『竜とそばかすの姫』感想 精神的弱者に引導を渡す「解放の物語」 【後編】 | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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※2024年3月5日 追記

 本題に先んじて強調するが、私真田(※本稿執筆当時は宮尾)は、いわゆる“弱者”という生身の人間の群れの中にも当然、一般世間と同様に、良識を踏まえる部類と卑劣な部類とが混在していると認識する。具体的には、いじめ問題や相互差別感情のやり取りは、たとえ弱者同士のコミュニティに於いてもとりたてるまでもなく遍在する日常茶飯事であり、これは一般世間と何ら変わりない生身の人間のありのままの、しかしどこまでも忌むべき営みである。或いは、“弱者”を不当に名乗る事によって不当な利益を得ようとする“弱者”詐称者の存在も決して少なくなく、これが本来的な“弱者”の社会的な地位を不当に貶め、社会保障制度の弊害ともなっていると認識する。つまり、私真田は決して“弱者”を聖人君子の群れの如く特別扱いせず、飽くまで様々なハンディキャップを差し置く本質の部分では、自分と対等な、清濁併せ持つ人間の一人一人として認識する。以上は、私真田が“弱者”に対する不用意な同情や偏見を自身の脳内から極力排除する為の“努力”の一環でもある。

 因みに、私真田は、“弱者”を見世物扱いする、いわゆる“感動ポルノ”の胡散臭さが大嫌いだ。何故なら、“弱者”のありのままから目を背けさせ、思考停止させる“感動ポルノ”は、ややもすれば“弱者”の尊厳をむしろ愚弄し、本来的な“弱者”をむしろ疎外し、或いはいわゆる“逆差別”を助長し、真の意味での人権感覚を歪め、よって社会を腐敗させるからだ。転じて、“弱者”詐称者を、歩く“感動ポルノ”と言い換えるとしっくりくる。

 又、以下本題で述べる様に、『竜とそばかすの姫』が成し遂げた自滅欲動(タナトス)の昇華こそは、“感動ポルノ”とは全く無縁の、誠実な形で“弱者”救済を描いた超大傑作だ。

 従って、以下の本題で述べる様に、私真田が『竜とそばかすの姫』から「精神的弱者に引導を渡す解放の物語」を感じ取る事と同時に、上述の様に、私真田が“弱者”の群れに少なからず潜む卑劣さや自己欺瞞の実際について批判する事とは、決して論理的に矛盾しない。

 尚、私真田独自の、“弱者”詐称者への批判、及び“努力”する他人様の尊厳を傷つける最も卑劣な精神性への批判については、以下エントリ最下部の『私鏑戯と京アニ放火犯との決定的な違いについて』で詳述した。

 又、私真田独自の“弱者”論、及び優生思想批判については以下リンク先エントリの後半部『私鏑戯独自の“優生思想批判”』を参照あれ。

※ネタバレ注意!!!
尚、本稿は『竜とそばかすの姫』の感想(※ネタバレ.ver) 精神的弱者に引導を渡す「解放の物語」 【前編】からの続きです。



▼『サマーウォーズ』と『竜とそばかすの姫』との比較検証について
 ところで、『サマーウォーズ』が「OZ」に象徴されるネット社会のシステムエラーだけに災禍の可能性を見出すならば、『竜とそばかすの姫』は「U」に象徴される、ネット社会のシステムを利用する人間の群集心理や同調圧力の光と闇の両方を寓話的に活写した上で、この闇の部分にこそ災禍の本質的な原因を見出す。つまり『サマーウォーズ』と『竜とそばかすの姫』の決定的な違いとは、前者はどこまでも人間の闇を描き切れておらず、後者はネット社会だろうが現実社会だろうがこの違いに関係なく巣食っている人間の闇という本質的な元凶と向き合えている。更に言い換えると、『サマーウォーズ』で描かれる人間像は只ひたすらに性善説的だが、『竜とそばかすの姫』で描かれる人間像は性悪説的な側面が色濃い。
 『サマーウォーズ』で描かれたネット社会の闇とは、どこまでもネットインフラのシステム上のエラーや暴走だけが原因として看做された半面、これを利用するユーザー側の群集心理はむしろ性善説的な楽観だけで描かれ、従って、AIの知的好奇心の暴走を発端とし、世界中の原子力関連施設への人工衛星をもってする誘導爆撃をぎりぎり未遂に阻止した結末を迎える大筋のプロットに於いては、罪悪感すら持ち得ないAIの暴走によってもたらされた「OZ」全体に渡るシステムエラーに対して、只ひたすらに善良にネット上で結束し合える群集心理が草の根的な防衛を果たし世界平和を守り抜くといった、実質的な「闇の不在」が寓話的に描かれただけだった。そこでは「誰も悪くない。悪い奴なんてどこにも存在しない。だから全人類皆仲良くネット社会の恩恵と未来の希望を信じよう」みたいな、おぞましいくらいに脳天気で不誠実な洞察、世界観、思想性が支配的だった。従って、少なくとも『サマーウォーズ』公開当時の私宮尾は、細田守監督をほとんど評価しなかった。
 尚、かつて妾が生んだ養子として育てられた負い目やコンプレックスから歪んだ形の恩返しを果たそうとした志しが裏目に出て、本家と栄おばあちゃんに泥を塗ってしまった侘助(わびすけ)と、彼を利用したペンタゴンの傲慢さとは、『サマーウォーズ』の物語構造に於いては、もはやとってつけたおまけの様なものに過ぎず、これはあくまで特定の個人とか組織の事情(※しかも深く掘り下げられもしない)の域を出ず、ましてやネット社会の本質的な闇を構成するユーザーの後ろ向きな群集心理への寓話的表現とは一切、無縁だ。
 ネット社会だろうが民主主義社会だろうが独裁社会だろうが中世の封建社会だろうが奴隷制社会だろうが資本主義社会だろうが、これら全ての社会インフラは、この有形無形の違いに関係なく、これらを生み出し、営み続ける人間がそもそも不完全だからこそ、皆例外なく不完全足らざるを得ないのであり、この厳然たる人類の闇という普遍性と向き合わずして映画が映画足り得る筈も無い。
 従って、その点をほぼ度外視してしまっていた『サマーウォーズ』当時の細田守監督には、少なくとも宮崎駿をやたら逞しい人間像だけを讃えさせる同調圧力の生みの親として批判する資格が無かったと、私宮尾は今でも思う。何故なら『サマーウォーズ』を制作した当時の細田守監督も又、夏の熱気にあてられてお祭気分で脳天気にはしゃぎたがる群集心理だけを只ひたすら煽り立てることによって、あくまで人間の闇の部分からは目を背けさせるような同調圧力を夏の劇場興行シーンで醸し、より深遠なフィルムへの渇望を排除させる主犯に他ならなかったからだ。
 要するに、私宮尾にとって『サマーウォーズ』はどこまでも軽薄な映画だが、これに対し、あたかも「OZ」が「U」に挿げ替えられただけの、同様のネット社会を象徴する物語のテンプレートが踏襲されたかのような『竜とそばかすの姫』は、その内実を全く異とする。


