もののふの矢並つくろふ籠手の上に 霰たばしる那須の篠原

                  源実朝

歌意

武士が箙(えびら)の中の矢並を整えていると、その籠手(こて)の上に霰(あられ)が音をたてて飛び散っている。勇壮な那須の篠原の活気みなぎる狩場であることだ。

 

 

実朝を評価したとして、遡って有名なのは賀茂真淵。さらに芭蕉がいる。

 

小林秀雄は次のように評する。

芭蕉は、弟子の木節に、「中頃の歌人は誰なるや」と問われ、言下に「西行と鎌倉右大臣ならん」と答えたそうである(俳諧一葉集)。言うまでもなく、これは、有名な真淵の実朝発見より余程古い事である。それだけの話と言って了へば、それまでだが、僕には、何か其処に、万葉流の大歌人という様な考えに煩わされぬ純粋な芭蕉の鑑識が光っている様に感じられ、興味ある伝説と思う。きっと、本当にそう言ったのであろう。僕等は西行と実朝とを、まるで違った歌人の様に考え勝ちだが、実は非常に似たところのある詩魂なのである。・・・
・・・成る程、西行と実朝とは、大変趣の違った歌を詠んだが、ともに非凡な歌才に恵まれ乍ら、これに執着せず拘泥せず、これを特権化せず、周囲の騒擾を透して遠い地鳴りの様な歴史の足音を常に感じていた異様に深い詩魂を持っていたところに思い至ると、二人の間には切れぬ糸がある様に思うのである。二人は厭人や独断により、世間に対して孤独だったのではなく、言わば日常の自分自身に対して孤独だった様な魂から歌を生んだ稀有な歌人であった。

 

 

芭蕉に下の句がある。

 

石山の石にたばしる霰哉

 

元禄4年、芭蕉48歳。江戸東下を前にして。

 

句意

石山は、大津の石山寺のこと。霰が激しく降って石山寺の石に跳ね返っていることだ。

実朝の掲歌が意識されている。本歌取りともされる。

 

 

また

芭蕉が敬慕した源氏の武将として、源義仲がいる。

 

義仲の寝覚めの山か月悲し

 

下記にUPしています。

 

 

おまけ

実朝の最後=源氏幕府の終焉1219年は、

鎌倉幕府の成立=1192年の数字並び替え。