『竜とそばかすの姫』感想 精神的弱者に引導を渡す「解放の物語」 【前編】 | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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※2024年3月5日 追記

 本題に先んじて強調するが、私真田(※本稿執筆当時は宮尾)は、いわゆる“弱者”という生身の人間の群れの中にも当然、一般世間と同様に、良識を踏まえる部類と卑劣な部類とが混在していると認識する。具体的には、いじめ問題や相互差別感情のやり取りは、たとえ弱者同士のコミュニティに於いてもとりたてるまでもなく遍在する日常茶飯事であり、これは一般世間と何ら変わりない生身の人間のありのままの、しかしどこまでも忌むべき営みである。或いは、“弱者”を不当に名乗る事によって不当な利益を得ようとする“弱者”詐称者の存在も決して少なくなく、これが本来的な“弱者”の社会的な地位を不当に貶め、社会保障制度の弊害ともなっていると認識する。つまり、私真田は決して“弱者”を聖人君子の群れの如く特別扱いせず、飽くまで様々なハンディキャップを差し置く本質の部分では、自分と対等な、清濁併せ持つ人間の一人一人として認識する。以上は、私真田が“弱者”に対する不用意な同情や偏見を自身の脳内から極力排除する為の“努力”の一環でもある。

 因みに、私真田は、“弱者”を見世物扱いする、いわゆる“感動ポルノ”の胡散臭さが大嫌いだ。 何故なら、“弱者”のありのままから目を背けさせ、思考停止させる“感動ポルノ”は、ややもすれば“弱者”の尊厳をむしろ愚弄し、本来的な“弱者”をむしろ疎外し、或いはいわゆる“逆差別”を助長し、真の意味での人権感覚を歪め、よって社会を腐敗させるからだ。 転じて、“弱者”詐称者を、歩く“感動ポルノ”と言い換えるとしっくりくる。

 又、以下本題で述べる様に、『竜とそばかすの姫』が成し遂げた自滅欲動(タナトス)の昇華こそは、“感動ポルノ”とは全く無縁の、誠実な形で“弱者”救済を描いた超大傑作だ。

 従って、以下の本題で述べる様に、私真田が『竜とそばかすの姫』から「精神的弱者に引導を渡す解放の物語」を感じ取る事と同時に、上述の様に、私真田が“弱者”の群れに少なからず潜む卑劣さや自己欺瞞の実際について批判する事とは、決して論理的に矛盾しない。

 尚、私真田独自の、“弱者”詐称者への批判、及び“努力”する他人様の尊厳を傷つける最も卑劣な精神性への批判については、以下エントリ最下部の『私鏑戯と京アニ放火犯との決定的な違いについて』で詳述した。