▼『竜とそばかすの姫』は、予定調和的な大団円を捨て、性悪説的な人間描写と向き合った上でこの前向きな可能性を模索し、且つ、弱者救済の「引導を渡す」物語
 まずもって『竜とそばかすの姫』は決して全ての人間が例外なく救われるといったようなご都合主義のイマジネーションを描いておらず、生存本能が劣弱でむしろ自滅願望に逞しく、深刻なトラウマを抱える主人公の女子高生の内藤鈴、彼女只独りが救われさえすれば良いと、徹底なまでに予定調和を廃し、従来の細田守監督作品とは比べ物にならないくらいにこの点を大胆不敵に割り切った、究極の弱者救済と解放の物語である。従って例えば、『竜とそばかすの姫』に於ける、恵くん智くん兄弟の父親や、又、内藤鈴と忍くんとの恋仲に嫉妬を燃やしたその他大勢の女学生達や、「U」の自警団たるジャスティス軍団や、又その他の数10億規模のAs達、これは「ベル」に好意を抱いた者もそうでなかった者も、物語の結末の真相に関わりを持ち得なかった者の皆全てが、物語上の善と悪との緊張を構成する悪か、或いは善とも悪とも位置付け難い、蚊帳の外の部外者であり、従ってどれも皆、救済対象外である。それは、かつての『サマーウォーズ』に於いては結局のところ細田守監督自身が批判対象としていた筈の同調圧力と表裏一体でしか有り得なかった予定調和的な大団円、これとは正反対を徹底的に志向した『竜とそばかすの姫』の、最後には内藤鈴の独壇場のエピソードが、彼女のトラウマからの解放をもってして無事に結末を迎えたという、あたかも大筋のプロットが収斂して行くかのような模様からも明白に見て取れる大きな違いだ。
 又更に『竜とそばかすの姫』は、私宮尾にとってはまるでかつての『サマーウォーズ』当時の制作姿勢を細田守監督自身が反省するかの様にも見て取れるほどの、映画の社会的な存在意義と向き合わない怠慢への自戒のメタ的な表現が、作品構造全体に渡って演出されている。つまり『竜とそばかすの姫』の真価は、誠実なテーマ性が内包されていなければ文化や宗教などと言うものは全て詐欺、害悪としての虚構に過ぎなくなってしまいかねないという、こういった功罪の紙一重の実態を、この内容そのものとメタ的な構造に渡って再現し、これを自戒するテーマ性も含ませているところにある。更に厳密に言えば、誠実なテーマ性が内包されているだけでは不十分で、更にこれに気付ける鑑賞者が存在してくれてこそ、初めて虚構は詐欺や害悪としてでなく、又一つの有意義な現実として社会に受容され得る、みたいな自負の現れが『竜とそばかすの姫』からは感じ取れる。
 それが再現されている演出とは、まず内容そのもので言えば、第一のクライマックスで内藤鈴が自らをアンベイルし、只一人、「竜」の正体を悟った上で、恵くんの信頼を獲得し彼の所在地を伝えて貰うという目的を秘めながら、大勢のAsの前で歌うシーン。その誠実な目的(テーマ性)が仮に不在だとしたら、内藤鈴が秘める真意を理解しないままに彼女の歌に感動させられている大勢のAs達は、只単純に歌唱の力の幻想、虚構性、詐欺、害悪に翻弄されているだけになってしまうという、こういった紙一重な構図が根幹となった第一のクライマックスシーン。
 更にそれがメタ的に演出されているもので言えば、内藤鈴がひたすら自己犠牲の精神を亡き母親から踏襲せんと無意識に渇望し続けるといった、言わばキャラ本位的にストーリー展開される『竜とそばかすの姫』という物語とは、ここに仮に、幼くして母親との死別を余儀なくされたトラウマを抱えて生きる人間は、必ずしも単純に逞しい生存本能だけを発揮できるとも限らないし、逞しくあらねばならない訳でもない、といった、半ば自滅願望を肯定し、これを無意識に抑制する強迫観念や同調圧力からの解放を最も根源的なテーマ性とする誠実さが不在だとすれば、只単純に登場人物の命や物語制作の意義そのものをお涙頂戴の道具としてだけ認識してしまう作家の安直な精神性の露呈にしかならなかったであろうといったところの、これまた、『竜とそばかすの姫』という作品全体としての紙一重な構造性、或いは、ここから滲み出ている、細田守監督の綱渡り的な挑戦姿勢、つまり仮に彼の作品に込めた誠実なテーマ性が理解されない可能性が予見されたとしても作品を世に存在させる事を優先し、選んだ作家としての勇気である。
 更にそれらの演出の真意が鑑賞者によって理解されない限りは、『竜とそばかすの姫』は決して傑作として社会に受け入れられず、むしろ駄作として存在するしかない、こうして評価が極端に割れざるを得ない、正に客を選ぶ系の、少なくとも私宮尾にとっては超ド級の大傑作という訳である。
 尚、私宮尾が『竜とそばかすの姫』からエロス、或いは生存本能の逞しさへの賛美よりも、タナトス、或いは自滅欲動の純真さへの抱擁や解放こそを優勢なテーマ性として解釈する根拠は、第二のクライマックスを目前とする内藤鈴が高知から東京へ夜行バスで猪突猛進する際に、「U」の数十億規模のAsの智恵や衆目監視的な後ろ盾の助けも借りず、更に恋人の忍くんも同伴させずに、単身でその後の無謀なエピソードに身を投じて行ったストーリー展開の必然性にある。内藤鈴は、無自覚に己の亡き母親の自己犠牲的な精神を踏襲することでしか真の自らの解放は成されないと渇望しているし、これには決して自分以外の他人を巻き込む訳にはいかないとも自制が働きもするので、只独りで無謀な救出劇に乗り込まなくてはならなかったし、又、彼女を最も心配し理解する一人としての忍くんは、だからこそ彼女のそういった全てまでも重々理解した上で、彼女只独りで東京に向かわせるべきだと判断するしかなかった。そのストーリー展開の必然性は、『竜とそばかすの姫』の全体構造が決して「恋愛物語」ではなく、あくまで主人公の精神の解放の物語である事、更にはこの「解放」が、恋愛とか生存本能とか自己保存欲求とは、むしろ真逆の自滅欲動によって成される究極の「個人解放の物語」であると強烈に暗示する構造となっている。
 従って、私宮尾は『竜とそばかすの姫』に於けるそのような自滅欲動への解放という禁忌的、且つ誠実なテーマ性の内在を確信するからこそ、この作品を超ド級の大傑作と評価するのだ。



