「認めること」②

 

○ ローマ6:11

「同じように 、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」

この聖句にある「認める」とはいったいどのような意味であろうか。

「認める」は帳簿や会計に関して、勘定(かんじょう)することを意味する。この勘定ということは 、およそ地上で私たち人間が正確にすることのできる唯一の仕事である。

画家が風景画を描(か)く時 、その風景とまったく同じ物を描くことはできないし、歴史家

は 、過去のどんな記録をも、絶対に真実であると保証できないであろう。あるいは地図の製作者がどのような地図でも、それが絶対間違いのないものであると保証できないであろう。せいぜい彼らは 、大体 本物に近いものしか作れないであろう。また 、日常の会話でさえ 、ある事がらをできるだけ正直に 、また真実に話そうとしても、やはり完全な正確さをもって描写することはできないであろう。ほとんどの場合、誇張したり、事実以下であったり、1つの言葉が余り強すぎたり、また弱すぎたりする。

では 、確実に信頼できるものとは何であろうか。それは数字である。そこには間違いが起こる余地がない。1つのりんごと1つのりんごを足せば2つのりんごになる。これは東京でもローマでも同じである。世界中どこでも、またいつでも、1プラス1は2である。天でも地でも地獄でも、1+1=2である。

 

神はなぜ私たちに 、「私たちが死んでいるものと認める」ようにと言われたのであろうか。

それは 、私たちが死んでいるからである。もし私がポケットに 1000円持っていたならば 、私は家計簿に 、1520円とか 、990円とか記入することができるだろうか? NO!私は実際持っている金額を帳簿に記入しなければならない。それと同様に 、私は事実死んでいるので、神はそのように勘定せよと語られているのである。神は 、真実でない事(空想など)を自分の帳簿に記入せよとは言われない。もし私がいぜんとして生きていれば 、神は 、死んでいることを認めるようにと私に言うはずがない 、しいてそう言うならば 、それは「誤認」である。

繰り返すが 、神は 、帳簿にはっきりと書くように言われている。すなわち「私は死んだ」と記入することを命じておられる。なぜなら、それが事実であるから。

主イエスが十字架に付けられた時 、私は主イエスにあってそこにいた。そのため、私はそれを事実として認める。私は主にあって死んだことを認め且つ宣言する。

冒頭に書いたみ言葉ローマ6:11「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」、これがどうして可能なのか? それは 、「キリスト・イエスにあって」である。常に「キリストにあってのみ」可能であることを忘れられない。もし自分を見つめるのであれば 、あなたはそこに「死」が無いと考えるだろう。これは 、自分自身に対する信仰ではなく、キリストに対する信仰の問題である。

「主よ、私はあなたにあって信じます。またあなたにあってこの事実を認めます」私たちはこの信仰告白に 、終始生きるべきである。

○ 信仰によって認めること

 

ローマ人への手紙の最初の4章半は 、繰り返し繰り返し、信仰について語っている。

私たちは主にある信仰によって義とされている。

○ ローマ3:28

「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる」

○ ローマ5:1

「私たちは信仰によって義と認められた。」

義と罪のゆるしと神との平和は全部信仰によって私たちのものとなる。イエス・キリストの完成されたみわざを信じなければ 、誰もそれらのものを所有することができない。しかし、ローマ人への手紙の後半においては 、信仰は繰り返し強調されてはいない。そのため、別の点に強調点が置かれているように感じられるが 、そうでもない。

なぜなら、「信仰」とか「信じる」とかいう言葉に代わって、「認める」という言葉が用いられているからである。認めることも信じることも、実際的に見れば同じことである。

 

さて、信仰とは何であろうか?

信仰とは 、神の事実を受けることであり、いつでも過去にその基礎を置いている。ヘブル人への手紙 11:1にあるように 、しばしば 、信仰はその目的 、目標を未来に置くことがあるものの、未来に関係ある事がらは 、信仰よりむしろ希望である。なぜ、ここで「認める」という言葉が使われているのか。認めるとは過去だけに関係のある言葉だからである。つまり認めるとは規定の事実としてふり返るべきものであって、これから起こる事がらとして仰ぐものではないからである。

この種の信仰は 、

○ マルコ 11:24に記されている。

「あなたがたが祈るものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば 、そのとおりになります。」

そこでは 、私たちがもし、すでに私たちの要求を「得た」と信じたならば 、(もちろんキリストにあって)「そのとおりになる」というのである。ここでの信仰は 、「得るかも知れない」とか 、「得ることができる」とか 、「将来得る」とかいうものではない。信仰とは 、すなわち、すでに得たと信ずることである。

過去と関連性を持つもののみが 、ここで取り上げている信仰である。「神はできる」とか「神はなさるかもしれない」とか「神はせねばならない」とか「神はなさるだろう」などと言う者は 、信仰を持っているとは言えない。信仰は必ず、「神がすでになさった」と言う。

では自分の磔(たく)殺に関する信仰は 、いつ与えられるのであろうか。それは 、「神が可能にすることができる」とか 、「神が可能にされるだろう」とか「神は私を十字架につけられねばならない」とか言っている時ではなく、喜びに満ちて「み名を賛美します。私はキリストにあって、十字架に付けられています」と言う時である。

ローマ人への手紙3章において、私たちがゆるされるために 、主イエスが私たちの身代わりとして罪を負い 、且つ死なれたことを知る。

○ ローマ3:24

「神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、値なしに義と認められる」

ローマ人への手紙6章においては 、私たち自身が 、主イエスの死の中に含まれていることを知る。

○ ローマ6:4

「私たちは 、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。」

ここに私たちの解放がある。最初の事実が示された時 、私たちは義と認められるために主イエスを信じた。神は私たちの解放のために 、第2の事実を認めるようにと告げておられる。それで実際上の見地から、ローマ人への手紙の後半は 、ローマ人への手紙の前半の「信仰」の代わりに「認める」という言葉が置き替えられている。その強調点に変化はない。

正常なクリスチャン生活は 、信仰の第1歩を踏み出した時と同じように 、神による事実 、

ー キリストにあることと彼の十字架 ー に対する信仰によって、少しずつ成長して行くのである。

           ー ー つづく

 

      2026・7・9

     ( 次回 ‥ 2026・7・29  試練と敗北は信仰の奮起を促す )

         集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11

◎ 十字架は私たちの問題の根本を貫く

 

主イエスが十字架の上で完成されたみわざの根本的な性質とは何であろうか。

1つの例証として、政府がもし徹底的な禁酒運動を行おうとすれば 、どのような手段を取るだろう。また私たちはそのためにどのようなことをすべきであろうか。国中の酒類販売所へ行き、酒やビールやウイスキーなどの瓶を1つ残らず壊してしまえば 、それで問題は解決するだろうか。もちろんそうはいかないだろう。アルコール類を1滴残らず国外へ追放できても、その背後に醸造工場があればどうだろうか。瓶だけ処分しても工場をそのままにしておけば 、酒類の生産は継続し、恒久的な解決にはならないだろう。飲酒問題を永久に解決しようと思えば 、国中の醸造工場 蒸留装置などが徹底的に取り除かなければならない。

私たちは 、いわばその工場である。そして私たちの行為はその生産物なのである。主イエスの血は 、生産物、すなわち私たちの罪の問題を処理した。したがって、私たちがすでに行ったことの問題は 、これで解決した。しかし神はそれで終わりとされるだろうか。私たち自身の存在についてはどうだろう。罪は私たちによって生じた。そしてそれらの罪はすでに処理されたが 、「私たち自身」はどのようにして処理されるべきであろうか。主は 、私たちのすべての罪を清めてくださるが 、罪の製造工場の処理はどうするべきか。単に製品を処理しただけで、生産の源泉であるものの処理は 、私たち自身にまかせられるのだろうか?

もちろん神は 、仕事の半分だけをして、あとの半分を私たちに任せられることはしない。主は生産されたものと同時に 、それを製造する工場をも 一掃されたのである。

神に中途半端なみわざはない。パウロはこう記している。

○ ローマ6:6

「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは 、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」

しかし私たちは本当に知っているであろうか?

○ ローマ6:3

「それとも、あなたがたは知らないのですか?」

 

◎ 進歩の行程 ー ー 認めること  ①

 

○ ローマ6:6

「私たちは知っています。私たちの古い人はキリストとともに十字架につけられた … 」

このみ言葉の時制は 、最も貴重な事がらを示している。すなわちそれは「古き人はキリストと共に十字架につけられた」という過去形である。これは決定的な、1度で終局を意味する言葉である。つまりそれはすでに成し遂げられたことであって、決して取り消されることはない。私たちの古き人は、1たび 、しかも永久に十字架につけられたのであり、再び十字架に付けられることは不可能なのである。クリスチャンはこのことをはっきりと知らなければならない。

このことを知った上で聖書はどう続けているかというと、

○ ローマ6:11

「同じように 、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」

この聖句は 、明らかに上記のローマ6:6の次に出てくる自然の順序である。古き人がキリストと共に十字架に付けられたことを知った次に 、その事実を認めることが伴う。

キリストとの結合の真理を語る時に 、残念なことには 、自分自身が死んだと「認める」第2の段階を強調し過ぎる場合がはなはだ多いので、あたかも、それが出発点であるかのような錯覚を与える。しかし事実は 、自分自身が死んだと「知ること」にこそ強調点が置かれなければならない。神のみ言葉ははっきりと、「認むべきである」という事がらを、「知っている」の後に置いている。つまり、「知る … 認める」この順序はきわめて重要である。「認める」ことが啓示された事実に基づいた知識でなければ 、信仰の正しい土台はない。私たちは知った時に 、自発的に認めるわけである。

私たちは知ることをしないで認めようとする。そうではなく、まず最初にみ霊による事実の啓示なしに 、いきなり何かを認めようとするので、いろいろな困難にぶつかる。また誘惑が襲(おそ)いかかってくる時 、「私は死んでいる、私は死んでいる」と、けん命に認めようとする自体において短気を起こしてしまう。そして ○ ローマ6:11は私にききめがない!と叫んでしまう。

○ ローマ6:11

「あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。」

上記の聖句はローマ6:6の「私たちは知っています。私たちの古い人はキリストとともに十字架につけられた」を基礎としている。したがって私たちはキリストと共に死んでいるという事実を知らないかぎり、死んでいることを認めようとすればするほど、争いは激しくなり、その結果確実に失敗してしまう。

