“終末の雨は涙色”改め“再生への風” -7ページ目

“今日という日の盛大な支離滅裂”

 愛の判事氏の愛をテーマとした捏造講演をやってみたのだが、当然のようにあれで終わりというわけにはいかなくなった。なぜなら、愛について語っただけでは人間や人間が暮らす人間社会を、そして人間や人間社会を包む宇宙世界を語ったことにはならないからだ。その二回目の講演を綴った末に、私はとんでもない・・だがある意味予想された必然の場所に出てきてしまった。愛の判事氏は、その二回目の講演をこう言い終えて締めるはずだった。「ですから、皆さんはまず足元のその諍いを相互尊重の精神と紳士淑女的端正な作法とともに終えていただきたい。私たちにできることは、私たち一人ひとりがその言動の質を人道の精神に沿ったものへと高め、目の前の黒い石を一つ一つ白へとひっくり返すことだけです。そうすることによって世界の図柄を着実に変えてゆく。それだけです。人類社会から戦争を無くすにはこれしかありません。私は固くそう信じています。私たち自身が私たち自身の戦争を終わらせる。そこからしかなにも始まらないのです」。こう書き終えたところで結局私は決定的に躓いてしまった。「こんなものは所詮純真な少年が抱きそうなナイーブな夢想に過ぎない。この人間世界がそんなことで戦争を超脱するなど絶対にあり得ないことだ」。この突如下りてきたご託宣によって私の頭頂は強かに打ちすえられた。石はいつでもどこでもまた引っくり返される。何度でも何度でも黒から白へ白から黒へと引っくり返される。それは間違いない。そして過去ずうっと人類社会では黒い石が優勢でありつづけたのだ。個人個人のささやかな努力などで変えられるものなんかでは絶対になかったということだ。その明確な根拠をここで提示することはできないが、私は電撃に打たれたかのようにそう確信した。人類がそういうプロセスを経て次元飛躍的に進化することなど絶対ないのだ、と。生命種ヒトは戦争をする生き物なのだ。そのことこそが今証明されつつあるのではないだろうか!?

 『帰一協会』、渋沢栄一が晩年関わった有識者会議のようなものだ。宗教に限らずあらゆる分野の価値観をできる限り一つに融合させて戦争のない人類社会にする。そういう夢のようなゴールを目指して設立されたものだ。当初はまず国内からということだったようだが、その後海外へも運動の輪を広げ、ゆくゆくは世界を巻き込んだ運動に育てるつもりだったのだろう。だが、そういう期待を裏切るような国際情勢の展開を前に敢え無くその活動は終焉していったようだ。渋沢は、その前にこの活動からは身を退いたようだ。そのプロセスがどういうものであったか、私なりの推察を述べてみたい。活動が始まった間なし、参加者の一部から「一致できないということで一致してるね」みたいな感想がもらされたようだ。当然とまでは言いたくはないが、さもありなんというところはある。それを眺めながら渋沢はこんなことを思っていたのではないかと私は思う。ここで露呈された宗教の姿から見えるのは、神仏のような絶対超越存在に自己を明け渡し、その万能の力にすがるだけの脆弱な精神性だけなのではないか、と。そういう信仰という世界は、論語を参照しながら現実世界と格闘し、その一語一語一文一文の高い合理性を再確認しながら具体的な事例に沿って新たな解釈を加えることで生涯アップデートしつづけた渋沢論語の世界とはまったく異質なものだ。そして、その宗教同士がそれぞれの教理と主張に立てこもって激しく対立している。渋沢の落胆を思うと言葉もない。おそらくそこに怒りのようなものはすでになかっただろう。ある意味、そういうあらかじめ予想されても不思議ではなかったことを無視して目的の崇高さに楽観的になっていた世間知らずの自分を少し笑ったのではないだろうか。そして気づいたに違いない。論語の世界を宗教と同列に扱うのは間違っていたのではないか、と。だが、だからといって宗教全般を軽侮したわけでもなかっただろう思う。そういうものに救われる人々の存在やそのあり方を尊重することも道徳的なことだからだ。宗教同士が対立している光景はまた、渋沢に一つの認識を与えたのではないだろうか。その対立を生んでいるのは、宗教というものの教理の相違がもたらしているのではなく、その信仰の根にある脆弱な精神性こそがその教理の絶対的であることを強くそして頑強に望み求めるからに外ならない、と。

