◎ 人間の生まれながらの状態
クリスチャン生活の初期において、私たちは自らの行為に関心を奪われるため、自分の状態に注意しないことがある。そして私たちの状態がどうであろうかということより、何をしたかという事がらに心を悩ます。過去の特定の行為を矯正することができれば 、善良なクリスチャンになることができると思う。そして行為を変えようと努力する。しかしその結果は 、全く期待はずれのものが生まれる。
すなわち私たちは 、外面に現われた単なるトラブル以上のもの、つまり内部に重大なトラブルがあることを発見して悩む。私たちは主をお喜ばせようと努力しつつも、自分の内に主をお喜ばせることを望まない何ものかのあることを発見する。へりくだるようにと努力していても、へりくだりを拒む何ものかが 、私たちの存在そのものの中にある。あるいは愛の深い者となるように努めても、心の中では 、最も愛に欠けた者であると感じる。また笑顔を見せたりして、自分を優しく見せようと努力するが 、心の中では 、おおよそ優しくないことを感じるし、表面をよくしようとすればするほど、内心のトラブルがいかに深く根ざしているかを自覚する。その時私たちは 、主の前に出て、「主よ 、わかりました。私のなした行為が悪いばかりでなく、「私自身が悪いのです」と告白するのである。
○ ローマ5:19
「ちょうど1人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に 、1人の従順によって多くの人が義人とされるのです。」この聖句の結論が 、今や私たちにヒントを与えている。私たちは罪人である。私たちは 、本来 神が計画されたものとは本質的に異なる人種の1人である。堕落によってアダムの性質の中に根本的な変化が起こり、そのため彼は 、本質的に神をお喜ばせすることのできない罪人となった。そして私たちのすべてが受け継いでいる血統は 、単に表面的なものではなく、私たちの内的性質にも影響を及ぼしている。
私たちは「生まれつきの罪人」である。どのようにしてこのようになったのであろうか? 使徒パウロはその原因を「ひとりの不従順によって」と記している。私たちは 、自分自身のためではなく、アダムのために罪人となっているのである。私が罪人であるのは 、私が個人として罪を犯したからではなく、アダムが罪を犯した時に 、私がアダムの中にいたからである。私の生まれがアダムから出たものであるために 、私は彼の 一部分なのである。私はこの事実を変えることは絶対にできないし、私の行為をよくすることによって、アダム以外の一部分のものになることはできない。
○ 人間の生命の同一性
私たちの生命はアダムから始まった。もし私の曽祖父が3歳で死んだとすれば 、私は今 生きてはいない。私は彼にあって死んでいたはずである。同様に 、私たちすべての経験は 、アダムのそれとつながっているのである。誰も「私はエデンの園にいたことはない」と言うことはできない。なぜなら、アダムが蛇の言葉に負けた時に 、私たちすべても潜在的にエデンの園にいた。このように私たちは 、皆アダムの罪の中に包含されているので、「アダムにあって」生まれることにより、アダムから罪のあらゆる結果を受け継ぐのである。すなわち罪人の性質であるアダムの性質を受け継ぐ。結局私たちの存在というものはアダムに起源する。彼の生命は罪ある生命となり、罪ある性質となったので、私たちがアダムから受け継ぐ性質も、また罪あるものとなる。
したがって、すでに述べたように 、問題は私たちの行為にあるのではなく、私たちの遺伝にある。そのため、私たちの血統を変えることができなければ 、私たちのための解放はあり得ないのである。
しかし、この血統を変えるという方向にこそ、問題があり、神はまさにこのことを成就された。
◎ アダムにあるように 、キリストにもある
○ ローマ人への手紙5:12 〜 21
「すなわち、ちょうど1人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に 、1人の従順によって多くの人が義人とされるのです。」(同 19 節)
私たちは 、アダムにあって、アダムに属するすべてのものを受けるように 、キリストにあって、キリストに属するすべてのものを受けるのである。
私たちの前に新しい可能性がある。というのはアダムにあってすべての人が失われてしまった。そしてアダムによって罪が入り、また罪によって死が入り込んだ。その時以来 、全人類を通じて、罪は死によって支配されている。しかしこの暗黒な場面に 、ひとすじの光明が指し込んだ。すなわち、別の人の従順によって、私たちは義とされるのである! 罪が増し加わったところには 、恵みもいっそう満ちあふれた。
○ ローマ5:20 ,21
「律法が入って来たのは 、違反が増し加わるためでした。しかし、罪の増し加わるところ
に 、恵みも満ちあふれました。それは 、罪が死によって支配したように 、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。」
◎ 神による解放の道
私たちは罪人として生まれた。では 、どのようにして、この罪の血統から切り離されることができるのであろうか? 私たちはアダムにあって生まれたのだから、どうしてアダムから逃れることが可能であろうか?