因みに 、ウオッチマン・ニー兄弟( 1903 − 1972 )は救われたばかりの青年の頃の事を次のように述懐している。「私は回心後 、数年間、自分が死んでいることを認めるようにと教えられてきました。私は 1920年から 1927年まで認め続けたのです。しかし、自分が罪に対して死んでいることを認めようとすればするほど、自分がますます生きていることを知ったのです。どうしても自分が死んでいるとは信じられず、また 、その死を自分のものとすることができませんでした。ほかの人から助けを得ようと思うと、いつもローマ人への手紙6:11を読むようにと言われ 、そしてその聖句を読んで認めようとすればするほど、死は遠ざかってしまいました。私は死を獲得することができなかったのです。認めなければならないという教えに対しては 、心から感謝していたのですが 、なぜそれから何ものも得られないのか 、理解することができなかったのです。実をいうと、私はこの問題について幾ヵ月もの間悩んだということを告白しなければなりません。私は主にこう申しました。もし、この問題がはっきりせず、またこの根本的な問題を理解することができれば 、私はこれ以上何もしないことにします。私はもう説教をやめます。また 、これ以上ご奉仕もいたしません。私

は 、この問題を徹底的に解決していただきたいのです。そしてその後も数ヵ月求め続け、時には断食もしたのですが 、何も得るところがありませんでした。

ある朝のことです。ー ー それは 一生忘れられない朝でした。私は2階で机の前に座り、み言葉を読み 、また祈っていました。その時 私は 、主よ!私の目を開いてください!と叫びました。そのとたん 、私は 、自分がキリストと 一体であることを知ったのです。私は 、自分がキリストの中にあること、そして主が死なれた時 私も死んだということを知りました。私の死は過去のことがらであり、将来のことではないこと、また主イエスが死んだ時に私は主イエスの中にあったので、死んだのと同じことを知ったのです。あらゆることがはっきりとわかりました。この発見の余りの嬉しさに 、私は椅子からとび上がり、主よ!賛美します。私は死んでいるのです、と叫びました。そして階下へ走って降り、台所で仕事をしている兄弟の1人に出会うやいなや、彼を掴み 、兄弟 、あなたは 、私がすでに死んでいることを知っていますか 、とたずねました。すると彼は面くらったような顔をして、それはどういう意味ですか 、と聞き返してきました。私は 、あなたはキリストが死なれたことを知っていますか。また 、私が主と共に死んだことを知っていますか。そして私の死は主イエスの死と同様に真実なものであることを知っていますか 、と立て続けにしゃべりました。その日以来 、今日にいたるまで、

○ ガラテヤ2:20

「わたしはキリストと共に十字架につけられた」(口語訳)

「キリストが私の中に生きておられる」(新改訳 2017)

私は上記のみ言葉を 一瞬たりとも疑ったことはありません。」

 

では 、この死んだことを認めるための秘訣は 、どこにあるのか?

一言で言えば 、それは啓示に他ならない。私たちは 、神ご自身からの啓示を必要とする。

○ マタイ 16:17

「すると、イエスは彼に答えられた。バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」

○ エペソ1:17 〜 18

「どうか 、私たちの主イエス・キリストの神 、栄光の父が 、神を知るための知恵と啓示のみ霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また 、また 、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって … 」

私たちは 、キリストの結合という事実に開眼しなければならない。しかもこのことは 、教理として知ること以上の事柄である。このような啓示は 、ばく然とした不明瞭な事がらではない。私たちのほとんどは 、キリストが私たちのために死なれたという事実をはっきりと知った日を覚えている。しかしそれと等しく、私たちキリストと共に死んだということを知った時も、はっきりとしていなければならない。

それはぼんやりとしたものではなく、明確な事実であるべきである。なぜなら、この根本問題を土台にして、私たちは前進するからである。

私は死んでいると認めるから、死んでいるのではない。「私が死んでいるから」ー ー 今や私は 、キリストにあって神が私になされたことを見たので、ー ー 「そのためにこそ」、私は死んでいると認めるのである。

これが認めるということの正しいありかたである。すなわち、このことは 、「死へ向かう」認識ではなく、「死から出発する」物語にほかならない。

 

           ー ー つづく

 

      2026・6・19

     ( 次回 ‥ 2026・7・9「認めること」② )

        集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11

※  特稿

◎「セカンドチャンスはある!」

 

○ No . 347から書きはじめた「正常なキリスト者の基本的な信仰」シリーズの途中である

が 、どうしても書きたくなって、一時中断してペンを取った。

表題の「セカンドチャンス」とは何かというと、生前キリストの言葉を聞く機会が無く死去してしまった人々 、あるいは伝道者やクリスチャンを通してキリストの言葉を聞くには聞いたが 、種々の事情で心に入らないまま死去した人々が 、死後再び福音を聞く機会はある

か 、という問題である。

よみ(ハデス)の中で、再びキリストのことばをきくそのチャンスは無いと説く牧師や宣教師は多い。しかし、筆者は「ある!」と説く。その根拠を書きたくて書きたくてたまらない。

私の父は 69歳で逝った。私はついぞ父に福音を語ることができなかった。残念でたまらない。自分の臆病をしきりに悔やむ。その 10数年後 、母が函館病院に入院した。甲状腺癌ということだった。今度こそキリストを語らねばならないと思った。

その後 、弟から電話があり、母は彼が住む隣町の病院へ転院したと言う。

私は都会に住んでいるので習慣的に 、タクシーなどどこでも拾えるし、駅前には いるだろうと思い込んでいたので母の転院先の住所も電話のメモも持たないまま家を出た。その病院があるのは江差町(えさしちょう)といった。駅を降りるとすでに夕暮れだった。ガランとしていて人もいないし商店などもない。タクシーもなければ電話もない。やっと1台 乗用車が止まっていた。私はわらにもすがる思いでその車へ走った。運転席に 70代ぐらいのご老人が乗っていた。聞けばこの町にはタクシーはなく、自分は帰省する子供を待っているところだと言う。私は困った。日も暮れて来る。ままよとばかり歩き出した。誰かに尋ねればいい。そう思って 5,6分歩いた時であった。後からプープーというクラクションが鳴った。近づいて来た車は 、さっきのご老人であった。「どちらまで?」と言うので「佐々木病院まで」と言うと、「通り道だから乗りなさい 、どうぞ」と言う。私は嬉しかった。地獄に仏とはこのことか 、と思った。早速乗せていただくと、後部には里帰りらしい息子さん夫婦と4,5歳ぐらいの子供が楽しそうにしゃべりながら笑っている。

ご老人は「佐々木病院にはどなたが?」と聞いてきた。「母が癌で … 」と答えると少し間を置いて彼は言った。「その病院はね 、もう見込みの無い人だけが入る病院なのです。いえわたしもね 、今 心臓に機械が入っています。ですからいずれ … 」と言って軽く笑った。

その病院はそういう病院らしく平屋で玄関はうす暗かった。母の病室へ入ると小さな部屋で、壁側に沿ってベッドが2つ並んでいた。

母は枕に顔を深々と埋めてうつぶせに寝ていて、管が数本つながっている。声を掛けたが返事はない。私は今日が最後のチャンスだと思ってキリストの言葉と福音を簡潔に語り出した。心に信じて、胸の中でおお主イエスよ!と呼べば救われること、イエス・キリストは神であること、主イエスは私たちの罪の身代わりとなって死なれたこと、しかし3日後に復活して今も生きていること、主イエスを心に入れさえすればすばらしい神の国へ入れること、そこには苦しみや病気もないこと …   母さん 、母さん聞いても聞かなくても僕の今言っていることを耳に入れてね 、ぼくの最後の言葉だと思ってね 、かあさん! むずかしいことはないんだよ、むねの内で「おお主イエスよ!」言えばいいんだよ、うつ伏せのままでいいの、そのまま 主よたすけて!と言えばいいんだよ。

 

母さん!ぼくを今日まで育ててくれてありがとう、ぼくが2歳の時 遠く中国の満州から背負って来てくれてありがとう。「おまえは重くてさあ」って母さんいつも言ってたよね!

母さん 、いま最後だと思って聞いてね。母さんは今何もすることがないんだ 、神が神のみ子イエスにあってすべての事をしてくださったんだよ、母さんはいまゆっくりやすめばいいの、神は主イエスにあってぼくの罪も母さんの罪も全部解決してくださった。ありがたい。イエス・キリストが私たちのすべての罪を取り除いてくださったんだよ。もう裁かれることは何1つ残っていないんだ 、み子が身代わりに裁かれてくださったんだ。母さん 、心の中でおお主イエスよ かんしゃします といえるでしょっ、そういえばそれですべて良しなんだ。母さん 、今あきら(弟)が来たから帰るよ!母に反応はなくいぜんとして枕に顔を埋めたままであったが 、耳には聞こえているように見えた。

 

帰りぎわ、隣りのおばあさん( 70歳代か )を見た。点滴のスタンドがあるわけでなく母のように苦しそうでもなく普通に見えた。私は一言、「お騒がせしてすみません」と言うと、彼女は大きく頭を横に振った。「いいえ 、そのようなことは何もありません」と言いたいふうであった。次いでそのおばあさんは目を大きく見開いて私の目をじっと見つめ、今度はその頭を大きく縦にうなずいた。それは私が母に語った言葉に同意して、うんうんとか 、今のお話し分かりましたよ、うんうん そうします。信じます。と言っているようであった。口を結ぶようにして声を出さないのは 、隣りの母が私の呼び掛けに一言も声を出さなかったのを気にしているふうに見えた。帰りの車の中で弟に 、「母さんの隣りのおばあさんの所へ 、だれか人が来る?」と聞くと、弟は「いや、1人も見たことがない」と言った。私はふと、主イエスがわざわざユダヤ人とは往来のないサマリヤの砂漠を通ってふだんはうとまれている水をくみにきた1人のサマリヤの女に声をかけ、自分がキリストであると語った光景を思い浮かべた。私は母にキリストを語りに来たのであるが 、あるいはこの名も知らぬ母のベッドの隣りのおばあさんの救いのために来たのであるまいか 、と思った。

 

さて、本題に入る。

 

