断絶への航海
昨日のエントリーで、著作物での商売は出来なくなるという暴論を吐いてみた。実際のところ、貨幣経済そのものが“今のところ機能している”間に合わせのシステムに過ぎないという思いがある。
物事に「非経済的価値」があることは誰もが認めるだろうが、あたかもそれを忘れたかのごとく「経済的価値」のみを重視する風潮が様々な問題の根底にあるような気がしてならない。貨幣では計れない価値について改めて考えてみる必要があるのではないかと思う。
- 断絶への航海 (ジェイムズ・P. ホーガン, James P. Hogan, 小隅 黎)
この作品には、非貨幣経済の一つの形が登場する。これが正解であるとは言わないが、少なくともこのような経済が成立する可能性はあるし妥当性も皆無ではないだろう。いつしかこんな未来が訪れることを夢想してみるのも楽しい。もっとも「合理的無政府主義」が成立する程には、人々が理性的になる必要があるのだが。
コンテンツとそのデジタル化
You Tube にTV放送の内容がそのまま登録されていることが問題視されてきているようだ。複製権や放送権の侵害に当たるということなんだろう。
以前に考えたことだが、現行の著作権の枠組みでは現在の社会に対応できなくなって来ているのだと思う。著作物のデジタル化が行われた瞬間に、その複製や二次利用は制限できなくなってしまう。劣化の無い低コストな複製こそがデジタル化のメリットであり、また本質的な部分でもある。例えばコピーワンス等によって制限する案もあるが、技術的に障害を設けても技術的に解決されてしまうことは明白だ。もはや著作物の利用に当たってデジタル化をして良い/悪いというレベルで、利用者の権利を制限する以外にないのだ。そしてデジタル化を許す以上は、その先にどのような利用をされても文句は言えないと。
著作物を利用する側の大多数は大部分の著作物に対して、より安価であることを望んでいるだろう。手元の資金が有限である以上は、自分が価値を認めるもの -例えば一部のTV番組や一部の書籍- に対してコスト負担をすることは自分としてもやぶさかではないが、それ以外の大部分にお金を払おうとは思わない。現にTV放送もラジオ放送も、直接的には著作物の利用に対してお金を払っていないのだし。 コスト負担をしないのならば利用するなと言われたならば、利用しないで済ませるだけのこと。自分にとってはその程度の価値しかないということだ。そこに安価に利用する手段があるのであればそれを利用する。新刊で手に入れたいと思う以外の書籍は、誰だって古書店や図書館を利用するのだから。
作者はどんな思いでいるのだろうか。私見に過ぎないが、それによって生活が出来なくなってしまっては意味が無いが、基本的にはより多くの人々に利用して欲しいと思っているのではないだろうか。例えば二次利用という行為は作品に対するリスペクトの表れであり、オリジナルの作者としては基本的に歓迎してしかるべきだと思うのだ。そして低コストでの複製・流通が可能な著作物のデジタル化は、作者のニーズにも合っていると思う。
もし自分の作品を他人が利用することが許せないというのであれば、そもそも作品を発表することが間違いだろう。著作権法自体も著作物が広く利用されることを目的の一つとしている。
また、著作物の流通によって生計を立てている人々がいる。
彼らにとってもデジタル化はメリットがある。安価に複製・流通できるのだから製造原価は下がる。例えば、それによって従来よりも安価な提供をして利用者/市場の拡大を狙うなど、今や当然のように行われている。問題は、彼らは如何なる形であれ、権利を有する著作物が勝手に利用され流通することは望まないということだ。コストをかけて流通させてもそれが収入にならないのであれば、文字通り“商売にならない”。
