“終末の雨は涙色”改め“再生への風” -8ページ目

“What's new”

            “What's new”

お変わりない?

―ま、色々あるけど、概ね元気ってところかな

仕事の方はうまくいってる?

―まあなんとかね

あの頃のまんまね

―キミこそ、さらにあか抜けたって感じだ

相変らずハンサム、ちょっとシャクね

―お世辞はいいよ、もういいおっさんさ

他になにか変わったことない?

―う~む、格別話すほどのことはね

 〈そう言えばあのコとはどうなったの?なんて聞けやしない〉

それにしても随分久しぶり

―五、六年ぶりかな

こんなところで会えるなんて

―ホント、偶然の神様ってやるね

で、最近はどんな感じなの?

―こういう時代だからね、結構気苦労が多くて

あらゴメンなさい、つまんないことばかり言って

―ま、それはお互い様さ

でもまたあなたに会えてよかった

―そうだね、元気な姿のキミに会えてボクも嬉しかったよ

忙しいのにつき合ってくれて、やっぱりあなたっていい人

―そりゃ、こっちのセリフさ

ゴメンなさい! 私ったらまたつまんないことばっかり

 〈あなたは知らないのよ〉

 〈私の気持はあの頃のまま〉

 〈私は今でも・・あなたのことが・・好き!〉

 

 

やれやれ。

 

 
 
 
 
 

 

“無題”

 ベランダに目をやると朝から吹きつづけている風に下げたばかりの遮光ネットがゆれている。ビュービューと忌まわし気な風音に沈みがちな心がさらに萎えてゆく。色んなものの値段が気温とともに上がりつづけている。時代の容赦ない激動の津波がわれわれ庶民の足元を嘲笑うかのように洗っている。

 風はなにを泣くだろうか? だが風に心はない。流れているのはヘレン・メリルの『What's New』だ。偶然出会ったかつて愛した相手。実際に口に出した言葉と未練がましい内声とが織り成す切ない思いが甘酸っぱい。人はどうしてこんな思いをしなければならないのだろう。もう二度と帰ってこない時間が突如甦り胸を締めつける。だが、溢れる思いは隠し通したい。なぜなのだろう? きっと二度と傷つきたいからだ。会えた嬉しさに逆らうように届かぬ思いだけがブルーに染まってゆく。人はどうしてこんな切ない目に遭わなければならないのだろう。神様の意地悪が許せない気もするけど、こんなに好きな人がこの世にあるということの喜びにウソはない。またどこかで会うことがあるのかもしれない。そしてまた今と同じように短い時間言葉を交わして同じように切ない思いをするのかもしれない。神様は私を一体どうしたいのだろう。でも私はこの人と出会うことができた。そのことだけは決して悪いことじゃなかったはず。

 今はナット・キング・コールの『Stardust』だ。やれやれ。どうしてJAZZってヤツはこうも切ないラブソングが好きなんだろう?・・・つまらん疑問だ。聞いてるんだから世話はない。それにしても戦争やめてくれないものだろうか。このままじゃ人間て生き物のことが丸ごと大嫌いになりそうだ。

 

 
 
 
 
 

 

“無題”

 オリヅルランのツルの先の苗をすべて切り取り、本体の株は全部処分した。かなりくたびれて葉が傷んできていたので思い切って世代交代をすることにしたのだ。家人には「惨い!」と叱られたが、急に思い立った。なぜかこういうことをしてみたかったのだ。躊躇いがなかったわけはないが、身体の奥でになにやらぶすぶすと赤いものが熱を帯びてそれが捌け口を求めて暴発したような気もする。慢性化した怒りの熾火が時折炎を上げるようだ。だが、どこにそれをぶつければいいのかが分からない。腹の立つヤツなら数え切れないほどいる。だが、そういう特定の誰彼なんかじゃないのだ。この収まり切らない憤怒のマグマは行き場を失っている。すべての悪にも如何なる愚かさにも理由はある。そこには個々人の自己責任では説明し尽くせないものが一杯ある。すべては理由と結果という途方もなく複雑怪奇な網様連続体の一部としてそこで現象しているのだ。アイツがアイツでしかなかった理由と原因とその根源を探っていくときわれわれが出くわすことになる解釈不能の膨大事態。いつの間にか原因と結果が平気で入れ替わっていたりする。アイツがアイツでしかなかった理由と原因。そんなものを追求したところで意味はない。アイツはああいうアイツでしかあり得なかったのだ。それが理由であり結果だったのだ。われわれはいつの間にか理由と原因と諸事情のどしゃ降りの中で当方に暮れて震えているって始末だ。怒りや憎悪を向ける相手などどこにもいないという摩訶不思議。われわれは世界によって盛大にからかわれてでもいるのだろうか?

