トリエステ 歴史とカフェ文化 | ヴェネチアから、イタリアの歴史、文化、食のトピックスを発信

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Trieste

トリエステ   

フリウリ・ヴェネチア・ジュリア州  トリエステ県   トリエステ市

 

最近、過去に仕事で訪問した、個人的に旅行したヨーロッパのアルバムを眺めていたら、懐かしくなりました。海外旅行が自由にできた2019年に、ヴェネチアからクロアチアのリエカ経由でプリトヴィツェ湖群国立公園に行き、帰りにスロヴェニアとの国境の港町トリエステに立ち寄りました。

 

 
所要時間
ヴェネチアからリエカ        3時間〜3時間半
リエカからプリトヴィツェ湖     2時間〜2時間半
プリトヴィツェ湖からトリエステ   4時間〜4時間半
トリエステからヴェネチア        2時間〜2時間半 
 
ヴェネチアのローマ広場から、朝出発して、スロヴェニアを通過してリエカに到着して、まずはランチを食べました。その後、数時間の観光、そしてプリトヴィツェ湖群国立公園近くの近代的なアパートに滞在しました。
 
翌日は、早朝から現地ガイドの方に1日中プリトヴィツェ湖群国立公園をたっぷり案内してもらいました。素晴らしい晴天に恵まれて、エメラルドグリーンの幻想的な大小16の湖と92存在する滝と豊かな自然の景観を満喫することができました。
 
ヴェネチアに滞在しながら、クロアチアで2泊の小旅行が楽しめます。プリトヴィツェ湖が小旅行の目的地とは言え、行きにはクロアチア有数の港町であるリエカに寄り道して、帰りトリエステに立ち寄ってヴェネチアに戻ります。
 
2日間で、クロアチアの世界遺産から、複雑な歴史とオーストリア帝国の支配下で多大な影響を受けたクロアチアの有数の港町リエカと類似した歴史を持つイタリアの港町トリエステという素敵な街をお勧めの小旅行としてご紹介します。
※プリトヴィツェ湖群国立公園、リエカは別のブログで紹介しております。

 

イタリアに在住するようになって、長年トリエステには訪問し続けた思い出深い街です。イタリアとは思えぬ、オーストリア的な建築に囲まれた素敵な街で、個人的に時々ふっと訪れたくなる街です。

 

 

アドリア海に向けて、広々とした開放感のある印象を受けますが、背景の丘の地域に行くと、中心街では想像もつかない、自転車ではとても走れない、さらに自動車で通るには高技術が必要な細い坂道がそこら中に張り巡らせてあります。須賀敦子さんの著書の題名にもなっている、まさしく『トリエステの坂道』に出会うことになります。

 

トリエステ丘地域の坂道

 

在住するヴェネチアは、コロナ禍になるまではオーバーツーリズムで、日常生活が観光客であふれかえっていました。その賑わいから逃れて、仕事でトリエステに行くのは毎回個人的な喜びでもありました。

 

トリエステには、仕事で日帰り、または数日から1週間滞在することもありました。仕事内容は、観光案内、教育視察、精神医療視察、映画『ライフ・イズ・ビューティフル』で使用されたユダヤ人強制収容所跡博物館訪問、須賀敦子さんの著書愛読者の案内、オーストリア帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后、愛称「シシィ」エリザベートが訪問した地として、シシィファンを案内したりと、バラエティ豊かでありました。

 

トリエステ市は、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の州都、トリエステ自治県の県都、アドリア海に面した港湾都市で、スロベニアとの国境に位置しています。歴史、文化面で非常に豊かな魅力的な街です。幅広いトリエステの魅力に出会うことができます。

 

 

IIIトリエステの歴史

トリエステの歴史を省略して年表にしました。オーストリア帝国・オースリア=ハンガリー帝国の支配下で輝かしい繁栄の時代の後、第一次世界大戦後イタリアに併合してから、欧州の情勢に翻弄されながら、複雑な歴史を持つトリエステ。

 