 渋沢栄一という人にとって経済とは偏に経世済民だったに違いない。それを宗教行為とするのは違うだろう。だが、社会活動の充実に献身し、なにより人々の暮らしを支え豊かな社会へと育てつづけることを旨としたその生涯にはまるで聖職者のような趣もある。アフガンに尽くした医師はキリスト者だったようだ。やるべきことに気づいたら率先してそれに身を投じる。ほとんど重なるその生き方にあるのは、しかしやはり愛なのだ。人間という生き物の実態に気づけば落胆以上のものを覚えて静かな諦観の内に閉じ籠っても仕方ないだろう。だがそうは決してならない人々。どうだろう? 究極敵の生命を奪うことも辞さぬ宗教など宗教と呼ばれていいものだろうか!? 渋沢が、孔子の教えを伝える論語はいわゆる宗教とは言えないものなのかもしれないと思ったとしても不思議ではないだろう。だが、もはやそんなことは重要ではなかったはずだ。貪らず驕らず身を惜しまず走り抜けた生涯。誰にも真似のできることではない。その渋沢が最後に見た夢の末路には深い憂愁もある。それは今私たちをも包んでいる。

 私は地下壕で再会した二人若者の物語から一つ新語をつくった。「R&JWall(romeo and julet wall)」だ。われわれヒトという生き物は、その属する集団に由来する誇らかなものには殊の外の喜びを覚え、理解が難しい上にしばしば利害で対立する他集団との間には高い壁を築き、激しい憎悪を向け合ったりするものだ。ヒトは平常意識されている以上の集団個体一体性の生き物なのだ。属する集団の命運がそのまま自己の命運なのだという強い意識は平常さほど気づかれていないだけであってその根強さは筋金入りだ。確かに個人間に生まれる友情とか恋愛のような情動は軽々と集団の壁を超える。だが、だからといってそこにある集団間の壁がなくなるわけではない。その壁こそが愛を粉々にする壁なのだ。集団間に生じる憎悪の関係を永遠解決的に超える方法はおそらく存在しないだろう。個別化を超えられない集団に依存しない個人の生というものがあり得ないからだ。戦争のない人間社会。渋沢はやや希望を無くし、中村という医師は終生希望は持ちつづけたのだろう。そこでは少し違いを見せたかもしれないが、渋沢も先々の世には希望を残したかもしれない。・・・・・はて、われわれはどうか?

 この天体上の生命現象の本質の一つは犠牲の押し付け合いだ。それが相互憎悪の本源だ。オオカミにくれてやるのはうちの子じゃない! 飢えて死ぬのはアイツらで私たちじゃない! この手の本音を超えることがヒトという生き物に可能だろうか? 私は当分の間、深い諦念とともにうずくまる日々となることだろう。だが、それでもあの熱い祭典が始まればどうなるか分かったものではないのだ。集団個体一体性、R&JWall。そういえば、私たちのあの憲法はどうなってゆくのだろうか? 南の海では、いつ終わるともしれない工事がつづけられている。そこではきっとなにかが捨てられ、なにかが壊され、なにかが取り返しのつかない遠い場所へと旅立っている。歴史というものは、ある意味カルマの坩堝といってもいいだろう。その凄惨には必ず過去の経緯がある。ただ、誰がそのツケを払わされるのか?ということだ。私たちヒトの「責任」という概念ほど訳の分からないものはない。一体なんの因果で子供たちがあれほどの犠牲を払わねばならないのだろうか!?

 愛の判事が言う「一つ一つ石をひっくり返す」があながち間違いとも無効とも言えないだろう。神無き身にはそういうことを頼りとするしか道はないのかもしれない。ジョンも頷くことだろう。きっと彼の中にもあったのだ。あの静かなものが。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“・・・無題・・・”

 渋沢栄一という人が八面六臂獅子奮迅の生涯を送ったことは間違いないだろうが、英雄になりたかったわけも後世偉人として称えられたかったわけでもなかっただろう。地位も求めず権力からも距離を置いた人だ。ただただ助力を求める人たちの力になりたい、まだまだ自分にはやれることがある、それが嬉しいで一生を駆け抜けた人だったように思う。渋沢さんと言えば論語だが、論語が渋沢栄一を育てたという見方には少々疑問がある。彼が論語を生きる上での指南書としたことは間違いないだろう。だが、これは言うまでもないことなのだろうが、その一語一語に忠実に従ったというのではなく、あくまでもその精神とその思想的構造の見事さに感服して生涯対論しつづけたということではないかと思う。などと生意気なことを言いながら論語とは遠いところで生きてきたので、巷に流布する諺的に口にされてきた一部を知るのみだ。そういう立場で言えることは限らているが、個人的な推量としてこういうことだったのではないかと思っている。彼は論語の中に普遍的な人間論や社会関係論や倫理哲学的な基礎概念のようなものを見ていたのではないかということだ。そこにはある種の数式のような構造まで見え、それを通して社会を見たり己を見たりするうちに渋沢ならではの論語空間が出来上がっていったのではないだろうか。だから、晩年期には渋沢と孔子という二人の対論のような趣でさえあったのではないかと推察している。渋沢が見ていたのは誰から与えられるセオリーなんかではなく、人間とか社会とか仕事とか経済原理とか、そういうものを見通し見抜く普遍的なスケールのようなものだったのではないかと思う。究極、彼の為しつづけたことを見ると、彼もまた愛の人だったのではないだろうか。恵まれぬ子供たちのことは生涯気にかけたようだ。愛の判事も迷うことなく同志!と言って肩組んだに違いない。