人の死後の行き先には3つの場所がある  ① 天国  ② よみ  ③ 地獄である。よみは文語訳聖書では黄泉という漢字をあてている。よみと地獄を混同して理解している人は多い。上記のよみを黄泉という漢字に翻訳した学者もおそらくそれであろうと思う。「黄」は硫黄(いおう)の黄である。硫黄の泉とはいかにも地獄をイメージして訳したことがうかがえる。

ヤコブは最愛の末の息子が死んだと聞いた時 、わたしもよみに下って息子に会いたいと言って泣いた。

○ 創世記 37:35

「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに 、よみに下って行きたい」

よみとは天国と地獄の中間にある 一時的な場所のことをいう。よみは地獄とは異る。聖書辞典によれば 、よみは旧約聖書に 65回 、新約聖書に 10回出てくる。もっとも分かりやすいのは 、ルカの福音書 16章に出てくる金持ちと貧乏人ラザロの話しである。(因みによみは2か所に分かれている。一方は信者であったラザロが行ったアブラハムのふところ、慰めの場所、パラダイスともいう。もう 一方は不信者であった金持ちが行った所、苦しみの場所) (よみという場所は2つに分かれていることがわかる)

さて、セカンドチャンス(死後にもキリストを聞くチャンス)はあるという聖書の根拠を書きたい。

 

① ローマ 14:9

「キリストが死んでよみがえられたのは 、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。」

 

② ピリピ2:10 〜 11

「それは 、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が 、イエス・キリストは主ですと告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」

 

③ 第1ペテロ3:18 〜4:6

中略 …「肉においては死に渡され 、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」… 中略

「彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。」… 中略

 

④ エレミヤ書 18:8

「もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下(くだ)そうと思っていたわざわいを思い直す。」

 

⑤ ヨブ記4:13 〜 17

「中略 … 静寂。そして私は次のような声を聞いた。人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。」… ( 死者にも希望を示唆している。)

 

⑥ ヨハネの福音書5:28

「墓の中にいる者がみな 、子の声を聞く時が来るのです。」

 

⑦ 黙示録5:13

「また私は 、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこういうのを聞いた。み座に着いておられる方と子羊に賛美と栄光と力が世々限りなくあるように」

 

⑧ 黙示録 20:11 〜 15

中略 … 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。

中略 … いのちの書(回心者名簿)に記されていない者はみな 、火の池に投げ込まれた。

 

⑨ ルツ記2:20

「ナオミは嫁に言った。生きている者にも、死んだ者にも、み恵みを惜しまない主が 、その方を祝福されますように。」

 

⑩ 出エジプト記 20:6

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には 、恵みを千代にまで施(ほどこ)す。」

 

⑪ 詩篇 16:10

「あなたは 、私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならない。」

 

⑫ ルカ 23:43

「イエスは彼に言われた。まことに 、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイス(よみ)にいます。」

 

⑬ ホセア書1:10

「イスラエルの子らの数は 、量(はか)ることも数えることもできない。海の砂のようになる。あなたがたはわたしの民ではない 、と言われたその場所で、彼らは 、生ける神の子らと言われる。」

 

 

※ 因みに 、よみはヘブル語でシェオール、ギリシャ語でハデス  日本語の口語訳では陰府と書き、文語訳では黄泉という字をあて、新改訳では平仮名でよみと書く。この辺にもよみと地獄を混同していた先人の姿が見える。黄泉と書いてよみと読ませている。黄泉とはいかにも地獄を匂わせる。よみと地獄とは異る場所である。

     

     ーー ・ーー ・ーー ・

 

アメリカにある青年がいた。彼は自分の心の中でほとんどキリスト教を信じようと思っていた。ところが1つだけ心にひっかかるものがあった。それは何かといえば 、死後の世界のことであった。父も母も祖母も皆キリストを知ることなく亡くなっている。自分が信じて救われた場合、天国から地獄で苦しむ肉親を見ることになるのであろうか? それは彼の心には理不尽なことに思え 、そのことが彼の心にひっかかるのであった。ちょうどそんな頃 、ある有名な宣教師が近くの町で伝道の集会が行われることを知ったので、彼はその集会へ行った。

終わった後 、青年は宣教師に尋ねた。「父も母も祖母もキリストを知ることなく死去したのですが 、彼らはどこへ行ったのでしょう?」宣教師は言った。「 地獄でしょう。」

青年の心はぷつんと切れ 、以後 再びキリスト教を信じることはなかった。

 

   2026・5・30

  ( 次回 ‥ 2026・6・19 「十字架は私たちの問題の根本を貫く」)

      集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11

 

◎ 進歩の行程 ー ー 知ること ②

 

○ ローマ6:8

「キリストと共に死んだ」

主は私に代わって死なれたばかりでなく、私を負って「共に」十字架に付けられた。これは歴史的事実である。繰り返すが 、主イエスが死なれた時 、同時にこの私も死んだのである。もし私が主イエスを信じるならば 、自分の死をも信じることができるはずではないか。

 

あなたの信仰の基盤は何か。

それは 、主イエスが死んだと「感じる」ことであろうか。そうではなかったはずであり、あなたはそのようには感じなかった。あなたが信じたのは 、神のみ言葉がそのように告げているからであった。主イエスが十字架に付けられた時 、2 人の強盗も同時に十字架に付けられた。あの2人が主イエスと共に十字架に付けられたことを疑わないのは 、聖書にはっきり書いてあるからであって、他の理由によるものではない。

 

あなたは主の死を信じ、また2人の強盗が主と共に死んだことを信じている。ではあなた自身の死についてはどうであろうか?  あなたが十字架で死んだことはあの2人よりももっと身近なものである。あの強盗2人は主イエスと同時に十字架に付けられたが 、それぞれ違った十字架に付けられた。しかしあなたや私は主イエスと同じ十字架に付けられたと言える。なぜなら主が死なれた時 、あなたや私は主イエスの中にあったから。

どうしてこのことがわかるかと言えば 、聖書にそう記されているからである。感情によるものではない。キリストが死なれたことを感じようと感じまいと、主イエスの死は事実である。これと同様に 、あなた自身が死んだことを感じようが感じまいが 、あなたが死んだことに変わりはない。

これは天来の事実である。キリストが死んだことは事実であり、2人の強盗が死んだことも事実であり、あなたが死んだこともまた事実である。あなたはすでに死んでいる!

言い換えればあなたは処理されているのである!あなたは除外されているのである!あなたが忌(い)み嫌っている自己は 、キリストにあって十字架上にある。

○ ローマ6:7

「死んだ者は 、罪から解放されている。」

これこそクリスチャンの福音である。

 

私たちが十字架に付けられることは 、意志や努力によって実現されるものではなく、主イエスの十字架のみわざを受け入れることによって実現する。私たちの目は 、カルバリの丘で完成されたみわざに向かって開かれる必要がある。 一部の人は 、救われる前に 、自分の力で自分を救おうと考えたかも知れない。そして自分で聖書を読み 、祈り、教会という建物へ行き、牧師の話しを聞き、献金したかも知れない。そのうちにある日、目が開かれ 、自分が十字架上ですでに完全な救いが備えられていることに気付く。それを受け、神に感謝した時に平安と喜びが心にあふれた。神の救いの方法は 、人間の方法とはまったく違っている。人の方法は 、罪に勝つことを求めて、それを押さえようとすることにあるが 、神の方法は 、「その罪人自体」を取り除くことにある。

多くのクリスチャンは自己の弱さを嘆き、もっと強ければ万事がうまく行くと思っている。聖い生活を送れないことは自己の無力さにあるのだから、現在以上のことが自分に要求されていると考えてしまう。私たちがもし、罪の力と、それに打ち勝てない自己の無能さに心を奪われているとすれば 、当然 、罪に打ち勝つためには 、一層大きな力が必要だという結論に達するだろう。「もし私が強くなれば 、私はこの激しい気性に勝つことができるのだが」などと思い 、もっと自己を制御することができるための、力を与えてくださいと祈ったりする。

しかしこれはまったく間違った考えであって、キリスト教の思想ではない。神が私たちを罪から解放してくださる方法は 、私たちを次第に強くすることによるのではなく、むしろ、私たちを次第に弱くすることにある。これは 、勝利を獲得するためには矛盾しているようにみえるが 、それが神の定められた方法である。私たちの古き人を強くすることによってではなく、それを十字架につけることによって、また人が何かをするために助けることによらず、行動の舞台から彼を取り除くことによって、神は私たちを罪の支配から解放されるのである。

恐らくあなたは 、何年間も克己心(こっきしん)を養おうとして空しい努力を重ねてきたかもしれない。あるいはそれが 、今なおあなたの経験であるかも知れない。しかしひとたび真理を見つめれば 、あなたは 、自分が何事もできない全くの無能力者であり、神はあなたを取り除くことによってすべてをなさったことを知るであろう。このような啓示は 、人間の努力に終止符を打つ。

 

◎ 第1段階「私たちはこのことを知っている」

 

正常なクリスチャン生活は 、ある 一定のことを明確に「知る」ことによって始められなければならない。この「知る」ということは 、真理について少しばかり知るとか 、重要な教義を多少理解するというようなことではない。あなたは 、自分の罪が赦されたことを、どのようにして知っただろうか? 牧師がそう言ったからか? そうではないと思う。「どのようにしてそれを知ったか?」と問われれば「知っているから知っている」とそのまま答えるであろう。このような知識は神の啓示によって与えられる。もちろん 、罪のゆるしの事実は聖書にあるが 、その書かれた神のみ言葉があなたにとって生きた神からの言葉となるため

には 、神があなたに知恵と啓示の霊を与えてくださらなければならない。

○ エペソ1:17

「どうか 、私たちの主イエス・キリストの神 、栄光の父が 、神を知るための知恵と啓示の霊をあなたがたに与えてくださいますように」

必要なことは 、いつの場合でもこのような方法でキリストを知るということである。このように 、新しい意味でキリストを理解する時がやって来る。その時あなたは 、心の中でそれを知り、霊をもってそれを「見る」。あなたの存在に光がさし込む時 、あなたは1つの事実を完全につかむであろう。

罪のゆるしについて真実であったことは 、罪からの解放の場合も同じく真実である。神の光があなたの心を照らす時に 、あなたはキリストの中にあって自己を見る。そうすれば 、誰かにそう言われたからでもなく、また 、単にローマ人への手紙にそう記してあるという理由だけで知るのではない。あなたが知るのは 、み霊(たま)によって神があなたに啓示してくださったからである。別にそういう感じはしないかもしれないし、またそのことを理解しないかもしれないが 、あなたはそれを知る。なぜなら、それを見たからである。ひとたび 、あなたが自分自身をキリストの中に見れば 、何ものもその幸いな事実に対する確信をゆるがすことはできないのである。

