*5月7日エントリー の続きです。
R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは徳川家康です。
本日は、江戸開府 のおはなし。
あんみつ 「先生、慶長五年(1600)九月十五日の 《関ヶ原の合戦》 に勝利したとはいえ、即豊臣家との君臣関係を解消したわけではないですね。毛利輝元を退去させたあとの二十七日、家康が大坂城へ入り8歳の豊臣秀頼に戦勝を報告、西の丸を本拠として天下の執政となります」
ぜんざい 「石田三成の捕縛処刑により、石田が大坂城に逃げ込んで秀頼を奉じ再起を図られる、という最悪のシナリオが回避できた代わり、西軍の謀反から秀頼を守ったという体裁にせざるを得なかったわけだ。そこで家康は秀頼の名のもと、西軍諸大名の所領をせっせと接収、東軍の恩賞として再配分していく」
あんみつ 「関ヶ原のあとも庄内で伊達政宗・最上義光と対峙していた上杉景勝は、慶長六年(1601)三月に至って抗戦を断念。八月に伏見で家康に謁見すると、会津120万石没収を受け入れ、米沢30万石に削封されました。毛利・宇喜多など西軍の収公地は総計640万石に及びます」
ぜんざい 「これにより豊臣家の身代は、蔵入地(直轄領)220万石から摂津・河内・和泉の65万石に減らされ、事実上一大名に過ぎなくなった。除封された大名が蔵入地の代官を兼ねていたからだが、豊臣家にしたらキツネにつままれた思いだったことだろう」
あんみつ 「東国では、東軍西軍どちらにも属せず日和見した佐竹義宣を常陸54万石から秋田20万石に移封、かつて秀吉により宇都宮12万石に移封されていた娘婿の蒲生秀行(鶴千代)を会津60万石に復帰させるなど、戦後処理は着々と進みます。唯一、薩摩の島津だけは旧領77万石を安堵されたわけですが」
ぜんざい 「当初家康は、秀忠を大将、毛利輝元を軍監として薩摩討伐を公言したが、島津龍伯(義久)・忠恒は、西軍に属したのは惟新(義弘)の独断であり、それも秀頼への忠義を曲解したものと必死に弁明した。家康からは当主忠恒の上洛謝罪を条件に旧領安堵と惟新赦免が約束され、島津からは牛根に匿っていた宇喜多秀家を放出することで手打ち。慶長七年(1602)十二月、伏見で家康に忠恒が謁見の運びとなる」
あんみつ 「これを、戦後処理を早く終えたい家康に、のらりくらりと交渉を長引かせた島津の小さな勝利、と評価する向きもありますけど、実態はそうじゃなさそうですね。薩摩大隅は旧来から土着豪族が強く、島津も統治に苦労してきました。農民に比して侍の割合が高いのに、今後は領土拡大戦争なしに表高77万石、実は35万石の低生産力で治めなきゃいけないんだから、現状維持というだけでじゅうぶんな懲罰です」
ぜんざい 「豊臣家以外の大名を屈服させた家康は、朝廷から 《征夷大将軍》 の宣下を受ける。これまでの家康の官位は正二位内大臣。氏姓という公的な名字は ‟豊臣” だったのを、将軍になるため ‟源” に改めた。家康が源氏の血統というのは詐称なんだが、源氏長者の称号は武家の棟梁としての根拠に成り得る。ここが豊臣家との主従関係を断ち切ることを表明したターニングポイントと言えるだろう」
あんみつ 「氏姓とは祖先が天皇から直々に賜った名字で、源・平・藤原・橘とか紀・伴・大江・菅原などが有名ですね。秀吉は関白になって正親町天皇から豊臣姓を賜ったのでした。そのあと家康ら臣下にも下賜されましたから、それ以降公的には ‟豊臣朝臣(あそん)家康” だったのを、このたび ‟源朝臣家康” としました。徳川は苗字...細かく公私の区別をつけてたんですね」
ぜんざい 「慶長八年(1603)正月、7年前の震災から再建された伏見城において、将軍宣下の儀が執り行われた。後陽成天皇の宣旨を携える勅使は広橋大納言兼勝と烏丸佐中弁光広。同時に従一位右大臣、源氏長者、淳和奨学両院別当にも任じられ、家康は晴れてかつての足利将軍家と同等の地位を得た」
家康直筆の 「天曺地府祭都状」 原文は朱書
あんみつ 「 62歳の家康は衣冠束帯の正装で勅使を出迎え、うやうやしく宣旨を受け取ると、返礼として大量の砂金の包みを献上したとか。そのあと 《天曺(ちゅう)地府祭都状》 と呼ばれる天下泰平を祈る陰陽道の祭文が、家康自身によって読み上げられました。一時代の始まりに相応しいセレモニーですねぇ」
ぜんざい 「将軍となった家康は、その期間のほとんどを伏見城で送ったが、ここを政庁にする気はなく、江戸の町づくりを着々と進めていく。征夷大将軍の威光を示すために江戸城を壮麗なものにする必要があったからね」
あんみつ 「江戸城は、かつて相模守護の扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰だった太田道灌が長禄元年(1457)に築いた武蔵野台地東部の土造砦です。天正十八年(1590)に家康が移封したあとの普請掃除(=接収後の模様替え)でもあまり改築しませんでした。周辺一帯はあまり人家のない野原だったと言います」
ぜんざい 「当時は経済的に町づくりを優先したことと、関東地方では粘土に比べ石材の調達が困難だったからだ。秀吉に伏見城(地震前)の工事を命じられたからそのヒマもなかった。しかし天下人となった今、その本拠地に相応しく、かつての信長の安土城や秀吉の大坂城に匹敵する拡張工事にかかった」
あんみつ 「そこで譜代、外様に関係なく有力な大名に命じて夫役を提供させ、江戸の町を都市整備する 《天下普請》 を開始したわけですね。神田山を掘り崩し、その土砂で日比谷から先の入江を埋め立てる大工事です。重機の発達した現代でもたいへんなのに、ぜんぶ人力ですからねぇ~、人類ってすごい」
ぜんざい 「家康はなお江戸城より運河開削や用水路、市街建設を先行したため、本丸築城を始めるのは3年後になる。その間に家康は在職2年2ヶ月にして嫡子秀忠に将軍職を譲った。諸大名の統治は徳川によって続くとの意思表示なのはもちろんだが、家康にそう決心させる切実な事情があったんだ」
今回はここまでです。
関ヶ原合戦の戦後処理に約2年4ヶ月。大坂の豊臣以外の諸大名を屈服させ、武家の棟梁たる征夷大将軍に叙任した家康の次の関心は、徳川の天下を盤石にすることでした。
次回、江戸駿府、二元体制 のおはなし。
それではごきげんよう。