▼エンターテイメントとしての日本アニメ映画表現の本質や限界とは、意思疎通のそれそのものという感慨について(或いはエンターテイメントに於けるホスピタリティーの限界について)
 ところで、いわゆるエンターテイメントとは、例えばアニメなら特撮的な映像や音楽や物語性等が融合して成り立つ種の芸能の表面的な形態がもたらす追体験の希少性が挙げられるところの、これを至極平易な言葉に言い換えて「楽しめるもの」「面白いもの」である。ひとまずその定義に従うだけなら、エンターテイナーやアニメ作家とは、客を楽しませたり面白がらせたりする事だけを企て、志向する芸能職人としてだけ看做せる。しかし、古今東西の芸能の様々な形態を概観すれば、必ずしもそれらが人を単純に楽しませたり面白がらせたりするだけとは限らないと分る。そもそも人が楽しんだり面白がったりする感情の仕組みが、人それぞれの多様な主観や価値観によって違うわけで、つまりは作家側が抱く面白さの価値と、客側が抱く面白さの価値とが、完全な一致をみる事はまず有り得ず、こういった作家側と客側との価値観の不一致を一定に認め合う大前提がエンターテイメントを支えている。その観点では、もはやエンターテイメントとは、只単純に楽しめたり面白がれたりするだけのものではなく、時には退屈だったり、価値観の違いから不愉快にさせられたりもする、言わばコミュニケーション、意思疎通の営みそのものと何ら違わない本質として捉えることができ、つまりはエンターテイメントとは、無条件に人を楽しませたり面白がらせられたりできる万能のサービスだとか、完全無欠の福祉事業や献身の産物などといった存在足り得ないという事である。
 例えば、丹精を込めて豚肉料理を供する善意は、ユダヤ教徒にとっては悪意として解釈される。又例えば、家庭崩壊寸前のアルコール中毒者の悩み相談の場で飲酒を勧める行為は、善意と言うよりはむしろ悪意であり、少なくとも無責任な善意である。
 そのように、意思疎通が本質的に限界を持つのと同様に、エンターテイメントも又、善意と悪意の境目が曖昧となって媒介されざるを得ない本質的な限界を持つ。
 又、エンターテイメントの企図は、必ずしも人を楽しませる善意だけが念頭されるとは限らず、例えば他者との意思疎通の興味も気力も経験も機会も失ったような引き篭もりオタクが描くエログロ二次創作漫画などは、どこまでも彼の自意識だけが投影された自己満足、自己完結の類に過ぎず、ややもすればこれは只ひたすら厭世観だけが表現された悪意の塊とも成り得る。ヘンリー・ダーガーの様な自己救済だけに特化された精神性やこの空想の産物なども、意思疎通の本質が決して他者に対する善意を想定するところのみで成り立つとは限らない類例と看做せる。近年流行の炎上商法などは、むしろ悪意を巧みに利用し注目を煽ることで成立している。又、悲劇に対する人々の同情心を巧みに利用して自らの実力に到底見合わない制作資金を集め、これをドブに捨てるかのように散財してしまう悪意にすら無自覚なタチ★の悪い詐欺紛いな穀潰しカルト教祖すらもがこの世には実在するのだ。それらは全て、ネット社会に巣食う人間の本質的な闇の多様な現れと、起源も成り立ちもほとんど同じであり、つまりは、視野狭窄な引き篭もりオタクも、ヘンリー・ダーガーも、炎上商法の悪意で釣る側も釣られる側も、そして人の悲劇に対する同情心に付け込み自らの欺瞞を正当化し続ける詐欺紛いの穀潰しカルト教祖も、結局はどれも同じ穴の狢(むじな)という訳だ。
 以上のように、日本アニメ映画表現のエンターテイメントとしての意思疎通の限界、善意と悪意との相対性や矛盾した構造なども、自覚的、且つメタ的に表現できている『竜とそばかすの姫』は、細田守監督のアニメ作家兼演出家としての自負や自戒の表れでもあると解釈できるし、この意味で、私宮尾にとっては自らもアイディアを世に問おうとする上での謙虚さを念頭に留めさせてくれる感慨深い作品だ。



