“終末の雨は涙色”改め“再生への風” -10ページ目

“またまた今日も無題!”

 実に困った人たちではあるが、根っから悪辣残忍な手合いとは少し異なるようだ。その怯懦や自堕落さや主体性の無さということろではある意味ただただ憐れな人々と受け止めるべきなのかもしれない。確かに一般国民がそれによって被る迷惑や被害は無視できないだろう。だがそれについては国民の側も被害だけを言い立てられる立場にはないことも明らかであり、目に立つ事象だけを指差して憤懣まかせに罵倒している光景もいただけない。ああいうやり口が許されているというシステムの問題に焦点を当てるから余計に本質を見失うのだということにどうして気づかないだろうか。システムを思いつきそれを構築したのは誰か?そしてそのシステムに沿って行動するのは誰なのか?ということだ。まずなにをおいてもシステム以前に人間の問題なのだということではないだろうか。そもそも法が完璧であり得ないことは自明だ。常に肝要なことは法の精神を理解しその理解に立って自己の行動を制御するかどうか?そこにかかっているのだ。法の抜け穴なんか問題視しなくていいと言うつもりはない。だが完全な法というものはない。法の前に普遍的な次元における人道の構えが内部に確立されているかどうかが本質問題なのだ。それは、そういう怪し気なカネが薄暗がりで暗躍しなければならないというその精神的土壌そのものが問われるということでもあるだろう。話は簡単だ。“なるほどね、どうしてもそういう使い勝手のいいカネが必要なんだ!”チャンチャンということだろう。特定の誰彼ではあるまい。私たち自身が問題なのだ。それを痛切に自覚することろから始めない限りただ背景画を書き換えただけに終わるだろう。そしてこれは言いたくはなかったが、現状を見る限り九分九厘そうなる。問題意識や議論が本質を外れている限り改善など望めないのだということに説明は必要だろうか!? 私たちは未だにコノヤロウ!という相手に投げた石が結局地球を一周して自分の背中に当たっていることに気づいていない。ここに希望がないのはその所為だ。どだろう、システムを問題にするのなら言えることはこれしかないのではないだろうか。現行のような選挙制度政治制度は根底から変えるべきではないのか、と。多くの人々が口にし始めていることだ。こんなやり方で本当に誰がいいのかなんて判断のしようがないッ!! 政治は任意抽出の不運な市民が一定期間ボランティアで勤しむ、それしかあるまい。しんどいがそれが主権者の権利であり責務というものだ。ここで育てばいずれそういう鬱陶しい役目がめぐってくるかもしれない。そう腹をくくって暮らす。だから政治ははるかに清潔になる。政治が市民社会に特殊特権階級を生み出すだけの社会権能ではなく、少々しんどいがやり甲斐のある社会貢献へと大きく変貌するということだ。クジに当たったことを幸運とするか不運とするかは当人次第。死刑宣告まである裁判員が勤まってどうしてこれができないだろうか? 小学校からそれを前提としたカリキュラムとする。それでいいのではあるまいか? 現状を見る限り今これを導入することは無謀どころの騒ぎではあるまい。だがいつかはそうなるという未来が描けないようだったら所詮希望などないということではないだろうか。子供たちにまともな主権者教育どころか現実政治に関心を持つことさえ封じてきたのだ。大概病んでいる。こんなことが長年つづけられてきたという深刻な病を他人事のように暮らしてきた。その結果がこのあり様なのだ。一体誰が非難されなければならないのだろうか? この病は国家中枢やどの党この党の話ではない。われわれ全員の重篤な病だったと深く悔い自覚するべきだ。埒もないセレモニーなどに興味はない。ことの本質に気づきそこから始めるべきだと気づく人々に期待するだけだ。しょうもないしみったれたドタバタ小芝居のなんと寒々しく遠いことか。まだ海の向こうから届いた初ホームランに浮かている方がよほど罪がない。努力を惜しまぬ才能が万来の拍手と歓声の中を走りつづけている。

 与えられた権利として自らにかけられた嫌疑を晴らす折角の場に出ることをどうしてここまで渋るだろうか!? 言わずものがなのアホらしい茶番劇などに費やされる無益な時間と経費。実に深々とやれやれ!だ。背番号17番と分けるもの、それはなんだろうか? そんなに難しい話じゃない。自己が取り組む世界への真摯でピュアな敬意の心だ。もうこれ以上を語る意味を感じない。今日は忙しいのだ。呆れ果て悄然と沈む夕日かな。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“今日も無題!”

