Trieste
フリウリ・ヴェネチア・ジュリア州 トリエステ県 トリエステ市
最近、過去に仕事で訪問した、個人的に旅行したヨーロッパのアルバムを眺めていたら、懐かしくなりました。海外旅行が自由にできた2019年に、ヴェネチアからクロアチアのリエカ経由でプリトヴィツェ湖群国立公園に行き、帰りにスロヴェニアとの国境の港町トリエステに立ち寄りました。
イタリアに在住するようになって、長年トリエステには訪問し続けた思い出深い街です。イタリアとは思えぬ、オーストリア的な建築に囲まれた素敵な街で、個人的に時々ふっと訪れたくなる街です。
アドリア海に向けて、広々とした開放感のある印象を受けますが、背景の丘の地域に行くと、中心街では想像もつかない、自転車ではとても走れない、さらに自動車で通るには高技術が必要な細い坂道がそこら中に張り巡らせてあります。須賀敦子さんの著書の題名にもなっている、まさしく『トリエステの坂道』に出会うことになります。
トリエステ丘地域の坂道
在住するヴェネチアは、コロナ禍になるまではオーバーツーリズムで、日常生活が観光客であふれかえっていました。その賑わいから逃れて、仕事でトリエステに行くのは毎回個人的な喜びでもありました。
トリエステには、仕事で日帰り、または数日から1週間滞在することもありました。仕事内容は、観光案内、教育視察、精神医療視察、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』で使用されたユダヤ人強制収容所跡博物館訪問、須賀敦子さんの著書愛読者の案内、オーストリア帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后、愛称「シシィ」エリザベートが訪問した地として、シシィファンを案内したりと、バラエティ豊かでありました。
トリエステ市は、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都、トリエステ自治県の県都、アドリア海に面した港湾都市で、スロベニアとの国境に位置しています。歴史、文化面で非常に豊かな魅力的な街です。幅広いトリエステの魅力に出会うことができます。
IIIトリエステの歴史
トリエステの歴史を省略して年表にしました。オーストリア帝国・オースリア=ハンガリー帝国の支配下で輝かしい繁栄の時代の後、第一次世界大戦後イタリアに併合してから、欧州の情勢に翻弄されながら、複雑な歴史を持つトリエステ。
初めて訪問したのは、90年代の終わりだったと思います。教育視察で1週間滞在しました。日帰りでスロベニアも行きました。その時の印象はオーストリア的な優雅で素敵な街並みであること、住民が非常に親切であったことです。視察で訪問した小学校には、過去の歴史の影響から、イタリア語を熟知していないスロヴェニアやクロアチアの生徒がいるので、特別にイタリア語の授業が設置されているということでした。トリエステがイタリアに返還されて約40年は経っても、まだ過去の歴史の跡は残っていることを実感させられました。
紀元前2世紀 共和政ローマの支配下
紀元前1世紀植民都市の地位を授かる
(ユリウス・カエサル時代)
『ガリア戦記』紀元前51年 Tergestumと記録
中心街のローマ遺跡 リカルドのアーチ
5世紀ローマ帝国滅亡(480年)後
東ローマ帝国の軍事中心地
8世紀 伯爵位を持つ司教下フランク王国の一部
11世紀 アクイレイア大司教の支配下
12世紀終り 中世の自由コムーネとして発展
1369年-1372年 ヴェネツィア共和国支配下
城壁に囲まれていた1200~1300年代のトリエステ
1382年から オーストリア帝国統治
ヴェネツィア共和国の脅威を好まない
トリエステ市民はオーストリア帝国統治を
オーストリア公レオポルト3世に提出
1719-1740年
神聖ローマ皇帝カール6世紀(ハプスグルグ家)
オーストリア領内における自由港として認証
1740-1780年
マリア・テレジア繁栄時代の幕開け
1756年のトリエステの地図
『新しい桟橋からのトリエステの街と港の眺め』1802年
Louis-FrançoisCassasVictoria&Albert Museum
1797年・1805年・1809年
3回にわたるフランス帝国軍ナポレオンの占領
『Battaglia di Austerlitz』1805年
François Pascal Simon Gérard 19世紀
1813年 オーストリアへ返還
オーストリア帝国直轄領の首都
1836年 ロイド船舶会社 創立
トリエステ貿易と産業繁栄期
商業用路線の開設
オーストリア=ハンガリー帝国海軍設置
造船施設使用・基地設置
1857年 帝国初の主要幹線鉄道
ウィーン〜トリエステ間
オーストリア南部鉄道完成
第一次世界大戦後
イタリア併合 1920年
〜複雑なトリエステの歴史の始まり〜
トリエステは歴史的にイタリア人が暮らしてきた全地域をイタリアへ併合するという、未回収のイタリア回復運動の中心地でした。オーストリア=ハンガリー帝国は第一次世界大戦でドイツとともに敗戦国となり、帝国は解体され、戦後オーストリア共和国となりました。そして、トリエステはイタリアへ併合されました。 この併合によってトリエステは重要性を失い、単なる国境の街となりました。
第二次世界大戦
ドイツとユーゴスラビアの占領
1943年 イタリア連合軍と単独講和ドイツ軍はトリエステを含んだ北イタリアを占領
1944年 ナチス支配下、イタリア領内唯一の強制収容所トリエステ郊外に建設
1945年
- チトー率いるユーゴスラビア・パルチザン軍がナチスからトリエステ解放
- チトーのユーゴ軍占領「トリエステの40日」
- ニュージーランド軍がユーゴスラビア軍を退去
1946年
イギリス首相チャーチルがトリエステの街を取り上げて「冷戦」のはじまりを表現
「バルト海のシュテッティン(ポーランドの都市)からアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。」
第二次世界大戦後のトリエステ
イタリアとユーゴスラビアの間で、トリエステとその周辺地域がどちらに帰属するかの紛争が発生して、歴史的にも重要な港湾都市であるトリエステは、戦後の東西対立の前線となった。
1947年
トリエステとその周辺地域の領土問題は棚上げされ、トリエステ自由地域として国際連合管理下に置かれました。
1947年 - 1954年 トリエステ自由地域内分割
- 北部のトリエステ含むZone Aは連合国側連合国側軍事政府(アメリカ=イギリス連合軍)が統治
- 南部のZoneはユーゴスラビアが分割占領
- 数度にわたって、チトーは ZoneAに侵攻し、トリエステ市の管理を米英軍から無理矢理奪おうとした。これらの小衝突は、冷戦時代のごく初期の戦いでした。
1947年 - 1954年 トリエステ自由地域内分割
Zona AとZona B
イタリア返還1954年
Zone Aに含まれていたトリエステ市はイタリアの領土となり、南部のZone BはZone Aだった周辺の村落の一部とともにユーゴスラビアのものとなりました。
※1991年 ユーゴスラビアからスロベニアとクロアチアが分離して独立しました。
トリエステの街