◎  大患難と携挙について ーー (A)   その①

 

* 携挙(けいきょ)とはクリスチャンが携え上げられる、または引き上げられるの意

 

この主題は非常に重要である。

携挙は聖書中、特別な用語であり、その意味は、主が再臨される時にわたしたちクリスチャンが天へと取り去られることを指す。

○  マタイの福音書24 : 40ー41

「そのとき、男が2人畑にいると、1人は取られ、1人は残されます。女が2人臼(うす)をひいていると1人は取られ、1人は残されます。」

以前、ipadを見ていたら、超教派の有名な牧師が、「取り去られた」のは信者です。「取り残された」のは不信者です。と説教していたが、これは最も基本的な間違いである。聖書は信者と不信者を同時に置いて何かを語ることはない。また同様のたとえがマタイ25章にある。

○  マタイの福音書25 : 1−3

「そこで天のみ国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る10人の娘にたとえることができます。そのうちの5人は愚かで、5人は賢かった。…   」

先の牧師の論法によれば恐らく「愚かな5人の娘は不信者です。賢い5人の娘は信者です。」ということになるのだろう。述べたようにこれは間違っている。なぜかというと、愚かな娘も賢い娘も10人、皆ともしびすなわち油を持っている。その油に多少の差があった。不信者が油すなわちキリストを持っていることはあり得ない。ところで聖書は「完全」を象徴する時、しばしば「12」を用いる。(12使徒、12の門、12部族など)しかし、ここでは「10」であるのはなぜだろう?(10人の娘) あとの「2」は先ほど来述べている1章前のマタイ24:40−41

すなわち、「男が2人畑にいると、女が2人臼(うす)を引いていると…  」に出てき、これで

「12」となる。そういうわけで、畑にいる男2人も、臼を引いている女2人もどちらもクリスチャンである。つまり信者の中に携挙される者とされない者があることを物語っている。

 

さて、話しを本題に戻そう。

聖書が語っているように、主イエスは地に下って来られる前に、わたしたちを天へ連れて行き、その後に主は下って来られる。主がわたしたちクリスチャンを天へ連れて行ってくださることを携挙という。

わたしたちクリスチャンの前にあるもの、わたしたちが仰ぎ望んでいるものは携挙である。しかしながら、恐ろしい大患難もわたしたちの前にある。この大患難は、試みと呼ばれたり、あるいは最後の3年半とも呼ばれる。聖書はこの患難は極めて大きなものであると言っている。

○  マタイ24 : 21

「そのときには、世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。」

携挙と患難の両方が、わたしたちの前にある。もしわたしたちが携挙されるのでなければ、必ず患難を経過するだろう。またもしわたしたちが患難を経過するのでなければ、必ず携挙されるだろう。

 

携挙に関して3つの異なる見解がある。このblog はその各々をよく検証して最も聖書に合致するもの、すなわち正解を導き出したいと思う。

 

1. 大患難前携挙説

 

○  この説は全教会が大患難前に全員携挙されると説く。この説を信ずる説教者は多い。しかし、この説は正解だろうか?

 

○  第1コリント15章と第1テサロニケ4章を注意深く読めば、この説すなわち全教会が、皆患難前に携挙されるというのは間違いであることが分かる。よくよくこの2つの章を読んでみよう。

○  第1コリント15 : 52

「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

○  第1テサロニケ4 : 13−17

「眠(ねむ)っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令とみ使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

 

さて、以上2か所の両方とも携挙について語ってはいるが、これら2か所のみことばのどこの部分が、彼らが言う全教会が大患難の前に携挙されると述べているであろうか?

聖書を考察すれば、「大患難前携挙説」を説く人たちは2つの大きなあやまちを犯している。その1つは、彼らが引用する聖書の節は、全教会が大患難前に携挙されることを証明していない。その2つは、彼らは多くの憶測に信頼し、それらを事実として用いている。

さらに、大患難前携挙説を説く人たちは、その根拠とする理由を7つ持っている。

◎  1つ目の理由 ‥

①  ローマ人への手紙5: 9

「ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方(かた)によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。」

②  第1テサロニケ1 :  10

「 …   み子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。このみ子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方(かた)、やがて来るみ怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」

大患難前携挙説を信じる人たちは、上記のみ言葉を使って以下のように説明する。

上記のみ言葉は、「私たちがイエスの血を通して怒りから救われることと、主が私たちを来たるべき怒りから救い出してくださることを告げている。」

またこのように説明する。

「来たるべき怒りとは、大患難を指しているではないか。」したがって来たるべき怒りから救い出されるとは、来たるべき大患難から救い出されることに違いない。私たちは携挙されて来たるべき大患難から救い出さなければならない。もしわたしたちが携挙されなければ、大患難を経過しなければならなくなる。したがって携挙はどうしても大患難以前に起こらなければならない。」

大患難前携挙説を主張する人たちは、またこのように言う。

「大患難は神の大いなる怒りである。神はクリスチャンを怒りに会うように定められたのではないから、私たちクリスチャンは大患難を経過することはあり得ない。」

しかし、先述した第1テサロニケ5: 9−11の中には、大患難については何も語られていない。

たとえ「み怒り」が大患難を指していると認めたとしても、これらの部分を理由の根拠として、全教会が大患難前に携挙されると言うには無理がある。確かに、大患難は神からの怒りに違いない。また、確かに上記の聖書はクリスチャンが神の怒りに会わないことを述べている。しかし、上記の聖書は、クリスチャンがサタンの怒りを被らないことや、サタンによって苦しめられないことは何も述べていない。なぜなら、大患難では、サタンからやって来る怒りと苦しみもあるからである!神はもちろん未信者を罰せられるが、サタンは信者を苦しめもする。

                  ーー  つづく

 

              2024.8.8

     (次回 ‥   2024.8.18  [大患難と携挙について(A)その①のつづき]

            (大患難前携挙説を主張する人が持つ2つ目の理由)

 

 

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