*5月4日エントリー の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコと近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トーク、今回のテーマは昭和戦時中の外交官・杉原千畝です。

 

 本日は、フィンランドの杉原千畝 のおはなし。

 

 

 

 

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 あんみつえー? 「しらたま先生、1935年(昭和10)7月、杉原千畝は北満鉄道買収交渉の大仕事のあと満州国外交部を辞職、15年のハルビン生活から帰国しました。当時35歳。陸軍参謀本部のスパイにさせられるのがよほどイヤだったんですね」

 

 しらたまオバケ 「語学と交渉力が買われていた一方、実は彼の妻クラウディアの存在が問題視されていたんだ。ソビエト共産党員でない、いわゆる白系露人なのだが、彼女を通じて日本側の情報がソ連に漏れてるんじゃないか、との疑いの目があった。杉原へのやっかみもあったのだろう。イヤな話さ」

 

 あんみつぼけー 「本 現在でも、海外からの留学生や就労者を中傷するのにスパイうんぬんっていうヘイトがありますし。当時の外交官の家族では、なおさら居たたまれなかったことでしょう。悲しいことに、杉原は帰国にあたってクラウディアを伴うことが出来ず、結婚11年にして協議離婚...じっさいは全貯金と手紙を置いて、黙って出て行ったようですね」

 

 しらたまオバケ 「クラウディアの写真一葉もないので、文字どおり婚姻歴を消さざるを得なかったのだろう。杉原は霞が関にある外務省本庁、情報部の勤務となった。この期間に出会ったのが13歳下の菊池幸子(ゆきこ)。彼女が1994年に 『六千人の命のビザ』 を出版する人だ。杉原は、幸子が初対面で ‟チウネさん” と呼んでくれたのにいたく感動したらしい」

 

 あんみつウシシ 「あはは、そういえば難読ですからね。たいていは ‟センポさん” と呼ばれたことでしょう。ふたりは交際中、堂々と銀座でデートしたとか。こういうあたり、長い海外生活のおかげですねぇ。本庁勤務といっても出張が多く、通訳のためカムチャツカ半島に行っている間に長男が生まれました」

 

 しらたまオバケ 「1936年(昭和十一)暮れ、麻布台のソ連日本大使館勤務を命じられた。ところがここで思わぬトラブルに見舞われる。外務省はソ連大使を通じ、通訳官たる杉原の入国ヴィザを発給するよう求めたのだが、いくら待ってもガン無視されたんだ」

 

 あんみつイヒ 「本 当時は日ソ漁業交渉の最中。というか、現在も地先沖合での漁獲割り当ては定期的に協議してますから、両国にとって昔も今も最重要案件です。逆にいえば、漁業委員会がある以上、平和条約なしでも日ロ関係がずっと保たれているという」

 

 しらたまオバケ 「外務省は、杉原はすでに白系露人の妻とは別れている旨を説明し、心配無用と伝えた。ところが、やっときたソ連の返答はなんと 『スギハラはペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)である』 というんだ」

 

 あんみつアセアセ 「ウィーン条約で規定されている、一方的で理由の説明も要らない外交上の措置ですね、英語だと ‟Person not Welcome”。近年はウクライナ侵攻によって各国からロシア外交官に多く発動され、日本では1983年1月に中川一郎衆院議員がアメリカ入国を拒否されたのが有名です」

 

 しらたまオバケ 「酒匂(さこう)秀一参事官の抗議に対し、ようやくソ連大使館は杉原のクラウディア夫人以外の白系露人とのネットワークを理由に挙げた。報復として外務省は新任ソ連領事のヴィザ発給を拒否する。するとソ連はさらに在ソ日本人外交官を締め出したので、事態は報復合戦の泥沼だ」

 

 あんみつもぐもぐ 「本 外務省は、同時に杉原に事情聴取したんですね。彼はかつてチェルニャエクなる白系露人を世話して情報を得ていましたから心当たりがあったでしょうけど、このときはシラを切り通しています。むしろソビエト共産党員と接触していて、おかげで満州国外交部にいられなくなったんだ、と」

 

 しらたまオバケ 「とうとう駐ソ大使・重光 葵(まもる)がソ連外務人民委員会(外務省)に直接働きかけるまでになった。重光は1945年9月に外務大臣としてミズーリ艦における降伏文書調印を行うことになる人だ。それでもソ連の姿勢はまったく変わらない」

 

 あんみつしょんぼり 「どうやら、北満鉄道買収時における杉原の交渉ぶりが警戒されたようですね。ソ連の事情に通じすぎてる、きっとスパイを使ってるに違いない、そんな人物を入国させては必ず禍のもとになる、と。とうとう外務省は杉原のソ連大使館転勤を断念しました」

 

 しらたまオバケ 「1937年8月、外務省は新設の在フィンランド公使館勤務を杉原に命じた。フィンランドが1917年に独立してからずっと、日本側はスウェーデン公使が兼任していたんだ。初代公使に就任した酒匂秀一が杉原を引き立てたかたちだ。プライベートでは家族ぐるみの昵懇だったらしい」

 

 あんみつほっこり 「本 ところが、ソ連入国ヴィザのない杉原はシベリア鉄道に乗ることができず、わざわざ一ヶ月かけて海を渡ったんですね。幸子さんと妹の節子さん、1歳の息子と4人の船旅はたいへんだったことでしょう。留学気分で明るく振る舞っていた節子さんのおかげでずいぶん助けられたようです」

 

 しらたまオバケ 「フィンランド語までは通じてない杉原は、英語とロシア語の二等通訳官。ヘルシンキでは自動車免許を取ったり、次男が生まれたりと平穏な日々を過ごす。かのジャン・シベリウスが指揮する演奏会を聴きに行き、本人から 『フィンランディア』 のサイン入りレコードをもらった、なんて話もある。ヨーロッパを戦雲が覆う前の束の間だ」

 

 

   

 

 

 今回はここまでです。

 日本人初の ‟ペルソナ・ノン・グラータ” 指定事件の当事者となった杉原千畝はとうとうソ連外交から外れ、北欧フィンランドに新境地を見出しました。

 

 次回、バルト海の杉原千畝 のおはなし。

 

 

 それではごきげんようオバケニコ