王者争奪戦である。
     その戦いにベイダーに対する高田の勝利という形で一つの決着がついた後、オブライトに勝利した田村がリング上で高田に挑戦したことから流れは乱れ始めたのだろう。結局この戦いはフロントサイドの判断としてなのか、真相は判らないが実現することはなかった。

     その戦いを棚上げにしてインターが向かったのは、95年10月に始まる新日との全面抗争という図式である。それは第一次UWFが経営難のために新日に帰った図式の再現とも言えた。
     しかし今回は以前のUのように完全に新日の興行に飲まれることなく、インターはインターとしての団体の独立性を保ったまま新日と抗争することになった。それは以前の図式同様、プロレスを捨てた「実力主義」と、プロレスの「最強神話」との対決だったのである。

     新日とインターの初対決は大方の(恐らくは当事者も含めて)予想に反して、インター勢の散々たる結果となった。まず圧倒的に違ったのは力の強さであり、体重からくる圧倒的なプレッシャーに、当初インター選手達はほとんど押し潰されていった。
     特に最初の高田延彦vs武藤敬司戦が、当時IWGPチャンプの武藤の勝利に終わったことは、少なからずインター側に失望をもたらした。しかも高田はその戦いの武藤のドラゴンスクリュー(いかにもプロレス技だが、現実的な破壊力がある)によって膝を壊し、しばらくの欠場を余儀なくされたのである。

     このインターと新日の抗争でやっと判ったことは、体重や体格それ自体が「真剣勝負」だけをやってきたインターの選手達にとっても、十分な脅威になるほどの武器となるという現実的な「認識」だったのである。エース高田の欠場、そしてグラウンド技術のトップで実力者の田村の対新日戦への出場拒否、という事態がUインターを絶対の危機に落とすことになる。
     しかし戦いを重ねるごとに、インターの選手達は次第に対新日の戦い方を学習し、勝利を収めていくようになる。それはポイントを押さえた打撃、隙を突く間接技、体重の圧力をずらすポジション取りなどである。だがその一方では、新日とのダブルバウトにおいては新日のいわゆる連係プレーがインター勢を苦しめた。

     連携プレーはインターではルール違反であり、真剣勝負に水を差す要素である。しかし新日の選手は自コーナーにインター選手を引き込み、二対一で攻撃を繰り返した。このような土壌では、シングルでは対応できてもダブルバウトでは圧倒的にインター側に不利である。
     この連係プレーやフォール中のカット(リングに外の選手が助けに入る)などに対して、インター選手が認めるか認めないかという問題が浮上することになる。それはインターが「インターである」ことを守るか、それとも「プロレス」を受け入れるかという問題であった。このような外部との接触で、インターは初めて自らのスタンスを問われることになったのである。

     しかしインター選手が新日に経験学習によって勝利していくなかで、そのような「ルール違反」を自らもすることで新日に勝利する選手達もインターに生まれることになる。それが安生洋二を筆頭にしたゴールデンカップス(これは安生が新日の闘魂三銃士の一人、蝶野と戦った時、そのファウルカップが金的攻撃から身を守ってくれたとコメントしたインタビューに基づいている)である。
     ことの発端は高田の負傷と田村の出場拒否により、安生がメインカードを戦うことになったことがきっかけとなっている。このメインにおいて安生は長州力に敗れたものの、予想に反して蝶野を下すことに成功した。そのことで勢いにのった安生は次の蝶野とのダブルバウトで、他のインター選手がやらなかったルール違反をついに実行する。

     インター側は新日抗争戦において負け知らずだった垣原賢人が「俺がUを守る」と発言し湧いていたが、その後に安生は「Uは垣原あたりに任せておいて、オレはオレのやりたいことをやる」と発言した。
     元々コメディ的なキャラクターで、多少の反則技をインター時代からしていた安生は、メインの勝利に勢いづいてギャグを飛ばしながら次々と新日との戦いでインターの枠を壊していく。最初は批判的だった周囲の声も、次第に若手賛同者を引きつけてゴールデンカップスが生まれることになったのであった。

     インターはこうして内部から壊れることになる。その行動に対して、過去、新日から移籍してきた佐野友飛などが激しく抗議するという、逆説的な光景が見られることになる。しかしカップス若手組は逆にインターの会社批判を公然と口にし、「インターを支えてるのは俺たちだ」とうそぶくようになる。
     方針転換をしたインターに見切りをつけ、再び新日に移籍した山崎一夫なども、インターから抜けたもののそれはインターの理念に誇りを持っていたからであった。高田と同期で新人王を競って敗北した山崎は、インターきってのグラウンド技術の実力者であり、田村の技術は山崎との戦いに負うところが大きい。このどちらかと言えば知的な両選手が、インターの対新日戦に見切りをつけたことはその後を予感していたかのようである。