 渋沢栄一をめぐって少し渉猟していて、渋沢も金儲けを否定していたわけではないみたい件に出会って少し首をひねった。彼が、まっとうな商売の結果として利益を得たということなら問題などないだろうと考えたことは間違いあるまい。だが、彼自身にもどこかにそういう金儲けへの欲のようなものはあったようだみたいな見方は少々違うような気がする。社会貢献にもつながるまっとうな商売で小金がたまり、その後の人生を若い者たちの勉学に寄り添う暮らしに費やせるならそれもいい、みたいなことを言っているのは、おそらくは彼ならではの一つの見果てぬ願望だったのだろうと思う。そんなことは周囲が許さなかったし、彼自身次から次へと押し寄せる難題課題に向かって力を尽くす日々でそんなことなど夢のまた夢だったのだ。第一、彼自身がそういう自己の運命を楽しみ喜んでいたに違いないからだ。かなり見当違いの連想になるかとは思うが、ふと宮沢賢治のでくのぼうを思ってしまった。人々に尽くして自己を顧みることがない。出世や栄達などまるで眼中にない。まるで走り回ることが人生のような生き方は彼のような稀有な異能の人であったからこそ可能なことだったのではないかと思う。

 晩年には、別の大きな夢を抱いて一つの運動に参加したようだ。渋沢の生涯には内外を問わず戦火戦乱がつきまとったと言っていいだろう。世界平和それを生涯最後の大仕事と思ったのかもしれない。世界中の宗教を同じ世界観人倫観で一つに結び戦争のない世界にする。壮大かつ究極の夢だっただろう。渋沢は当然のことだろうが、論語をその結節の核にすることを考えていたようだ。彼にすれば当然のことだっただろうが、そうはいかなかった。当然と言えば当然だろう。彼自身は彼自身の論語解釈とその精髄の普遍構造には絶対の自信をもっていたのだろうが、他宗教の人々にとってそれは一つの異宗教にすぎないという事実を超えるものではなかったということだ。絶対普遍と信じていたものが、様々ある宗教の一つに過ぎないものとしてしか向き合われないという現実にショックを受けたかもしれない。しかし、それがまさに人間の現実だったのだ。ということは、あらゆ宗教がそういうふうに扱われたのであり、当然ようにその時点で一つに結ぶという望みも敢え無く潰えたということだ。それに直面した渋沢がどのような感慨をもったかは知る由もないが、少しだけ世界や自分自身の姿がこれまでにはなかった違ったものとして見えたということはあったかもしれない。人類の数だけ普遍がある。皮肉だが、それもまた間違いなく現実だっただろう。所詮人間が思念空間に発掘した純概念というものにはそういう限界がある。それはヒトというものが人間でありながら究極のところ別々の生き物だからに外ならない。われわれのあらゆる共有にも約束にもなんら保証はない。私たちはその気になってみることができるだけだ。私たちは思い込みと信じるということを信じるという信仰の中で辛うじて震えながら立っている。そのことを少し自覚することもあっていいだろう。

 渋佐氏が採用された新札が我が家にもやってきた。ほとんど先進技術を駆使した工芸品ような代物だ。専門家によればこういう新札発行もこれが最後になるのかもしれないということだった。ある意味、最後を飾るには最適の人選だったのかもしれない。今世界は、文化文明、世界化した経済、大国間同盟間の対立構造がどうなってゆくのか不安だらけの状況にある。見通しは暗い。渋沢栄一ならどう受け止めどう考えただろうか? 彼になにか手立てを思いつけただろうか? 予想は残念ながら否定的だ。この現状になにかできる個人など存在しないのだ。これは人類という生き物の種としての総現象が帰結させつつあるものであって、そう容易に流れを変えられる手だてなど見つかるものではない。むしろ温暖化暴走と並行して文明暴走も始まっている可能性さえあるのだ。技術には必ず壁がある。分かっている人はとっくに分かっていたことではないかと私は思う。これ以上を言ううことは控えよう。本当は、愛の判事が言う通り、愛にだけ可能性があるのかもしれない。だが、人類社会の現状は究極の椅子取りゲームの真っ最中だ。憎悪と排除の情念が苛烈な炎を上げて世界を燃やし尽くそうとしているかのようだ。言葉もない。