ここからは殆ど暴論だとは思うが、著作物での商売は出来ない時代が来るのじゃないかと思う。著作物を利用したいのならば、利用したい本人が作者に直接支払うしかないのではないか。つまりはパトロンだ。それが良いもので自分だけでなく多くの人にも利用して欲しいならば、作者なりパトロンなりが(何らかの契約のもとに)行えば良い。めぐり合ったパトロンが全てを自分だけのものとしようとして作者がそれを望まないなら、別のパトロンを探すしかないだろう。また、細かい注文をつけるようなパトロンが嫌ならば、作者の自由にさせてくれるパトロンを探すしかないだろう。でも、いまやパトロン探しだって、ネット利用によって実に安価に広範囲に出来る時代だ。決して実現不可能ではないと思うのだけれど。
もしそれによって創作活動の暗黒時代が訪れるのであれば、人間にとって創作物とはその程度の価値しかなかったということなのではないか。わりと本気でそう思っている。
クロノアイズ
サッカー・ワールドカップでは日本を含めたアジア勢の敗退が決まり、ニュース等もすっかり普通に戻った感がある。国内では日銀総裁の進退問題やそれに関わる形でのやとう党首の共同声明、放火殺人に耐震偽装問題と、何も変わらない日常がそこにある。海外に目を転じても、自衛隊のイラク撤収に北朝鮮のミサイル、東ティモールにアルカイダと、あいも変わらずの2006年6月だ。
そしてそんな現実も自分にとっては実感を持たない蚊帳の外の出来事に過ぎず、目の前にあるコミックやゲームが日常だったりしている。それで良いのだろうか。
それで良いのである。
- クロノアイズ (1) (長谷川 裕一)
- クロノアイズグランサー (1) (長谷川 裕一)
「クロノアイズグランサー」には“ジャパニメーション”(日本発のアニメやコミック、ゲームの総称)が最終戦争を終結させるというネタが登場する。トレカの交換やアニソンの歌合戦が始まって、前線の兵士が戦闘を放棄して戦線が崩壊するというネタだ。
例えば、それによって自分が大好きな作品の作者が死んでしまうかもしれないという時に、引鉄を引いたりボタンを押したりできるだろうか。自分には出来そうも無い。愛が地球を救うというのなら、その対象は人間である必然性は無いと思うのだ。
だから、私は私の好きなものを愛し続けようと思う。非生産的で消費するだけの行動と言う人もいるだろう。それで良いじゃないか。それは、ひょっとすればいつか平和に繋がる道なのかも知れないし。
何よりも、それで私の魂が平穏を得られるのであれば。
「光あるところに影がある」
なぜ「サスケ」のナレーションがタイトルなのか。
ブックマークに入れている産経新聞黒田氏のブログと同じところにある、とあるブログ記事を読んだからだったりする。上島嘉郎氏のブログ「遠くの声を探して──編集者酔夢譚 」の“見えない暗闇”がそれだ。特に目立ったこともなくブログのネタに困った金曜の夜、思うところを酔いに任せてダラダラと書くのも一興だろう。
(以下、酔っ払いの戯言と御笑覧ください。)
ラグビーは、紳士のスポーツである。
これは、「いいか、お前達は紳士なんだから紳士らしく振舞えよ。ノーサイドの精神を忘れるなよ。試合が終わったら相手は敵じゃないぞ。取っ組み合いの喧嘩をしたり間違っても相手を殺したりするなよ」という意味だ。
人は色々なものを比べたがる。勝ち負けに拘る。勝つのは嬉しい。負けるのは悔しい。だから勝とうとする。競技は勝つことが目的なのだ。そして規制が無いか緩ければ緩いほど、目的が手段を正当化する。様々な理由によって人は手段を正当化する。人の心は弱く、ルールだけをもって規制することは難しい。
だからルール以外にも規制がある。ラグビーの例もそうだし、「スポーツマンシップに則り正々堂々と云々」というのも規制だ。スポーツマンにはすべからくスポーツマンシップがあるのではなく、正々堂々と戦った者だけがスポーツマンを名乗れるという意味である。競技という枠組みが破壊されないように、ルールとは別の規制が必要なのだ。
