“終末の雨は涙色”改め“再生への風” -5ページ目

“手短に感想を”

 鬱々と気の晴れぬ日々ではあっても暮らしはつづき、食事をしながらドラマを観たりもする。今シーズンは史実の再現かのようにまた明智光秀が信長を討ち取ったという結果になったようだ。ネットでは信長自身に責めがあるように語る向きも多いようだが、それはかなり気の毒という感はある。そういった意味では出演者全員に同情せざる得ないのではないかと私は個人的に思った。実績のある人が書き下ろしたとは信じがたい仕上がりに正直驚いている。企画から制作に至るまでの過程で無理があったのではないかと推察するしかない。残念としか言いようがない。「一体どこのなにが?」というより抽象的になるが、物語の軸や中核となるべきものに十分な重力がかかっていなかったからではないかと個人的には思っている。そういったところでは、主人公と対抗する悪の側に人間的な厚みがあることが不可欠なのだが、そこがかなり弱かったかなという印象は拭えない。だから「嫌いだ!」というセリフがとても浅薄にしか聞えなかったのではないだろうか。どちらにしても制作全般に無理があったのではないかと思う。その点、光秀側は十分な時間をかけて準備し、満を持して世に問うた作品だったようで、『MIU404』を思い起こすようなふくらみをもった見応えのある作品だった。どこまでいっても完璧ではあり得ない法制度や諸機関というものと生々しくも厄介な自然物である人間、齟齬や矛盾や過誤は避けがたい。そこに生まれる深い闇と落とし穴。人間という生き物も社会という営みもその奥底には黒々と禍々しいものを潜ませている。現実にはあり得ない言わばハードなファンタジーだ。だがそこに書き込まれていた人間の格闘の姿は本物だっただろう。血の涙を流した男を演じた主演俳優の成長が嬉しいドラマだった。信長チームには今後への糧としてもらいたものだ。相まみえて敗れた相手から学ぶことは多かったはずだ。今後に期待したい。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“前回に追記”

 時折ふと気がつくと軍歌を口ずさんでいることがある。あれあれとは思うのだが、歌にもあるいはその当時これを歌って悠揚と死地に赴いていった若者たちにも罪などない。そこに生まれそこに家族がいて、そこが危急存亡の崖っぷちにあるとなれば、脳が爆発しそうなほど考えあぐねた末、健気な若者たちは無理やりな理屈づけで己を説得し逃れようのない運命を受け入れるしかなかったのだ。その苦悩と抗いと受忍の様を伝えるのに“痛ましい”以上の言葉を私は知らない。生まれ育ったそこは人間にとって日々暮らす場所であり襲い来る危機から守られる場所なのだ。そこが実際どういう状況にあろうとそれは変わらない。そこにわれわれヒトの根底的な悲劇がある。ましてやそこを支配する力ある者たちの出来次第ではその悲劇度は増すばかりだ。なんにせよ、そこに人間個々人の事情や思いなどとは異次元の巨大な対立構造がある。ごく普通の若者たちにそうする以外の選択肢はなかったということだ。生命を預けるその場からの強い要請を拒絶する道がないわけではなかっただろう。だが、それができた人間たちはごく稀だ。若者たちには彼の行動選択次第で大迷惑をこうむる家族がいる。理由はそれだけでも十分だっただろう。

 私は前回地下壕で二人の若者を再会させた。その痛切な事態に私自身も戸惑い、うずくまってしまった。幼い頃親密に交わった二人の若者が敵同士として向き合う。そして一人は疲弊の極致にあって死に瀕している。残されたわずかな時間二人はどんなことを語り合っただろうか? 自分たちを襲ったものの正体? あるいはそれぞれのアイデティティー問題? だがそのどれにも爽快明快な答えなど見出しようはなかっただろう。どれほど想像の目を凝らそうと地下壕の薄暗がりの向こうに仄見えるのは人間という生き物の絶望的な現実だけ。そもそも二人が実は幼馴染だったという事実はこの悲劇にとって本質的だろうか? 私にはそう思えない。敵は殺せという命令に従って引き金を引きつづける者たちの陥っている地獄も変わらず痛ましいものだ。あるいはそれを命じている者たちさえも。紅蓮の炎上げて燃え盛る憎悪がすべてを単純化させ、あらゆる麗しき理念がそこで燃やし尽くされる。人間の尊厳、生命の尊厳、個人の尊厳。生み出すのに何万年がかかろうが火に投じればあっという間だ。

