“今日も無題!” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“今日も無題!”

 いくつか書きかけて途中で止まっていたものを新しく作ったフォルダに全部放り込んだ。捨てようかとも思ったが、それは忍びなかったので。どうせ二度と読み返すことなどないとのだろうが。そういうフォルダがどんどん増えつづけている。打ち込んでいる途中で突如指が止まる。分厚い壁にぶち当たったようだったり突如深い深い闇に包まれたようだったり。昔、あることについて考えている過程で飛び出した言葉を思い出した。“理不尽の圧倒”。理解不能な力が欲しいままにのさばっている世の中に嫌気がさし始終苛立っていた時期だった。といって言うまでもないだろうが状況が改善されているというわけではない。むしろ、こんな言葉を投げつけたところで空しいだけと思い知るその後をグデグデと生きてきただけだ。なにも変わらないのではなく、なにもかもが可笑しくなりつつある。そんな今日この頃だ。

 だが、もう一度あらためてぶつけておきたくなった。“理不尽の圧倒”。やれやれ、そこいらの小さな池に石粒を放り込んだほどの波紋さえ立ちはしない。先だってなにかの番組から聞こえてきた言葉だ。“みんな諦めているんですよッ”。私もつい心の中で呟き返していた。“そうだね、ホント君の言う通りだよ”。浮かべられるのは苦い苦い気怠い微笑くらいのものだ。

 ニーチェ氏に倣って言ってみようか。“神様は死んじまったよ。核ってヤツの手にかかってね”。まるでおっかない後ろ盾のように核ってヤツが背後の闇にに控えている。そして不気味な薄笑いを浮かべながら吐き捨てるように投げ返されたセリフだけがさも愉快そうに踊り狂っている。“準備はできてる。やれるもんならやってみな!”。われわれは邪悪なヘビの前で脅え身をすくませているだけ。われわれの現在地に神の気配は一切ない。ただただ理不尽な野望と底知れぬ残忍さだけが世界でのたうち回っている。だが、ただ単に邪悪なカリスマたちが席巻しているわけではないだろう。それと連関並行してこれまで支配的だったシステムの欺瞞性と脆弱性も露呈されたということであり、もはや実しやかな建前論でことを収めることはできなくなったということだ。ウソがバレバレになったのだ。大概腹をくくった方がいい。それにしても、世界がこんなときに死ぬほど呑気な国が存在していることに驚嘆を禁じ得ない。怪し気でそれでいて見え見えのカネの話で大盛り上がりってな具合だ。大概呆れるね。そういうことやってられる状況じゃないってどうして思えないだろうか? ま、またも空しい繰り言だ。また耳奥で響いてきた。“みんな諦めているんですよッ”。明らめて哲らめて諦める。それでもいいのかもしれないね。どの道なるようにしかならないんだから。

 あらたまって言うほどのことじゃないけど、核に罪はない。ダイナマイト自体に罪がないのと同じだ。罪は罪という観念に気づいた者らだけの専売だ。人道とか民主制とかそんな夢想妄想にやられてしまった者たちが背負うしかない。それが破綻したのだとしたら所詮それだけのものでしかなかったということだろう。“目には目を”。古い時代のローカルな法の条文にすぎないけど、後世の多くの人間たちが“そうだよね”ってつくづく思ったということだろう。足を踏まれたからといってその人間を半死半生の目に遭わせていいてことにはならないというごく簡明な話だ。いつの時代から被害者絶対無限正義みたいなものがはびこり始めたのだろうか? ましかし、それがいつからであろうとどうでもいいようなことだが、実にそしてまさに理不尽なことではある。「犠牲者の多くは女性や子どもたちです」。なんということだろうか!

 しかし、私は断じて特定の者たちを問題にして非難しているわけではない。見えやすい現象が現実の姿ではないということだ。そこにある理不尽と惨状の実態は目に見えているものなどよりはるかに複雑で厄介な病理をその背後や暗渠に潜ませているということだ。人類の現状に無罪な者はごくごく限られているだろう。誰もがこの惨憺たる世界に責任がある。それは確かだ。だが、厄介なのはその先だ。その罪の中身をつぶさに知る法をわれわれが持ってはいないということだ。ヒト現象はそれほど複雑で重層的で闇の領域が広すぎる。「どうしてそうなったしまったのか」を知ろうとすることに精力を傾けるのはある意味壮大に消耗かつ無益なのかもしれない。そういうものにかまけているヒマに明日の新しい道を考えるべきなのだ。そして恐らくはシステムの問題なんかではないのだ。われわれがまだまだその一人一人がサルに毛が生えた程度の段階にしか到達していないということが大問題なのだ。まずそのことに気づくべきだ。そしてその先に待つ人への道を歩き始める。“オレにはコイツを殴る権利がある”。そんなことだから今人類は滅びようとしているのではないか? “私には君を許す権利と力がある”。やれやれ・・・とても思えないし言えもしないか。

 私たちは生命というもので世界とつながっている。それに否やを言っても仕方ない。世界は永続的で果てしない自己更新のシステムだ。それは生きてあることを自覚的に受け止めなければならない者たちには如何にも理不尽だ。だが、禍福も幸不幸も功罪も糾える縄の如くもつれ合い裂き難いものだ。しかし、だからこそ飽きることなく日々を送れるのだと観念するしかない。この世界というものの理不尽にわれわれは敗北しつつあるのか? そうではなくわれわれヒトという半端者のその半端性ゆえに敗北しつつあるのか? それはまだ分かってはいない。だから希望があるのかないのかも今は判断のしようがない。だが希望があるとすれば、例の核という厄介者を退治することができたときだろう。核そのものに罪はない。使わなければ早晩立ち枯れてゆくだけだ(後始末は少々面倒だとしても)。身勝手な戦争というヤツを封殺することができるかどうか? そこにかかっていると言い換えてもいい。どうだろう? これが叶わぬその先にわれわれの明るい未来など想像できるだろうか? この壮絶に絶望的な事態を前にするとき、少々のカネをくすねた程度のことで大騒ぎしている光景がそら恐ろしいほど遠いものに感じられないだろうか。われわれはもっと肝心で本質的で最大限重要な問題と向き合い論じ合うべきではないのか!? 欺瞞のシステムがいよいよ限界を迎えつつある。このことの破壊力にもっと目覚めるべきだろう。船が沈みつつあるときに昨夜のディナーのパイの大きさや席順なんかで争っていてなんになる!? 次元が低いとか高いとかの問題ではないのだ。話は簡単だろう。あなたは本当の現実とその濃密な気配に気づいていますか!?ということ、それだけだ。「犠牲者の多くは女性や子どもたちです」。こんなときに自分たちがなにをしているのか正気になって気づくときどんな思いをすることになるのか!?深く考えて見るべきではないだろうか? 最後にどうでもいいようなことだが、言っておきたい。彼らをいくらつるし上げにしたところで事態は一ミリも変わらないだろうということだ。今われわれが直面している絶望的自堕落事態は、誰か特定の者たちの病気ではなくわれわれ全員の病気なのだ!ということだ。そもそも問題の立て方が間違っているのだ。問題の立て方さえ間違わなければ今真っ先に取り組まねばならないことがなんなのか?は自ずから見えてくるはずだ。恥ずべきは一体誰だと思っているのだろうか? 理解不能だ! 南無阿弥陀仏。合掌。