「職業に貴賎なし」という言葉がある。これは厳然たる事実として職業に貴賎が存在することを意味している。だからこそ、職業によって人を差別しない為の規制としてこの言葉がある。 「差別は良くない」という言葉があるのは、そこに差別が存在するからだ。声高に主張すればするほど、自らの心の中にもそれが存在することを意識しなければならないだろう。差別意識は持っていないと言いながら先の言葉を言うのは、それは欺瞞だろうと思う。(より精密な議論の為には、まず「差別」とはどのような事象を指しているかを明確にする必要があるだろうが、ここでは割愛する。)
例えば「看護婦」という言葉。例えば「盲」という言葉。こういった言葉を耳にしたくない人々、目にしたくない人々は、その言葉によって自分の中に闇があることを気付かされるのが嫌なのだろう。(これは私の勝手な想像であって、またこれを認める人もそう多くは無いと思うが。) 先の上島氏は、闇は目に見えないが存在はしていると言う。それを知るための手がかりとしての言葉を葬ってはならないと言う。賛成するのは簡単だが、あえて別の意見を持ち出してみようと思う。
周囲の闇を全て消し去ることで光だけの世界が訪れるだろうか。
おそらくはできる。
天国は光に満ちているという。
しかし、霧や吹雪の中では影だけでなく対象物そのものが見えなくなるように、TV等の画面でコントラストを抑えるほど平板で印象が薄くなるように、光だけの世界ではそれ以外の一切が見えなくなるだろう。そして視界の外には、やはりくっきりとした影が存在しているのだ。無影灯の裏側には、天国から見た地獄の闇がある。光が強いほどに、さらに黒々とした闇が。
仏教で言う「六道輪廻」では、神の世界である天界も魂の修行の場であり仏の世界ではないという。全てが思い通りになる世界にも「全てを思い通りにしたい」という執着(あるいは煩悩)があるという。ましてや光と闇が同居する人間界で視野から全ての闇を消し去り天界の風景を実現しても、結局は輪廻に囚われたままなのだ。そのとき、視野の外にある闇の濃さは如何ほどのものだろうか。
こうでなければいけない、こう在らねばならないという思いは、それがどのような方向を向いていてもどこかに影を生じる。そこに影があることを認めることができるだろうか。
影はもう無いのだと言うよりは見えなくとも確かに存在すると認めるほうが、自分の好みには合っている。
HD-DVDレコーダー
東芝が、HD-DVDレコーダーを7月に発売開始するらしい。正直に言って、どれだけ売れるのかと思う。価格も40万弱と高価だし。
先行して発売されたPC用ブルーレイディスクドライブは売れ行きが悪いようで、秋葉原には「売れ方のニブさに絶望した!!
」だの「待望の次世代 高額 光学ドライブ
」だの、かなり自虐的なPOPが店頭を飾ったらしい。
どちらの方式が最終的に生き残るのかも不明だし、やはり当面は様子見にならざるを得ないと、自分でも思う。
ハードディスクの容量が異様に肥大化する昨今、外部メディアでバックアップが取れるのは非常に魅力的ではあるのだけれど・・・。
IWC総会が閉幕
国際捕鯨委員会の年次総会終了にあたって、議長と副議長の改選があった。で、副議長に選出されたのが日本代表の森本氏とのこと。19日の捕鯨支持派による宣言の可決に続いて、良かったと思えるニュース。この流れが続いて、捕鯨再会に繋がって欲しいものです。
数年前に、友人と鯨料理の店に行ったときのこと。
珍しさもあってつい「さえずり」や「尾の身」を先に頼んでしまったのだが、「最後まで赤身を食べないわけにもいくまい」と注文。一口食べた瞬間に、あぁこれが鯨の味だった・・・もっと先に、もっと沢山注文すればよかった・・・、と大後悔。次は失敗しないようにと、固く心に誓ったのだった。
そんなわけで、早いところ普通の店で当たり前に食べられるようになって欲しいですね。
