“今日という日の心境” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“今日という日の心境”

 深夜目が覚め、どうしてなのか理由やきっかけはさっぱり分からないのだが、数年前に閉じたスーパーマーケットの店内が脳裏にまざまざと甦り激しく打ちのめされた。通っていた店や建物が無くなるということはこれまでにも何度もあったことなのに、なぜかそのスーパーのことがあれこれ洪水のように思い出され激しく動揺してしまった。脳裏に刻まれた店内の様子、その明瞭な記憶が次から次へと溢れ、胸が苦しくさえなった。だがそれでも、どこかに冷静な部分があったのだろう。これは例の夜の異常心理ってヤツに違いないと受け止め、しばらくそういう記憶の氾濫を眺めているうち一つの考えに行き着いた。この「あの場所はもうなくなってしまった!もう二度と足を踏み入れることはできないのだ!」という強い痛みのような感情こそ無常感のコアにあるものではなかったか、ということだ。破壊されたもの失われたものは二度と決して帰ってくることはない!という事実への激しい痛み。理由は分からないが、私はそれに突如襲われてしまったということだろう。夜が明けて今になって思い返せば、そこまで動揺しなければならないほどそのスーパーに格別な執着や愛着があったわわけではないのだ。だがなぜか、その惑乱の渦中にあったときには絶望感を抱くほどのショック状態だった。やれやれ、夜は・・・怖い。

 目覚めてから様々に考えるうち「もののあわれ」というフレーズも浮かんできた。なるほどそういうことかと思った。世界という総現象事態は、常なる生成消滅循環変換再生分離分裂などあらゆる呼称で呼ばれるできごとありごとの無限大の現象の坩堝だ。それにわれわれはどっぷり包み込まれている。われわれの誰もが例外なくこの激流によって運ばれてゆく。いずこへ?などと思い悩んだところで虚しいだけだ。どの道世界氏が勝手にやっていることなのだ。われわれは一人ひとりがプレイヤーであると同時にオーディエンス。これこそ究極の絶対矛盾的自己同一性ってもんだろう。こういうふうに見てきて今更ながらつくづく思うことなのだが、その「自己」ってな~に?ということだ。こうなってくると話は様々な方向へと広がっていく。まさに仏教が教えたのもこれだろう。そんな自己なんてものは人間というへんてこりんな生き物の大脳って臓器に一時的に宿る気の迷いであって、気がつけば他愛もない幻覚や妄想にすぎなかたって分かってしまうものなんだよってことだ。果てもなく流転してゆくだけ。・・・だがしかし、これもまたまさになのだが、だからってあの“Cogito, ergo sum”が簡単に粉砕されるわけのものでもないのではないかという思いも湧いてくる。でなかったら、こんな訳の分からない繰り言をカタカタ打ち込むような酔狂などに時間を使ってなどいないだろう。確かに、われわれの「わたし」なんぞというものはある方向から眺めるならほんの一瞬ふくらんだアブクのような儚い宿りにすぎないのかもしれない。だが、そこで味わわれる痛切の氾濫に幻覚だとか妄想だとかそんな言葉をぶつけて涼しい顔などされてたまるものか!という強い思いもあるのだ。そこで痛烈に思うのだが、生きることはもうそれだけで十二分に辛いのだ! だからこそその終焉は心救われる寿ぎと祝福のうちに遂げられなければならないのではないか!?ということだ。死がご褒美としての祝祭とともにあるからこそ、生は尊厳あるものとして完成されるのではないかということだ。

 死への永続的な不安・・・だがそれはいつかは終るという厳然たる絶対保証でもあるということ。これこそが絶対的慰藉であり救済となるのではないだろうか!? ヒトというへんてこりんな生き物だからこそ行き着いた理屈と妄想の世界だ。所詮は屁理屈なのかもしれない。だが、折角の知恵あるサルなのだ。神に張り合って壮大なフィクションを蒼天に向かって堂々と建造するべきなのではないだろうか。われわれ自身で建てるわれわれ自身のための塔だ。それを築くレンガの一つ一つが一人ひとりの悲喜こもごもの生涯だ。人間の尊厳などそこからしか生れようがないのではあるまいか!? 私にはそう思えてならない。この塔に比べるとき戦争という悲惨の極みの本質が見えてくる気がする。人は人を憎みあまつさえ殺したりするべきではないのだ。人は人に寄り添い互いに憐れんでこそナンボの生き物なのではなかったか!?ということ。われわれは今、ヒトから人間への旅程における人道破綻ぎりぎりの破砕帯を通過中だ。これで犠牲を最後としなければ旅は本当に終わるのかもしれない。さすがにこの地球という天体も限界に入りつつある。誰もが正気に戻るべきだろう。

 無くなってしまった一つの店の記憶が私を誘った場所もまた幻覚妄想領域なのだろう。だが、生の尊厳は祝福とともに遂げられる終焉によってしかバランスされないという遭遇に間違いはないのではないかと思う。人は安らかな最期とともに見送られるべきなのだ。われわれはいつまで愚かでいられるのだろうか? そろそろ気づくべきではないだろうか? われわれヒトだけが辿り着いたヒトだけの場所。 合掌。