 いくつか書きかけて途中で止まっていたものを新しく作ったフォルダに全部放り込んだ。捨てようかとも思ったが、それは忍びなかったので。どうせ二度と読み返すことなどないとのだろうが。そういうフォルダがどんどん増えつづけている。打ち込んでいる途中で突如指が止まる。分厚い壁にぶち当たったようだったり突如深い深い闇に包まれたようだったり。昔、あることについて考えている過程で飛び出した言葉を思い出した。“理不尽の圧倒”。理解不能な力が欲しいままにのさばっている世の中に嫌気がさし始終苛立っていた時期だった。といって言うまでもないだろうが状況が改善されているというわけではない。むしろ、こんな言葉を投げつけたところで空しいだけと思い知るその後をグデグデと生きてきただけだ。なにも変わらないのではなく、なにもかもが可笑しくなりつつある。そんな今日この頃だ。

 だが、もう一度あらためてぶつけておきたくなった。“理不尽の圧倒”。やれやれ、そこいらの小さな池に石粒を放り込んだほどの波紋さえ立ちはしない。先だってなにかの番組から聞こえてきた言葉だ。“みんな諦めているんですよッ”。私もつい心の中で呟き返していた。“そうだね、ホント君の言う通りだよ”。浮かべられるのは苦い苦い気怠い微笑くらいのものだ。

 ニーチェ氏に倣って言ってみようか。“神様は死んじまったよ。核ってヤツの手にかかってね”。まるでおっかない後ろ盾のように核ってヤツが背後の闇にに控えている。そして不気味な薄笑いを浮かべながら吐き捨てるように投げ返されたセリフだけがさも愉快そうに踊り狂っている。“準備はできてる。やれるもんならやってみな!”。われわれは邪悪なヘビの前で脅え身をすくませているだけ。われわれの現在地に神の気配は一切ない。ただただ理不尽な野望と底知れぬ残忍さだけが世界でのたうち回っている。だが、ただ単に邪悪なカリスマたちが席巻しているわけではないだろう。それと連関並行してこれまで支配的だったシステムの欺瞞性と脆弱性も露呈されたということであり、もはや実しやかな建前論でことを収めることはできなくなったということだ。ウソがバレバレになったのだ。大概腹をくくった方がいい。それにしても、世界がこんなときに死ぬほど呑気な国が存在していることに驚嘆を禁じ得ない。怪し気でそれでいて見え見えのカネの話で大盛り上がりってな具合だ。大概呆れるね。そういうことやってられる状況じゃないってどうして思えないだろうか? ま、またも空しい繰り言だ。また耳奥で響いてきた。“みんな諦めているんですよッ”。明らめて哲らめて諦める。それでもいいのかもしれないね。どの道なるようにしかならないんだから。

 あらたまって言うほどのことじゃないけど、核に罪はない。ダイナマイト自体に罪がないのと同じだ。罪は罪という観念に気づいた者らだけの専売だ。人道とか民主制とかそんな夢想妄想にやられてしまった者たちが背負うしかない。それが破綻したのだとしたら所詮それだけのものでしかなかったということだろう。“目には目を”。古い時代のローカルな法の条文にすぎないけど、後世の多くの人間たちが“そうだよね”ってつくづく思ったということだろう。足を踏まれたからといってその人間を半死半生の目に遭わせていいてことにはならないというごく簡明な話だ。いつの時代から被害者絶対無限正義みたいなものがはびこり始めたのだろうか? ましかし、それがいつからであろうとどうでもいいようなことだが、実にそしてまさに理不尽なことではある。「犠牲者の多くは女性や子どもたちです」。なんということだろうか!