 思い立って『映像の世紀』のテーマ『パリは燃えているか』の色んなバージョンに耳を傾けてみた。やや哀切感を滲ませた重く暗いゆったりとした導入の後、それが徐々に立ち上がってゆくよな展開があって、やがてそれは突如押し寄せる流麗荘重な大波となって私たちを襲い、どこかここではないどこかへと押し流してゆく。この、当時の実写映像をテーマに沿って編集したシリーズは特別なものだ。よくぞここまでのものを企画制作してくれたものと称賛するほかない。このシリーズのかなりが凄惨な内容にある。20世紀という時代がそういう時代だったからだ。人間という生き物への恐怖感ばかりがかき立てられかねないとさえ言えそうだが、映像として残されたこれが人間の現実実態でありウソも隠しもない本当の姿なのだ。ただひたすら凄まじい。だが、このシリーズの成功がそのテーマ音楽の見事さにも負っていることは間違いあるまい。地球上で起きた重く暗い様々な出来事を向こうに回して奏でられる流麗荘重な哀切とやがて押し寄せる痛切の津波。初めてこれに耳を傾けたときの全身を電流が駆け抜けるかのような衝撃は忘れない。この曲も結局は一人の作曲家だけの手柄ではないのではないかと私は考えている。作曲に詰まった挙句、編集されたデモ映像を何度も見返す中で作品が立ち上がってきたと言っている。この見事な曲をこの世に生み出し送り出したのは本当は誰だったのか? 今しもオープンカーに傲然と立ち上がった男が歓呼の声で迎える大群衆に向かって敬礼のポーズをとっている。私たちの歴史。私たちの生きてきた現実。だが、私は敢えて言っておきたい。まだ人類という生き物は諦めるにはあまりにも惜しい、と。それを万感の思いとともに励ましつづけてくれのがこの名曲だ。あらゆる絶望と向き合わぬ限り希望の光は見えてこない。この歴史にわれわれは責任を負っている。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“そして未来に希望を!”

 〈本日は、私のような者が話すことに耳を傾けてみようとこれほど大勢の皆様にご来場いただき、お礼申し上げます。では早速、本題に入らせていただきましょう。気が短いたちなものですから。さて、今日は愛をテーマに話してもらえないかというご依頼を受けてここに参上したわけですが、これには少々戸惑いもありました。日頃から愛!愛!と叫ぶクセのある私ではありますが、愛の専門家でも研究者というわけでもありません。一法律家に過ぎません。まっしかし、日頃より私なりに考えてきたことはあります。今日は、それを皆様にごく簡略になるかとは思いますが、お話ししてみたいと思います。

