“果てしもなく支離滅裂” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“果てしもなく支離滅裂”

 あるテーマで様々綴っているうちに突如手が止まった。“こんなことは全くの無意味だ!”という思いが猛然と湧き起こってきたからだ。問題とされている事象についてあれこれ思いつくままに並べ、それを順に考察しながら筋に沿ってまたその先を考えてゆく。なにかが見えてきそうな段階になってその突如はやってきた。“こんなことは全くの無意味だ!”。私ははたと気づいたように思った。なにか肝心なものが致命的に破綻し破産し崩壊している、と。われわれは、しかし周囲に溢れ返る瓦礫に全く気づいていなかった。ただそれだけのことなのだ。これまで頼りとされ信じられてもきたもの、誰もが疑おうとしなかった実しやかなシステム、そのほとんどすべてがすでにその役割と寿命を終えていることに薄々気づきながら少なからざる人々も素知らぬ顔を決め込んでいる。そんな気がしてならない。

 冷静に平静に今内外を問わず世界中で起きていることを観想してみよう。・・・・・・どうだろう?そこに希望の道は見えているだろうか? 世界中にオニが溢れている。つい昨日まで人であったなどとどうして信じられよう。それほどまでに見事なオニぶりにもはや感服する外ないほどだ。以前にも言ったことだが、オニに人間の言葉は通じない。世界を席巻し始めたこのオニたちは一体どこから湧き出てきたのだろうか? 私はこう思っている。避けようなどなかった必然の成り行きで続々と生まれてきたのだ、と。なぜか? それは、われわれ総人類がかくまで惨憺たる現状に至らざるを得ないような生き方をしてきたからに違いない。私はそう思っている。・・・今の私の中に漠とあるのは、理想という想念界の全崩壊だ。あらゆる麗しき理想とあらゆる端正な理念の欺瞞性がこれでもかッ!というほど暴かれているということだ。敢えて、こう言いたい。われわれは結局まだ人間なんかではなかったのではないか!?と。「人間」という言葉で言い表してきたものと現段階のわれわれの現状と姿が似つかわしいものと言えるだろうか!? 精々が小賢しいサルに過ぎないのではあるまいか? われわれが一歩でも人間という境域に足を踏み入れていたのであったなら、もっと世の中は論理的に展開していていいはずだ。実情はどうだ!? まだ暫定的ではあるが結論としてこう言っていいのではないかと私は思う。われわれはわれわれ自身の手と知恵と努力では決して解決できない死ぬほど分厚い壁を前に激しく立ち往生しているのだ、と。しかしだからといって、なにやら超越的な存在などを思い浮かべたりしているわけではない。そういう気配も幻影ももはや潰え去っている。われわれはむしろ盛大に猥雑で賑やかなニヒルの祭典の真っただ中でのほほんとほろ酔い歌い踊り狂っているだけなのだ。いっそ幸せの絶頂と思うべきなのかもしれない。大勢の市民を巻き添えに殺戮を繰り返して平然と正当性を言い募っている者たちの所業を座視しつづけながら普通の暮らしがつづけられているのだから。・・・どうだろう? これって“人間”って呼び名で呼んでいい生き物なのか!? 私たち自身も大概気づこう。自分たち自身が紛うことなきオニなのだということに。取り合えず私一人でも自分を人間と思いなすことからは下りようと思う。特段恥辱感や屈辱感があるわけではない。むしろ、巨大な疑問符の直下で座禅でも組まされているような気分だ。絶対に解の無い公案をお前に与える。世界の果ての世界とはなにか? そこに咲く花の姿を思い浮かべてみよ。てな具合だろうか?

 絶無という妖怪。言葉という迷妄。倫理という迷宮。予め与えられていた完全なるニヒル。そこに広がる底抜けの青空。どうだろう、つまりはわれわれの幸も不幸もただ自らが吐き出す吐息の調べでしかないのではないか!? 私というものは究極“私”なんかじゃなかったということだ。支離滅裂に生成のままに綴りながらここまでやってきてやっとか細い光が見えてきたような気もしている。私たち一人一人はぽっかりとニヒルな虚空の一点で明滅する吐息の幻聴のようなものに過ぎないのだ、と。われわれはそれぞれが強いられるままにそれぞれの物語を生きている。しかしその総和が大河ドラマとなって流れ下るわけではない。私たち各々自身が実は世界の果てなのだ。そこに咲く吐息のような孤絶の花一輪。・・・少し落ち着こう。世界は起きることが起きているだけの花畑なのだ。すべてのウロコが剥がれ落ちた目で眺めるとき、その目は一体なにを見るのか? あらゆるものは等価なのだ。その絶対的なる平等の伽藍の中で私たちは私たちそれぞれの物語に身を沈めるだけだ。世界には決して意地悪な気持なんかない。私たちは確かに酷いことのただ中で暮らしている。しかし、それは世界の罪なんかじゃない。愚かなサルだけの罪でもないのだ。

 あらゆるものが憐れの谷へと落下してゆく。そのかそけき音に耳を澄まそう。辻褄はどこかで必ず合っている。だが、それを知ることはわれわれを超えている。しかしそれは必ずある。信じるも信じないも自由だ。われわれが賜ったニヒルというものは実は自由ってヤツの裏の顔だったのかもしれない。ともあれ、実によく分からんことになった。しかし、言葉がぞろぞろで連なって染み出してくるということはこういうことなのだ。ワタシなるものと世界って野郎の間を言葉の川が流れる。どこに向かおうが知ったことか!! どうしようもなく酒が飲みたい気分になった。少しの我慢だ。世界にまた夜が来る。だがそれは100%ではない。そこに自由の秘密がある。今は、誰もが憐れに見える。全く生きてるってヒデ~ぜ! なのにどうして酒はあんなにウメ~ンだろう!? 合掌。