 私たちに今希望を語る資格はない。生に向かってたぎる野生の本能がむき出しにされたところでは人道や普遍の倫理などただの炭素化合物にすぎない。しかし、そこで燃えているものはそれだけではない。希望ある未来も炎を上げて燃えている。多分二人が救えないのではなく、ヒトという生き物が救えないのだ。生存は犠牲の上に成立するという大原則を超脱することができない限り、この板子一枚下の地獄を終わらせることはできない。敵というものは、敵視するか否か以前に、実はいつでも出会っているものなのだ。小さな集団の諍いから企業間の競争、宗派間の反目、国家間の対立。数限りないところで複層的に絡まり合った敵対構造の渦中でわれわれは日常的に戦っている。群れから遅れた一頭のウシがライオンに捕らわれる。その凄惨を悲しんでいる暇などない。その犠牲によって群れは逃れることができる。だからそれはこの天体上で起きている生命現象を象徴する聖餐でもある。われわれ生命の日々の営みはそうやってつづけられているのだ。個体が先か集団が先かの議論など無益だ。そもそもそれは分かちがたく一体のものだからだ。その生命ギリギリの強制と呪縛のさ中で生きていくしかない。個々体は集団に依存し、集団は集団の維持のために犠牲を要求する。われわれはあらためてわれわれヒトにおける集団性というものの根源性について考え抜き腹に据える必要があるのではないかと私は思う。運命を共有する仲間たちとの紐帯抜きに生きることはできないという事実は重大だ。戦争というものが容易なものでないことがあらためて思い知らされるのではないだろうか。あまつさえ長年にわたって激しく憎み合い殺し合ってきたのだ。この絶望的な泥沼から抜け出す方法を見出だすことの困難さに呆然とするしかない。だが、この21世紀こそがそれをする段階なのだとするしかないだろう。でなければわれわれは迫りくる第三次の世界的惨劇によって滅びの縁にまで追いやられるに違いない。そのためにも愚かな世代は一日も早くその地位を去るべきではないだろうか。未来は未来に委ねるべきだ。この惨劇を止められない世代に未来を云々する資格はない。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“今日という日の無題”

 “あなたの見解は非常に深い洞察を含んでおり、人間の悲劇性についての重要な側面を捉えています”。やれやれ、参考までにとちょっとした質問をぶつけた際GPT氏が冒頭に返してきたお褒めの言葉だ。彼にお追従のような精神習俗はない。機械的集積知的にそう判断評価してくれたということであり、ある意味額面通り受け取っていいとは言えるだろう。だが、所詮それだけのことだ。深い洞察? それがなにかへと結びついてゆくのだろうか? こちらからの質問はこういうものだ。“人間という生き物の悲劇性の本源はその集団性が孕む相互対立の構造を乗り越えられないからだと思うが、これは適切か?”。お褒めのお言葉の後、縷々この視点を中心とした先人たちの取り組みがつづられたのだが、言うならそれはまだまだ問いつづけられている重い課題だということであって、どこにも出口や入口や階段など見つかっていないようだということだ。まさにそれがヒトという生き物の現実実態であって「特効薬が完成しました!もうこの病気の心配はなくなりました!」ってな具合にはいきそうもないということだ。

 なぜ起き抜けの朝一番にこんな質問をGOT氏にぶつけたのかといえば、目覚めながら脳裏に映じていた空想上の映画のシーンがありありと残っていたからだ。一人の兵が暗い地下壕の一隅でたった一人臥せっている男を発見し、銃を構えるところから映画は始まる。衰弱の色濃い丸腰の人間に引き金を引くわけにもいかず言葉をかけてポツポツとやり取りするうち、やがて二人が遠い少年時代、アメリカという国の小さな町で兄弟のようにいつも一緒に遊んだ幼馴染であったことに気づくというシチュエーションだ。まさに悲劇だ。こういう設定の映画は過去にあった可能性はあるし、格別独創的というわけでもないだろうが、想像は転がっていった。シナリオの脱稿も映像化の可能性もゼロだが、世界に問うてみたいという気にはなった。ま、軽い冗談だが。ラストシーンはできている。地下壕のジメジメした壁に寄りかかって座り込んだ二人の最後のやり取り。兵「オレたちって一体なにものなんだろう? オレはお前のなんだったんだ?」男「(淋し気に笑う兵の横顔を見つめながら)オレたちはここでまた友だちになれた。そういうことでいんじゃないか? これはオレたちだけのオレたちの問題なんだ。オレは今でもお前を世界中の誰よりも大事な友だちだと思っているよ。どこでだっていいじゃないか。オレたちはこうしてまた会うことができた。世界の終わりにお前が隣にいる。言うことないぜ!」。やがて二人は揃って上を見上げる。ジメジメとした地下壕の天井が解けて青々とした蒼穹が画面いっぱいに広がる。そこにおおいかぶさるように二人の母親の顔。「コラッ、いたずら坊主たち出ておいで! ケーキが焼けたよ!」。画面は突如暗転し、エンディングロールがテーマ音楽とともに流れ始める。