▼『竜とそばかすの姫』のもう一つのモチーフとなったであろう『風の谷のナウシカ』(原作漫画版)のナウシカと母親との関係性
 又、私宮尾は『竜とそばかすの姫』の内藤鈴と母親との関係性のモチーフは、『風の谷のナウシカ』のナウシカと母親との関係性にあると睨む事から、細田守監督作『未来のミライ』がかつて『となりのトトロ』へのアンチテーゼとこれを根拠付けるオマージュとが内包されていたという私的な解釈に続き、『竜とそばかすの姫』は『風の谷のナウシカ』へのアンチテーゼとこれを根拠付けるモチーフとが内包されている、或いは、つまるところそれらの作品は共に宮崎駿の生存本能に逞しい人間の理想像だけをことさら讃える思想性へのアンチテーゼが内包されているとも解釈する。
 宮崎駿作『風の谷のナウシカ』原作漫画第7巻119ページには、ナウシカの母親がかつてナウシカを含む11人の子供を産んだが、無事に育ったのはナウシカたったの一人だったし、にもかかわらず彼女がナウシカに対して完全に心を開かず距離を保って「愛さなかった」と感じさせた理由は、おそらく男児の無事な成長を最も望んでいた事による「決して癒されない悲しみ」が強かったからだろうと推測させる、ナウシカの亡き母親について語る箇所がある。又、『風の谷ナウシカ』第5巻153ページでは、「わたしも一緒に行くね」と王蟲に語りかけながらナウシカ自らを腐海に還元させようとする自滅欲動も又確かに網羅的に表現されてはいるものの、これは後にナウシカが古代人の墓所を破壊する事で最大の結末を迎える『風の谷のナウシカ』という物語に於いては、あくまでナウシカの自律性の逞しさに影をさした一部に過ぎず、これに対して『竜とそばかすの姫』の内藤鈴の自滅欲動は、この物語の最大の結末までストーリー展開の原動力を成し続けた彼女の心象の主要な構成要素だった。つまり、ナウシカが幼くして死別した母親から愛されていなかった心象の影の部分も乗り越えて、自律性に逞しい人間の理想像の体現者足れたのに対し、内藤鈴は、過保護なまでに愛してくれていた筈の母親が死別の間際で余所の子供を水難事故から自己犠牲的に救出する事を選び、自身への愛を裏切ったといったトラウマをどこまでも乗り越えられず、自律性が劣弱で判断力が鈍く、従って自暴自棄で猪突猛進な自己犠牲を踏襲する他に、自らの精神的な解放を見出し得ない、こうした実際の生身の人間の精神的な限界を忠実に再現する、言わば凡庸(なりの逞しさ)の体現者足らざるを得なかった。そういったナウシカに対する内藤鈴という、自律性の強弱に於ける真逆の人物設定とこれに順ずる物語展開の提示こそが、『竜とそばかすの姫』が内包する宮崎駿へのアンチテーゼとしての、細田守監督独自の人間への洞察やこれを支える思想性の深みであり、従って私宮尾は、『竜とそばかすの姫』を『風の谷のナウシカ』に並ぶ超ド級の大傑作と看做さざるを得ないのだ。




