夜をこめて鳥のそらねにはかるとも よにあふ坂の関はゆるさじ

                 清少納言(後拾遺集 百人一首)

 

藤原行成が、雑談の途中急いで帰った翌朝、「鶏の声に促されまして」と言ってきました。

私、清少納言に「鶏の声とは、函谷関の故事でしょうか」と問われて、

「函谷関ではなく、(逢い引きに因む)逢坂の関です」と返してきたので

【歌】まだ夜が深いうちに鶏の鳴き声を真似て騙そうとしても、函谷関ならばともかく、逢坂の関は(あなたと逢うことを)決して許さないでしょう。

 

函谷関= 史記の孟嘗君の故事で名高い関。戦国時代、斉の孟嘗君は秦に使したが、秦王に捕えられそうになり、鶏鳴の真似の名人を使う奇策を用いて函谷関を脱出した。

鳥のそらね= 鶏の鳴き真似。

はかる=だます。

よに=世に。「決して」の意で「ゆるさじ」に掛かる。

あふ坂=逢坂。山城・近江国境の峠道。畿内の北限で、東国へと通じる関があった。「逢ふ(情事を遂げる)」を掛ける。

 

 

行成とのこの歌から清少納言の公卿たちとの丁々発止の歌の交換がよみとれる。

 

藤原行成(971-1027)は、三蹟の一人として当代有数の書家。漢籍和歌に通じた知識人文化人。

藤原道長の側近であり、かつ一条天皇の信頼もあって、蔵人頭として両者間の使者の役割を果たしており、中宮定子の側近であった清少納言とはお互い認め合う才気の交換が楽しめる間柄であったよう。

この歌は、函谷関の故事をテーマにして、清少納言の面目躍如。恋の駆け引きも想定されるが、そうではなく、ハイレベルな戯れ歌とされます。

 

 

 

大河ドラマ「光る君へ」にはまっています。かねてより、多くの定子ファンがいるとの話を聞いていましたが、私もすっかり定子ファンになっております。

 

このドラマの大筋に3つのフィクションがあるように思います。一つは紫式部の母が藤原兼家に刺殺されること。二つは紫式部と道長が幼少時から知り合いで恋愛関係にあったこと。三つは紫式部と清少納言が以前から仲良しだったこと。ドラマをドラマたらしめる演出です。

対して、定子の一条天皇との愛。清少納言との信頼。そして四面楚歌の状況の中1001年1月満24才にて死んでいく。大方そのとおり事実として心をうちます。

 

 

 

道長は995年道隆の死去を契機として思ってもいなかった権力の頂点へ上る道が開けます。ドラマでの道長は、野心なく受け身のような態度が目立ちますが、その実着々と権力基盤を強固にしていく様子が垣間見えるようにできていますね。

 

995年の内覧宣旨右大臣昇進。長徳の変の際の呪詛。997年定子の内裏帰還反対。998年辞職の申し出。実はいずれも道長の画策によるものと思われます。

当然のことながら、父兼家、兄道隆、道兼が執着した娘の入内とその子を天皇にするという外戚関係の構築に、道長も執念を燃やすようになります。

 

道長は999年1月定子が皇子敦康親王を出産するのに時期を同じく長女彰子を入内させます。

さらに、1000年2月立后。定子が中宮として男子を出産したことに対しての対抗策として道長のあせりと執念の表れである。このことも、ドラマでは、入内は娘のためにならないと消極的だったり、安倍晴明に進言されてという形をとっているが、道長の権力掌握の完成形への執念であり、そのため自分自身精神に異常を来すほどでした。(道長の精神錯乱状態を行成が記録している)

立后とは中宮=皇后になること。定子と彰子。前代未聞の一帝二后が強行されたのだが、前回の「光る君へ」のテーマでありました。

 

彰子立后に当たり、道長の意を受けて一条天皇の説得に当たるのが蔵人頭である行成でした。ことは簡単にいかず、一条天皇の逡巡によって道長はその準備を変更せざるを得なかったほどであったが、行成はそのことを正当化する理屈をたびたび一条に具申し、一条の勅を得ることとなるがその間2ケ月弱を要している。

一条と道長の間にあって中立を旨としていた行成の行為は、ここにきて道長に媚びたものだったでしょうか。ほぼ公卿の全員が道長に忖度する状況のここに至って、拒否した場合の天皇、定子、敦康親王の今後を見通したうえで宮廷全体の納得が得られるように知恵を絞ったともいわれています。

それだけ、道長が圧倒的な権勢を誇っていた証です。

 

また、定子崩御の時、一条は行成に対し多弁であって、「忍び難い」という言葉を直に聞いていることが日記(権記)に残っています。この時、行成には、定子の取次役であり才を認め合った清少納言のことも心に浮かんだかもしれません。

 

 

 

すっかり、定子ファンとなった私の感想。

天皇が后と仲睦まじく、その上で国政に精励すれば、これ以上のことはあるまい。世が世ならば、臣である公卿の長たるもの、天皇の意を忖度したであろう。

そもそも、定子の出家とは何だったのだろう。落飾の儀式は?還俗は?全てが曖昧に見える。

外戚による摂関政治の完成形の時代ゆえに起こった天皇(一条)と皇后(定子)の悲劇であった。

 

定子関係の記事↓

 

 

 

 

 



 

 

 

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

                   俵 万智  

 

先日、俵万智本人が話していたのですが、ボーイフレンドが「この味がいいね」と言ったのは、サラダではなくて鶏のから揚げだった。また、月日も7月ではなくて、全く異なる時期だった。