 しかし、私は断じて特定の者たちを問題にして非難しているわけではない。見えやすい現象が現実の姿ではないということだ。そこにある理不尽と惨状の実態は目に見えているものなどよりはるかに複雑で厄介な病理をその背後や暗渠に潜ませているということだ。人類の現状に無罪な者はごくごく限られているだろう。誰もがこの惨憺たる世界に責任がある。それは確かだ。だが、厄介なのはその先だ。その罪の中身をつぶさに知る法をわれわれが持ってはいないということだ。ヒト現象はそれほど複雑で重層的で闇の領域が広すぎる。「どうしてそうなったしまったのか」を知ろうとすることに精力を傾けるのはある意味壮大に消耗かつ無益なのかもしれない。そういうものにかまけているヒマに明日の新しい道を考えるべきなのだ。そして恐らくはシステムの問題なんかではないのだ。われわれがまだまだその一人一人がサルに毛が生えた程度の段階にしか到達していないということが大問題なのだ。まずそのことに気づくべきだ。そしてその先に待つ人への道を歩き始める。“オレにはコイツを殴る権利がある”。そんなことだから今人類は滅びようとしているのではないか? “私には君を許す権利と力がある”。やれやれ・・・とても思えないし言えもしないか。

 私たちは生命というもので世界とつながっている。それに否やを言っても仕方ない。世界は永続的で果てしない自己更新のシステムだ。それは生きてあることを自覚的に受け止めなければならない者たちには如何にも理不尽だ。だが、禍福も幸不幸も功罪も糾える縄の如くもつれ合い裂き難いものだ。しかし、だからこそ飽きることなく日々を送れるのだと観念するしかない。この世界というものの理不尽にわれわれは敗北しつつあるのか? そうではなくわれわれヒトという半端者のその半端性ゆえに敗北しつつあるのか? それはまだ分かってはいない。だから希望があるのかないのかも今は判断のしようがない。だが希望があるとすれば、例の核という厄介者を退治することができたときだろう。核そのものに罪はない。使わなければ早晩立ち枯れてゆくだけだ(後始末は少々面倒だとしても)。身勝手な戦争というヤツを封殺することができるかどうか? そこにかかっていると言い換えてもいい。どうだろう? これが叶わぬその先にわれわれの明るい未来など想像できるだろうか? この壮絶に絶望的な事態を前にするとき、少々のカネをくすねた程度のことで大騒ぎしている光景がそら恐ろしいほど遠いものに感じられないだろうか。われわれはもっと肝心で本質的で最大限重要な問題と向き合い論じ合うべきではないのか!? 欺瞞のシステムがいよいよ限界を迎えつつある。このことの破壊力にもっと目覚めるべきだろう。船が沈みつつあるときに昨夜のディナーのパイの大きさや席順なんかで争っていてなんになる!? 次元が低いとか高いとかの問題ではないのだ。話は簡単だろう。あなたは本当の現実とその濃密な気配に気づいていますか!?ということ、それだけだ。「犠牲者の多くは女性や子どもたちです」。こんなときに自分たちがなにをしているのか正気になって気づくときどんな思いをすることになるのか!?深く考えて見るべきではないだろうか? 最後にどうでもいいようなことだが、言っておきたい。彼らをいくらつるし上げにしたところで事態は一ミリも変わらないだろうということだ。今われわれが直面している絶望的自堕落事態は、誰か特定の者たちの病気ではなくわれわれ全員の病気なのだ!ということだ。そもそも問題の立て方が間違っているのだ。問題の立て方さえ間違わなければ今真っ先に取り組まねばならないことがなんなのか?は自ずから見えてくるはずだ。恥ずべきは一体誰だと思っているのだろうか? 理解不能だ! 南無阿弥陀仏。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“果てしもなく支離滅裂”

 あるテーマで様々綴っているうちに突如手が止まった。“こんなことは全くの無意味だ!”という思いが猛然と湧き起こってきたからだ。問題とされている事象についてあれこれ思いつくままに並べ、それを順に考察しながら筋に沿ってまたその先を考えてゆく。なにかが見えてきそうな段階になってその突如はやってきた。“こんなことは全くの無意味だ!”。私ははたと気づいたように思った。なにか肝心なものが致命的に破綻し破産し崩壊している、と。われわれは、しかし周囲に溢れ返る瓦礫に全く気づいていなかった。ただそれだけのことなのだ。これまで頼りとされ信じられてもきたもの、誰もが疑おうとしなかった実しやかなシステム、そのほとんどすべてがすでにその役割と寿命を終えていることに薄々気づきながら少なからざる人々も素知らぬ顔を決め込んでいる。そんな気がしてならない。