▼『竜とそばかすの姫』の「U」から窺い知れる細田守監督のネット社会観と、これに対する私宮尾の受け止め方について
 私宮尾は『竜とそばかすの姫』に於いて、「U」で繰り広げられるアンベイル(ユーザーのアバターに隠された正体探し、つまり個人情報特定)で批判的に象徴された、実際のネット社会に於ける個人情報特定に掛かる陰湿な集団リンチや群集心理という闇の側面への表現という、このあくまでも寓話化の変換を経た上での物語の全体的な構造こそを評価すべきだと思う。
 その理由は、例えば、ネット上での個人攻撃に対する防衛や反撃としての匿名性の排除の正当性は一定に考慮されるべきだとか、或いは、ネット社会の個人情報暴露の功罪をより公平且つ、網羅的に描くべきだとかといった批判なんぞは、そもそも個人情報特定の暴露合戦に首尾一貫して影を落とし続ける群集心理の陰湿さそのものを、ネット社会に巣食う愚かな人間の闇として看做し切った『竜とそばかすの姫』の達観を基礎とする寓話性の構造にとっては、どれも皆等しく幼稚でナンセンスな指摘に他ならないからだ。

 実際のネット社会に於いては、個人情報を曝け出す事が参加の必須条件となっているフェイスブック、又或いは、匿名も実名も自由に選べるツイッター、又或いは、ユーザーを識別するアバターすらも無い意味では極めて匿名性が強い2ちゃんねる(5ちゃんねる)、・・・等、匿名性を巡るだけでも多様なサービス形態があるし、『竜とそばかすの姫』に於ける「U」はそれら全てを網羅的に象徴する仮想空間ではなく、あくまでネット社会の多様なSNSサービスの内の一つに過ぎないと劇中でも位置付けられているし、更に「U」の特徴を象徴する劇中の文言として、【現実はやりなおせない。でも「U」ならやり直せる】からも理解できるとおり、ここには細田守監督独自の、実際のネット社会に於ける匿名性の肯定的な可能性への執念が込められていて、これが決してかつての『サマーウォーズ』の様な、ネットユーザーへの性善説的な楽観だけで物語られてしまうなら、私宮尾は絶対に共感できないが、ことこの度の『竜とそばかすの姫』の様な善悪が混在する緊張構造によって物語られるのであれば、その執念にも一理あると共感せざるを得ない。何故なら、そもそも人間の問題はどこまでも人間自身に由来しているのであって、例えば匿名性というシステムの一環そのものをネット社会の諸悪の根源として看做し、この徹底排除を訴える様な考え方は、少なくとも映画制作者や表現者としては主客転倒も甚だしい見当違いであり、むしろ問題の本質を見誤らせる害悪でもあり、空恐ろしく洞察力を欠いた軽薄でもあり、従って、『竜とそばかすの姫』の様に、あくまで人間の問題を本質的に扱いながら、同時にネット社会の匿名性の肯定的な可能性「も」冷静な位置付けで物語ろうとする細田守監督の「緊張」が絶えない表現の姿勢は充分に筋が通っていると、私宮尾は確信するからだ。
 尚、以上はあくまで私宮尾が、実際のネット社会に於いて純然たる匿名性などどこにも存在しちゃいないという、IPアドレスに関する理解を踏まえた上で述べた。 


▼『エヴァンゲリオン』と『竜とそばかすの姫』との比較検証について

※後日、以下のリンク先のエントリで『シン・エヴァンゲリオン:3.0+1.11』初鑑賞の感想を述べた。実際に鑑賞した感想は、後述する様な未鑑賞時点の先入観がかなり的外れだった思わせるほどに、極めて重層的なテーマ性と物語構造の昇華、作り込みが見事というものだった。尚、後述の未鑑賞な時点の先入観から最も覆った部分こそは、『シン・エヴァ』がタナトスよりもエロスを志向する前向きなテーマ性と物語に仕上がっていた点だ。従って、後述の先入観の様に『シン・エヴァ』と『竜とそばかすの姫』を、このテーマ性に於いてタナトスが優る点で類似する作品同士として位置づけ、比較を論ずる主旨そのものが、現時点(2023年3月)の私鏑木にとっては既にナンセンスでしかなくなった。庵野秀明監督には陳謝したい。申し訳御座いませんでした!

 