 愛とは、人を思うこと、人に尽くすこと。端的に言うならそれだけのことです。しかし、これでお仕舞いというわけにもいきません。その愛なるものをより明確に見えるように話せればと思います。私は、愛といものを「結合愛」「庇護愛」「結束愛」という三つの言葉を通して考えています。これを一つ一つ取り上げて説明を加えていくことで人間にとっての愛というものがより見えやすくなるのではないかと考えたからです。結合愛は、いわゆる婚姻です。男性と女性が互いに惹かれ合い求め合って一つの親密なカップルを形成します。これは種の保存を源とするエロスの衝動が発動することによって営まれています。家庭の基礎になるものですね。そして次の世代が生み出される。そうやって種は保存されます。庇護愛とは、まずその基本は母性愛とも呼ばれる領域です。しかし、母親だけの専売というものではありません。キーワードは「可愛い」ですね。赤ん坊が目に入ればほとんどの人には反射的に可愛いという感情が溢れます。赤ちゃんという生き物は絶対的に弱い生き物です。誰かが常に寄り添い世話をしつづけなければ生きていけない実に頼りない生命です。そういうものには無条件にそういう感情が溢れるように設計装備されている。人間に限らず多くの哺乳動物たちもそういう衝動をもっているようです。この可愛いはそれに付随して守る守ってやらなければならないという強い行動意志をも発動させます。これは家族間だけではなく群れのメンバーの間で様々な組み合わせで発生します。目の前で幼い子供が転んで泣きじゃくっていれば、思わず助け起こしたり、そばに寄り添って自分で立ち上がるまで見守ってやったりします。こういう行動はほとんど反射的に発動されるものです。そういうふうに心が反応し身体が動くようになっているのです。こういうところを本源として強きを挫き弱きを助ける正義のヒーローのような存在も生まれたのでしょう。この庇護愛の延長線上にあるのが結束愛です。まあチーム愛のようなものでしょうか。群れというものは、言うなら運命共同体です。互いに助け合うことで群れは維持され、群れが維持されることでメンバー一人ひとりは守られ、安心して日々を暮らすことができます。このすべてを丸っとくくる言葉がすなわち愛です。こういうふうに見てくるとこうも言えるのではないでしょうか。愛とは生きることそのものである、と。そして生きるとは愛し合うことそのものなのではないか、と。愛し合う夫婦の間に子供が生まれる。そういう夫婦や家族が集まって群れをつくる。そしてみんなで力を合わせ支え合って生きていく。生きるということはそういうことではないですか? 一人の人間の一生は、母親の胎内から外の世界へ生み出された瞬間からスタートします。そして仲睦まじい両親の愛に包まれ、周囲の仲間たちに守られてすくすくと育ち一人前の人間へと成長していきます。どうですか?みなさん、この人の一生の原点である家庭というものが如何に大切なものであるか問うまでもないのではないでしょうか。私たちは、一人一人の人間がそこに生まれそこで育ってゆく家庭という場所ができる限り平和で温かなものとして維持されていくことが、この社会が無事に運営されていく上においても限りなく大事なことなのではないかと考え、その社会的責務の一つとしてこの家庭裁判所を創設しました。愛が大事?いや愛こそが生きることなのです。愛はまず生命の衝動です。そしてまた愛は普段の努力なのです。エロスの衝動とそのエネルギーだけでは足りないものがいっぱいあります。それを一つ一つみんなの努力で生み出していかなければならない。そのためには問題を見つめること、なにができるのかを考えること、そして道筋が見え目標が見えたらそれを実現するために全力で尽くす。これももちろん愛です。愛とは、人を思うこと。そして人に尽くすこと。愛とは衝動であり、努力であり、そしてなにより生命のエンジンです。愛は、それについて考えること以上にそれに気づきそれを受け入れそれをやり抜くことが大事なのです。どうかみなさん、愛を忘れないで下さい。愛は、生きることです。家庭に光を!少年に愛を! ご静聴ありがとうございました。これで終わらせていただきます〉。

 聴きに行くことは無理そうなので、自分でやってみることにした。書いてみて思ったこと。愛は空気でもあり水でもあるということではないか!? 私たちは今息苦しさの極みの中で渇き切っている。そのさ中、雨だけがどこか怒りをぶつけるかのように降りつづけている。滝行などに行かなくたって十分だろう。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“今日という日の心境的支離滅裂。お気をつけを!”

 前回つづった夜のできごとは珍しいことだったのであらためて考えてみたのだが、振り返り思い返しても無くなったスーパーに対する強い思いのようなものがあったわけではなかった。試しに惑乱のただ中にあった際の心理のようなものを甦られせてみようともしたのだが、それすら難しいことだった。確かに、正月の準備などで訪れた際のことを克明に思い起こせば、自分たちの日常の記憶を宿していた場所が“永遠に失われた場所”となったことへのセンチメンタルな気分のようなものは湧いてくる。だがそれ以上のものではない。やはり夜の異常心理だったのだろう。だがこうも考えられるような気もする。そういう喪失の体験、容赦ない移ろいや破壊に襲われつづけることへのある種の強い怒りのようなものが人間の心理のどこかには常住的に存在しているのではないかということだ。ただ、日常心理というものの分厚いベールがそれを覆い隠しているだけなのだ。この無常の感覚と永続的な存在不安のようなものはほぼ同じものだろう。あの日までは確かにそこにあったスーパーマーケットがある日「完全に消えて無くなったこと」が問題なのではなく、あらゆるものが移ろいゆくものなのだという厳然たる宇宙的現実事態への根底的な恐怖であり憤激なのではないかと思う。私たちはそれを勤めて意識しないように日々を送っているだけなのだ。フタをしておいた方がいいものにはきっちりフタをしておいた方がいいということだろう。

 この件とは別に少々不気味なことに気づいた。ひょっとしたら昨日、私は辿っていた道すがら暗がりに沈む一つの黒いドアの前を横切ったのではないかということだ。思い起こせばそのドアには“75”というルームナンバーが張り付けてあったような気がする。