キリストの血は 、私たちをアダムの領域から取り出すことは不可能である。しかしただ1つの道(方法)がある。それは 、私たちは誕生によって存在するようになったのであるから、死によって存在を断たなければならない。私たちの罪性を処理するには 、私たちの生命を処理しなければならない。誕生によって罪への束縛が生じたように 、死によって罪の解放が得られるはずである。しかも神は 、アダムからの脱出の道を備えてくださった。次のみ言葉はそれを明言している。
○ ローマ6:2
「罪に対して死んだ私たち … 」
しかし、どのようにして「死ぬ」ことができるであろうか?
クリスチャンの中には 、この罪ある生命から逃れるためにずいぶんと奮闘努力したことであろう。逃れる道はどこにあるのであろうか? それは自分を殺そうと努力することではなく、神がキリストにあって私たちをすでに処理しておられるということを知ることにある。このことは使徒の次の記事に要約されている。
○ ローマ6:3
「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな 、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。」
しかし、もし神が「キリスト・イエスにあって」私たちを処理されたとすれば 、それが効果を持つには 、私たちはキリスト・イエスにある必要がある。ところがこれは 、非常に大きな問題である。私たちはどのようにしてキリストの内に入ることができるであろうか? しかしここでもまた神は 、私たちの助けとして来てくださる。事実 、「キリストに入る」方法は無い。実を言えば 、私たちはキリストに入ろうと努力しなくてもいいのである。なぜなら、私たちはすでに「キリストにある」から!
私たちが自分自身でできないことを、神が私たちのためになしてくださった。神が私たちをキリストの中に入れてくださったのである。
○ 第1コリント1:30
「あなたがたは神によってキリストのうちにあります。」
口語訳では「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは 、神によるのである。」
ハレルヤ!「キリストにある」ために 、その方法を考え出したり、あるいは努力するのではない。またどのようにして「キリスト」に入るべきかを計画する必要もない。それは神が計画されたのであり、しかも神は計画されただけでなく、すでに成就してくださった。上記のみ言葉にあるとおり「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは 、『神による』のである。」私たちはすでに「キリストに入っている」のであって、努力する必要は少しもない。それは神がなされたみわざであり、すでに完成された『みわざ』なのである。
主イエスが十字架上で死なれた時に 、私たちすべては死んだ。私たちは「キリストにある」ことによって、主イエスにあって死んだ。
○ 第2コリント5:14
「1人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」
すなわち、キリストが十字架につけられた時 、私たちも十字架につけられた。
たとえば 、1冊の本に1枚の紙切れをはさんだとする。この本を東京へ送れば 、その紙切れも東京へ行く。この本を川に落とせばその紙切れもまちがいなく川へ落ちる。本の運命と紙切れの運命は同じであるように私たちはキリストの運命と同じなのである。
○ エペソ2:5〜6
「背きの中に死んでいた私たちをキリストとともに生かしてくださいました。」
「神はまた 、キリスト・イエスにあって私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座(すわ)らせてくださいました。」
前述したみ言葉のとおり、「あなたがたがキリスト・イエスにあるのは 、神による。」つまり主なる神ご自身が 、私たちを「キリストに入れられた」のである。キリストによって、神は全人類の罪を処理された。私たちの運命はキリストにつながれ 、キリストの体験は私たちの体験となる。なぜなら「キリストにある」ということは 、主イエスの死と復活の両面において主と同一視されたことを意味するから。
キリストの磔殺(たくさつ)は過去のものであるから、私たちの磔殺も未来のものではあり得ない。人は 、自分の手で自分を十字架につけて殺すことはできない。同様に 、霊的な面においても、神は私たち自身が自己を十字架につけるようにとは要求していない。キリストが十字架につけられた時に 、私たちも十字架につけられた。なぜなら、神は 、主にあって私たちをそこに置かれたから。
「キリストにあって」私たちが死んだということは 、単なる教義上の問題ではなく、永遠の事実である。
ー ー つづく
2026・3・31
( 次回 ‥ 2026・4・20 代行的且つ包括的なキリストの死と復活 )
集会所 ‥ 札幌市西区八軒6条東4丁目4ー 11