 冷静に平静に今内外を問わず世界中で起きていることを観想してみよう。・・・・・・どうだろう?そこに希望の道は見えているだろうか? 世界中にオニが溢れている。つい昨日まで人であったなどとどうして信じられよう。それほどまでに見事なオニぶりにもはや感服する外ないほどだ。以前にも言ったことだが、オニに人間の言葉は通じない。世界を席巻し始めたこのオニたちは一体どこから湧き出てきたのだろうか? 私はこう思っている。避けようなどなかった必然の成り行きで続々と生まれてきたのだ、と。なぜか? それは、われわれ総人類がかくまで惨憺たる現状に至らざるを得ないような生き方をしてきたからに違いない。私はそう思っている。・・・今の私の中に漠とあるのは、理想という想念界の全崩壊だ。あらゆる麗しき理想とあらゆる端正な理念の欺瞞性がこれでもかッ!というほど暴かれているということだ。敢えて、こう言いたい。われわれは結局まだ人間なんかではなかったのではないか!?と。「人間」という言葉で言い表してきたものと現段階のわれわれの現状と姿が似つかわしいものと言えるだろうか!? 精々が小賢しいサルに過ぎないのではあるまいか? われわれが一歩でも人間という境域に足を踏み入れていたのであったなら、もっと世の中は論理的に展開していていいはずだ。実情はどうだ!? まだ暫定的ではあるが結論としてこう言っていいのではないかと私は思う。われわれはわれわれ自身の手と知恵と努力では決して解決できない死ぬほど分厚い壁を前に激しく立ち往生しているのだ、と。しかしだからといって、なにやら超越的な存在などを思い浮かべたりしているわけではない。そういう気配も幻影ももはや潰え去っている。われわれはむしろ盛大に猥雑で賑やかなニヒルの祭典の真っただ中でのほほんとほろ酔い歌い踊り狂っているだけなのだ。いっそ幸せの絶頂と思うべきなのかもしれない。大勢の市民を巻き添えに殺戮を繰り返して平然と正当性を言い募っている者たちの所業を座視しつづけながら普通の暮らしがつづけられているのだから。・・・どうだろう? これって“人間”って呼び名で呼んでいい生き物なのか!? 私たち自身も大概気づこう。自分たち自身が紛うことなきオニなのだということに。取り合えず私一人でも自分を人間と思いなすことからは下りようと思う。特段恥辱感や屈辱感があるわけではない。むしろ、巨大な疑問符の直下で座禅でも組まされているような気分だ。絶対に解の無い公案をお前に与える。世界の果ての世界とはなにか? そこに咲く花の姿を思い浮かべてみよ。てな具合だろうか?

 絶無という妖怪。言葉という迷妄。倫理という迷宮。予め与えられていた完全なるニヒル。そこに広がる底抜けの青空。どうだろう、つまりはわれわれの幸も不幸もただ自らが吐き出す吐息の調べでしかないのではないか!? 私というものは究極“私”なんかじゃなかったということだ。支離滅裂に生成のままに綴りながらここまでやってきてやっとか細い光が見えてきたような気もしている。私たち一人一人はぽっかりとニヒルな虚空の一点で明滅する吐息の幻聴のようなものに過ぎないのだ、と。われわれはそれぞれが強いられるままにそれぞれの物語を生きている。しかしその総和が大河ドラマとなって流れ下るわけではない。私たち各々自身が実は世界の果てなのだ。そこに咲く吐息のような孤絶の花一輪。・・・少し落ち着こう。世界は起きることが起きているだけの花畑なのだ。すべてのウロコが剥がれ落ちた目で眺めるとき、その目は一体なにを見るのか? あらゆるものは等価なのだ。その絶対的なる平等の伽藍の中で私たちは私たちそれぞれの物語に身を沈めるだけだ。世界には決して意地悪な気持なんかない。私たちは確かに酷いことのただ中で暮らしている。しかし、それは世界の罪なんかじゃない。愚かなサルだけの罪でもないのだ。

