※ 特稿
◎「セカンドチャンスはある!」
○ No . 347から書きはじめた「正常なキリスト者の基本的な信仰」シリーズの途中である
が 、どうしても書きたくなって、一時中断してペンを取った。
表題の「セカンドチャンス」とは何かというと、生前キリストの言葉を聞く機会が無く死去してしまった人々 、あるいは伝道者やクリスチャンを通してキリストの言葉を聞くには聞いたが 、種々の事情で心に入らないまま死去した人々が 、死後再び福音を聞く機会はある
か 、という問題である。
よみ(ハデス)の中で、再びキリストのことばをきくそのチャンスは無いと説く牧師や宣教師は多い。しかし、筆者は「ある!」と説く。その根拠を書きたくて書きたくてたまらない。
私の父は 69歳で逝った。私はついぞ父に福音を語ることができなかった。残念でたまらない。自分の臆病をしきりに悔やむ。その 10数年後 、母が函館病院に入院した。甲状腺癌ということだった。今度こそキリストを語らねばならないと思った。
その後 、弟から電話があり、母は彼が住む隣町の病院へ転院したと言う。
私は都会に住んでいるので習慣的に 、タクシーなどどこでも拾えるし、駅前には いるだろうと思い込んでいたので母の転院先の住所も電話のメモも持たないまま家を出た。その病院は江差町(えさしちょう)といった。駅を降りるとすでに夕暮れだった。ガランとしていて人もいないし商店などもない。タクシーもなければ電話もない。やっと1台 乗用車が止まっていた。私はわらにもすがる思いでその車へ走った。運転席に 70代ぐらいのご老人が乗っていた。聞けばこの町にはタクシーはなく、自分は帰省する子供を待っているところだと言う。私は困った。日も暮れて来る。ままよとばかり歩き出した。誰かに尋ねればいい。そう思って 5,6分歩いた時であった。後からプープーというクラクションが鳴った。近づいて来た車は 、さっきのご老人であった。「どちらまで?」と言うので「佐々木病院まで」と言うと、「通り道だから乗りなさい 、どうぞ」と言う。私は嬉しかった。地獄に仏とはこのことか 、と思った。早速乗せていただくと、後部には里帰りらしい息子さん夫婦と4,5歳ぐらいの子供が楽しそうにしゃべりながら笑っている。
ご老人は「佐々木病院にはどなたが?」と聞いてきた。「母が癌で … 」と答えると少し間を置いて彼は言った。「その病院はね 、もう見込みの無い人だけが入る病院なのです。いえわたしもね 、今 心臓に機械が入っています。ですからいずれ … 」と言って軽く笑った。
その病院はそういう病院らしく平屋で玄関はうす暗かった。母の病室へ入ると小さな部屋で、壁側に沿ってベッドが2つ並んでいた。
母は枕に顔を深々と埋めてうつぶせに寝ていて、管が数本つながっている。声を掛けたが返事はない。私は今日が最後のチャンスだと思ってキリストの言葉と福音を簡潔に語り出した。心に信じて、胸の中でおお主イエスよ!と呼べば救われること、イエス・キリストは神であること、主イエスは私たちの罪の身代わりとなって死なれたこと、しかし3日後に復活して今も生きていること、主イエスを心に入れさえすればすばらしい神の国へ入れること、そこには苦しみや病気もないこと … 母さん 、母さん聞いても聞かなくても僕の今言っていることを耳に入れてね 、ぼくの最後の言葉だと思ってね 、かあさん! むずかしいことはないんだよ、むねの内で「おお主イエスよ!」言えばいいんだよ、うつ伏せのままでいいの、そのまま 主よたすけて!と言えばいいんだよ。
母さん!ぼくを今日まで育ててくれてありがとう、ぼくが2歳の時 遠く中国の満州から背負って来てくれてありがとう。「おまえは重くてさあ」って母さんいつも言ってたよね!