 又、私真田独自の“弱者”論、及び優生思想批判については以下リンク先エントリの後半部『私鏑戯独自の“優生思想批判”』を参照あれ。

※ネタバレ注意!!!
 2021年8月某日、地元の映画館にて『竜とそばかすの姫』を初鑑賞。

▼『竜とそばかすの姫』の粗筋
 命を犠牲にして他家の子供を水難事故から救った母親との死別を幼くして余儀なくされた主人公の内藤鈴は、それまで大好きだった筈の歌う事も人前で披露できなくなるほど極度のトラウマを抱え込んだまま高知県の地元の高校に進学していた。そんなある日、内藤鈴は、ワイヤレスイヤホン型デバイスを両耳に装着するだけで身体感覚の全てを仮想空間に接続できるSNSサービス「U(ユー)」を利用し始める事によって、このアカウント登録の際に彼女の生体と才能を増幅して生成されたAs(アズ、仮想空間に於けるユーザーの分身、アバター)である「Belle(ベル)」として、人前で歌える喜びを取り戻し、又これにに留まらず、数十億人規模の認知度を誇る仮想世界の大人気歌手にまで成り上がる。が、内藤鈴はその後、現実の学校生活に於いて幼馴染の忍くんとの、あくまで彼女の早合点な思い違いによる失恋を味わった反動から、「U」の秩序を乱すならず者として衆目からけむたがられていた「竜」という強面のAsに対して同情を募らせる様になる。果たして「竜」の心の内と現実の正体にまで距離を詰めていった内藤鈴は、彼の強さが現実の日本国内で家庭内暴力に喘ぐとある少年が強者でありたいと切実に願うところから増幅された結果だったという事実に行き当たる。内藤鈴は、そんな彼の苦境を打開すべく、まず「U」に於ける「ベル」という偽装を捨て去り、自らの正体を曝け出す事によって「竜」の正体である少年、恵くんの信頼を得、更に彼の連携アカウントでライブ配信された映像と音声記録とを元に大雑把に特定できた東京都内に向けて夜行バスで猪突猛進、この後、運良く奇跡的に恵くんと突撃先の現地で出会う事に成功し、又おそらく虐待通報後から児童相談所の職員が駆けつけてくれるまでの48時間の危機からも、彼を無事に守り抜いた。内藤鈴はその、かつての母親の自己犠牲的な優しさと勇気を受け継いだかの様な成長(※厳密には自暴自棄、自滅願望に依存し逃避する心理も多分に同居した、言わば蛮勇とも言えるが、この私宮尾独自の解釈についての詳細は後述する)を経る事によって、過去のトラウマを乗り越え、現実世界でも人前で何ら不都合無く歌えるようになったとさ。めでたし、めでたし?
 (※「めでたし?」とした理由について。確かに、内藤鈴に於ける幼少時の母親との死別によるトラウマや、これと同等の悲嘆の再来を父親に対しても見出さざるを得ない事による、過度なまでの父娘の絆への警戒などは、物語の結末に於いてめでたく解消され、又、恵くんを家庭内暴力から救出できた事もこれ又めでたいし、更に、幼馴染の忍くんと晴れて恋仲になれた事もやはりめでたかったし、これら全ては「U」に象徴されるネット社会からの恩恵が無いままの彼女只独りの力だけでは決して達成されなかったであろう結末だったが、しかし同時に、彼女はそこに至るまでの経緯で、ネット社会からの都合の良い恩恵ばかりではなく、ここから増幅される光の半面の闇の深さ、複雑さ、矛盾も又、痛く思い知らされた筈であり、更に物語の結末の後には、既に50億人の前で自ら暴露してしまった「Belle」の正体としての自身がどう振舞っていくべきかという途方も無い困難の現実とも向き合っていかなくてはならない訳で、こういった全ての状況を加味した場合、とてもじゃないが私宮尾は『竜とそばかすの姫』の結末を、只単純に「めでたし」とだけ解釈する訳にはいかず、むしろだからこそ、その様にもはや現実もネットも関係なく、人類社会全体を構成する大元の人間自身の、決して解消され切らない不完全さこそを暗に突きつけてくる本作を大傑作と評価するしかないのであり、以上の意味合いで「めでたし?」と述べた。)


▼『竜とそばかすの姫』は、時代性のありのままを寓話的に表現した「解放の物語」
 『竜とそばかすの姫』の大筋は、一人の女子高生が、功罪の賛否も様々なインターネットインフラやSNSサービスに助けられながら、決して自力ではどうにもならなかったであろう過去のトラウマという人生の障害をも乗り越え、一定の成長を遂げるというお話。
 不完全な人間と、不完全な現実社会と、不完全なネット社会とが連携する事によって、不完全な自由や正義や出会いや運命や成長をもたらすといった時代性のありのままを、極めて寓話的に表現した物語。
 それを一言に絞るとすれば、成長の物語?否、恋愛物語?否、近未来SF物語?否、文明の終末の物語?否、日本アニメ文化の敗北の物語?否。
 私宮尾にとって『竜とそばかすの姫』とは、一言で「解放の物語」。
 それは時代性のありのままを隅々まで見つめ直させるという意味の「解放」の物語だ。勿論、そこには一定に寓話化、簡略化、そして再構築されたリアリティが表現上の大前提となっている。
 従って、そこにはかつての『サマーウォーズ』的に超分り易い類の単純なカタルシスは影を潜め、この代わりに、社会や時代に対するより精錬された洞察による、より複雑多岐に情感を揺さぶる、より繊細な類のカタルシスが巧妙に仕組まれている。
 私宮尾にとって『竜とそばかすの姫』は、決して破綻ではなく、むしろ巧妙さが際立ち、又、手元感覚の近距離で永く意識し続けていたいと思わせる、言わば幾度も読み返さざるを得ない愛読書の様な位置付けの、決して重過ぎも軽過ぎもしない類の大傑作である。
 抽象的な感慨は以上で済ませ、以下にその具体的な感想を述べる。