 われわれヒトにとって集団性=群れはいわば生命線だ。われわれ個々の生存活動自体が群れと一体のものと言っていい。どうだろう?スーパーマーケットに行けば生きてゆく上で欠かせないもののほとんどが揃っている。これって宇宙の奇跡と言ってもいいのではないだろうか? それが日々当たり前のことになっている。凄いことだ。ヒトって生き物はとても凄いことを実現して普通に暮らしている。胸張っていいことだと思うのだが、その一方にある凄惨と残忍。われわれは互いに神でもあり悪魔や悪鬼でもある。この悲喜劇を前に今われわれは立ち竦んでいる。ひたすら重苦しく哀しい日々だ。そんなときに国を代表するような企業たちの不正が発覚。もはや落胆も突き抜けている。内外を問わず可笑しなお祭的狂乱の真っ最中ってなあり様だ。こういうときこそ落ち着こう。騒いだところでどうにもなるまい。達観と諦観と覚悟。・・・ただ、子供たちが気の毒だとつくづく思う。今の私にできることは祈ることだけだ。神でも仏にでもない。人間という生き物の尊厳に向かって。それでダメなら笑って終わるだけだ。誰かがそばにいてくれる。それだけで十分。人と人が個の現場でつながり合う。そこにだけは希望と光がある。それあれば世界の終りも耐えられる。声を合わせて笑って終わろう。われわれはそれだけの生き物だったのだ。よく頑張ったし、底抜けに愚かだった。そこにある悲劇と皮肉。宇宙史に刻まれた一炊の夢。合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“とりとめもなく”

 ノレンをくぐって初老の紳士が入ってくる。カウンターの中で包丁を使っていた店の主人が「いらっしゃい!」と顔を上げる。

「・・・エッひょっとして穂高教授?」

「はい、よくご存知で」

「実はわたし、長年裁判の傍聴に通っていまして、教授のご尊顔はいつぞやの冤罪事件の裁判で弁護に立たれていたお姿を拝見した折に」

「大将のことは教え子から聞いていますよ。一度は伺ってみたいと思っておりました」

「その教え子ってトラちゃんですね」

「ま、そういうことです。・・わたし時々妙な夢を見るんですよ。自分が寿司屋の職人になって寿司握ってるんです。なんですか、前世とかあるいは来世とかの縁でしょうかね(笑)」

「そう言えば、わはしも妙な夢見るんですよ。洋風のコの字酒場みたいなところでバーテンダー兼コックみたいな仕事してるんですが、その店にしょっちゅう可笑しな検事さんたちが入りびたっていて・・・うん?そうか検事か~、なんか教授とは深いえにしを覚えますね」

