◎ 大患難と携挙について (A) その②
○ 大患難前携挙説を主張する人たちが持つ理由7つのうちの2つ目
◎ 2つ目の理由 ‥
② 大患難前携挙説を主張する人たちは、次の聖書をその理由としている。
○ エレミヤ書30 : 6ー7にこうある。「さあ、男に子が産めるか、尋ねてみよ。なぜ、わたしは勇士がみな産婦のように腰に手を当てているのを見るのか。また、どの顔も青ざめているのを。わざわいだ。実にその日は大いなる日、比(くら)べようもない日。それはヤコブには苦難の時。だが、彼はそこから救われる。」
○ ダニエル書12:1 にこうある。「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。」
大患難前携挙説を信じる人たちは、上記の聖句をもってその理由としている。彼らはエレミヤが「それはヤコブにも苦難の時である」と述べ、ダニエルが「あなたの民はすべて救われる」と述べたことを、指摘する。そこで彼らは大患難はユダヤ人だけに臨み、教会には臨まないと強く主張する。なぜなら教会はヤコブの家やイスラエルの民ではないからだと言う。
もし私たちが、エレミヤとダニエルが述べたことだけを考えるなら、大患難は確かにユダヤ人だけに限定されるだろう。しかし別の聖句によれば、大患難はユダヤ人だけに臨むものではないことが分かる。
○ 黙示録3: 10
「あなたは忍耐についてのわたしのことばを守ったので、地上に住む者たちを試みるために全世界に来ようとしている試練の時には、わたしもあなたを守る。」
上記の聖句が大患難を指していることには、すべての人が同意するだろう。それは正に試練の時であり、ユダヤ人だけでなく「全世界に来ようとしている。」したがって大患難はヤコブの苦難の時だけでなく、今や「全世界」に来ようとしている試練の時なのである。
大患難前携挙説を信じる人たちの
◎ 3つ目の理由 ‥
○ 黙示録4: 1
「その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここに上れ』」
○ 黙示録4: 4
「また、み座の周りには24の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった24人の長老たちが座っていた。」
大患難前携挙説を主張する人たちは、黙示録の2章と3章は教会時代を指しており、上記の黙示録4: 1の『ここに上れ』は、全教会が携挙されることを指していると言う。ヨハネは教会を代表した。したがって、声がヨハネに『ここに上れ』と言っているということは、全教会が携挙されるに違いない。24人の長老たちもやはり教会を代表した。したがって、24の座に座っている24人の長老たちは、天にいる全教会を指しており、さらに栄光化された全教会を指している、と主張する。さらに、黙示録の大患難は、6章から始まっている。しかし、上記の黙示録4章では、全教会はすでに天にあるではないか。これこそ教会は大患難を経過せず、大患難の前に携挙される動かぬ証拠であると言う。
ここまで聞けば、大患難前携挙説こそ正解だと思う人が多いであろう。
ところが、彼らの説明はあまりにも大ざっぱ過ぎる。それを詳しく説明して行きたい。
まず、上記のみ言葉、黙示録4:1「その後、私は見た。… あの最初の声が言った。『ここに上れ。』」は、黙示録2章3章に出てくる7つの教会に対して語られたのではなく、ヨハネ個人に対して語られている。そしてこの事は過去のことであって、将来のことではないのである。
上記の黙示録4:1「… 『ここに上れ』」は、ヨハネがパトモス島にいた時、主がヨハネ個人に対して語られたものである。ヨハネはその後パトモス島から引き上げられた。なぜなら、主は彼に、これらのことの後に何が起こらなければならないかを示したかったから…。
さて、黙示録は、ヨハネが見たことの記録である。もしこの節を引用して、全教会が患難の前に携挙されることの証拠として引用することができるのであれば、たとえば使徒の働き8:39の「主の霊がピリポを連れ去られた」も、全教会が大患難前に携挙されることの証拠となってしまうであろう。主の霊はピリポを連れ去りはしたが、後で彼はアゾトで発見された。(使徒の働き8:40「それからピリポはアゾトに現れた。そして、すべての町を通って福音を述べ伝え、カイサリアに行った。ーー 因みにアゾトとは旧約のアシュドデのギリシャ名)
したがって上記の「主の霊がピリポを連れ去られた」をもって証拠とすることはできない。
また、大患難前携挙説を主張する人たちは、24人の長老たちは全教会を代表すると言うが、聖書によれば24人の長老たちが全教会の代表であるとは言っていない。
なぜなら ‥
(1) 聖書は決して24という数を用いて教会を代表させていない。教会を代表する数は7かあるいは7の倍数である。
(2) 聖書は決して長老たちを用いて教会を代表させていない。確かに、旧約ではユダヤ人たちの間に長老たちがおり、新約でも教会の中に長老たちがいる。しかし、教会は長老ではない。歴史の事実によれば、神はまず天使たちを選び、次にユダヤ人を選び、最後に教会を選ばれた。教会が長老たちと見なされないだけでなく、ユダヤ人たちも長老たちとは見なされない。
(3) 大患難前携挙説を主張する人たちは、24人の長老たちもヨハネも教会を代表する、と言うが、黙示録7:13ー14にこうある。
「すると、長老の1人が私に話しかけて、『この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか』と言った。そこで私が『私の主よ、あなたこそご存じです』と言うと、長老は私に言った。『この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」
上記の聖句に、3種類の人がいる。すなわち、長老たち、私(つまりヨハネ)、大患難を経てきた者たち、である。長老はヨハネに、彼らが誰であるのか、また彼らがどこから来たのかを尋ねている。私つまりヨハネは答えた、「主よ、あなたこそご存じです。」
もし彼らが言うように24人の長老たちもヨハネも携挙された教会を代表していると言うならば、おかしなことになる。というのは、長老たちがヨハネに尋ね、ヨハネが長老たちに尋ねている。これは、代表が代表に尋ね、予表が予表に尋ねるということになってしまう。
大患難前携挙説を信じる人たちが持つ4つ目の理由
◎ 4つ目の理由 ‥
* 以下は次号に回します。
2024.8.18
(次回 ‥ 2024.8.28
大患難と携挙について(A) その③
大患難前携挙説を主張する人たちが持つ4つ目の理由‥)