実際問題として、各キリスト者は 、自分たちの特別な方法を強調し、且つ体験を聖書的な裏づけをもって支持するだろう。不幸にして多くのクリスチャンは自分たちの特殊な経験と特定の聖句を用いて、他のクリスチャンと戦いを交える。しかし、私たちは 、他の人が主張する経験や教理を絶対的なものとして認める必要はなく、むしろ補足的なものとみなすべきである。

しかし、1つの確実なことがある。それは 、神の目から見て価値ある真の経験は 、主イエスのみわざと人格に新しい意義を発見することによって、得られねばならないということである。これこそ決定的な 、しかも安全な試金石である。

○ ローマ6:6

「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは 、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」

 

◎真の知識は神の啓示を要する  ①

 

クリスチャンの第 一歩は 、啓示によって与えられる知識を神に求めるものでなければならない。

ハドソン.テイラー(中国内陸伝道団の創立者)が 、標準的なクリスチャン生活に入った時

は 、まさにその通りであった。彼はどのようにすれば「キリストにある」生活が送れる

か 、どのようにすればぶどうの木からいのちの液を自分自身の中に引き出せるかと、どんなに長い間苦悶し、考えたかを語っている。彼は 、キリストの命が自分を通してあふれ出なければならないことを知ってはいたが 、今なおそれを獲得していないように感じていた。しかも自分に欠けているものが 、キリストの中に発見されねばならないと、はっきり理解していた。彼は 1869年に妹へこう書き送っている。「私はキリストの中に宿ることさえできれば問題ないのですが 、どうしてもそれが不可能なのです。」

彼は 、「キリストにある」ことを努力すればするほど、自分が離れて行くのを知った。しかし遂にある日 、いわば信仰の夜明けが訪れた。すなわち啓示が与えられ 、その瞬間 、彼は知ったのである。

ここに信仰の秘訣があるのではないか。つまり、それは「ぶどうの木」からいかにして自分の中に命の液を取り入れるかを問うかではなく、イエスがぶどうの木であること、また根であり、枝であり、小枝であり、葉であり、実であり、すべてのすべてであるということを記憶することである。

また、ハドソン.テイラーは親しい友人への手紙にこう書いている。「私が自分自身を枝にしなければならないのではありません。主イエスは 、「私が枝である」と言われました。私はイエスの 一部であり、それを信じて、そのように行動しさえすればよいのです。長いこと私は 、このことを聖書で読んできました。しかし今 、それを生きた現実として信じています。」

 

        ー ー つづく

 

    2026・5・10

   ( 次回 ‥ 2026・5・30   特稿「セカンドチャンスはある!」)

      集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11

◎ 先行的且つ包括的なキリストの死と復活

 

主イエスは十字架上で死なれた時に 、血を流し、私たちの罪のためにあがないをなし、神の義と聖とを満足させるために 、ご自分の罪無き命をお献げになった。これは神のひとり子だけの特権であり、いかなる人もこのみ業(わざ)に関与することはできない。神のみ前におけるあがないのみわざはキリストだけが行われたのであって、他の何びとも、それに関与することはできなかった。しかし主イエスは単に血を注ぐためだけではなく、私たちも主と共に死ぬために死なれた。キリストは私たちの代表者として死なれたのであって、その死には 、あなたも私も含まれている。

神がキリストの中に私を包含させてくださったことは 、重大な意味を持っている。それは神がなさった事である。そのために 、「キリストにある」ことによって生まれる「身代わり」と「キリストと一致する」という新約の用語は 、私にとり、いつでも親しみやすい言葉である。

主イエスの死は 、「包括性」を持っている。また主イエスの復活も、同じく包括的である。

○ 第1コリント1:2

「キリスト・イエスにあって聖なる者とされ … 」

このキリスト・イエスにあるという意味は同書簡の終りに明らかにされている。

○ 第1コリント 15:45 〜 47

上記のみ言葉には 、主イエスについて2つの注意すべき名称 、あるいは肩書きが用いられている。それは「最後のアダム」と「第二の人」である。聖書には 、キリストが「第二のアダム」ではなく、「最後のアダム」であると記されている。またキリストは「最後の人」ではなく、「第二の人」として記されている。この2つの言葉には大きな価値を持つ真理を含んでいる。

キリストは「最後のアダムとして、全人類を包括している。」また「第二の人」として、新しい人類の長である。ここで私たちは 、2つの結合、すなわち、1つは主イエスの死に 、1つは主イエスの復活に結びつけられる「結合」を知る。「最後のアダム」としてキリストが人類と「結合」されたことは 、歴史的にはベツレヘムで始まり、十字架と墓をもって終わっている。そこでキリストは 、アダムにあったものをすべてご自身の中に集め、且つそれを審判と死へ渡された。次に「第二の人」としてのキリストと私たちとの「結合」は 、復活で始まり、永遠において終わる。

ところが永遠には終わらないのである。なぜなら、キリストはみこころに反した第1の人を死によって処理し、それから、みこころが十分に実現される新しい人類の首長として復活されたからである。

したがって主イエスは 、十字架につけられた時に 、「最後のアダム」としてつけられたのである。

私たちもそこに含まれている。キリストは最後のアダムとして、古き人を一掃された。

次に第二の人として、新しい人類を誕生させる。キリストは復活において第二の人として立ち、私たちもまたそこに含まれている。

○ ローマ6:5

「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと1つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです。」

私たちは 、最後のアダムであるキリストにあって死んだ。と同時に 、第二の人であるキリストにあって生きる。つまり、十字架は 、私たちをアダムからキリストへと移す神の力なのである。

 

 

◎ 進歩の行程 ー ー 知ること  ①

 

私たちの古い歴史は十字架で終わりを告げ、新しい歴史は復活に始まる。

○ 第2コリント5:17

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎさって、見よ 、すべてが新しくなりました。」

十字架は始めの創造に結末をつける。次に主イエスの死を通して、第二の人 、すなわちキリストにあって、新しい創造に結末をつける。もし私たちが「アダムにある」のであれば 、アダムにあるすべてのものが 、必然的に私たちの上に転嫁(てんか)される。自然にそうなってしまう。腹を立てたり何かの罪を犯したりする場合、特にそのように決心する必要はない。自然にそのようになり、しかも私たちの意志に反してさえそのようになる。同様に私たちがもし「キリストにある」ならば 、キリストにあるすべてのものが 、神の自由の恵みにより、私たちのもとへやって来るであろう。それらのものは 、私たちの側の努力ではなく、単純な信仰によって、私たちのものとなるのである。

 

しかし、私たちの必要とするすべては 、キリストにあって自由に私たちのものとなると言っても、何か抽象的で現実的でないように思える。現実のこととして、実際にそれを体験するには 、どうすれば良いのか。

ローマ人への手紙の 6 ,7 ,8章をよく読む時に 、標準的なクリスチャン生活を営む条件が4つあることに気付く。

それは 、① 知ること ② 認めること ③ 自己を神に捧げること ④ み霊によって歩むこと、である。もし正常なクリスチャン生活を生きようとすれば 、以上に述べた4つの段階を皆 通らなければならない。1つだけでも2つだけでも3つだけでもなく、全部の段階を1つ1つ学んで行くならば 、主はみ霊をもって私たちの理解を明らかにしてくださるであろう。

 

◎ 私たちがキリストと共に死んだということは 、歴史的な事実である

 

ローマ人への手紙6:1ー 11の中で主イエスの死が代表的なものであり包括的なものであることを述べている。

私たちは 、キリストの死にあって皆 死んだのである。これを知らなければ 、霊的進歩を望むことは誰にもできないであろう。キリストが私たちの罪を十字架上で負われたことを知らなければ 、神の義認を得ることができないと同様に 、主が私たち自身をも十字架上において負われたことを知ることがなければ 、聖化を得ることができない。私たちの罪が主の上に置かれただけでなく、私たち自身も主のうちに置かれたのである。

ところで、あなたはどのようにして罪の赦しを受けただろうか?  あなたは 、主イエスがあなたの身代わりとして死に 、あなたの罪をご自分の上に負われたということ、また主イエスの血があなたの汚れを清めるために注がれたということを、知っただろうか。またあなたの罪がすべて取り除かれたことを知った時 、あなたはどうしただろうか。「主イエスよ 、どうか私の罪のために 、死んでください!」と祈っただろうか。そうではなく、あなたはただ主に感謝しただけだった。また 、再び来て私のために死んでくださるようにと願わなかった。なぜなら、主イエスがすでにそのことをなしてくださったことを自覚したから。

罪の赦しにおいて真実であることは 、解放の場合においても真実である。みわざはすでに完成されている。したがってそのために祈る必要はない。主のみ名を賛美するだけで良いのである。神は私たちを1人残らずキリストの内に置かれたので、キリストが十字架に付けられた時 、私たちもまたそこに付けられた。だからこのように祈る必要はない。「私は大変悪い人間です。主よ 、どうか私を十字架に付けてください。」

このように祈るならば 、大きな誤りを犯すことになる。私たちの罪はキリストの血によって処理され 、私たち自身は主イエスの十字架によって処理されている。それは 、もう完成された事実である。あなたのすべきことは 、キリストが死なれた時にあなたも死んだ。すなわち主イエスにあって死んだということを感謝し、み名を賛美することだけである。

○ 詩篇 106:12

「すると彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った」あなたはもちろんキリストの死を信じている。

ところでその同じ聖書、すなわち、キリストが私たちのために死なれたと記しているその聖書が 、同時に 、私たちは主と共に死んだと記しているのである。

○ ローマ6:8

「私たちはキリストとともに死んだ」

私たちは 、いつキリストと共に十字架に付けられるのであろうか?  それは昨日か。今日であろうか。使徒パウロの言葉を少し変えてみよう。彼はこう言った。「キリストはわたしたちの古き人と共に(または同時に)十字架に付けられた」