     その山崎が新日の選手として安生と対決するという皮肉な図式も、クリーンなインター精神で戦う山崎と、ルール無用のカップス流で戦う安生という両者の団体を逆転させたような戦いとなった。しかしこの戦いに安生は勝利し、ますます増長することになる。
     しかし一選手としてのみ戦う高田は安生の動向にノータッチであり、好きにさせておくといった感が強かった。その間に高田は新日から独立している平成維新軍を率いていた越中詩郎を破り、翌年には武藤と再戦して勝利する。そのことによってIWGPのチャンプともなった高田は、その後のvs橋本真也戦に敗北。これを最後に新日とインターの抗争もひとつのくぎりが着いた。

     新日との抗争を終えたインターは、さらに他団体との対決を進めていった。主となったのは、天龍源一郎のWARなどであるが、その間に新日との抗争戦で表だってはいなかったインター内部の分裂が試合として表面化することになっていく。
     それは勢い、インター正規軍とゴールデンカップスとの戦いとなっていった。その一つの象徴的な対決が、過去に新日から敢えてインターに移籍してきた佐野友飛と、ゴールデンカップス安生の対決である。

     それまでにも安生はWARの冬木(冬木は現在は元、大仁田厚の団体であるFMWで試合しているが、インディーズプロレスではかなり有名な存在である)などと無茶苦茶な試合をしたりしていた。その内容は消臭スプレーによる目潰し攻撃や、気絶する安生にパンティを被せる、試合参加選手以外の乱入等、ひどい内容のものであった。
     そんなゴールデンカップスの動向に対して最も激しくぶつかっていたのが佐野だったが、その佐野と安生の戦いはインターの精神に対する一つの象徴的な回答となった。結果は激戦の末、佐野が安生に敗北を期し、インター精神の崩壊を決定づけることになった。

     その戦いは一つの興行を、全面的にUインター対ゴールデンカップスの抗争とするまでに至る。そこで現れた覆面レスラー200%マシン、150%マシン、100%マシンの登場は実力主義のインター内において決定的に違和をもたらす存在となる。「覆面」というのは、「実力主義」を掲げるインターの理念に対し、あまりにも「プロレス」的であった。
     その決着は結局、安生vs高田の頂上決戦となり、高田のハイキックにKOされた安生が土下座してこの事態は幕を閉じる。しかし既にその頃には、インターの本来あるべき姿は完全に、内部からも外部からも失われていた。

     この安生との頂上決戦を真昼の神宮休場で行ったインターの客席には、驚くほど空席が目立っていた。この真夏の炎天下に行われた試合は、リングを照らし出すスポットライトの眩惑性がなく、空席とともに白日のもとに晒されたインターの空虚さを象徴する結果となったのである。
     この興行の特殊性はそれだけに尽きない。この興行ではWARの天龍がダブルバウトで参加した他、アルティメット選手のキモ(ホイスに敗北したものの、そのタフさは既に有名なものになっていた)、初代タイガーマスク、それに東京プロレスの選手が参加するという異例の形式を取っていた。

     何故、修斗の総帥であり、選手としては既に引退してロートル化していた佐山が、インターの興行に参加したのかは定かではない。が、この興行以降、タイガーマスクは興行内に一試合だけ、プロレスルールでみちのくプロレスの選手や過去名のあった選手などと試合をするという変則的な参加をすることになる。
     また東京プロレスはおよそ実力主義とは遠い、見せ物に近いプロレスをしていた団体だが、新日や天龍などの一流と比べると明らかに二流、三流と言わねばならないだろう。ロートル選手のタイガーマスクや二流団体との交戦で興行性を作っていかねばならないほど、当時のインターはその行き先を見失っていた。

     そしてゴールデンカップスを手放した安生が、東京プロレスのふがいなさを罵倒した揚げ句、東プロ社長と新社長の座を賭けて戦うなどという訳の判らない展開(結果は安生の完勝、しかし東プロはこれによって潰れる)を踏まえながら、結局インターは96年末に解散することになる。
     Uインターの推移の面白さは、それが「戦い」(打撃、グラウンドにプラスして体重、投げを加味したもの)という認識に負うものであったはずの団体が、次第に「強さ」(他団体との交戦)という「物語」(図式)に変貌していく様子である。