 『竜とそばかすの姫』に込められた細田守監督独自の宮崎駿に対するアンチテーゼが、仮に自律性に逞しい人間像を讃える偏向性への反骨精神だとするならば、これは既に『エヴァンゲリオン』もうんざりするほど焼き直してきた、文字通り師弟間に於けるアンチテーゼだったし、ならばことさら『竜とそばかすの姫』を絶賛する必然性は成立し得ないのではないか、といった私宮尾自身の自問自答は以下のとおりに退けられた。
 まず、確かに『エヴァンゲリオン』が自律性の劣弱さを抱擁し解放するテーマ性を「気持ち悪い」と自己批判含みの緊張構造で表現したのは事実として認めざるを得ない。しかし、だからといって必ずしも後進の『竜とそばかすの姫』を絶賛し得ないわけではないし、むしろ私宮尾にとってそれら両作品は、宮崎駿への同様のアンチテーゼを含みながらも、これを支えるディテールとしての人間に対する洞察の質と好みが決定的に違うという点を根拠として、『エヴァンゲリオン』よりも『竜とそばかすの姫』を必然的に絶賛せざるを得ない。
 つまり『エヴァンゲリオン』で描かれる人間ドラマやエピソードや世界構造とは、どこまでも特撮オタク視点に特化された視野狭窄な人間洞察や世界観察を土台としており、一方の『竜とそばかすの姫』で描かれる人間ドラマやエピソードや世界構造とは、どこまでも多元的な人生シーンの経験に基づく人間洞察や世界観察を土台としており、この決定的な違いによってしまえば、たとえ全く同じ宮崎駿へのアンチテーゼというテーマ性すらも、全く違った形で昇華される事は当然であり、さて、だからといって私宮尾はそれらに優劣を付けられる根拠などどこにも存在し得ない事も重々承知であり、只単純に私宮尾の好みが、視野狭窄な特撮オタク特化の視点によるテーマ性の昇華よりも、より豊かな人生経験に基づく視点によるテーマ性の昇華の方に、もはや比較にならないくらい興味を向かせるというだけの話だ。
 尚、ここでは日本アニメの表現手法も一種の特撮だといった、これまた視野狭窄な指摘は意味を成さない。
 そもそも私宮尾が『竜とそばかすの姫』を絶賛する理由は、アンチ宮崎駿のテーマ性を、宮崎駿アニメに共通する風土性への妥協無き洞察をも兼ね備えた上で昇華してのけたという意味で、これを『風の谷のナウシカ』に並ぶ超ド級の大傑作と看做すところにこそあるんであって、又それは宮崎駿作品だけでなく他多くの名作映画の必須条件たる外側への関心、他者への関心、他者の生活様式への関心などの旺盛さが豊かに滲み出ている点が『竜とそばかすの姫』からも痛感できるからだ。高知県の風景もさることながら、聖歌隊のおばさん達と内藤鈴との間で取り交わされる亡き母親を介する擬似家族の連帯感には、勿論これが現実の田舎風景とかけ離れたファンタジーに過ぎないと分った上でも、地方に独特な日常生活の中にあってもおかしくないし、あってくれたら嬉しいな、くらいに感じられるディテールを覗き見できたかのような好奇が心地良くくすぐられる(※こういった親戚付き合いや家族の群像模様の表現に限れば、『サマーウォーズ』の陣内家の描写は圧巻だった!)。そうあってくれてこそ、私宮尾にとって初めて、宮崎駿に対するアンチテーゼの昇華の正当性が確認できるし、言わば真の意味での日本アニメ作品の多様性も実感できるようになる。
 逆に、私宮尾にとっては、特撮オタク的な禅問答の貧相な心象風景の描写や、この自意識が肥大し拡張されただけの巨大ロボと異形生物との格闘劇なんぞは、公共に向けて人間存在の普遍性を問い質す営みとしての映画制作上の誠実さを欠いた、自意識過剰な職人同士が内輪で盛り上がっているだけの幼稚な玩具遊びにしか映らない。
 重ねて強調するが、それはあくまで私宮尾個人の好みの話であって、決して優劣比較の話じゃない。