さよなら絶望先生
会社で「絶望した!」という台詞を耳にした。どうやらファンがいるらしい。
- さよなら絶望先生 4 (4) (久米田 康治)
それはそれで良いことだとは思うが、多少の疑問が無いでもない。どうもウチの会社は濃いオタクがいないようなのだが、だとするとこの作品のネタは半分がところ通じないのじゃないか。本人達が面白がって読んでいるのであれば、それはそれでOKとは思うけれども。
ふと思い出したのが、友人から聞いた話。10以上歳下の“若い衆”が「僕、オタクなんです」と誇らしげに言う割には、振ってくるネタがものすごく浅いとのこと。例えば「知ってます? シャアって名前が3つあるんですよ」とか。軽くても良いじゃないかと思う反面、「お前の力はそんなものか」とも思わないでもない。
その友人には「試しに、『一週間待っていろ、俺が本物のオタクってものを教えてやる』とか言ってみたら?」とアドバイスしてみたのだが、残念ながら却下された。曰く「面倒だから」と。自分でもそう思う。
手作り全自動ブックスキャナ
仕事を適当にこなしつつ、Webを巡回していたらとあるサイトで紹介されていた。
21世紀物理のおもちゃ箱というサイトのコンテンツ。何とブックスキャナ - つまり、本を1ページづつめくってゆくスキャナ - を自作してしまったというのである。行ってみてさらにびっくり。なんと、メカの大部分はレゴで作っており、その制御部もレゴ(Set # 8485-1: Control Center / Control II)なのである。(作者はレゴのマインドストーム使用を推奨している。というか、それが当然だと思う。)
スキャン部は、当然ながら市販のスキャナを流用している。
しかし、何にせよ世の中凄い人がいるものである。
青い虚空
コンピュータ犯罪、それもネットワークを駆使したものを主題にした小説も、最近はずいぶんと増えてきているようだ。昔の作品だと「コンピュータが死んだ日」ぐらいしか思い浮かばないのだが。
- コンピュータが死んだ日 (石原 藤夫)
海外作品での有名どころはやはり「カッコウはコンピュータに卵を産む」だろうが、自分として外せないのは次の一冊。これも少し前の作品ではあるが。
- 青い虚空 (ジェフリー ディーヴァー, Jeffery Deaver, 土屋 晃)
コンピュータやネットワークの知識が無くても楽しめるが、知っていれば尚面白い。8ビットCPU時代のホビーコンピュータ(マイコン)ネタもある。なかに登場するTRS-80こと“トラッシュ80”は、自分でも捨てられない思い出のマシンだ。
iza に障害発生
先日のエントリーでちょこっと触れた産経のニュースサイト iza (イザ!) で、昨夜不具合が発生していた。
要はサニタイズが不十分(まさか全く対策していなかったということはあるまい)だったということなのだが、ハッキリ言えば少々オソマツなのではないかと思ったりもする。不特定多数からのコメントやトラバ受け付けるサイトなんだから、運営会社にせよサイト構築した下請け(いないということは無いだろう)にせよ、今回のような事態は想定すべきだったのじゃなかろうか。
また、不具合の対応にも少し気になる点がある。夜のうちに対策して復旧したのは良いとして、その間サイトには「アクセス集中でつながりにくい」という主旨のメッセージが出ていた。なぜ「不具合発生で対応しています」としなかったんだろうか。それと、障害発生の報告がただのニュースとして埋もれていることも。サイトのトップに、もっとわかりやすく掲示すべきじゃないだろうか。
(細かいことを言えばニュース末尾の「産経デジタル」には(株)表記を付けた方が良いのじゃないか)
隠蔽とま では言わないが、あまり気持ちの良いものでもない。
なんか文句ばかり書いてしまいましたが、期待しているサイトではあるので今後ともがんばって欲しいですね。