 あらゆるものが憐れの谷へと落下してゆく。そのかそけき音に耳を澄まそう。辻褄はどこかで必ず合っている。だが、それを知ることはわれわれを超えている。しかしそれは必ずある。信じるも信じないも自由だ。われわれが賜ったニヒルというものは実は自由ってヤツの裏の顔だったのかもしれない。ともあれ、実によく分からんことになった。しかし、言葉がぞろぞろで連なって染み出してくるということはこういうことなのだ。ワタシなるものと世界って野郎の間を言葉の川が流れる。どこに向かおうが知ったことか!! どうしようもなく酒が飲みたい気分になった。少しの我慢だ。世界にまた夜が来る。だがそれは100%ではない。そこに自由の秘密がある。今は、誰もが憐れに見える。全く生きてるってヒデ~ぜ! なのにどうして酒はあんなにウメ~ンだろう!? 合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“大丈夫! 聖子先輩もついている!”

 ヒロインを演じる女優は世代を超えて絶大な人気を博しているようだ。私も例外ではない。『ハコヅメ』は今でもなにか作業中などに全話ぶち抜きで流していたりするくらいだ。なぜ? 恋に理由を聞くほどのヤボはあるまい。ま、恋はちと言い過ぎだが、なぜかこの人には人を釘付けにするところがある。私がこの人を見つづけるのは、その秘密を探りたいみたいなごく学術的な関心もあるから・・・まッ学術は冗談としてもそんな興味もある。だが一つこれは言えるのではないかと思う。この人がまといつかせているふわっと柔らかに広がる透明感、それが多くの人々を惹きつけているのではいか、と。これは勝手な推測だが、人の世ではいつでもそういう存在が希求されているのだ。なぜか、そんな気がする。だから中毒のように観てしまうのではあるまいか。

 『きみが・・・』が苦戦しているようだ。理由は大体想像できる。辛すぎるからだ。こんな目に遭うこの人を見つづけることが。これもある意味彼女の人気の証でもあるだろう。それほど愛されているということ。下手をするこういうものを制作したチームが憎まれることにもなりかねない。今はその正念場と言っていい。だが、見るのを止めてしまった多くの人々もこうは思っているのだ。“このまま不幸なまんまで終わるわけがない!だが辛すぎる!”。・・・ということは、ドラマ展開に明るい兆しが見え始めたという噂を聞きつけたら戻ってくる可能性はかなり高いのではないかとも考えられる。制作サイドにとってはそこまではなんとしても耐え切るでもあるだろう。そういったところでは、個人的には大いに関心を寄せている。作家のお手並み拝見ということだ。視聴率が振るわないままにここまでツッパリ抜いてきたきたのだ。よほどの斬新な展開でもない限り視聴者も許さないだろう。作家がどんな腕の冴えを見せるのか大い楽しみだ。興味の中心は、“五感は心”がどういう素敵なメタファとしてわれわれの前にそっと差し出されるのか?だろうか。どちらにせよ、ありきたりな結末では激怒の嵐が襲うことだろう。覚悟した方がいい。だが、聡明なあの人が二重の意味でこの運命を選んだのだ。私は十分に信じていいと考えている。六回でも七回でもコケようじゃないか。最後の最後にすっくと鮮やかに立っていればいいのだ。そういう爽快に劇的なエンディングを私は手ぐすね引いて待つこととしよう。なにせ心寄せる相手はあの豪の者本多忠勝なのだ。このままオメオメと敗退するわけがない。信じていい。合掌

 

 
 
 
 
 

 

“今日という日の無題”

 ドラマを観つづけてきた多くの人々にとって辛い朝になった。愛しい人の生命の火が消えてゆく。まんたろう夫婦をも・・いやいつでもどこかで大勢の人々が容赦なく襲われている人生最大の試練。この激烈な悲痛も自覚された知恵の領域にさしかかっていたサルの一族をヒトへと押し上げた背景の一つではないかと私は思っている。ここからおびただしいものが生まれ飛び出した。そしてほぼすべてのものには功罪がある。