▼『竜とそばかすの姫』が大傑作たる故の、思想性の限界について
 さて、私宮尾が『竜とそばかすの姫』劇場初鑑賞の感想を巡らせる中で最後に浮上した論点が、本作に於ける思想性の限界についてだ。それは、本稿冒頭どおりの経緯で本作に対する読み解きを深めるために、細田守監督の思想性の片鱗を参照し直した私宮尾にとっては、むしろ必然として浮上した論点だった。
 ではまず、その『竜とそばかすの姫』の思想性の限界とは何かを簡略に述べれば、純粋で自己犠牲的な精神や愛情は必ず報われると、鑑賞者をして錯覚させかねないといった、メッセージ性の限界である。
 更にそれを丁寧に述べ直すと、生涯にわたり拭い去り切れないほどのトラウマを抱え込み、精神的に弱り果て、判断力を鈍ぶらせた状態で、我が身を一切省みられないくらいの自暴自棄な同情心を突発的に爆発させ、このようないわゆる自己犠牲的な自滅願望でしか自らの精神的な苦痛からの解放の手立てを発想できなくなってしまった類の人間が、只ひたすら他者への度の過ぎた献身に身を委ね切り、消耗し、費えて行く様を、この結果がさも最大級に必ず報われるとでも言わんばかりの美談としてだけ描かれてしまった『竜とそばかすの姫』とは、ややもすれば実際の社会に於ける善良さ、純真さだけが取り柄の精神的な弱者から、思考停止的な献身を容赦なく吸い上げる事を我が身にとって都合良しとしか考えられない卑劣極まりない詐欺紛いや、詐欺そのものや、これが巣食う社会構造の闇という、決して作中では描かれも象徴されもしなかった、又一つの厳然たる闇を利してしまいかねないといった、この様な、決して緊張構造的な洞察の埋め合わせが行き届いていなかったという思想性の限界である。
 もっとも私宮尾は、内藤鈴が自身の自滅願望によって「竜」の心の傷に寄り添って彼を解放してやる事こそが、彼女を母親との死別のトラウマから解放させられると直感できた事が発端となり、これが最後のクライマックスの恵くんの救出という結末に結びついているという物語プロットの必然性は、まずもって理解できるし、更にこれは、細田守監督に於ける宮崎駿へのアンチテーゼとしての、決して人間が皆、ナウシカの様に逞しく、どんな人生のトラウマや障害も乗り越えて生きていける訳ではないし、こういった限界からの解放を求め、逃避の道を選べる余地も、鑑賞者をして提示してやらねばならないといった彼独自の思想性によって支えられている必然的な構造も又、重々理解している。だが、そんな内藤鈴の劣弱な意志によるなけなしの直感を熟知して、これを自らの都合の善い様にだけ貪り喰うしたたかさ、狡猾さ、生存本能の旺盛さが、たまたま「竜」の正体が恵くんの様な聡明な少年であってくれたからこそ、『竜とそばかすの姫』の劇中では運良く回避されたものの、しかし実際の現実社会やネット社会を渡り歩く外道を象徴する登場人物や、せめてこれを予見させる程度の脇のエピソードや演出が全く考慮されていなかったのは残念でならない。
 つまり、「U」で生成されるアバターが実際のユーザーの生体情報の深奥で抑え込まれた肯定的な部分を忠実に増幅し反映させるという、物語冒頭から打ち出された架空のSNSサービスの理想的な仕組みの形すらも、物語の中で覆し、自らを自己洗脳し、偽り続け、Asとしての姿も巧みに使い分けられる、例外的で善悪の判別も付けづらく、捉えどころの無いキャラを登場させる事によって、内藤鈴の「竜」に対する同情や自己犠牲の意志が決して報われるとは限らない事や、又内藤鈴を「竜」に向かわせる自滅願望だけが唯一の選択肢とは限らない事などを鑑賞者をして予見させる、より複雑な「U」の世界観の緊張構造を展望させる契機として位置づけ、活用する事も、充分あり得たのではないかという事だ。
 或いは、「竜」の正体が依然明らかになっていない段階での、彼の立ち居振る舞いの不可解さに対する描写の演出や、恵くんの人格設定も、やり様によっては更に複雑な形に仕上げられたであろうし、これによって内藤鈴のあくまで自滅願望だけが報われるに過ぎない自己犠牲の献身的なエピソードそのものへの相対化も、より強烈に演出できていた筈である。例えば、内藤鈴が自らアンベイルを決断した上での復活コンサートを成功させた事によって恵くんの信頼を獲得した時点で、内藤鈴が「お父さんの暴力に耐え続けるだけじゃなく、全く新しい生き方を見付ける為に、自分の人生と闘って!」などと半ば無責任な発破をかけてしまうエピソードを挿入する事によって、この直後にライブチャット映像からは、父親に対し、智くんを庇いながら勇猛果敢に反撃するが流血沙汰の取っ組み合いに発展しかねない恵くんの危機的な状況が配信中断されるまで流され、これに只ならぬ罪悪感を抱いた内藤鈴が東京に猪突猛進し、果たして父親殺害犯行後の憔悴し切った恵くん智くん兄弟を現地で見付け出し、「私も生きるの辞めないで頑張るから、君たちもどうか自分を責めて自殺なんて考えないで、強く生きて!ごめん、ごめんなさい、全部私のせい・・・!」と彼らを慰め抱き合うという形の救出シーンに結びつける事によって、内藤鈴に象徴される脆弱で凡庸な主人公像の解放と同時に、自滅願望や自己犠牲を美徳と評価する側面と、決して報われなかったり愛してくれる身内への更なる背信を連鎖させる悪徳として評価する側面との緊張構造、又更には、ネット社会が不完全なのと同じく、現実社会が不完全なために、ここで起こり続けている人間の忌まわしい営みの部分に対してスポットを当て、たとえ架空の次元で物語るに際してすらも、決して完全なハッピーエンドでも完全なバットエンドでも描くことは、もはや許されないといったメタ的な緊張構造をも、二重三重に、同時に表現できていたのではないか?
 又、実際のネット社会の闇は、決してネットインフラや匿名性そのものといった枝葉末節な事象にではなく、現実社会と同様の成因としての人間自身の闇にこそ本質的な原因がある、といったところまでは『竜とそばかすの姫』は描けているが、又同時にその闇について、脳髄反射的なネットリンチを誘発させる群集心理としてだけ描かれたという洞察の不十分さこそは残念であり、つまり現実社会やネット社会の根底で蔓延る人間の闇とは、【群集心理】の性質と併せ、この群集心理を影で巧みに煽り、自らの企ての実現の為だけに利用する、【虚栄心】、或いは【自己欺瞞】に満ちた一個の頭脳といった性質としても描かれる必要があったと、私宮尾は考える。
 例えば、かつては「オレオレ詐欺」と通称され、高齢者の孤独感の隙に巧みに入り込んで、むしろこれを電話の受話器越しの若者の立場から癒してやった慈善事業や社会貢献として欺瞞しながら、何らの罪悪感も無く卑劣な詐欺犯罪を繰り返している「特殊詐欺」や、或いは新興宗教やオンラインサロン文化に共通する詐欺構造の側面、これらにまつわる加害者と被害者ら当事者に於ける、極めて欺瞞に満ちた功罪や善悪や美醜が混沌とした心象同士の交流に対しては、『竜とそばかすの姫』は全く無力などころか、むしろそれらに対する警戒の備えを全て解かさせ、丸裸になって突撃する事こそが美しいと、鑑賞者をして奨励すらしかねない害悪としての、思想性の脇の甘さを孕んでいる。

 

 以上に述べたような『竜とそばかすの姫』の思想性の限界を見出しても尚、私宮尾が本作を絶賛し続ける理由は、今後の細田守監督の独自の創作路線の更なる発展を確信するからだ。その思想性の限界の残念さで差し引かれても余りある、絶賛すべき部分としての、細田守監督の独自色や完成度を極めて心地良く提供できる制作統括能力、この歴然たる実績の、更なる先の可能性の地道な発展模様を、私宮尾は是非とも見たいのである!!!