 この映画のことはそれを放映したCS局の番宣で知ってはいたのだがそのまま録画設定するでもなくいつか忘れていた。それが、たまたまザッピング中にぶつかり終盤を少し観ることになった。『PLAN75』。近未来を想定したブラックファンタジーだ。75歳以上の高齢者に安楽死を選ぶ権利を公的制度として保障し、その支援が粛々と行われるといった内容だ。この作品も作業しながらになったので、ちゃんと観たとは言い難いのだが、ただ淡々と架空の事実を伝えようという端正な空気は湛えていたように感じた。実際のところこの作品制作に携わった人たちがどのような意図を持ってこれをつくったのかは分からない。しかし実際に、回復の難しい重い病気を理由に死を選ぶ権利を制度として認める国々も増えつづけている。それが今の現実だ。ただ現状で、高齢を理由とするところまで認める(暗に求める)国は出てきていないようだ。その壁をどこかの国が突破することになるのか? それともさすがにそういう国は現れないのか? 確かな予測はない。状況の深刻化次第ではその可能性も決してゼロではないだろう。これには、黒々しい政治体制の気配もあれば、あるいは苦しむ人々の希望となる可能性もあるのかもしれない。一つ警戒しなければならないのは、あくまでも自己決定権の行使なのですよという囁きともになされるソフトな誘導だ。柔和な笑顔で提示される控えめなしかし懇切熱心な勧誘。恐ろしい。だが、これも可能性はゼロではないだろう。さらに恐ろしいことに、社会というものはそういう仕事に携わることに異常なまでの使命感を抱いているものなのだ。社会=集団(群れ)というものは常に個々人を包み込みながらその上にあるものだ。社会の責務が権力を生み、権力は担うものたちを巻き込んで一つの意志かのように振る舞う。そういうものなのだ。腐敗の必然はある意味それが併発する病理のようなものだ。権力が私物化される・・・というより、そういう地位に就く者たちの多くが権力という魔物に呑み込まれその一体感の中で狂乱暴走し始めるということではないだろうか。それぞれを一人の人の運命として見るなら、独裁者のほとんどすべてもまた権力という魔物の犠牲者であり餌食なのかもしれない。ともあれ、社会というものが避けがたく孕む集団意志のようなものはとても恐ろしいものだ。どう足掻いても人間個人にはそれと対抗する術も力もない。とんだ横道にそれてしまったようだが、そういうことではないかと思う。社会が困れば誰かがそれを解消すべく犠牲を払わねばならない。そういう状況が必ずやってくるということだ。社会は粛々とその方法を考案し、粛々とそれを実行してゆく。

 重暗いところに出てしまったのだが、もはや引き返すわけにもいかないようだ。以前から思ってきたことなのだが、安楽死とか尊厳死という終わり方が公的に容認されるようになれば、必然的に自殺への誘惑のハードルも下がり、果てはそれを個人の選択権決定権として要求するような運動へと発展することも十分に予想されるだろう。こう辿ってくると私の中でなにかがコトリと動いたような気がする。人類が死との闘争において敗退しつつあるということの表徴ではないかという見立てだ。われわれヒトの文明史の大きな流れの一つが「死を遠ざける!」であったことは間違いないだろう。愛する肉親の死に対する激しい悲痛が医術という領野を開き、飢えや餓死への恐れが生産性を上げるという努力につながり人口を増やしつづけた。別の言い方をするなら「生きることはすなわち死と戦うこと」と言ってもいいだろう。いやもっと違った言い方をするなら「生きるとは死なないこと!」なのだ。まあ、分かり切ったことと言えばそれまでだが、そういうことだろう。だが、そういう文明の歴史を辿った末に向こう側から近づいてきたのが他ならぬ「自ら進んで受け入れる死」だったということだ。人類文明の死との戦いが無益だったなどと言いたいわけではない。そうではなく、あらかじめ予定さてていたかのようにやってきた「受け入れる死」というものからわれわれはなにを感じ取るべきなのか?ということだ。