     恐らく、他のU系団体=リングス、パンクラス、修斗では新日との交戦は実現しないだろう。それは追っている「戦い」のリアリティが根本的に異なるからである。しかしインターの「戦い」とはプロレス的な「強さ」も多分に持ち合わせていたことが、新日との交戦を実現したと思われる。
     興味深いのはインターが興行性を維持するため、次々と新しい図式(=物語)を作り出さなければならなかったことである。そしてそれは多分に場当り的で、何より不出来なものであり、後半は退廃的なものであった。

     その図式の相手はUインター/外人巨大レスラーという図式から始まり、/新日本プロレス/平成維新軍/WAR/ゴールデンカップス/東京プロレスと以降していく。最もまずかったのはその新たな図式が真に「強さ」を証明するものとは言えず、段々とその相手が弱くなるということだった。そこに、Uインターの終息の原因があるだろう。
     Uインターの解散…それは「強さ」を証明するための「戦い」の言語をもたず、ただやみ雲に図式を生み出していくという空虚な興行(エンターティンメント)の終着点としてあったのである。
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  • 特撮最前線  超特撮論  2、脱中心化と超越性④



     規定不可能な存在としての「他者」という概念は、柄谷行人などによって広く知られた論議となったが、そのような「他者」として宗教者が現れることも指摘されている。
     既存の共同体的な倫理に対して、それとは異なる論理を持つ倫理を提示するのが「他者」の倫理を持つ宗教者であるが、ユダヤ・キリスト教の神もまたそのような規定不可能性として現れる。その一神教の神の要求は、ある意味では非情、理不尽とすら言える場合もあるほどである。

     そのような「他者性」が重要なのは、共同体的な倫理が持つ束縛性、限界性を越えて、新たな倫理の地平を示すことができるからであり、それは地上の社会構造に対する批判的観点を可能にする。
     「神」とは本来そのような規定不可能な(だからユダヤ・キリスト教では偶像崇拝が禁止される)超越的存在なのだが、そのような超越的「神」の構造を裏返しにしたものが「クトゥルー」のような邪神物のホラー小説に典型的に表現されている。「クトゥルー」とはその意味で、キリスト教圏的な「神」のイメージの裏返しなのだ。

     超越者が「超次元」的存在であるのに対して、その悪意の裏返し的存在は「異次元」的存在と言える。「現実性/可能性」の差異によって規定できる範囲を越えた存在の行為が、それが親和的な(倫理的な)ものならば、それは「超次元」的存在の「現実性」選択に基づく一つの論理を示すことになるだろう。
     しかしそれが悪意的な(不気味な)ものならば、それは「異次元」的存在の、抑圧された「可能性」の具現となる。「異次元」的存在が不気味なものとして現れるのは、「現実性」の選択の際に悪意や欲望が抑圧され、潜在化されることに基づいているのである。

     フロイトは論文『不気味なもの』のなかで、「不気味なもの」とは以前に親しかったものが抑圧され遠くなり、それが再び現れる時の心理状態だと書いている。その時「異次元」的存在は、自身の中で潜在化する「無意識」それ自体でもある。つまり不気味なものは、「自身」と「外部」の双方にある。
     それを極めて象徴的に表現してるのが、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』だった。「エヴァ」は、「異次元」的存在の敵である「使徒」を改造したものであり、時に搭乗員を巻き込んで暴走する。それは『外部』であると同時に、無意識領域そのものであるような衝動性を表現しているのである。

     「超次元」的存在にせよ、「異次元的」存在にせよ、その両者の共通特徴は地上の論理の「現実性/可能性」を越えていること。つまり規定領域の外であることが、その根本的な性質となる。
     その意味では「使徒」が何か? という問いが伏されたままであるのは当然で、その「意図(本来的には悪意であるかどうかも判らない。特にクトゥルーなどにはこれといった悪意はない)」も不明であるのも当然であると言える。

     逆に「超次元」的存在のもたらす「倫理」は、地上の論理の範囲でないこともここから理解できる。それは現実の社会構造の改変ではなく、「救済」や「裁き」という超・地上の価値観によって実施されるのである。
     「ウルトラマン」以外で「超次元的存在」を表現したものも幾つかある。先行者にはまず「黄金バット」があげられるだろう。どのような契機によって現れ、どういう論理に基づいて行動するのか、その正体も根本的には不明で、しかもほぼ無敵の超人である「黄金バット」は、間違いなくある「超次元的」な存在である。

     「ウルトラマン」以降では『ブルースワット』(94年)に登場した「ゴールドプラチナム」が極めて印象的だった。ゴールドプラチナムは不意に現れて主人公をパワーアップさせて還るだけの存在であり、自らは多少は戦いはするものの全面的に戦闘に参加する訳ではない。
     このゴールドプラチナムは、天空から十字架の光とともに現れる。そして唇に軽く触れた右指先から閃光を放ち主人公に奇跡の力を与えるのである。それは救世主(メシア)の降臨であるとともに、地上者に与えられる祝福の息吹である。しかしゴールドプラチナムは最終的にブルースワットの完全たる支援者の役割になり、その超越者としての輝きは失われた。

