“前回に追記” | “終末の雨は涙色”改め“再生への風”

“前回に追記”

 時折ふと気がつくと軍歌を口ずさんでいることがある。あれあれとは思うのだが、歌にもあるいはその当時これを歌って悠揚と死地に赴いていった若者たちにも罪などない。そこに生まれそこに家族がいて、そこが危急存亡の崖っぷちにあるとなれば、脳が爆発しそうなほど考えあぐねた末、健気な若者たちは無理やりな理屈づけで己を説得し逃れようのない運命を受け入れるしかなかったのだ。その苦悩と抗いと受忍の様を伝えるのに“痛ましい”以上の言葉を私は知らない。生まれ育ったそこは人間にとって日々暮らす場所であり襲い来る危機から守られる場所なのだ。そこが実際どういう状況にあろうとそれは変わらない。そこにわれわれヒトの根底的な悲劇がある。ましてやそこを支配する力ある者たちの出来次第ではその悲劇度は増すばかりだ。なんにせよ、そこに人間個々人の事情や思いなどとは異次元の巨大な対立構造がある。ごく普通の若者たちにそうする以外の選択肢はなかったということだ。生命を預けるその場からの強い要請を拒絶する道がないわけではなかっただろう。だが、それができた人間たちはごく稀だ。若者たちには彼の行動選択次第で大迷惑をこうむる家族がいる。理由はそれだけでも十分だっただろう。

 私は前回地下壕で二人の若者を再会させた。その痛切な事態に私自身も戸惑い、うずくまってしまった。幼い頃親密に交わった二人の若者が敵同士として向き合う。そして一人は疲弊の極致にあって死に瀕している。残されたわずかな時間二人はどんなことを語り合っただろうか? 自分たちを襲ったものの正体? あるいはそれぞれのアイデティティー問題? だがそのどれにも爽快明快な答えなど見出しようはなかっただろう。どれほど想像の目を凝らそうと地下壕の薄暗がりの向こうに仄見えるのは人間という生き物の絶望的な現実だけ。そもそも二人が実は幼馴染だったという事実はこの悲劇にとって本質的だろうか? 私にはそう思えない。敵は殺せという命令に従って引き金を引きつづける者たちの陥っている地獄も変わらず痛ましいものだ。あるいはそれを命じている者たちさえも。紅蓮の炎上げて燃え盛る憎悪がすべてを単純化させ、あらゆる麗しき理念がそこで燃やし尽くされる。人間の尊厳、生命の尊厳、個人の尊厳。生み出すのに何万年がかかろうが火に投じればあっという間だ。

 私たちに今希望を語る資格はない。生に向かってたぎる野生の本能がむき出しにされたところでは人道や普遍の倫理などただの炭素化合物にすぎない。しかし、そこで燃えているものはそれだけではない。希望ある未来も炎を上げて燃えている。多分二人が救えないのではなく、ヒトという生き物が救えないのだ。生存は犠牲の上に成立するという大原則を超脱することができない限り、この板子一枚下の地獄を終わらせることはできない。敵というものは、敵視するか否か以前に、実はいつでも出会っているものなのだ。小さな集団の諍いから企業間の競争、宗派間の反目、国家間の対立。数限りないところで複層的に絡まり合った敵対構造の渦中でわれわれは日常的に戦っている。群れから遅れた一頭のウシがライオンに捕らわれる。その凄惨を悲しんでいる暇などない。その犠牲によって群れは逃れることができる。だからそれはこの天体上で起きている生命現象を象徴する聖餐でもある。われわれ生命の日々の営みはそうやってつづけられているのだ。個体が先か集団が先かの議論など無益だ。そもそもそれは分かちがたく一体のものだからだ。その生命ギリギリの強制と呪縛のさ中で生きていくしかない。個々体は集団に依存し、集団は集団の維持のために犠牲を要求する。われわれはあらためてわれわれヒトにおける集団性というものの根源性について考え抜き腹に据える必要があるのではないかと私は思う。運命を共有する仲間たちとの紐帯抜きに生きることはできないという事実は重大だ。戦争というものが容易なものでないことがあらためて思い知らされるのではないだろうか。あまつさえ長年にわたって激しく憎み合い殺し合ってきたのだ。この絶望的な泥沼から抜け出す方法を見出だすことの困難さに呆然とするしかない。だが、この21世紀こそがそれをする段階なのだとするしかないだろう。でなければわれわれは迫りくる第三次の世界的惨劇によって滅びの縁にまで追いやられるに違いない。そのためにも愚かな世代は一日も早くその地位を去るべきではないだろうか。未来は未来に委ねるべきだ。この惨劇を止められない世代に未来を云々する資格はない。合掌。