初めて訪問したのは、90年代の終わりだったと思います。教育視察で1週間滞在しました。日帰りでスロベニアも行きました。その時の印象はオーストリア的な優雅で素敵な街並みであること、住民が非常に親切であったことです。視察で訪問した小学校には、過去の歴史の影響から、イタリア語を熟知していないスロヴェニアやクロアチアの生徒がいるので、特別にイタリア語の授業が設置されているということでした。トリエステがイタリアに返還されて約40年は経っても、まだ過去の歴史の跡は残っていることを実感させられました。

 

紀元前2世紀   共和政ローマの支配下

紀元前1世紀植民都市の地位を授かる 

(ユリウス・カエサル時代)

『ガリア戦記』紀元前51年 Tergestumと記録

 

中心街のローマ遺跡 リカルドのアーチ

 

5世紀ローマ帝国滅亡(480年)後

東ローマ帝国の軍事中心地

8世紀 伯爵位を持つ司教下フランク王国の一部

11世紀 アクイレイア大司教の支配下

12世紀終り 中世の自由コムーネとして発展

1369年-1372年 ヴェネツィア共和国支配下

 

城壁に囲まれていた1200~1300年代のトリエステ 

 

1382年から オーストリア帝国統治

ヴェネツィア共和国の脅威を好まない

トリエステ市民はオーストリア帝国統治を

オーストリア公レオポルト3世に提出

 

1719-1740年

神聖ローマ皇帝カール6世紀(ハプスグルグ家)

オーストリア領内における自由港として認証

 

1740-1780年

マリア・テレジア繁栄時代の幕開け

 

 

1756年のトリエステの地図

 

『新しい桟橋からのトリエステの街と港の眺め』1802年

Louis-FrançoisCassasVictoria&Albert Museum

 

1797年・1805年・1809年

3回にわたるフランス帝国軍ナポレオンの占領

『Battaglia di Austerlitz』1805年 

François Pascal Simon Gérard 19世紀

 

1813年 オーストリアへ返還

オーストリア帝国直轄領の首都

 

1836年 ロイド船舶会社 創立

トリエステ貿易と産業繁栄期    

商業用路線の開設

オーストリア=ハンガリー帝国海軍設置

造船施設使用・基地設置

 

1857年  帝国初の主要幹線鉄道 

ウィーン〜トリエステ間

オーストリア南部鉄道完成

 

By Il Museo di Trieste Campo Marzio, in un'immagine
Foto Vittorio Pascale, 1984
Comunicato stampa Friuli Venezia Giulia 2015

 

第一次世界大戦後

 

イタリア併合 1920年 

〜複雑なトリエステの歴史の始まり〜

トリエステは歴史的にイタリア人が暮らしてきた全地域をイタリアへ併合するという、未回収のイタリア回復運動の中心地でした。オーストリア=ハンガリー帝国は第一次世界大戦でドイツとともに敗戦国となり、帝国は解体され、戦後オーストリア共和国となりました。そして、トリエステはイタリアへ併合されました。 この併合によってトリエステは重要性を失い、単なる国境の街となりました。

 

 

第二次世界大戦

ドイツとユーゴスラビアの占領

1943年 イタリア連合軍と単独講和ドイツ軍はトリエステを含んだ北イタリアを占領

1944年 ナチス支配下、イタリア領内唯一の強制収容所トリエステ郊外に建設    

1945年 

- チトー率いるユーゴスラビア・パルチザン軍がナチスからトリエステ解放

- チトーのユーゴ軍占領「トリエステの40日」

- ニュージーランド軍がユーゴスラビア軍を退去

 

1946年 

イギリス首相チャーチルがトリエステの街を取り上げて「冷戦」のはじまりを表現

「バルト海のシュテッティン(ポーランドの都市)からアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、全てその向こうにある。」    

 

第二次世界大戦後のトリエステ

イタリアとユーゴスラビアの間で、トリエステとその周辺地域がどちらに帰属するかの紛争が発生して、歴史的にも重要な港湾都市であるトリエステは、戦後の東西対立の前線となった。