     より完成された形で「超次元的存在」を表現していたのは『五星戦隊ダイレンジャー』(93年)における「大神龍」である。「大神龍」は善悪や有利不利とは無関係に、争いそのものを終結させるために、争っている両者ともを滅ぼす。
     その契機はある戦いのボルテージの昂まりとともに発動し、その基準それ自体は全く不明である。と同時に大神龍は、戦いが終息すると役割を終えたように、また宇宙の何処かへと忽然と消えていく。それは主人公達と敵側の戦いの双方を超越した観点から眺める存在であり、そして争う両者の能力を遥かに超えた抵抗不可能な実行力を持つ存在なのである。

     それはまさしく完全な形で表現された、地上の論理を超える「超次元的存在」そのものであった。本来「ウルトラマン」や「黄金バット」は、「大神龍」のように表現されることがそのモチーフの本来性を表現するのかもしれない。
     「大神龍」の登場もさることながら、『ダイレンジャー』はその作品のラストにおいて「戦い」それ自体を「脱中心化」した作品だった。ラストでは敵の幹部達が次々と、自らが『何者』かに作られた「泥人形」であることに慄きながら倒れていく。

     その中で敵の宗主であるゴーマ15世までもが、幹部の一人のシャダムによって作られた「泥人形」でしなかったことが明らかとなる。しかも他の幹部達も全て、シャダムの計画によって作られた存在だったのだ。遂に敵の影の首領シャダムとダイレンジャーが最終決戦を迎えるが、その戦いの中でシャダムは自らまでもが「泥人形」である事に慄きながら死んでいく。
     シャダムを作ったのが誰かは結局、判らない。戦いはダイレンジャーが勝利し、ゴーマが滅んだかに見えた。しかしその50年後、ゴーマが再び復活し元の主人公達の孫が戦いに赴く。その中で主人公のレッドは、その「戦い」そのものが「原因不明」のまま反復され続けることに違和感を覚えながら作品は終わる。

     このなかで描かれるのは、「戦い」そのものに原因や理由といった必然的動機がないこと、あるいはそれが存在するように見えてもそれは結局、見せかけの整合性にすぎないことを明らかにする観点である。
     「戦隊シリーズ」(あるいは特撮)では、常に最初に悪が現れ、その悪の武力行使に対して不可避的に(必然的に)、善側が対抗戦を始める形が取られる。そして戦いは「善」側の勝利に帰結し、戦いは「終息」するかのように見える。

     しかし来週からは、また新たな戦いが始まるのだ。それは「悪」が攻めてくるからではない。実際にはそれは消費を求める市場原理に基づいて、商品が再生産されるにすぎない。「戦い」が始まる本当の理由は、その作品の「外側」にある。
     つまりそれは「作品」世界の外部=超越的次元に属する論理に基づいているのである。だがそのような作品と作品製作の次元の違いを、作品内部の動機づけで暴露するのは『マイトガイン』最終話のようなマニアックな試み以上の次元には出られない。

     『マイトガイン』最終話では、敵の最後の首領がこれまでの戦いが「番組」であったことと、主人公マイトが「ヒーロー」という役割を与えられた人形にすぎないことを暴露し、そしてその「異なる次元」の知識を持つ「全知」の自身に滅ぼされる運命であることを告げる。
     しかしマイトは首領を倒すが、その際に首領は自らが「ラストキャラ」という役割でしかなかったことに気付いて滅ぼされていくのである。しかしこのような試みは単にマニアックであるだけではなく、作品次元を相対化すると同時に、製作側の次元を絶対化する無自覚な意識に他ならない。

     それでは製作側の日常生活、つまり人間の行為行動に対する認識を、脱中心化することには至らない。問題なのは現実の人間のあらゆる行為や、社会科学において見出されるような規則性、科学認識における因果関係が、基本的に「見せかけの整合性」を持つにすぎないことの自覚なのである。
     行為の動機は常に他動的であり、認識論的な整合性は社会システムにおける「合意性」にしか根拠を持たない弱い基礎であることが明らかにされている。重要なのは、そのような整合性の論理に対して、その「超越的次元」からの批判意識を持ちうることである。それは自らの意識、行為に対する批判意識、内省である。

     その意味では、あくまで作品内部の事態に対して、作品内部の論理で懐疑を抱く『ダイレンジャー』は、真に自らと自らの環境に対して「脱中心化」された観点を持つということの本質をよく表現しているのである。
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