    ーー ・ーー ・ーー

(筆者は 、東京で学生だった頃、神学者黒崎幸吉博士の愛弟子である牧師の夜の集会へクリスチャンの友人に誘われて出席したことがある。その集会後、その牧師夫妻に夕食へ招かれた。その席で「私たちはキリストと共に十字架に付けられた」というお話があった。私は確認するつもりで、こう言った。「ぼくが十字架に付けられた時 、キリストも十字架に付けられたのですね」と言うと、隣りの友人があわてて「逆だよきみ!」と私の肩を揺らしながら大声を挙げた。

しかし、牧師(元々物静かな 60歳ぐらいの人であったが 、)  静かにこう言った。「同時ですから、どちらから言ってもいいわけです」友人は「あ」と言って静まった。今、その時の光景を懐かしく思い出している。彼は今頃どうしているだろう… )

 

            ー ー つづく

 

    2026・4・20

   ( 次回 ‥ 2026・5・10   進歩の行程 ー ー 知ること ② )

     集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11

◎ 人間の生まれながらの状態

 

クリスチャン生活の初期において、私たちは自らの行為に関心を奪われるため、自分の状態に注意しないことがある。そして私たちの状態がどうであろうかということより、何をしたかという事がらに心を悩ます。過去の特定の行為を矯正することができれば 、善良なクリスチャンになることができると思う。そして行為を変えようと努力する。しかしその結果は 、全く期待はずれのものが生まれる。

すなわち私たちは 、外面に現われた単なるトラブル以上のもの、つまり内部に重大なトラブルがあることを発見して悩む。私たちは主をお喜ばせようと努力しつつも、自分の内に主をお喜ばせることを望まない何ものかのあることを発見する。へりくだるようにと努力していても、へりくだりを拒む何ものかが 、私たちの存在そのものの中にある。あるいは愛の深い者となるように努めても、心の中では 、最も愛に欠けた者であると感じる。また笑顔を見せたりして、自分を優しく見せようと努力するが 、心の中では 、おおよそ優しくないことを感じるし、表面をよくしようとすればするほど、内心のトラブルがいかに深く根ざしているかを自覚する。その時私たちは 、主の前に出て、「主よ 、わかりました。私のなした行為が悪いばかりでなく、「私自身が悪いのです」と告白するのである。

○ ローマ5:19

「ちょうど1人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に 、1人の従順によって多くの人が義人とされるのです。」この聖句の結論が 、今や私たちにヒントを与えている。私たちは罪人である。私たちは 、本来 神が計画されたものとは本質的に異なる人種の1人である。堕落によってアダムの性質の中に根本的な変化が起こり、そのため彼は 、本質的に神をお喜ばせすることのできない罪人となった。そして私たちのすべてが受け継いでいる血統は 、単に表面的なものではなく、私たちの内的性質にも影響を及ぼしている。

私たちは「生まれつきの罪人」である。どのようにしてこのようになったのであろうか?  使徒パウロはその原因を「ひとりの不従順によって」と記している。私たちは 、自分自身のためではなく、アダムのために罪人となっているのである。私が罪人であるのは 、私が個人として罪を犯したからではなく、アダムが罪を犯した時に 、私がアダムの中にいたからである。私の生まれがアダムから出たものであるために 、私は彼の 一部分なのである。私はこの事実を変えることは絶対にできないし、私の行為をよくすることによって、アダム以外の一部分のものになることはできない。

○ 人間の生命の同一性

私たちの生命はアダムから始まった。もし私の曽祖父が3歳で死んだとすれば 、私は今 生きてはいない。私は彼にあって死んでいたはずである。同様に 、私たちすべての経験は 、アダムのそれとつながっているのである。誰も「私はエデンの園にいたことはない」と言うことはできない。なぜなら、アダムが蛇の言葉に負けた時に 、私たちすべても潜在的にエデンの園にいた。このように私たちは 、皆アダムの罪の中に包含されているので、「アダムにあって」生まれることにより、アダムから罪のあらゆる結果を受け継ぐのである。すなわち罪人の性質であるアダムの性質を受け継ぐ。結局私たちの存在というものはアダムに起源する。彼の生命は罪ある生命となり、罪ある性質となったので、私たちがアダムから受け継ぐ性質も、また罪あるものとなる。

したがって、すでに述べたように 、問題は私たちの行為にあるのではなく、私たちの遺伝にある。そのため、私たちの血統を変えることができなければ 、私たちのための解放はあり得ないのである。

しかし、この血統を変えるという方向にこそ、問題があり、神はまさにこのことを成就された。

 

◎ アダムにあるように 、キリストにもある

 

○ ローマ人への手紙5:12 〜 21

「すなわち、ちょうど1人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に 、1人の従順によって多くの人が義人とされるのです。」(同 19 節)

私たちは 、アダムにあって、アダムに属するすべてのものを受けるように 、キリストにあって、キリストに属するすべてのものを受けるのである。

私たちの前に新しい可能性がある。というのはアダムにあってすべての人が失われてしまった。そしてアダムによって罪が入り、また罪によって死が入り込んだ。その時以来 、全人類を通じて、罪は死によって支配されている。しかしこの暗黒な場面に 、ひとすじの光明が指し込んだ。すなわち、別の人の従順によって、私たちは義とされるのである! 罪が増し加わったところには 、恵みもいっそう満ちあふれた。

○ ローマ5:20 ,21

「律法が入って来たのは 、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところ

に 、恵みも満ちあふれました。それは 、罪が死によって支配したように 、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。」

 

◎ 神による解放の道

 

私たちは罪人として生まれた。では 、どのようにして、この罪の血統から切り離されることができるのであろうか?  私たちはアダムにあって生まれたのだから、どうしてアダムから逃れることが可能であろうか?

キリストの血は 、私たちをアダムの領域から取り出すことは不可能である。しかしただ1つの道(方法)がある。それは 、私たちは誕生によって存在するようになったのであるから、死によって存在を断たなければならない。私たちの罪性を処理するには 、私たちの生命を処理しなければならない。誕生によって罪への束縛が生じたように 、死によって罪の解放が得られるはずである。しかも神は 、アダムからの脱出の道を備えてくださった。次のみ言葉はそれを明言している。

○ ローマ6:2

「罪に対して死んだ私たち … 」

しかし、どのようにして「死ぬ」ことができるであろうか?

クリスチャンの中には 、この罪ある生命から逃れるためにずいぶんと奮闘努力したことであろう。逃れる道はどこにあるのであろうか?  それは自分を殺そうと努力することではなく、神がキリストにあって私たちをすでに処理しておられるということを知ることにある。このことは使徒の次の記事に要約されている。

○ ローマ6:3

「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな 、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」

しかし、もし神が「キリスト・イエスにあって」私たちを処理されたとすれば 、それが効果を持つには 、私たちはキリスト・イエスにある必要がある。ところがこれは 、非常に大きな問題である。私たちはどのようにしてキリストの内に入ることができるであろうか?  しかしここでもまた神は 、私たちの助けとして来てくださる。事実 、「キリストに入る」方法は無い。実を言えば 、私たちはキリストに入ろうと努力しなくてもいいのである。なぜなら、私たちはすでに「キリストにある」から!

私たちが自分自身でできないことを、神が私たちのためになしてくださった。神が私たちをキリストの中に入れてくださったのである。

○ 第1コリント1:30

「あなたがたは神によってキリストのうちにあります。」

口語訳では「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは 、神によるのである。」

ハレルヤ!「キリストにある」ために 、その方法を考え出したり、あるいは努力するのではない。またどのようにして「キリスト」に入るべきかを計画する必要もない。それは神が計画されたのであり、しかも神は計画されただけでなく、すでに成就してくださった。上記のみ言葉にあるとおり「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは 、『神による』のである。」私たちはすでに「キリストに入っている」のであって、努力する必要は少しもない。それは神がなされたみわざであり、すでに完成された『みわざ』なのである。

 

主イエスが十字架上で死なれた時に 、私たちすべては死んだ。私たちは「キリストにある」ことによって、主イエスにあって死んだ。

○ 第2コリント5:14

「1人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」

すなわち、キリストが十字架につけられた時 、私たちも十字架につけられた。

たとえば 、1冊の本に1枚の紙切れをはさんだとする。この本を東京へ送れば 、その紙切れも東京へ行く。この本を川に落とせばその紙切れもまちがいなく川へ落ちる。本の運命と紙切れの運命は同じであるように私たちはキリストの運命と同じなのである。

○ エペソ2:5〜6

「背きの中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。」

「神はまた 、キリスト・イエスにあって私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座(すわ)らせてくださいました。」

前述したみ言葉のとおり、「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは 、神による。」つまり主なる神ご自身が 、私たちを「キリストに入れられた」のである。キリストによって、神は全人類の罪を処理された。私たちの運命はキリストにつながれ 、キリストの体験は私たちの体験となる。なぜなら「キリストにある」ということは 、主イエスの死と復活の両面において主と同一視されたことを意味するから。

キリストの磔殺(たくさつ)は過去のものであるから、私たちの磔殺も未来のものではあり得ない。人は 、自分の手で自分を十字架につけて殺すことはできない。同様に 、霊的な面においても、神は私たち自身が自己を十字架につけるようにとは要求していない。キリストが十字架につけられた時に 、私たちも十字架につけられた。なぜなら、神は 、主にあって私たちをそこに置かれたから。

「キリストにあって」私たちが死んだということは 、単なる教義上の問題ではなく、永遠の事実である。

 

          ー ー つづく

 

   2026・3・31

  ( 次回 ‥ 2026・4・20   代行的且つ包括的なキリストの死と復活 )

 

      集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11

第4部

◎ キリストの十字架

 

先述したように 、ローマ人への手紙1章から8章までが2つの部門に分かれている。その前半は 、キリストの血が私たちの過失を処理しているし、後半では 、十字架が私たちの存在そのものを処理することが述べられている。ゆるしのためには血が必要である。一方で解放のために 、私たちは十字架を必要とする。

 

○  一層進んだ区別

 

ローマ4章と6章に復活の2つの面が述べられている。

○ ローマ  4:25

「主イエスは 、私たちの背きの罪のゆえ死に渡され 、私たちが義と認められるために 、よみがえられました。」

上記の聖句は 、主イエスの復活が 、義認と関連して述べられている。ここに私たちは神のみ前における自分の立場を知ることができる。しかしローマ 6:4では 、

○ ローマ  6:4

「私たちは 、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは 、ちょうどキリストがみ父の栄光によって死者の中からよみがえられたよう