 今ふと一つのフレーズが下りてきた。「死は神の手」。今自然に下りてきたものだ。よく分からん。だが、示唆的ではある。考えて見れば、宗教というもののも死との闘争だったとも言えそうだ。科学文明と異なる戦術とストーリーで。つい先だって朝のドラマから一人の少年の口を突いて懐かしいセリフが飛び出してきた。「お天道様が見てる」。太陽信仰の名残りだろうが、これが聞こえてきたときしみじみした気持ちとともに妙に攻撃的な気分も湧いた。多分、少年を派遣してその耳傍でこのセリフを言って聞かせてやりたい者たちのことが噴き出すように頭に浮かんだからだろう。よくこの国は無宗教だと言われる。私はこれを言い換えたいと思う。「真っ当な宗教心の滅び去った国」。もうほとんどの者がお天道様なんぞを恐いなんて思ってはいないのだ。だから、ボロボログズグズトロトロダラダラと溶け崩れてゆく。恐いというより心の底から情けないと思うしかない光景だ。では一体なにが恐れられているのだろうか?・・・これも実はよく分からん! 妙な話だが、今ふと恐れるものが無いことを恐れているのではないかという可笑しな考えが浮かんだ。ニヒルに・・脅えている? だが辛うじてなんらか欲望のようなものはある。それも多分ふんだんに! そして多分なんの脈絡もなく。こう言ったらいいだろうか、灯台となっているのは身を取り巻く空気であり流れなのではないか、と。本当は誰にも提示することなどできないのに「ここには意味がある!」とどこかから固く保証されているのだと誰もが信じ込んでいるのだ。敢えて、その奥底までは問わない。理由は、実際にほとんどの者たちがあれやらこれやらに向かってがむしゃらに突き進み格闘しているからだ。きっとそこには明確な目標があるに違いないってわけだ。理由と根拠はそれで十分。誰もがそれを信じてる。・・・ところで、その信じられているものって・・ナニ!?

 つれづれなるままにつづれば支離滅裂なことになる。一体どこに向かっているのだろうか? これも実によく分からん。希望とか正義とか人道とか、もはやそういう言葉たちも落胆絶望してどこかへ旅立っていった。真っ当に使用される喜びを失ったからだ。おそらくトロトロ溶けているのはこの国だけではないのだ。世界中が溶け始めている。そういうことだろう。今日は気休めめいたことも言いたくない。いつもより数倍気持ちが斜めになっている。“人類はもうダメかもしれない”など禁句だろう。だがつい言ってしまいたくなった。死は神の手。それは容赦がない。依怙贔屓もない。ただ淡々と終わらせる。文明も死ぬだろう。神の手にかかって。特段バツとか懲らしめみたいなものでもないのではないかと思う。好き放題させて、それをじっと見ている。そして頃合いだなと思えばひょいっとすくい上げてどこかへポイッと放り捨ててお仕舞ってことだ。だがそれは意志でもない。ただそういうシステムになっておりますみたいなことだ。結果には原因がある。究極の自己原因だ。やってきたことの落とし前がキッチリやってきましたってことだ。誰を怨んでも仕方ない。繁栄だの発展だの成長だの、仰山大騒ぎして行き詰っている。それだけのことだろう。度を越した競争の矛盾がどっさりの難題となって「ただいま!」と帰還してきただけのことだ。誰を怨んでも仕方あるまい。こうなるように生きてきただけのこと。今しもそこここで民主政治の究極の形態、民による王の選出祭りがたけなわだ。われわれはサルではある。だだ本当に本当の知恵はあるのだろうか? 甚だ疑問だ。目覚ましくも華やかな高度科学文明のすぐ脇で昔ながらの戦争がいつ終わるともなくつづけられているのだ。そこでどこまで先進技術が使われようがやっていることは野蛮そのもの。「知恵あるサル」はもうそろそろ返上してこう名乗るべきではないだろうか。残忍で陰惨なサル。そういえば、愛を連発するオヤジが朝には登場している。かなり風変りだが底抜けに好いオヤジだ。いつか愛ってヤツについてじっくり講義を受けてみたいものだ。・・・あッいややめておいた方がいいのかもしれない。さらに絶望を深めるだけのことかもしれないから。コップの中で嵐など起きるはずがない。起きるのはただダラダラと淀んでゆくことだけだ。恐ろしいことにそのうちコップさえ溶かすかもしれない。このダリ的な自虐の空想だけが今日の私をからかいながら慰めている。お天道様は見ている?・・・やれやれ。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“今日という日の心境”