 陳腐な話題と噴飯ものの解説と飛び交うもっともらしい見解の洪水。もうよしませんか!? そんなしょうもない話。もう諦めませんか!? 私たちが私たちであることを。

 オリヅルランの苗たちはある程度白い根を出すまでしばらくは水に浸かったままで過ごす。オリヅルランの成長は早い。きっと秋を迎える頃には立派に茂りツルを伸ばしていることだろう。親たちには可哀そうなことをしたが、その姿の見事さに免じて勘弁してもらうしかない。

 今朝はサッカーのハーフタイムに目覚めたのですでに少々眠い。だが、今日はこのまま頑張るしかない。それにしても華麗なトラッピングとターンシュートだった。自分たちのチームが苦労を重ねながら一段一段成長していく姿を見ることができるということは幸せの一語だ。そして一方にあるある意味凄惨なまでに呆れ果てる大人たちのわるあがきの大狂演。言葉もない。無恥というものは当人たち以上に同時代人にとって果てしなく痛いものだ。同胞なのだ。言うなら同じチームなのだ。超絶至極のやれやれだ。昔読んだ、一人の武士が思わぬことで辱めを受け、腹を切って果てるというは短編小説を思い出す。現代人には理解しがたい自死だった。この国にはそういう文化があったのだ。世界からは異様なものと受け取られもしただろう。必ずしも胸張れるものではなかったのかもしれない。だが、そういう精神文化を実際に生きた先人たちの生死の姿を、その口にしていいとはとても思えぬ者らが安易な修飾として利用する光景ほど醜悪なものもない。この国のもう決して帰ってはこない時代の話だ。だが、それはただ恥じるべきものだっただろうか? 恥を知って自らを裁いた人々がここで生きていたということは? よくよく己が姿を省みて欲しい。言っても無駄とは知りながら言っておきたくなった。

 オリヅルランの話がとんだところへ出てしまった。それにしてもTVの電源を切ったどんょりと薄暗い晩春の昼下がりは静かだ。その気怠い静けさの中を車たちが突っ切って通り過ぎてゆく。仕事であれ、私用であれ、誰にも行くべき場所があるのだ。そして日が暮れる。多くの家庭ではサッカーの話題でもちきりということになるのだろう。自分たちのチームが素晴らしいゲームをして出場権を勝ち取ったという歓喜で食欲も旺盛ということになるだろう。大人たちはビデオを再生しながら何度もジョッキをぶつけ合うのだ。そうやって色んな鬱屈を少しの間は忘れさせてもらえる。あの若者たちの果たした役割は決して小さくはない。

 方法ではない。そんなに難しい話じゃない。心の問題なのだ。汚れた心に花は咲かない。それだけのことだ。心と愛は同じものだ。おぞましい言説のどしゃ降りと洪水の中で多くの人々が健康を害してる。それだけのことだ。ここには決定的に足りないものがある。為替レートの心配も分かるがもっともっと本質的に心配するべきものがあるだろう。未来の子供たちはどうしてここに生まれてきたくないのか!? 合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“無題”

 可笑しな夢を見た。私はドアのカギを開けよとしている。だが、ポケットにあったどの鍵でも開かない。なんとしてもドアを開けなければならないのに。途方に暮れる私の手の平に誰かが2つのカギをのせて囁く。「どちらでもキミが気に入ったカギで開けてみな。ただし、間違った方を選ぶと無事では済まないかもしれないよ」。地底から染み出すような薄気味の悪いクスクス笑いとともにそいつは消えた。事態が本質的に変わったわけではなかった。私の暮れた途方はまだそこに転がっていた。ただそこに今までにはなかった二者択一のギャンブルが加わっていた。それも多分途方もなく危険な。私の心に妙な落ち着きが戻ってきた。そもそもこのドアを開けることができなければやはり無事では済まないということではなかったか?と。そこであらためて「無事では済まない」について考えてみることにした。よくよく考えた末一回りして辿り着いたのは呆れるほど当たり前のことだった。私がすでに十分無事ではなかったという厳然たる事実だ。そこに気がつくと気持ちはさらに落ち着いた。私は手の平の2本のカギをしげしげと眺め、その内の1本を握りしめると背後の闇に向かって思いっきり放り投げた。カギは漆黒の闇の中をどこまでも飛んでゆくようだった。私は迷うことなく残した方のカギを鍵穴に差し込みゆっくり回した。夢はそこで終わった。