「妙な気分だね。・・・ところで大将、寿司屋に来て無理な注文だとは思うんだが、どうだろう?豚汁なんかできるのかな」

 寿司屋の大将は軽くウインクして応じた。

「あるよ。うちはね、なんでも注文してくれりゃ~できるものならなんでも作るよって~のが営業方針なんでね」

「コッコノヤロ~ッ!」

 この俳優小林薫が大河ドラマ『青天を衝け』で演じたのが栄一の父渋沢市郎右衛門だ。篤実な人柄で、関わり合った多くの人々に尽くし敬愛されたようだ。その人生のバックボーンは論語だった。孔子の教えだ。中心理念は「仁」。言うなら、分け隔てなく人と交わりできる限りの助力を惜しまないだろうか。共助共生の精神というか。そこに英達とか功名のような野心など微塵もない。栄一は父の背中を真っ直ぐに見つめながら育ったようだ。だから、困窮する人々にそして同じ時代を生きる大勢の人々に可能な限り手を差し伸べて生涯を駆け抜けた。美田どころかその八面六臂の活躍には釣り合わぬわずかなものしか残さなかったようだ。その血脈に当然のように我欲みたいなものもなかったということだろう。勝手な私見だが、論語を熟読すれば誰もがそうなれるという次元の人たちではなかったということだ。そういうふうに生まれてしまった。そういうことだろう。そういったところではマザーテレサの生き方にも重なってくるような気はする。少し前夢の中で出会った栄一さんに尋ねてみたことがある。「どうしてそんなに人や社会に尽くすんですか?」。栄一さんはしばらく宙を見つめた後短く答えて微笑した。「そうしたいんだからそうしてる、それだけです」。やれやれ。栄一さんは昔統治した隣国ではすこぶる評判はよろしくない。肝入りで創設した銀行から発行した紙幣に肖像が使われちゃったりもしたらしい。つまり植民地支配の手先みたいに見なされていたということだ。植民地支配する国の人間がその相手国の近代化に私利私欲なく尽くそうとしたなんてとても信じられなかったのだろう。だが栄一さんという人は、この日本に論語という珠のような教えを伝えてくれた隣国に深い畏敬の念と感謝の気持ちを抱きつづけていたと言われている。これもいわゆる「関係の絶対性」問題と言えるのではないだろうか。栄一さんひとりの思いなど絶対的隔ての関係性という絶望の前には絶対的に無力であったということだ。むろん、直接その人となりに接することで彼の思いがどういう本質にあったかを実感的に知ることでまったく違った感想を持った人々もいたのだろうが、それを声高に語ることはほとんどなかったということだろう。そこにあった絶対的隔ての関係性という絶望。この分厚い壁の前で苦い笑みを浮かべている栄一さんには『人間の條件』の梶も重なってくる。広げれば、有島武郎やネフリュードフあるいは宮沢賢治、聖フランチェスコらを悩ませたものも結局はこれだったのかもしれない。ひょっとしたら花岡が寅子への思いと二人の願わしい未来の狭間で悩み苦しんだ挙句に見い出した結論の背景にもこれがあったのではないだろうか。両家の家風の違い。容易に予想される嫁姑の確執。二人が選んだ職業の社会的責務と重い使命。二人の幸せな結婚があり得たとするならただ一つ、一切を投げ捨て手に手を取って駆け落ちするくらいのことだけだ。遠い海辺の町なんかに住み着いて、夫は漁師妻は水産物加工の仕事などに勤しんで仲睦まじく二人だけの暮らしを満喫する。そこにある超えがたい壁を無理やり乗り超えようとするするのではなく、するっと横から通り抜けること。そんなことがこの二人にできただろうか? 男はつらいのだ。溢れる自分の思いだけでは突っ走れない賢明な優しい男にはなおさらだ。栄一さんという人がこういう人間の壁みたいなものをどういう語り口で言語化していたのかまでは知らない。だが感じとして徒に格闘するみたいなことはしなかったのではないかと思う。必ず役に立つと信じればやるまでのことだったのではないだろうか。そういう人だったのだ。それにしてもその八面六臂ぶりには呆れる外ない。『論語』を精読し骨肉にすれば誰にでもでき・・るなんてもんじゃあるまい。努力すれば誰でも大谷選手になれるわけではないように。やはりそういう人だったのだ!ということだろう。むしろ論語という書はそういう人たちを勇気づけ支援したということではないだろうか。人の考えることで本質において近しく通じ合うものは一方から他方への贈与だけではないということだ。渋沢家の人々は時空を超えて孔子や孔子から教えを受けた人々たちと深く交流したということではないだろうか。ということは、栄一さんという人とその生涯も間違いなく論語に新たに加えられた一ページだったということだ。渋沢栄一が旅立った日のほぼ二か月前に勃発したのが柳条湖事件だ。この事件の報を彼はどう受け止めそしてどんな近未来を予想し予感したのだろうか?

 現日本国憲法を精読する栄一氏を想像してみる。浮かべる表情、読み終わってもらす感想。それを聞いてみたいと思うのは私だけだろうか? この国の近代化に彼が果たした役割の大きさに讃嘆の思いを抱く人々は数かぞえ切れないほどいるだろう。だが、その精神を継いだ人々がどれほどいたのか!? その答えは彼が去った後のこの国の惨憺たる歴史が如実に告げているだろう。

 栄一のような人格はどのような集団にも陣営にも階層にもいるだろう。だが、それぞれが決定的に致命的に孤立しているか、あまりにも少ない。だから、世の中は頑として変わることがないのだ。悲しむべきことだが、これが人間の現実だ。美味しいところだけはちゃっかりもらって肝心なものは無造作に捨てて・・・いやそもそも理解の外なのだ。だから受け取りようも受け継ぎようもないということだろう。実にやれやれだ。現状のこの国の政治を栄一氏につぶさに眺めていただくことなど想像さえしたくない。それはただの残酷というものだろう。