▼【感想の前置き:その1】細田守監督独自の思想性と洞察力の深みについて
 ところで、私宮尾に『竜とそばかすの姫』を劇場鑑賞させたそもそものきっかけは、つい先日Netflixで配信が開始された『未来のミライ』を初鑑賞した事でもたらされた、細田守監督独自の思想性の核心を垣間見れたかの様な感触にあった。そして、その細田守監督の思想性の核心が何かと言えば、人間の生命力や成長の逞しさに対する無条件な美化、礼賛といった、人間の自律性の尊厳のみを至上価値とする類の、言わば宮崎駿的な思想性の系譜に待ったをかけ、この功罪や不完全さを指摘し、ましてやこれを「幼い女性」の理想像にだけ過剰なまでに投影させる表現の偏向は、現実社会に於ける女性像までも歪めかねないと反発した上で、必ずしも強くも逞しくもあれない人間の弱い部分も含めたありのままの姿にもっと寄り添ってこそ初めて啓けてくる洞察領域を果敢に探究しようとするかの様な、野心的で独創的な思想性である。
 それを具体的に言い直すと、例えば宮崎駿の大傑作『風の谷のナウシカ(原作漫画版)』の最終巻で、腐海の生みの親たる古代人の墓所を破壊する際のナウシカが「清浄と汚濁こそ生命」だと達観を示し、これに順じた彼女の行動原則を軸として後のエピソード展開も組まれていく等といった手法は、ナウシカという作品中の女性キャラに原作者たる宮崎駿の達観の獲得がそのまま投影され代弁させられている訳で、恐らくこういった表現手法も細田守監督にとっては決して踏襲したくない拒絶の対象であり、あくまでその達観は原作者自身の脳内や物語を構成する世界観の骨格等への昇華に留めるべきとし、ならば主人公たる若い女性キャラの行動原則や人格の設定に於ける必然性は、原作者自身の思想性を投影したり代弁させたりする以外の、例えば表現者と鑑賞者が生きる同時代に馴染み揉まれて形成された類の、決して完璧でも理想的でもなく、逞しいとも限らない女性像への洞察によって担保されるべきだ、とするような、言わば宮崎駿が常套とする主人公の人物設計に於ける手法に対するアンチテーゼとも言える。
 で、その細田守監督の反骨精神を私宮尾が敢えて野心的とまで解釈したい理由とは、そうした宮崎駿の表現手法に対して、自覚の有無に関わらず踏襲するだけに留まり、過去の遺産を只ひたすら食い潰すだけだとか、或いは、宮崎駿の表現手法を拒絶してはみせても、これを実際に実践できるだけの独自の表現上の思想性や洞察力の積み重ねを致命的に欠くため、只闇雲に地に足の付かない幼稚で必然性に乏しい表現に終始するしかない凡百の徒とは、細田守監督は確実に一線を画していると、このように私宮尾が『未来のミライ』『竜とそばかすの姫』を鑑賞し終えて評価せざるを得ない大前提があるからだ。
 そういった独自の思想性や洞察力を獲得できている後進の才能が台頭してこそ初めて、宮崎駿と肩を並べる才能や、日本アニメ作品の多様性が実現し得ると、私宮尾は予てから一貫して無い物ねだりの期待を募らせてきた。有形無形に渡る独自の洞察力や思想構造を持ち合わせない程度の才能が幾ら乱立したところで、作品の多様性や娯楽ジャンルの繁栄に資する契機の一切は担保されない。私宮尾はそのような批評レベルを前提として、細田守監督及び『竜とそばかすの姫』について、以下に評そうとしている。