 目覚めてしばらくそのことについて考えた。どうなったんだ!? 夢はそこで終わったのだ。どうなったか?そのつづきはまた夢で見ることになるのか? しかし、それはどうでもいいような気もした。ふと二つのイメージが同時に浮かんだ。カギを無理やり差し込み力任せにこじ開けようとした瞬間ドアごとすべてが粉微塵に砕け散る。もう一つはカギをすっと差し込んだ瞬時にドアもなにもかもが溶け消えて目の前に果てしもない花畑と無際限の蒼穹が広がっているというものだ。私は断然後の方であるべきだと思った。そう思った私の中で響き始めたのは虚空からにじみ出る地謡のように静やかな般若心経だった。なぜかお釈迦さんという人がとても身近に感じられた。答えを求めればそれは永遠に逃げてゆく。見つけたと確信した答えであっても闇は決して溶けることはない。すべてを脱落しようとするそれすらも脱落する。“所詮は無理さ”。そこにすとんと落ち着く。こみ上げる笑いとやれやれ節。なんともはや。

 われわれは、目の前に転がる数え切れないほどのゴルディアスの結び目に困り果て、怒り果て、嘆き果て、疲れ果てている。これまでも散々あったことじゃないか!・・・はきっと大間違いなのだろう。人は何度も死ぬことはないのだ。この果てしない宇宙でそれぞれが一度きりの人生を生き、一度きりの旅立ちをする。一度きりのその痛切な生と死の一つ一つはいつでもどこでも可能な限り厳粛に受け止められなければならない特別な物語なのだ。

 確かにわれわれの無力さは筋金に入りだ。しかしそれは多分憐れむべきことでも哀しむべきことではないのだ。われわれのその無力こそが、そこで行使されている暴力と理不尽への回答なのだ。われわれの“なにもできない!”は決して否定的なものではない。それはどこまでも肯定的なものだ。われわれはなにかを肯定してここに震えながらも立っている。否定ではない。「この宇宙にはどんな善もない。だが、この宇宙はよいものである」。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“希望あふるる船出とならんことを”

 なぜかくまで私たちは無力なのだろうか!? この空しい問いの前で立ち竦んだままだ。あの“大渡海”の「人道」の項目にはどんな文言が語釈として書かれているのだろうか? それがどういうものであれ、如何なる言葉にも罪はないし、言葉自体には如何なる力もない。

 こんなことを思ったことはないだろうか? どんな大部の書物と言えども文章というものは一本の線だということだ。二つのリールを渡る巻紙に印字された『源氏物語』とか『戦争と平和』、それを二つの軸受けに乗せてクルクル回しながら読み進むのだ。ちょっとした冒険だ。私たちが慣れ親しんだ書籍とは格段に異なる読書となるに違いない。私たちはほとんど前後合わせて数十文字程度しか視認できない言葉の線を辿ることになるのだ。だが、この想像はなにかを思わせる。生成AI氏だ。彼のやっている機械的な作業、この語の後につづく可能性の高い語群はどういうものか? 巻紙書では気になった前の個所に引き返すのも結構ホネだろう。だから余計に注意深く集中して読み進めることになる。この、パラパラとめくるのではない一本の線分となった著作物というイメージは私たちをどこに連れゆくのだろうか? 現れつづける未来と消え去りゆく過ぎし時間。今という儚さがカラカラという音とともにしみじみと心に沁みてきたりするのだろうか?

 だが、人道は一本の線ではない。それはただの保証なき約束であり、ある意味ではなんの根拠もない信仰のようなものだ。そう感覚し、そう思い、そう振る舞おうとする一つ一つの心がその瞬時瞬時に分け入るそれぞれの道だ。だからそれはいつでも閉じることもできる。「あそこで暮らす人間たちに罪のないものなんかいないのよッ!」。ごく最近TVから聞こえてきた叫びだ。これが耳に飛び込んできた瞬間、私の中でブツブツと繰り返されていた“なぜかくまで私たちは無力なのだろうか!?”という呟きなど瞬間冷却されて宇宙のかなたまで弾き飛ばされてしまった。・・・私たちは本当に無力なだけなのだろうか? 今どこにもその明確な答えはない。だが、なにかの底が破れたことは間違いないだろう。人道の危機と人倫の危機はほぼ同じ病だ。私たちの身近なイラ立ちの種も結局は同じものだ。私たちがそのただ中に放り出されたウソの土砂降りは今や真紅に染まりつつある。涙色の絶望が鮮血色へと変貌してゆく私たちの現在地。それをどう受け止め、そこからどう気持ちの構えをつくっていくのか? だがそれは一人一人の仕事だ。今はこの言葉を頼りとするしかない。“朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり”。

 あの辞書もいよいよ今宵竣工式を迎えるようだ。心からのご苦労様を言おう。そしておめでとう!と。辞書という船のシートに行儀よく座った一つ一つの言葉にも声をかけよう。“Bon voyage!”。君たちが無事にそこにある限り、私たちにもまだ希望はある! それを信じて! 合掌。