 栄一さんのような人格群が世界中にあることは間違いあるまい。そういう人たちの交流と共振は網様状の紐帯として絶対的隔ての関係性という絶望の壁などものともせず異次元の領域で軽々と編まれているだろう。だがそれぞれが幽閉されている堅固な現実の壁に打ち勝つ方法はそこにはない。絶対多数の人々が営む日常現実とは次元を異にする領域にそれはあって、努力次第で誰もが共有できるもとはないからだ。しかしそれも人間という現象の実態であり実相なのだ。そこで人々は懸命に自分を生きている。それをわずかな苦みを滲ませた微笑とともに見守っているのもそういう人たちなのだ。憎まず蔑まずただ見つめる。私は、そこにこそ、激怒や慈愛の気配として気づかれ造形されていった神というあり方を超えた神という観念の棲息する領域があるのではないかと思っている。私利私欲を離れた眼差しそれが神だ。だから、いつからか神は人間のような、理想形としての人間のような姿形になったのだろう。

 今ここで食べたい!と望んだものがひょいっと目の前に差し出される。これも言うなら神業ってものだろう。言うなら二人の邂逅は神の領域で為されたということなのかもしれない。こういうオシャレな設定をなに気なくやって見せるのもまた粋だ。今のこの時代にその肖像が紙幣のデザインに採用される。そこに人知を超えたものの意図が現れているのだとしたら。・・・・・やれやれ、とんだ妄想だ。

「大将、あの藍染の上っ張り借りていいかな」

「いいけど・・」

「今度は、わたしが・・・君に握ろう」

合掌。

 

 
 
 
 
 

 

“無題”

 現地の情勢を伝える女性アナウンサーの「シノチュウシンカラノタイヒ」が「死の中心からの退避」に聞こえてしまった。むろんそれが聞き違いであることはすぐに分ったが、気持ちは暗澹と塞いだままだ。天井のない監獄。実に壮絶だ。あの20世紀の大規模な惨劇を経験してもなおヒトは絶望的に壮絶に愚かかつ不自由だ。これ以上を言う言葉がない。ここは言葉のない監獄なのだ。

 

 「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらはこれに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の内に生存する権利を有することを確認する。

 われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民は、国家の名誉にかけて、全力をあげて崇高な理想と目的を達成することを誓う」

 

 “人間という種の驕りに立つ人間第一主義ではない、地球という天体上で発生した生命現象全体を代表する知的生命種としての人間主義、その担う重い責任において進んで選び取る生き方あり方の動かしがたい主軸としての普遍主義、そしてそれと裂きがたい一体のものとしての人道主義”。これを高らかに謳ったのが日本国憲法前文ではないだろうか。ある意味、ここではあらゆる意味での第一主義的なるものが排除されている。このステージに立って現状を眺めるとき暗澹としない方が不思議だろう。この宣言文は特定の国のごく特殊な事情など超えたところに由来するものであり、この絶好の機会を逃すまいと固く決意した心ある人々が万感の思いと深甚たる祈願を込めて成文化したものに違いない。私はそう考える。これが一つの崇高な文化的達成であることは疑いない。だが、ネコに小判の意味は分からない。肝心大事なことが理解できない感得できないということほど痛いこともない。そこにある痛切なる欠如がありとある悲劇を招き寄せる。われわれは究極憐れで愚昧なネコのままに終わろうとしているのだろうか? あの豪壮堅牢な建造物の中で日々繰り広げられている摩訶摩訶大不思議な茶番劇を前に希望を見出だせと言う方に無理があるだろう。実はわれわれも天井のない精神病棟にでも幽閉されていたのではるまいか? そう思えてならない今日この頃だ。惨憺たる今日この頃の遥か彼方で日常茶飯事かのように殺戮がつづけられている。

 TVでは花見に興じる人々の姿だ。平和な国の平和な季節。相変らず海外からの訪問客で各地は賑わい、一方では時代を映す様々な犯罪が方々で発生している。名だたる大企業から円安による記録的な経常利益が報告される陰でその円安の痛撃で中小の企業がひっそりと次々に廃業してゆく。いつの世にもある明暗の光景なのだろうが、そこにある居心地の悪い歪みの感覚にはひたすら薄気味の悪い予感を覚えるばかりだ。この胸底をくすぐられるような感触はなにかに似ていると思いめぐらして思い至った。ジェットコスターがゆるゆると頂点に向かって登ってゆく際に覚えるあの感覚だ。実にイヤ~な感じだ。イヤ~な感じがイヤ~な感じのままに終わればいいのだが。

 内外を問わず人の世の現在地はどうにもならない矛盾と葛藤のただ中にある。まさにどうにもならない。・・・私たちの監獄には屋根や天井どころか出口さえもなかったということだ。天体規模の椅子取りとババ抜きのゲーム。アガサならこう締めくくるのだろうか。“そして誰もが誰をも愛せなくなった”。

 もっと光を!! 合掌。