 

1947年

トリエステとその周辺地域の領土問題は棚上げされ、トリエステ自由地域として国際連合管理下に置かれました。

 

1947年 - 1954年  トリエステ自由地域内分割

- 北部のトリエステ含むZone Aは連合国側連合国側軍事政府(アメリカ=イギリス連合軍)が統治

- 南部のZoneはユーゴスラビアが分割占領

- 数度にわたって、チトーは ZoneAに侵攻し、トリエステ市の管理を米英軍から無理矢理奪おうとした。これらの小衝突は、冷戦時代のごく初期の戦いでした。

 

 

1947年 - 1954年  トリエステ自由地域内分割

Zona AとZona B

 

 

イタリア返還1954年

Zone Aに含まれていたトリエステ市はイタリアの領土となり、南部のZone BはZone Aだった周辺の村落の一部とともにユーゴスラビアのものとなりました。

※1991年 ユーゴスラビアからスロベニアとクロアチアが分離して独立しました。

 

トリエステの街

オーストリア支配下で建てられた気品ある街並みを優雅な気持ちで散策しながら、歴史的なトリエステのカフェ文化を楽しめます。
 
トリエステの中心に位置する「イタリア統一広場」は、海に隣接するヨーロッパ最大の広場とされています。正面にはアドリア海、三方は歴史あるエレガントな建物に囲まれています。市庁舎や老舗のカフェ、周辺には観光スポットやお店、レストランがあり、観光の起点になります。近くには多くのホテルも存在するので、滞在するする場合に是非おすすめです。
 
イタリア統一広場
(中央奥 市庁舎)
 
夜のライトアップされたイタリア統一広場
市庁舎 1875年
 
イタリア統一広場 州庁 1883年
 (旧オーストリアロイド社)
 
イタリア統一広場 県庁 1905年
(旧オーストリア副官宮殿)
 
トリエステ カフェ文化
トリエステのカフェは、オーストリア帝国支配下であった18世紀(1719年)にトリエステの港は「自由港」と宣言されました。オスマン帝国からのコーヒーを積んだ最初の船がトリエステに停泊した時です。
 
トリエステでは、19世紀の終わりにコーヒー産業の経済システムが存在しました。
66の輸入および貿易会社、 4つの加工会社、10箇所の焙煎所、60店のカフェ
 
1904年にコーヒー取引所がトリエステに開設されました。そのおかげで、数年のうちに年間何百万袋以上のコーヒー豆が港を通過するようになりました。今日イタリアに輸入されるコーヒーの約30%は、依然として重要な「地中海コーヒー港」トリエステを通過し続けています。こうした歴史的な起源は、時の経過とともに伝統となり、トリエステの都市文化の基本的な要素となました。
 
「トリエステコーヒー地区」は2008年に誕生し、コーヒーサプライチェーンの約50社で構成され、売上高は5億ユーロを超え、1,000人が雇用されています。これに公共施設で働く人々も追加されます。トリエステのカフェの店舗数は、全国平均の400人に1人に対して、300人に1人の住民の割合で存在するそうです。
ちなみに1950年代にサンフランシスコで誕生した最初のアメリカの焙煎コーヒーは『トリエステコーヒー』と呼ばれているそうです。
 
トリエステの歴史カフェ
トリエステはカフェそして文化の街です。20世紀初頭には、イタロ・ズヴェボ、ウンベルト・サバ、ジェイム・ズジョイスなどが頻繁に通ったカフェが今も残っています。
 
Caffè Tommaseo 1830年
 
Caffè Urbanis 1832年
 
イタリア統一広場
有名な老舗 Caffè degli Specchi 1839年
 
Caffè Stella Polare 1865年
 
Caffè Pasticceria Pirona 1900年
 
Antico Caffè SanMarco 1914年
 
La Galleria del Tergesteo
ギャラリア・デル・テルジェステオ
 
Caffè Tergesteo 1863年 
ギャラリア内のカフェ・デル・テルジェステオ