に 、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」

ここにクリスチャンが聖い歩みに生きるために 、新しいいのちが私たちに与えられることと関連して復活が述べられている。

さらに「心の平安」についても、ローマ5章と8章は語っている。

○ ローマ  5:1

「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので 、私たちの主イエス・キリストによって神との平和を持っています。」

上記のみ言葉は 、キリストの血を信じて義とされたことによって与えられる神との平和をはっきりと記している。したがって私たちは現在すでに罪の赦しを得ているので 、神は私にとって、もはや恐怖の原因とはならない。

神に敵意を持っていた私は 、「み子イエスの死によって神との和解を受けた」(ローマ5:10)のである。

しかし私は 、まもなく、この「私」が自分自身にとって非常に大きな悩みの種となることに気付く。いぜんとして私の内に不安がある。なぜなら私の内に 、まだ私を罪へとひきつけるものがあるから。

神との平安はあるけれども、自分自身に対しては平安が無いのである。私の心の内に戦いがある。まさにその状態がローマ7章に巧みに描かれている。そこでは霊と肉との死闘が私の内で行われていることを指摘している。

しかしここからの主題は 、次の章のローマ8章の聖霊によって歩むことによって与えられる内なる平安へと移る。

○ ローマ  8:6 ,7

「肉の思いは死ですが 、み霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。」

 

私たちは 、血が私たちの罪を処理するということを客観的に知った。主イエスは 、私たちの身代わりとして、それらの罪を十字架の上で負い 、私たちに罪のゆるしと義認と和解とを得させてくださった。しかし、私たちに内在する罪の原理を神がいかに処理されるかを理解するためには 、もう 一歩前進して神のご計画の深みに立ち入る必要がある。血は私の罪を洗い落とすことができるが 、私の「古き人」を洗い落とすことはできない。そのためには私を磔殺(たくさつ)する十字架が必要である。キリストの血は罪を処理する。しかし十字架は「罪人」を処理しなければならない。

ローマ人への手紙の最初の4章には 、「罪人」という言葉がほとんど出て来ない。なぜなら、ここでは罪人というよりも、むしろその人が犯した罪が強調されているから。

「罪人という言葉が主要な位置を占(し)めるのは 、ローマ5章になってからである。それがどのように紹介されているかに注意しなければならない。そこには 、罪人というのは 、その人が罪を犯したから、というのではなく、その人が罪人として生まれたから罪人であると記されている。

罪を犯したから罪人なのではない。よく福音の伝道者あるいは牧師は 、ローマ人への手紙3:23の「すべての人は罪を犯した」という聖句を引用するが 、この個所をこのように使うことは 、厳密に言えば 、聖書的に正しいとは言えない。ローマ人への手紙は 、私たちが罪を犯したから罪人であるとは教えていない。そうではなく、私たちは罪人であるから罪を犯すのだと教えている。私たちは行為によってよりは 、性質そのものによって罪人なのである。

○ ローマ  5:19

「1人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた。」

ではなぜ私たちは 、罪人の性質を持っているのであろうか? それはアダムの不従順によってである。私たちは自分のなしたことによってではなく、アダムのなしたこと、およびアダムの持った性質のために罪人なのである。

ローマ人への手紙3章は 、私たちの関心を私たちのなしたことに向けさせる。 ー 「すべての人は罪を犯した」ー (ローマ3:23)  しかし、私たちがなしたことのために罪人であるというのではない。

昔、筆者が自宅で子供の集会をしていた頃、子供たちに「罪人とはどういう人たちですか?」とたずねたことがある。子供たちはすぐ「罪を犯した人です」と答えた。」

確かに罪を犯す者は罪人に違いない。しかし罪を犯すということは 、その人がすでに罪人であることを証明するものであり、決して罪人になる原因ではないのである。罪を犯す人は罪人であるが 、罪を犯さないとしても、もしその人がアダムの末であれば 、いぜんとして罪人であり、贖罪を必要とする。つまり悪質な罪人もあり、善良な罪人もいる。また道徳的な罪人も、腐敗した罪人もいる。しかしそのどれも、罪人であることに変わりはないのである。

時々私たちは 、過去のある特定の行為を悔やみ 、それさえなければ良かったのにと思うようなことがある。しかし問題は 、私たちの行為よりももっと深い所、すなわち私たちの状態にある。日本人はアメリカで生まれても、また英語を話せなくても、れっきとした日本人である。なぜなら、私は日本人として生まれたから。決定権を持つのは生まれである。同様

に 、私はアダムにあって生まれたので、罪人なのである。行為ではなく、私の親ゆずりの、代々の血統が問題なのであり、私は 、先祖代々から伝わっている性質のために罪人なのであり、罪を犯すから罪人なのではない。私は罪人であるがゆえに罪を犯すのである。

よく私たちは 、悪いのは自分の行った事であって、自分自身ではないと思う。しかし、神は私たちの存在自体が根本的に悪いということを、苦労して教えようとしておられる。根本問題は罪人自身にあり、その罪人が処理されなければならない。私たちの罪は 、キリストの血によって処理されるが 、私たち自身は 、十字架によって処理される。血は私たちがなしたことの赦し、十字架は 、私たちの存在からの解放を与える。

 

            ー ー つづく

 

筆者所感・・

 

◎信徒が病気になった場合、どのようにすべきか

 

先日、めったに病気にならない  46歳の長男が風邪を引いた。4,5日で治ったが 、まるで印を押したように彼の姉が 、同じ症状の風邪にかかった。つまり風邪が移った。

そこで私はクリスチャンの病気について 一筆書こうと思った。

 

○ ヤコブの手紙  5:14 〜 16

「あなたがたのうちに病気の人がいれば 、教会の長老たちを招き、主のみ名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

信仰による祈りは 、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは癒されるために 、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは 、働くと大きな力があります。」

ここの「油」は幾つかの異った解釈がある。 ①ここの「油」は古代のオリーブ油とぶどう酒(ルカ 10:34)であり、当時は病人が出れば 、一面 薬を使い 、一面祈った。

○ ルカ  10:34

「そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし … 」

②「油」は「聖霊を予表している。」(イザヤ 60:1) したがって信仰による祈りが聖霊を促して病を癒した。

③「油を塗る」とは「聖別」を象徴する。(出エジプト 22:31)  病気を神のみこころ聖霊の管理を学ぶ機会ととらえ 、神に仕えてこそ神の癒しを享受できるであろう。

④ 長老が油を塗るとは教会はキリストの体であるという理解がなければはっきりしないであろう。詩篇 133篇は聖書がいう教会はキリストのからだであることを如実に予表している。

○ 詩篇 133:2

「それは、頭に注がれた尊い油のようだ。それはひげに 、アロンのひげに注がれて衣の端(はし)にまで流れしたたる。」

信徒が病気になった時の聖書のことば次のように要約できるであろう。

( 1 ) 先ず、慌てない。ただし怪我の場合は即刻病院へ搬送する。

( 2 ) 先ず、祈り、神に尋ね求める。信徒が病気になった時には先ず病気の原因を探す。病気の原因は、健康の法則、生活、飲食の不正常などがある。またある病気は犯罪、神に罪を犯している場合がある。ある病気は原因が無く、サタンの攻撃による場合もある。

( 3 ) 信徒が病気になった場合には神の前に出てその原因を尋ねなければならない。もしサタンの攻撃によるものであるなら、サタンに立ち向かうべく祈る必要がある。

( 4 ) 神の癒しを仰ぎ望む。その病気という刃物をサタンが握っているのではなく、愛する神のみ手の中にあることを信ずる。

( 5 ) 祈る時、もし薬を飲むべきである、あるいは病院へ行くべきであると感じたならすぐ行動すべきである。薬を飲まない、医者に診(み)せない、祈らない、神に信頼しない、という事であってはならない。

( 6 ) 祈る時、もし人の助け(たとえば他の信徒、教会の長老、あるいは癒しの賜物を持っている人)を呼んで按手して祈ってもらう場合も必要である。すべからくクリスチャンは内なる感覚に従うべきである。

 

2026.3.11

( 次回‥2026.3.31   人間の生まれながらの状態 )

集会書‥札幌市西区八軒6条東4丁目4-11

◎訴える者への勝利

 

キリストの血は敵であるサタンに向かう一面がある。現在のサタンの最も計略的な活動は、私たちの兄弟を神に訴えるところにある。

○ 黙示録 12:10

「私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神のみ前で訴える者が投げ落とされた。」

これに対して、主は大祭司としての特別な使命をご自身の血によってサタンに立ち向かわれるのである。

○ ヘブル 9:12

「また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ1度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」

では、血はサタンに対してどのような働きをするのであろうか?それは神を人の側に置いて、サタンと対抗させる。人類の堕落によって、サタンは人のうちに足場を獲得したので、神は人から離れねばならなくなった。現在人は地下にあるよみのパラダイスという領域の外におり、(ルカ 16章)神の栄光を受けられなくなっている。

○ ローマ 3:23

「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、… 」

なぜなら、人が神から霊的に離れているからである。人はみずからが成したことのために、自己の内に障害物を導入してしまった。それが取り除かれるまでは、神が彼を倫理上弁護することはできない。しかしキリストの血はその障害物を取り除き、人を神へ、また神を人へと結び、両者の関係を回復させる。人は神の恵みにあずかり、神は人の側にいてくださるため、私たちは何の恐れもなく、サタンに向かうことができるのである。

○ 第1ヨハネの手紙 1:7

「み子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」

上記のみ言葉は、クリスチャンならよく知っている。ここで述べられている罪とは、包括的な「あらゆる罪」ではなく、私たちが犯した「1つ1つの罪」を指している。ここに、目を見張るべきことがらが隠されている。神は光の中におられるので、私たちが神と共に光の中を歩めば、すべてのものが光に照らし出される。したがって、神はすべてのものをご覧になることができる。しかも血は、そのすべての罪から清めることができるのである。

このきよめとは、私が自分自身について深い知識を持っていないということでも、神が私に対して完全な知識を持っておられないということでもない。また私が何かを隠そうとして、あるいは神が何かを見逃そうとされることでもない。そうではなく、神が光の中にいまし、また私も光の中におり、そこにおいてキリストの尊い血がすべての罪から私を清めるのである。キリストの血にはそれを成すための十分な効力がある。

