アメリカが中国製太陽光パネルの輸入制限を決めたとのこと。
 どうなんだろう、これ。
 アメリカの太陽光発電ブームも終わったと考えるべきなのか。
 それともアメリカ製の太陽光パネルでしのぐのか。
 さて。
 BS日テレNEWS24(1月23(火)午後10時放送)の「なぜ世界各国は月を目指すのか?」を見ました。
 正直言って期待したほどでは無かったが、後半、中国の宇宙開発の現状を解説したところは良かった。
 すでに日本は後ろに火がついていると言ってもいいかもしれない。
 頑張れ日本。
 地球人口のピークはどのくらいだろうか。
 かつては人口は無限に増え続けていずれ地球はパンクするというのが未来のイメージだった。
 しかし、日本の人口も既にピークを越え減少に向かっているように、人口はいずれピークを越えて減少するというのが未来のイメージになっている。
 世界の人口はまだまだピークは遠いとはいえ100年も持つかどうかは判らない。
 ピーク人口は150億か200億か。
 しかし300億とかましてや1000億とかにはならないだろう。
 だが医学の進歩で人間の不老長寿化、不老不死化ができれば人口は無限に増え続けるかもしれないな。
 その時は宇宙移民が必要かもしれない。

 1年近く前に、このブログの「小説」に載せた小説「ルナティック・グリーン」を「小説家になろう」に投稿しました。

 転載の場合はその旨を書いておくようにと「なろう」ではなっているようなので記載しました。

 よろしければお目汚しのほどをお願いします。

 四大天才のうち、出崎統は既に亡く、他も皆老いた。
 アニメ界は全体としてのレベルは確かに上がったと思う。
 今、ここはひどいなどと言われるところも70年代なら中堅以上に評価されるレベルと思う。
 しかし、トップレベルはどうだろうか。
 新海誠は四大天才に匹敵するほどの才能だろうか。
 今、日本アニメは世界中に広がり、日本が好きな人のほとんどはアニメ好きから入ってくる。
 日本アニメの将来は、冗談抜きで日本の将来を左右する。
 そう言っても過言ではないだろう。
 70年代の日本アニメ界というのは、まさに疾風怒濤の時代だったなあと思う。
 様々な天才英才がひしめき、複雑に絡み合いさながら戦国時代のようだった。
 今は作画レベルこそ当時に比べると高いと思うが、演出レベルなどは当時の方が(トップクラスはだが)高いと思わざるを得ない。
 またレベルの低い人間はそれなりにやっていけるという意味でも混沌とした時代だった。
 ああいう時代はもう帰っては来ないと思われる。
 80年代以降は宮崎駿の一人勝ち時代だったと思われる。
 90年代、あの4人よりも優れた才能を持つと思われた、佐藤順一と幾原邦彦の登場があったが、幾原邦彦は10年以上にわたり沈黙し、佐藤順一は便利屋のようになってしまった。
 富野喜幸(由悠季)は巨大ロボットもののジャンルそのものを改変し、経済的な安定も得たが、そこで力尽きてしまった。
 出崎統は便利屋になってしまった。
 企画の自由から経済的裏付けまでを得たのは宮崎駿と高畑勲の二人だけだった。
 もうひとつ、70年代で忘れてはならないのが1972年の「科学忍者隊ガッチャマン」を始めとするタツノコプロの作品である。
 シリアス、ギャグ共に独特な作風を持った会社だったが、社長の吉田竜夫が1977年、45歳の若さで急逝すると、会社は迷走を始めた。
 それと、1971年登場の東京ムービー「ルパン三世」。
 アニメ界で独特な人気を保っている。
 高畑勲のスタッフとして活躍していた宮崎駿が監督としてデビューしたのが1978年制作の「未来少年コナン」である。
 言うまでも無くアニメ界のエース中のエースとしてその名を日本のみならず世界に轟かせた。
 氏に関しては70年代というよりも80年代以降の活躍となるため、ここでは詳しく書くことは控えよう。
 サンライズはその後、東映動画の下請けとして「コンバトラーV」「ボルテスV」「闘将ダイモス」「ダルタニアス」を制作した。
 この長浜忠夫によるシリーズも面白いが、その一方でサンライズは下請けでは無い元請け制作での巨大ロボットものを制作していった。
 TV局・名古屋TV、スポンサー・クローバーといったマイナー企業と組んで作られた1977年「ザンボット3」1978年「ダイターン3」、そして1979年、70年代の最後を飾り、巨大ロボットアニメのみならず、アニメ界全体からSF界までひっくり返した「機動戦士ガンダム」の登場である。
 これらは富野喜幸の監督作品だった。
 ただこれらの作品は、マイナー企業と組んだことによりより多くの自由を得たが、そのかわり制作条件、平たく言えば金銭的な面では恵まれなかった。
 それを補うためにスタッフが払った犠牲(例えば作画監督の安彦良和は途中で倒れてしまった)を軽んじる気は無いが作画レベルは高いとは言えなかった。
 特に、高畑勲や出崎統作品と較べると。
 しかし、富野喜幸によるストーリーと演出レベルは極めて高かったので、現代でのリメイクに対してはすぐさま賛同しがたいのである。
 巨大ロボットものの商業的な利点をうまく利用して、70年代成功したのが虫プロ系のサンライズである。
 商業的基板の緩さで失敗して、社員を路頭に迷わせた虫プロの反省から(ラーメン屋台を引いて糊口をしのいでいた人もいたという)玩具メーカーと手を組んでアニメ制作を開始した。
 その最初は1975年の「勇者ライディーン」である。
 しかしサンライズ(当時は創映社)は下請けであり、元請けやTV局から制作中盤で路線変更を指示され、あげくに監督であった富野喜幸は降板させられ長浜忠夫に引き継がれた。
 「勇者ライディーン」は結果として巨大ロボットものとしては良く出来た作品に留まった。