「認めること」②
○ ローマ6:11
「同じように 、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」
この聖句にある「認める」とはいったいどのような意味であろうか。
「認める」は帳簿や会計に関して、勘定(かんじょう)することを意味する。この勘定ということは 、およそ地上で私たち人間が正確にすることのできる唯一の仕事である。
画家が風景画を描(か)く時 、その風景とまったく同じ物を描くことはできないし、歴史家
は 、過去のどんな記録をも、絶対に真実であると保証できないであろう。あるいは地図の製作者がどのような地図でも、それが絶対間違いのないものであると保証できないであろう。せいぜい彼らは 、大体 本物に近いものしか作れないであろう。また 、日常の会話でさえ 、ある事がらをできるだけ正直に 、また真実に話そうとしても、やはり完全な正確さをもって描写することはできないであろう。ほとんどの場合、誇張したり、事実以下であったり、1つの言葉が余り強すぎたり、また弱すぎたりする。
では 、確実に信頼できるものとは何であろうか。それは数字である。そこには間違いが起こる余地がない。1つのりんごと1つのりんごを足せば2つのりんごになる。これは東京でもローマでも同じである。世界中どこでも、またいつでも、1プラス1は2である。天でも地でも地獄でも、1+1=2である。
神はなぜ私たちに 、「私たちが死んでいるものと認める」ようにと言われたのであろうか。
それは 、私たちが死んでいるからである。もし私がポケットに 1000円持っていたならば 、私は家計簿に 、1520円とか 、990円とか記入することができるだろうか? NO!私は実際持っている金額を帳簿に記入しなければならない。それと同様に 、私は事実死んでいるので、神はそのように勘定せよと語られているのである。神は 、真実でない事(空想など)を自分の帳簿に記入せよとは言われない。もし私がいぜんとして生きていれば 、神は 、死んでいることを認めるようにと私に言うはずがない 、しいてそう言うならば 、それは「誤認」である。
繰り返すが 、神は 、帳簿にはっきりと書くように言われている。すなわち「私は死んだ」と記入することを命じておられる。なぜなら、それが事実であるから。
主イエスが十字架に付けられた時 、私は主イエスにあってそこにいた。そのため、私はそれを事実として認める。私は主にあって死んだことを認め且つ宣言する。
冒頭に書いたみ言葉ローマ6:11「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」、これがどうして可能なのか? それは 、「キリスト・イエスにあって」である。常に「キリストにあってのみ」可能であることを忘れられない。もし自分を見つめるのであれば 、あなたはそこに「死」が無いと考えるだろう。これは 、自分自身に対する信仰ではなく、キリストに対する信仰の問題である。
「主よ、私はあなたにあって信じます。またあなたにあってこの事実を認めます」私たちはこの信仰告白に 、終始生きるべきである。
○ 信仰によって認めること
ローマ人への手紙の最初の4章半は 、繰り返し繰り返し、信仰について語っている。
私たちは主にある信仰によって義とされている。
○ ローマ3:28
「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」
○ ローマ5:1
「私たちは信仰によって義と認められた。」
義と罪のゆるしと神との平和は全部信仰によって私たちのものとなる。イエス・キリストの完成されたみわざを信じなければ 、誰もそれらのものを所有することができない。しかし、ローマ人への手紙の後半においては 、信仰は繰り返し強調されてはいない。そのため、別の点に強調点が置かれているように感じられるが 、そうでもない。
なぜなら、「信仰」とか「信じる」とかいう言葉に代わって、「認める」という言葉が用いられているからである。認めることも信じることも、実際的に見れば同じことである。
さて、信仰とは何であろうか?
信仰とは 、神の事実を受けることであり、いつでも過去にその基礎を置いている。ヘブル人への手紙 11:1にあるように 、しばしば 、信仰はその目的 、目標を未来に置くことがあるものの、未来に関係ある事がらは 、信仰よりむしろ希望である。なぜ、ここで「認める」という言葉が使われているのか。認めるとは過去だけに関係のある言葉だからである。つまり認めるとは規定の事実としてふり返るべきものであって、これから起こる事がらとして仰ぐものではないからである。
この種の信仰は 、
○ マルコ 11:24に記されている。
「あなたがたが祈るものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば 、そのとおりになります。」
そこでは 、私たちがもし、すでに私たちの要求を「得た」と信じたならば 、(もちろんキリストにあって)「そのとおりになる」というのである。ここでの信仰は 、「得るかも知れない」とか 、「得ることができる」とか 、「将来得る」とかいうものではない。信仰とは 、すなわち、すでに得たと信ずることである。
過去と関連性を持つもののみが 、ここで取り上げている信仰である。「神はできる」とか「神はなさるかもしれない」とか「神はせねばならない」とか「神はなさるだろう」などと言う者は 、信仰を持っているとは言えない。信仰は必ず、「神がすでになさった」と言う。
では自分の磔(たく)殺に関する信仰は 、いつ与えられるのであろうか。それは 、「神が可能にすることができる」とか 、「神が可能にされるだろう」とか「神は私を十字架につけられねばならない」とか言っている時ではなく、喜びに満ちて「み名を賛美します。私はキリストにあって、十字架に付けられています」と言う時である。
ローマ人への手紙3章において、私たちがゆるされるために 、主イエスが私たちの身代わりとして罪を負い 、且つ死なれたことを知る。
○ ローマ3:24
「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められる」
ローマ人への手紙6章においては 、私たち自身が 、主イエスの死の中に含まれていることを知る。
○ ローマ6:4
「私たちは 、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」
ここに私たちの解放がある。最初の事実が示された時 、私たちは義と認められるために主イエスを信じた。神は私たちの解放のために 、第2の事実を認めるようにと告げておられる。それで実際上の見地から、ローマ人への手紙の後半は 、ローマ人への手紙の前半の「信仰」の代わりに「認める」という言葉が置き替えられている。その強調点に変化はない。
正常なクリスチャン生活は 、信仰の第1歩を踏み出した時と同じように 、神による事実 、
ー キリストにあることと彼の十字架 ー に対する信仰によって、少しずつ成長して行くのである。
ー ー つづく
2026・7・9
( 次回 ‥ 2026・7・29 試練と敗北は信仰の奮起を促す )
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