人はときどき自分の弱さに圧迫され、自分はゆるされない罪を持っていると考える。しかし私たちは「み子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(第1ヨハネ 1:7)という聖句を思い起こさなければならない。大きな罪、まっ黒な罪、小さな罪、そんなに悪くない罪、赦されそうな罪、おてんとうさまが見ているよと言われてドキッとするような罪、ありとあらゆる罪が、意識しているかしていないかを問わず、覚えているか覚えていないかを問わず、上記の聖句「すべての罪」の中に含まれている。なぜなら第一にみ子イエスの血は神を満足させるからである。

神は光の中にあって私たちのすべての罪をご覧になり、キリストの血を根拠に、それらの罪を赦すことがおできになる。したがって、サタンは私たちを訴える何の根拠も持ちあわせてはいない。

○ ローマ 8:31

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」

神はサタンにみ子イエスの血を示される。しかもそれは、サタンに弁解の余地を与えない。

○ ローマ 8:33 ,34

「だれが 、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。」

「だれが 、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが 、神の右の座に着き、しかも私たちのために 、とりなしていてくださるのです。」

ここにおいても尊いキリストの血の十全性を見ることができる。

○ ヘブル 9:11 ,12

「しかしキリストは 、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ 、人の手で造った物でない 、すなわち、この被造物の物でない 、もっと偉大な 、もっと完全な幕屋を通り、」

「また 、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ1度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」

主イエスは1度贖い主となり、その後 2000年近く大祭司、また助け主となっておられる。彼は神のみ前における「罪のための、あがないの供え物である。」(第1ヨハネ2:1,2)

○ ヘブル 9:14

「 … その血はどれだけ … 」

このどれだけという聖句はキリストの職務の完璧さを裏付けているし、その血は 、神にとって十分であることを物語っている。

では 、サタンに対する私たちの態度はどうあるべきであろうか? これは非常に大切なことである。なぜなら、サタンは神に対するのみならず、私たちの良心にも訴えるからである。サタンの主張は 、「おまえは罪を犯した。しかも絶えず犯し続けている。おまえは弱い。だから神は 、これ以上お前に憐みをかけることはできない。」と言うことにある。この時私たちは 、自分自身のうち、自己の感情あるいは行為の中に 、サタンが誤っているとの根拠を見い出そうとする誘惑に陥りやすい。あるいはまた 、これとは反対に 、自分の無力さを認めて失望し、意気消沈するという誘惑にかかりやすい。このように 、サタンの告訴は 、彼の最も効果ある武器の1つである。彼は私たちの罪を指差し、それをもって、神のみ前で私たちを咎(とが)めようとする。その時 、もし私たちが彼の告訴を認めたならば 、直ちに私たちは敗北してしまうであろう。

私たちがサタンの告訴を容易に認めてしまう理由は 、私たちがまだ自分の義(ただ)しさに望みを置いている所にある。自己に望みを置くことは間違っている。そのようにすれば 、サタンは私たちを、間違った方向へ顔を向けさせたと喜ぶだろう。そうしてサタンは 、点を

稼(かせ)ぎ、私たちを無力にしてしまう。しかし私たちが肉に信頼を置かない学課を習得したならば 、罪を犯しても別に驚くことはないはずである。というのは 、罪を犯すことがまさしく肉の性質であるから。

私たちは自己の真の性質を十分に認め、自分がいかに無力であるかを知らないために 、自分のうちにいぜんとして何らかの期待を持っている。その結果 、サタンが来て私たちを責める時に 、私たちは敗れてしまうのである。

 

神は私たちの罪を十分に処理されることができるのであるが 、サタンの訴えに負ける人と交わりを持つわけにはいかない。なぜなら、そのような人はキリストの血を信頼しないからである。血はその人の味方であるにもかかわらず、その人はサタンの声に耳を傾けている。キリストは私たちの助け主であるのに 、私たちは訴えるものの側に立ってしまう。私たち

は 、自分が死に価する以外に何ら価値の無いことを認めていない。言い換えれば 、私たちは 、自分を十字架に付ける以外に道が無いことを認めていないのである。そして、神のみが訴える者に応答できること、また 、すでに尊い血によって答えておられることを認めていないのである。

私たちの救いは 、主イエスに目を注ぎ、私たちの罪によって起こったあらゆる事態が 、小羊の血によってすでに処理され 、且つ解決されたことを自覚することにある。それが私たちの立つべき固い土台である。

確かに私たちは罪深い者であるが 、ハレルヤ! キリストの血はすべての罪から私たちを清めてくださる。神は 、価をことごとく払ったみ子イエスの血をご覧になるのだから、サタンはもはや攻撃の根拠を持つことは不可能なのである。尊い血に対する私たちの信仰と、血によって確保された立場から絶対に離れないことが 、サタンの訴えを沈黙させ、彼を追い払うのである。

○ ローマ  8:33 ,34

「だれが 、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。」

「だれが 、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、しかも私たちのために 、とりなしていてくださるのです。」

しかもこの事実は永遠に変わることはない。

○ 黙示録  12:11

「兄弟たちは 、子羊の血と、自分たちの証しのことばのゆえに 、竜に打ち勝った。彼らは死に至るまでも、自分のいのちを惜しまなかった。」

 

        No . 350号 ー ー 完

 

    2026・2・19

   ( 次回 ‥ 2026・3・11   No . 351号  キリストの十字架 )

 

      集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11

 

◎ 神は満足された

 

神の聖と神の義は 、人のために罪なき命が与えられることを要求する。

ところで血には命があり、その血が私のため、私の罪のために注がれねばならない。このように要求されるのは神である。神の義を満足させるために 、血の提示を要求するのは神ご自身であり、○「わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう」と言われたのも神である。(出エジプト記 12:13) キリストの血は完璧に神を満足させるのである。

 

神の言葉が私たちを目覚めさす前には 、私たちは未信者として全く良心に煩わされなかった。私たちの良心は死んでおり、そして死んだ良心を持った人は神に用いられるはずもない。ところが今度は信仰を持つようになると、目覚めた良心が非常に鋭敏になり、私たちに大きな波紋を投げかける。しかも罪意識と良心の咎(とが)めがあまりにも大きくなり、恐怖心さえも与えるようになると、キリストの血の真の有効性を見失いそうになる場合がある。どういうことかと言うと、罪があまりにも大きな実感として迫り、特定の罪があまりにもたびたび私たちを悩ますと、キリストの血よりも、罪の方がはるかに大きく感ぜられるようになる。

その原因は 、私たちが「キリストの血を感じようと努力」しているところにある。

私たちは血の価値を感じようと努力し、血が私たちにとってどのようなものであるか 、主観的に評価しようと努力する。しかしそうすることはどだい不可能であって、このような方法は全く無益である。

血はまず神ご自身がご覧になるものである。

続いて私たちは 、その血に対する神の評価を受け入れなければならない。そうすることによって私たちは 、私たちの評価を見い出すのである。しかしそうしないで、自分の感覚に頼って評価しようとすると、闇に閉ざされてしまう。

神の言葉を信頼することが第1である。

○ 第1ペテロ1:18 〜 19

「ご存じのように 、あなたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは 、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」

神が血は尊いと言われたからこそ私たちも、血が尊いと信じなければならない。

もし神が 、血を私たちの罪の価として、またあがないの価として受け入れるならば 、私たちは 、負債が支払われたとして、心を安ずることができる。血に対する私たちの評価は 、神の評価に準じるものであって、それ以上でもそれ以下でもない。その聖にして義なる神は血はご自分の目に適(かな)い 、ご自分を十分に満足させたと言う権限を持っておられる。

 

◎ クリスチャンの神への接近を自由にするイエス・キリストの血

 

血は神を満足させたので、当然私たちをも満足させるはずである。したがって血は 、私たちの良心を清めるという、人に対する効力を持っている。

○ ヘブル 10:22

「心はすすがれて良心のとがめを去り … 」

ヘブル人への手紙の記者は 、主イエスの血が私たちの心をきよめるとは言っていない。血と心とをそのように関係づけることは誤りである。「主よ 、あなたの血をもって私の心を罪からきよめて下さい」と祈るならば 、キリストの血の働きの分野を誤解したことになる。

○ エレミヤ書 17:9

「人の心はよろずの物よりも偽るもので、はなはなしく悪に染まっている。」(口語訳)

「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。」

(新改訳 2017)

人の心は単にきよめられるだけでは足りなく、神は新しい心を私たちにお与えになる必要があった。

私たちは捨てるつもりのぼろを洗濯したり、アイロンをかけたりはしない。肉はきよめられるにはあまりにも悪くなりすぎているので、十字架につけられる以外に方法がない。私たちの内における神の働きは 、全く新しいものでなければならないのである。

○ エゼキエル書 36:26

「あなたがたに新しい心を与え 、あなたがたのうちに新しい霊を与える。」

血が私たちの心を清めるなどというような記事は 、聖書のどこにも見当たらない。血の働きはそのように主観的なものではなく、神の前における全く客観的なものなのである。ヘブル人への手紙 10章には 、確かに心に関連して、血の清めの働きに関することが書かれているが 、それは良心に関係している。

○ ヘブル 10:22

「心に血が振りかけられて邪悪な良心をきよめられ … 」

ところで、上記のみ言葉の邪悪な良心をきよめられ 、とはどのような意味であろうか?