鶏の唐揚げをいつもと違うカレー味の味付けにしたら「美味しい」と褒められたので、「今日は記念日だな」と思ったのがこの歌をつくるきっかけ。ということですから、この歌の肝はボーイフレンドに褒められた。だから記念日。という女心です。

サラダにしたこと、7月6日にしたことは、歌人としての感性でしょう。

 

たしかに、7月上旬とサラダの取り合わせはしっくりきます。

梅雨明け間近。じめじめの雨から、からりとした風を予感させます。

 

 

私の本音。

もともと、好きな歌ではなかったのですが、意識外に、このフィクションが影響していたのでしょうか。

それにしても、ここまで舞台裏を明らかにしてもらいたくなかったです。

 

今日は7月6日。先のコメントとは矛盾しますが、豪雨猛暑、最近のこの時期は以前とは変わってしまった感あります。

 

 

 

 

 

いつまでも去らぬ頭痛や梅雨の蝶

駅頭を跳ねまはりたり梅雨の蝶

駅頭の庇を巡る梅雨の蝶

 

季語梅雨の蝶を使いたいと思っていましたが、本日駅前のアーケードや庇の下で飛び回っているのに遭遇しました。なぜか、狂ったように飛び回っており、この気候は蝶にとっても不快であったか。

一句目は前線が近づくと頭痛がして長引くことがあるのです。気象病というらしい。

 

夏の句です。コメントいただけると嬉しいです。

 

屋上の君の半袖夏來たる

山笑う背伸びしている即身仏 ※

小鯵刺ただ海の青空の青

ブーメランの形となりて小鯵刺

曲り角くるり振り向く夏帽子

振りかぶる第一球や若葉風

柔風に等しく傾ぐポピーかな

カーネーション扉の陰に嫁の顔

紫陽花の色増す朝や雨雫

老鶯の姿あらはに鳴きにけり

退院やいつもの道は薔薇の道

ひかさるる小さき一叢薔薇の庭

薔薇祭大人シックな黒を着る

菜園の鍬を休むる薄暑かな ※※

天竜に追ひすがる雨半夏生

五月闇前線からの呻き声

 

※365俳句ポスト「山笑う」並選

※※ 同上「薄暑」並選

 

世の中は常にもがもな渚漕ぐ  海人の小舟の綱手かなしも

             源 実朝 (新勅撰和歌集 百人一首) 

 

世の中はずっと変わらずにあって欲しいものだ。渚を漕ぐ漁師の小舟が綱手に曳かれるようすにも心が動かされる

もがも=「もがな」の上代語。願望の終助詞。~ってほしい。~があればなあ。~たらいいがなあ

 

 

終助詞「がもな」の使われている歌は百人一首で五種にのぼる。

 

忘れじの行末まではかたければ 今日を限りの命ともがな

                      儀同三司母(高階貴子)

名にし負はば逢坂山のさねかづら  人に知られでくるよしもがな

                   三条右大臣(藤原定方)

君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな

                      藤原義孝

あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな

                      和泉式部 

今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな                   

                   右京大夫道雅(藤原道雅)

 

とされるが、「もがな」の上代語である「もがも」が使われているのが掲歌です。

 

既出の儀同三司母の歌が、情熱を平易に発しているのに比して、何気ない日常こそを重んじる精神性を、上代からの和歌の研究を踏まえて表現している。

 

源実朝(1192~1219)は、鎌倉幕府3代目の将軍。満7才にて父頼朝を失くし、11才にて兄頼家を北条時政により殺害され、その後北条義時に実権を握られる。

北条政子を母にもちながらのこの状況の反面、後鳥羽上皇や藤原定家との交流を深めて、和歌の研鑽に傾注。朝廷から信頼される。満27才にして暗殺され、鎌倉幕府将軍源氏の血は3代にして絶えるが、不可解な暗殺劇は北条一族のシナリオと思われる。

 

将軍実朝。実権を握る叔父(母政子の弟)北条義時。母である政子は弟の義時と親密。一体となって北条の権力基盤の確立に尽力していく。鎌倉における実朝は孤独と葛藤のなか、和歌を極める日々ではなかったか。

この構造というのは、一条天皇における、実権を握る叔父(母詮子の弟)藤原道長。母である詮子は道長と極めて親密。と全く同じ構図といえる。一条天皇は満31才にて没するが、葛藤を内包しながらの日々だったのではなかったか。

 

 

実朝の歌としては、武人としての雄大勇壮清冽を感じさせる歌が有名である。

 

箱根路を我が越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよる見ゆ

大海の磯もとどろによする浪われてくだけて裂けて散るかも

もののふの矢並つくろふ籠手のうへに霰たばしる那須の篠原

 

それとは異なり、掲題の歌については、平穏な普通の日常を至高のものとして希求した実朝の深い精神性が窺われる。

 

実朝には、幾多の和歌があるが、例えば次の歌にはこれといった本歌もないがゆえに、実朝の心の底を露にしたような感慨を覚える。

 

ほのほのみ虚空にみてる阿鼻地獄ゆくへもなしといふもはかなし

 

いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母をたづぬる

 

 

参考

 

 

 

(注)

例歌5首の作家と光る君への登場人物(予含む)

 

 儀同三司母(高階貴子)=藤原道隆妻、伊周、定子母

 藤原義孝=行成の父

 和泉式部=中宮藤原彰子に女房として出仕

 右京大夫道雅(藤原道雅)=伊周の長男、高階貴子の孫