 生きること、生きつづけること、生きつづけるために手を尽くすこと、これが生命現象の本丸だ。生命現象もこの地球という天体の現象サイクルの一環として生まれた。マクロからミクロまで捕食と犠牲の複雑精妙な交換と循環。個々の生命種は、その生存条件の枠内で生きるためにできることはなんでもする。それが自覚された知恵へと高められた。・・・そしてほぼすべてのものには功罪があり、光と陰がある。その最たるものが知恵を生きる術として確立させたヒトという生命種が発見した欺瞞であり狡猾という武器だ。保身や自己正当化のためにこの武器を駆使しまくる人間という生き物の姿とその光景。微笑ましいもののから醜悪さむき出しのものまで、まさに万花繚乱だ。死の窮迫の前でうろたえ逆上した多くの者たちが、人であるという境域を逸脱してしまうときに見せる姿ほど困惑を強いるものはない。そこで破壊されているものこそ、人倫における論理だ。そこに広がる“理屈なんかもうどうだっていい!!”という激情の叫び。そういうオニの領域に落ち込み、もはや冷静な判断力など木っ端微塵に打ち砕かれてしまった者たちの姿やその歪んだ主張。まさに“理屈なんかどうだっていい!!”のだ。

 知情意と真善美の麗しきハーモニーと絶妙なバランス。われわれヒトの理想だ。理想は所詮理想に過ぎなかった。そういうことなのだろう。現今の人類社会はそういう無残この上ない光景で溢れている。素敵なウソが思わぬ奇跡を起こすみたいなメルヘンチックなエピソードもないではない。だが、そんなことはごくごく稀なことだ。われわれのほとんどのウソは毒と血と汚濁にまみれている。その渦中で無造作に奪われてゆく多く人々のの生命。人間の技術的進歩は目覚ましい。だがその生命としてのあり方全体はどういうことになっているのだろうか!?

 理屈とか論理というものはわれわれヒトが勝手に作り出したものではない。総現象としての宇宙世界とあらん限りの能力を尽くして向き合おうとしたわれわれヒトの知性との出会いの狭間で発掘されたもだ。重ねられる観察と仮説と実験と再検証の繰り返しが一つの原理や理論へと結実されてゆく。そのプロセスのすべてで不可欠な作法となっているのが知と思考の論理性だ。そこで最初から最後まで排除されねばならないものこそ感情の介入だ。感情というものほど状況の冷静な受容や判断を歪めずにはおかないものはないからだ。取り分け、生存危機に直面した際に爆発する激烈な感情によって人々が論理性を見失うとき、事態は一層厄介なものになる。そこで発生する針小棒大歪曲やすり替えの奇弁論法。絶対化された生存権という切り札を切り始めた者たちにはもはや冷静な論理など通用しない。“われわれの安全な生存と存立は敵対する悪党どもからの脅威によって危機に瀕している!”。だからなにをしてもいい! 最強の切り札だ。正当なる防衛ではなく、正当なる殺戮。地獄はどこかにあるのではない。ここに、われわれヒトという生き物の生きる現場にこそ存在しているのだ。

 出口はあるのだろうか? われわれはヒトから人間へと到達できるのだろうか? 今はどこにもその答えはないようだ。様々なことが説かれている。だが残念ながらそれが顕現するのを見たことがない。この先にそれを期待できるようにも思えない。

 

 はるか昔のある日下りてきた。理由も訳も私には分からない。なんとなく私の中でそういう言葉のつらなりがまさに生成されたのだろう。ヴェイユみたいな人に感化されて神なるものを身近に感じてみたかった日々でもあったのだろうか。今読み返して思ったことだが、われわれがヒトから人間へと高まったその日のことでも思い浮かべでもしたのかもしれない。ついには辿り着けぬだろうことを予感しながら。オニにはなれても神にはなれない。その限界壁の前で私たちは立ち往生している。まるでホワイトアウトしてゆく雪道で遭難でもしているような気分だ。痺れるほどに凍えている身をどうにもできないでいる。最後に呟いておきたくなった。“どうしてあのようにしか生きられないのだろうか?”。素朴な疑問だ。

 「敵」というものを発見したことが人類最大のそして致命的な失敗だったかもしれない。だが避け難かったのだろう。腹をくくるしかあるまい。

 

    “眼”

 

  神が

  われわれを支配し庇護するのではない

  われわれこそが

  無力な神を救い出すのだ

 

  しかし われわれは

  そこに神を見出すのでは決してない

  そのとき初めて

  われわれは

  神の眼で

  世界を眺めるのである

 

 合掌。