 深夜目が覚め、どうしてなのか理由やきっかけはさっぱり分からないのだが、数年前に閉じたスーパーマーケットの店内が脳裏にまざまざと甦り激しく打ちのめされた。通っていた店や建物が無くなるということはこれまでにも何度もあったことなのに、なぜかそのスーパーのことがあれこれ洪水のように思い出され激しく動揺してしまった。脳裏に刻まれた店内の様子、その明瞭な記憶が次から次へと溢れ、胸が苦しくさえなった。だがそれでも、どこかに冷静な部分があったのだろう。これは例の夜の異常心理ってヤツに違いないと受け止め、しばらくそういう記憶の氾濫を眺めているうち一つの考えに行き着いた。この「あの場所はもうなくなってしまった!もう二度と足を踏み入れることはできないのだ!」という強い痛みのような感情こそ無常感のコアにあるものではなかったか、ということだ。破壊されたもの失われたものは二度と決して帰ってくることはない!という事実への激しい痛み。理由は分からないが、私はそれに突如襲われてしまったということだろう。夜が明けて今になって思い返せば、そこまで動揺しなければならないほどそのスーパーに格別な執着や愛着があったわわけではないのだ。だがなぜか、その惑乱の渦中にあったときには絶望感を抱くほどのショック状態だった。やれやれ、夜は・・・怖い。

 目覚めてから様々に考えるうち「もののあわれ」というフレーズも浮かんできた。なるほどそういうことかと思った。世界という総現象事態は、常なる生成消滅循環変換再生分離分裂などあらゆる呼称で呼ばれるできごとありごとの無限大の現象の坩堝だ。それにわれわれはどっぷり包み込まれている。われわれの誰もが例外なくこの激流によって運ばれてゆく。いずこへ?などと思い悩んだところで虚しいだけだ。どの道世界氏が勝手にやっていることなのだ。われわれは一人ひとりがプレイヤーであると同時にオーディエンス。これこそ究極の絶対矛盾的自己同一性ってもんだろう。こういうふうに見てきて今更ながらつくづく思うことなのだが、その「自己」ってな~に?ということだ。こうなってくると話は様々な方向へと広がっていく。まさに仏教が教えたのもこれだろう。そんな自己なんてものは人間というへんてこりんな生き物の大脳って臓器に一時的に宿る気の迷いであって、気がつけば他愛もない幻覚や妄想にすぎなかたって分かってしまうものなんだよってことだ。果てもなく流転してゆくだけ。・・・だがしかし、これもまたまさになのだが、だからってあの“Cogito, ergo sum”が簡単に粉砕されるわけのものでもないのではないかという思いも湧いてくる。でなかったら、こんな訳の分からない繰り言をカタカタ打ち込むような酔狂などに時間を使ってなどいないだろう。確かに、われわれの「わたし」なんぞというものはある方向から眺めるならほんの一瞬ふくらんだアブクのような儚い宿りにすぎないのかもしれない。だが、そこで味わわれる痛切の氾濫に幻覚だとか妄想だとかそんな言葉をぶつけて涼しい顔などされてたまるものか!という強い思いもあるのだ。そこで痛烈に思うのだが、生きることはもうそれだけで十二分に辛いのだ! だからこそその終焉は心救われる寿ぎと祝福のうちに遂げられなければならないのではないか!?ということだ。死がご褒美としての祝祭とともにあるからこそ、生は尊厳あるものとして完成されるのではないかということだ。

 死への永続的な不安・・・だがそれはいつかは終るという厳然たる絶対保証でもあるということ。これこそが絶対的慰藉であり救済となるのではないだろうか!? ヒトというへんてこりんな生き物だからこそ行き着いた理屈と妄想の世界だ。所詮は屁理屈なのかもしれない。だが、折角の知恵あるサルなのだ。神に張り合って壮大なフィクションを蒼天に向かって堂々と建造するべきなのではないだろうか。われわれ自身で建てるわれわれ自身のための塔だ。それを築くレンガの一つ一つが一人ひとりの悲喜こもごもの生涯だ。人間の尊厳などそこからしか生れようがないのではあるまいか!? 私にはそう思えてならない。この塔に比べるとき戦争という悲惨の極みの本質が見えてくる気がする。人は人を憎みあまつさえ殺したりするべきではないのだ。人は人に寄り添い互いに憐れんでこそナンボの生き物なのではなかったか!?ということ。われわれは今、ヒトから人間への旅程における人道破綻ぎりぎりの破砕帯を通過中だ。これで犠牲を最後としなければ旅は本当に終わるのかもしれない。さすがにこの地球という天体も限界に入りつつある。誰もが正気に戻るべきだろう。

 無くなってしまった一つの店の記憶が私を誘った場所もまた幻覚妄想領域なのだろう。だが、生の尊厳は祝福とともに遂げられる終焉によってしかバランスされないという遭遇に間違いはないのではないかと思う。人は安らかな最期とともに見送られるべきなのだ。われわれはいつまで愚かでいられるのだろうか? そろそろ気づくべきではないだろうか? われわれヒトだけが辿り着いたヒトだけの場所。 合掌。