それは 、神と自分自身との間に妨げとなるものがあることを意味している。その結果 私

は 、神に近づこうとする時 、良心の咎めを持ってしまう。その良心の咎めは 、神と私自身の間にある障害物を絶えず私に思い起こさせる。しかし今や、キリストの尊い血の働きによって神の前に新しいことがなされ 、その結果 障害物が取り除かれてしまった。神はこの事実をみ言葉をもって私に知らせてくださった。そのことが信じられ 、受け入れられた時

に 、私の良心は直ちに清められ 、罪意識は取り除かれる。そして私は 、神に対して、もはや良心の咎(とが)めを持たないのである。

神との交わりにおいてとがめのない良心を持つことが 、いかに尊いものであるか 、だれにも分かっている。信仰に基づいた心と、いかなる非難とも縁のない良心とがクリスチャンにとって非常に必要である。というのは 、この両者 相互依存の関係にあるからである。良心が不安を覚え始めた瞬間に 、私たちの信仰は弱くなり、とたんに 、神に直面できなくなったことを知る。したがって、神との交わりを保つために 、私たちは最も新しい感覚での血の価値を知らなければならない。神は毎日 、毎時 、毎分 、そのたびごとに 、私たちが血によって罪を清算されることを要求される。この事実をしっかり把握していれば 、決して血は神に近づく土台としての効力を失わない。至聖所に入る時 、血以外の根拠はあり得ないからである。

顧(かえ)りみて、果たして自分は 、血によって神の臨在に入ろうとしているだろうか? あるいはそれ以外の方法で神に近づこうとしているのではないか。ところで、この「血によって」ということは 、どういう意味であろうか? それは単に 、私が自分の複数の罪を認め、あがないと清めの必要を告白し、主イエスが成し遂げられたみわざを根拠として神の前に出ることを意味する。私は自分が成したわざではなく、主イエスの功績によってのみ神に近づくのである。たとえば「今日は特別に柔和であった」とか 、「よく忍耐した」とか 、「今日は主のために良い事をした」とか言うようなことによって、神に接近できるではなく、いつでも血によらなければ 、神に近づくことは絶対にできないのである。

神に近づこうとする時に 、多くの人が犯し易いあやまちがある。それは 、神がご自身とのもっと親しい交わりを私たちに望んでおられ 、また十字架のより深い学課を教えようとしておられるために 、私たちの前に新しい基準を設けておられるという考えである。そのため私たちは 、その基準に達することによってのみ神の前にくもりのない良心を持つことができると想像する。しかし曇(くも)りなき良心は 、決して私たちが何ごとかをすることによって得られるものではなく、主イエスが血を流すことによって成されたみわざにのみ基づいている。

実は私自身もそうであったが 、次のように考えている人が多いのではないか。

今日は今までより善良であった。今朝 、主のために良いことをした 、今朝 、み言葉を温かい気持ちで読むことができた。だから今日は良く祈ることができる。あるいは今朝 家の者とちょっとしたいざこざがあった。そのためゆううつな気持ちで1日を始めた。今、心の中がすっきりしない。だから今日は神に近づくことができない。などと考えるのである。

 

では 、神に近づく根拠は 、いったいどこにあるいは何にあるのであろうか?

あなたは神のために何かをしたというような 、感情という不安定な根拠によって神に近づくのでしょうか。それともはるかに確かなもの、すなわちイエスの血が流され 、しかも神がそれをごらんになって満足しておられるという事実に 、根拠を置くのであろうか。もしキリストの血に少しでも変化が生じる可能性があるとすれば 、あなたが神に近づく基盤は信頼の薄いものとなるであろう。

しかし昔も今も、イエスの血には決して変化はないし、今後もない。したがって神に大胆に近づくことができる。その大胆さは血を通してあなたのものとなり、決して自分のわざによって自分のものになるのではない。今日のあるいは昨日の、さらに一昨日の功績がどうであろうとも、至聖所へ向かう意識的な第一歩は 、必ず、流されたキリストの血という信頼のおける唯一の根拠に基づくのでなければならない。その日が良くても悪くても、意識的に罪を犯そうが犯すまいが 、私たちの神への接近の土台は 、必ずキリストの血による。そしてこの真理は永遠に変わることがない。

○ エペソ2:13

「かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなりました。」

○ ヘブル 10:19 ,22

「こういうわけで、兄弟たち、私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができます。」

○「心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ 、からだをきよい水で洗われ 、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。」

○ 祈り

「主よ 、私はキリストの血の価値を十分に知ることはできません。しかし私は 、血があなたを満足させたことを知っています。したがって血は私にとって十分な価値を持ち、唯一の嘆願の根拠です。私が信仰に進んだか 、あるいは一定の所に達したかどうかということ

は 、問題ではありません。み前に近づく時は 、いつも尊い血を根拠としてまいります。」

 

             ー ー つづく

 

    2026・1・30

   ( 次回 ‥ 2026・2・19   訴える者への勝利 )

 

     集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11

 

◎ 複数形の罪の問題

 

先ず、始めに 、主イエス・キリストの尊い血と、私たちの罪を処理し、私たちを神の前に義とする血の価値について書きたい。

○ ローマ3:23

「すべての人は罪を犯した」

○ ローマ5:8〜9

「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって神の怒りから救われるのは 、なおいっそう確かなことです。」

○ ローマ3:24 〜 26  (口語訳)

「彼らは 、価なしに 、神の恵みにより、キリスト・イエスによる、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが 、それは 、今の時に 、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに 、イエスを信じる者を義とされるのである。」

さて、「複数形の罪」という聞き慣れない言葉の意味を前号No . 347に書いたが 、次のみ言葉はちょうどそれを説明している。

○ ローマ5:19

「ちょうど1人の人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に 、1人の人(主イエス)の従順によって多くの人が義人とされるのです。」

 

罪は不従順の形をとって入り、先ず第1に神と人との隔離を生む。そのため人は神から引き離される。したがってもはや神は人との交わりを保つことが不可能になる。なぜなら、神と人との交わりを妨げる障害物がそこにあるからである。そしてそれは聖書の至る所において「罪」(単数形)として知られている。このようにして神は 、先ず、すべての者が罪を犯したと語る。

○ ローマ3:9

「ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪を犯した。」

第2に 、神との交わりの障害となる内在の罪は 、その人の中に罪意識を起こし、神との疎遠を生じさせる。ここにおいて人は目ざめた良心の助けを得て、

○ ルカ 15:18

「わたしは 、罪を犯しました」と告白する。それだけではなく、罪はまた 、神の前に人を訴える材料をサタンに提供する。また同時に 、罪意識は 、サタンが私たちの心の中で責めるための地盤を与える。つまり第3に 、

○ 黙示録 12:10

「兄弟を訴えるもの(つまりサタン)が「あなたは罪を犯したではないか」と言うのである。

それゆえに 、主イエスは 、私たちを贖い 、神の目的に私たちを連れ戻すために 、上記の3つの問題 、すなわち ①罪と ②罪意識と ③私たちに対するサタンの訴えに対して、神は必要な処置を取らなければならなかった。先ず最初に 、前述した私たちの複数形の罪が処理されなければならない。このことは 、キリストの尊い血によって成し遂げられた。つまり私たちの罪はみなキリストの血によって赦されたのである。ハレルヤ!

次に 、私たちの罪の自覚が処理されなければならない。この罪の意識は 、キリストの血の価値を示されることによって安じるのである。最後にサタンの攻撃が解決され 、彼の訴え(黙 12:10)が無効にされなければならない。

聖書は 、キリストの血が3つの方向 、すなわち ①神と ②人と ③サタンに向かって、有効的に働いていると語っている。

信仰の成長を見ようとするなら、血の価値を自分のものとすることが絶対に必要であり、これが第1の条件である。私たちの身代わりとなられた主イエスの死についての基礎的な知識と私たちの複数形の罪に対する主イエスの血の効力を、はっきりと十分に把握する必要がある。というのは 、これがなくては 、正しい信仰の歩みを始めたと言えないからである。

 

 

◎ キリストの血はおもに神のためのものである

 

血は贖罪のためのものであり、まず第1に神の前における私たちの立場に関係を持っている。私たちは神の審判を受けなくてすむために 、犯した多くの罪のゆるしを必要とする。そして現実にそれらの罪は赦される。しかしそれは 、神がそれらの罪を見過ごされるからではなく、神は血(イエス・キリストの血)を見られるからである。したがって血というものは第1には私たちのためでなく、神のためなのである。血の真価を理解したいと思うなら、神がその血をどのように評価しておられるかを知る必要がある。もし私が 、血に対する神の評価を知らなければ 、それが自分にとってどのような価値を持っているか分からないだろう。キリストの血に対する神の評価が聖霊によって明らかにされた時にのみ 、私はその血のもたらす益にあずかり、その血が私にとっていかに尊いかを知るのである。しかし血の第1の面

は 、神に向かっている。旧新約聖書を通じて出てくる「血」は 100回以上あるが 、それは贖罪と関係を持ち、そのいずれも神と関係を持っている。

旧約のカレンダーにおいて、私たちの複数形の罪に関して大きな意義を持つ日がある。それは贖罪の日である。この日ほど、複数形の罪の問題をはっきりと説明するものは 、ほかに無いのではないか。

○ レビ記 16:14

「雄牛の血を取り、指で宥(なだ)めの蓋(ふた)の東側に振りまき、また 、指で7度その血を宥(なだ)めの蓋の前に振りまく。」

旧約時代 、贖罪の日に 、罪祭の動物から血が取られ 、至聖所に運ばれて、主の前に7たび注がれた。その日、罪祭のささげ物は 、幕屋で公けに献げられた。

すべてのものが何の覆(おお)いもなくそこにあり、誰もがそれを見ることができた。しかし神は 、大祭司以外の者が 、幕屋の中に入ることを禁じた。大祭司だけが血を持って至聖所に入り、贖罪のため主の前にそれを注いだ。

なぜか?

それは大祭司が 、あがないのわざにおける主イエスの型であったから。

○ ヘブル9:11 〜 12

「しかしキリストは 、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ 、人の手で造った物でない 、すなわち、この被造世界のものでない 、もっと偉大な 、もっと完全な幕屋を通り、また 、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ1度だけ聖所に入り、永遠の贖いを遂(と)げられました。」

すなわち、大祭司は 、型としてあがないのわざをなしたわけである。大祭司以外の者は 、至聖所に近寄ることもできなかった。しかも行なう行為は1つしかなかった。それは 、神に受け入れられ 、神の喜びに適う物として血をささげることだった。それは聖所における大祭司と神との取引きであり、それによって益をこうむる人たちの見えない所でなされた。主がこのことを要求された。それゆえに 、血は第1に神のためのものだったのである。

 

これより前に 、イスラエル民族のあがないのためにエジプトにおいて、過越しの小羊が注がれたことが述べられている。

○ 出エジプト記 12:7 ,13

「その血を取り、羊を食べる家々の2本の門柱と鴨居(かもい)に塗らなければならない。」

「その血はあなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは 、あなたがたには起こらない。」

上記のみ言葉は 、血が人のために提示されるものではなく、神のために提示されるものであると語っている。なぜなら、血はかもいと柱に塗られていたので、家の中で食事している人には見えなかったからである。

           ー つづく

 

   2026・1・10

  ( 次回 ‥ 2026・1・30   神は満足された )

 

     集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11