母さん 、いま最後だと思って聞いてね。母さんは今何もすることがないんだ 、神が神のみ子イエスにあってすべての事をしてくださったんだよ、母さんはいまゆっくりやすめばいいの、神は主イエスにあってぼくの罪も母さんの罪も全部解決してくださった。ありがたい。イエス・キリストが私たちのすべての罪を取り除いてくださったんだよ。もう裁かれることは何1つ残っていないんだ 、み子が身代わりに裁かれてくださったんだ。母さん 、心の中でおお主イエスよ かんしゃします といえるでしょっ、そういえばそれですべて良しなんだ。母さん 、今あきら(弟)が来たから帰るよ!母に反応はなくいぜんとして枕に顔を埋めたままであったが 、耳には聞こえているように見えた。
帰りぎわ、隣りのおばあさん( 70歳代か )を見た。点滴のスタンドがあるわけでなく母のように苦しそうでもなく普通に見えた。私は一言、「お騒がせしてすみません」と言うと、彼女は大きく頭を横に振った。「いいえ 、そのようなことは何もありません」と言いたいふうであった。次いでそのおばあさんは目を大きく見開いて私の目をじっと見つめ、今度はその頭を大きく縦にうなずいた。それは私が母に語った言葉に同意して、うんうんとか 、今のお話し分かりましたよ、うんうん そうします。信じます。と言っているようであった。口を結ぶようにして声を出さないのは 、隣りの母が私の呼び掛けに一言も声を出さなかったのを気にしているふうに見えた。帰りの車の中で弟に 、「母さんの隣りのおばあさんの所へ 、だれか人が来る?」と聞くと、弟は「いや、1人も見たことがない」と言った。私はふと、主イエスがわざわざユダヤ人とは往来のないサマリヤの砂漠を通ってふだんはうとまれている水をくみにきた1人のサマリヤの女に声をかけ、自分がキリストであると語った光景を思い浮かべた。私は母にキリストを語りに来たのであるが 、あるいはこの名も知らぬ母のベッドの隣りのおばあさんの救いのために来たのであるまいか 、と思った。
さて、本題に入る。
人の死後の行き先には3つの場所がある ① 天国 ② よみ ③ 地獄である。よみは文語訳聖書では黄泉という漢字をあてている。よみと地獄を混同して理解している人は多い。上記のよみを黄泉という漢字に翻訳した学者もおそらくそれであろうと思う。「黄」は硫黄(いおう)の黄である。硫黄の泉とはいかにも地獄をイメージして訳したことがうかがえる。
ヤコブは最愛の末の息子が死んだと聞いた時 、わたしもよみに下って息子に会いたいと言って泣いた。
○ 創世記 37:35
「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに 、よみに下って行きたい」
よみとは天国と地獄の中間にある 一時的な場所のことをいう。よみは地獄とは異る。聖書辞典によれば 、よみは旧約聖書に 65回 、新約聖書に 10回出てくる。もっとも分かりやすいのは 、ルカの福音書 16章に出てくる金持ちと貧乏人ラザロの話しである。(因みによみは2か所に分かれている。一方は信者であったラザロが行ったアブラハムのふところ、慰めの場所、パラダイスともいう。もう 一方は不信者であった金持ちが行った所、苦しみの場所) (よみという場所は2つに分かれていることがわかる)
さて、セカンドチャンス(死後にもキリストを聞くチャンス)はあるという聖書の根拠を書きたい。
① ローマ 14:9
「キリストが死んでよみがえられたのは 、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。」
② ピリピ2:10 〜 11
「それは 、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が 、イエス・キリストは主ですと告白して、父なる神に栄光を帰するためです。」
③ 第1ペテロ3:18 〜4:6
中略 …「肉においては死に渡され 、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。」… 中略
「彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。」… 中略
④ エレミヤ書 18:8
「もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下(くだ)そうと思っていたわざわいを思い直す。」
⑤ ヨブ記4:13 〜 17
「中略 … 静寂。そして私は次のような声を聞いた。人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前にきよくあり得ようか。」… ( 死者にも希望を示唆している。)
⑥ ヨハネの福音書5:28
「墓の中にいる者がみな 、子の声を聞く時が来るのです。」
⑦ 黙示録5:13
「また私は 、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこういうのを聞いた。み座に着いておられる方と子羊に賛美と栄光と力が世々限りなくあるように」
⑧ 黙示録 20:11 〜 15
中略 … 海はその中にいる死者を出した。死とよみも、その中にいる死者を出した。彼らはそれぞれ自分の行いに応じてさばかれた。
中略 … いのちの書(回心者名簿)に記されていない者はみな 、火の池に投げ込まれた。
⑨ ルツ記2:20
「ナオミは嫁に言った。生きている者にも、死んだ者にも、み恵みを惜しまない主が 、その方を祝福されますように。」
⑩ 出エジプト記 20:6
「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には 、恵みを千代にまで施(ほどこ)す。」
⑪ 詩篇 16:10
「あなたは 、私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならない。」
⑫ ルカ 23:43
「イエスは彼に言われた。まことに 、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイス(よみ)にいます。」
⑬ ホセア書1:10
「イスラエルの子らの数は 、量(はか)ることも数えることもできない。海の砂のようになる。あなたがたはわたしの民ではない 、と言われたその場所で、彼らは 、生ける神の子らと言われる。」
※ 因みに 、よみはヘブル語でシェオール、ギリシャ語でハデス 日本語の口語訳では陰府と書き、文語訳では黄泉という字をあて、新改訳では平仮名でよみと書く。この辺にもよみと地獄を混同していた先人の姿が見える。黄泉と書いてよみと読ませている。黄泉とはいかにも地獄を匂わせる。よみと地獄とは異る場所である。
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アメリカにある青年がいた。彼は自分の心の中でほとんどキリスト教を信じようと思っていた。ところが1つだけ心にひっかかるものがあった。それは何かといえば 、死後の世界のことであった。父も母も祖母も皆キリストを知ることなく亡くなっている。自分が信じて救われた場合、天国から地獄で苦しむ肉親を見ることになるのであろうか? それは彼の心には理不尽なことに思え 、そのことが彼の心にひっかかるのであった。ちょうどそんな頃 、ある有名な宣教師が近くの町で伝道の集会が行われることを知ったので、彼はその集会へ行った。
終わった後 、青年は宣教師に尋ねた。「父も母も祖母もキリストを知ることなく死去したのですが 、彼らはどこへ行ったのでしょう?」宣教師は言った。「 地獄でしょう。」
青年の心はぷつんと切れ 、以後 再びキリスト教を信じることはなかった。
2026・5・30
( 次回 ‥ 2026・6・19 「十字架は私たちの問題の根本を貫く」)
集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11