 おわり


※※※
細田守監督へのインタビュー記事
Hosoda: 'Japanese anime has problem with women and girls'
 
※※※インタビュー抜粋※※※
 The dystopian tropes about the net that run through so many movies, including Spielberg's "Ready Player One", are not doing anyone any favours, particularly women, Hosoda told AFP at the Cannes film festival, where his latest feature "Belle" is premiering. Father of a young girl himself, the Japanese master wants to empower her generation to take control of their digital destinies rather than cower in fear.
 "They have grown up with the net... yet are constantly told how malevolent and dangerous it is," he said.
 Rather than being burned by online abuse and harassment as she acquires billions of followers, Suzu uses her online avatar to overcome the haters and her own hang-ups.
 "Human relations can be complex and extremely painful for young people. I wanted to show that this virtual world, which can be hard and horrible, can also be positive," said Hosoda.
 Suzu and her computer geek friend are far from the women that usually populate Japanese anime -- which is where Hosoda takes issue with Miyazaki, the Oscar-winning legend behind classics such as "Spirited Away".
 "You only have to watch Japanese animation to see how young women are underestimated and not taken seriously in Japanese society," he said. "It really annoys me to see how young women are often seen in Japanese animation -- treated as sacred -- which has nothing to do with the reality of who they are," Hosoda said, with evident frustration. "I will not name him, but there is a great master of animation who always takes a young woman as his heroine. And to be frank I think he does it because he does not have confidence in himself as a man. "This veneration of young women really disturbs me and I do not want to be part of it," he insisted.
 He wants to free his heroines from being paragons of virtue and innocence and "this oppression of having to be like everyone else."
 The director prefers stories that "show the good and the bad in people. This tension is what being human is all about."
Which is why he was also drawn to bringing "Beauty and the Beast" up to date. "In the original story the Beast is the most interesting character. He is ugly and has this violence but he is sensitive and vulnerable inside too. "Beauty is just a cipher. It is all about her looks. I wanted to make her as complex and rich."
 "I keep returning to the internet. First with 'Digimon' and then with 'Summer Wars' in 2009 and now again." And he is more convinced than ever that we cannot keep dismissing it as the source of all evil. "Young people can never separate themselves from it. They grew up with it. We have to accept it and learn to use it better."

 スピルバーグの「レディ・プレイヤー1」を含む非常に多くの映画を駆け巡るネットについてのディストピアの比喩は、特に女性に何の恩恵も与えていない、と細田はカンヌ映画祭でAFPに語った。少女自身の父親である日本のマスターは、恐れを抱くのではなく、世代がデジタルの運命をコントロールできるようにしたいと考えています。
 「彼らはネットで成長しました...それでも、それがどれほど悪意があり危険であるかを常に言われています」と彼は言いました。
 数十億人のフォロワーを獲得する際にオンラインでの虐待や嫌がらせに悩まされるのではなく、鈴はオンラインアバターを使用して嫌がらせや自分のハングアップを克服します。
 「人間関係は複雑で、若者にとって非常に苦痛なものになる可能性があります。困難で恐ろしいこの仮想世界も前向きになる可能性があることを示したかったのです」と細田氏は語った。
 鈴と彼女のコンピューターオタクの友人は、日本のアニメに通常登場する女性とはかけ離れています。細田守は、「千と千尋の神隠し」などの古典の背後にあるオスカー受賞の伝説である宮崎に問題を抱えています。
 「日本のアニメを見るだけで、若い女性が日本社会で過小評価され、真剣に受け止められていないことがわかります」と彼は言いました。「神聖なものとして扱われる日本のアニメで若い女性がどのように見られるかを見るのは本当にイライラします。それは彼らが誰であるかという現実とは何の関係もありません」と細田は明らかに不満を持って言った。「彼の名前は挙げませんが、常に若い女性をヒロインとする素晴らしいアニメーションの達人がいます。率直に言って、彼は男性としての自信がないのでそうしていると思います。「この若い女性への崇拝は私を本当に邪魔し、私はその一部になりたくない」と彼は主張した。
 彼は自分のヒロインを美徳と無実のパラゴン、そして「他のみんなのようにならなければならないというこの抑圧」から解放したいと思っています。
 監督は「人の善と悪を示す。この緊張が人間であることがすべてである」という物語を好む。そのため、彼は「美女と野獣」を最新のものにすることに惹かれました。「元の話では、ビーストは最も興味深いキャラクターです。彼は醜く、この暴力を持っていますが、彼は敏感で、内部も脆弱です。「美しさは単なる暗号です。それはすべて彼女の外見に関するものです。私は彼女を複雑で豊かなものにしたかったのです。」
 「私はインターネットに戻り続けています。最初は「デジモン」で、次に2009年に「サマーウォーズ」で、そして今またまた。」そして彼は、私たちがそれをすべての悪の源として却下し続けることはできないとこれまで以上に確信しています。「若者は決してそれから離れることはできません。彼らはそれと共に成長しました。私たちはそれを受け入れ、それをよりよく使うことを学ばなければなりません。」
(※日本語文章はグーグル翻訳に依った)
※※※インタビュー抜粋、終わり※※※