▼【感想の前置き:その2】自律性を讃える宮崎駿。その反動を警戒する諌山創。自律性の劣弱さも省みる細田守。
 又、私宮尾は『風の谷のナウシカ』ついでに『進撃の巨人』もこの場で想起せざるを得ない。何故か?その両作品とも、人間の自律性に対する深く鋭い洞察を元にした独自のテーマ性が光る部分で共通している半面で、前者は人間の自律性をどこまでも至上価値として尊び、後者は人間の自律性に伴う種の排斥の本能的な闇への警鐘も併せて至上の命題と定める大きな違いを見せもするからだ。只、『進撃の巨人』が幾らアニメ化されようとも、この独自の思想性が必然性を維持できるのはあくまで原作者諌山創の手による漫画版までで留まらざるを得ない。しかし細田守監督は、そういった諌山創がやってのけたのと同次元の、宮崎駿級の偉大過ぎる系譜からの枝分かれを、他でもない日本アニメ作家としてやってのけられる(かもしれない)稀少な才能であるからこそ、私宮尾は彼を注目せざるを得ないのだ。
 尚、やや乱暴な説明を加えると、諌山創が人間の自律性の相対的な熾烈による非対称への悲観をテーマとして併せて想定するのに対し、細田守監督は人間の自律性の相対的な劣弱による非対称への慈悲をテーマとして併せて想定する。
 つまり私宮尾は、ここ僅か数日の間で『未来のミライ』と『竜とそばかすの姫』を初鑑賞するに至った事により、細田守監督が宮崎駿や諌山創と極めて近距離で肩を並べ、彼らと共に、少なくとも映画・漫画・アニメ分野に於ける真の意味での「多様性」なるものを構成し得る次元の存在感を放って見えるようになったという訳である。
 自律性を讃える宮崎駿に対し、この反動としての種の排斥に警鐘「も」鳴らす諌山創、そして自律性の劣弱による非対称性「も」省みる細田守・・・、という感じだ。


▼私宮尾は、細田守監督作品中で『竜とそばかすの姫』が最も大好き!
 さて、『竜とそばかすの姫』の感想の本題に入る。
 まず結論を急げば、私宮尾にとって『竜とそばかすの姫』は、細田守監督作品の中で最も大好きな作品となった。
 母親が主人公の『おおかみこどもの雨と雪』 ⇒ 幼児の男の子が主人公の『未来のミライ』 ⇒ そして、女子高生が主人公の『竜とそばかすの姫』。その文脈に於ける主人公らは皆、決して成長の逞しさだけを過剰に体現させられはせず、言わば本能の劣弱さも併せ持たされながら、物語の中心で七転八倒する。尚、『時をかける少女』という、この主人公の女子高生の内面描写がほぼ行方不明で、あくまでSF作品として特化された類の傑作は、その文脈とは全く別の系譜に位置付けたいというのが、私宮尾の見解だ。つまり、そのような私宮尾独自の前提からすれば、『おおかみこどもの雨と雪』『未来のミライ』『竜とそばかすの姫』は、基本的にはどれも甲乙つけ難いが、何より今回は物語に於ける歌唱楽曲の演出的な位置付けが類稀な魅力を放っていた点による、あくまでエンタメ的な僅差によって『竜とそばかすの姫』を最も好評する結果となった。

 因みに、『竜とそばかすの姫』で私宮尾が最も印象に残ったシーンは二つあって、一つは、ルカちゃんが吹奏楽部の先頭でアルトサックスを吹きながらピョンとジャンプして両脚を合わせたか交差させたかの振り付けパフォーマンスの謎の可愛らしさと、もう一つは、「竜」が「ベル」のキスを迫る素振りに目を瞑る初々しさを見せ、これに対し「ベル」が「まだキスは早かったかな?」と代わりに彼の顔を優しく抱きしめてやるという、童話的な優しさと、源氏物語的なオネショタ恋愛の背徳感と、仮想空間のエロチャットだけで許される浮世離れの解放感、等が一編に表現された、優しくもロックに飛び抜けたシーン。


▼『竜とそばかすの姫』初鑑賞の直後は、正直引っかかるものがあった
 だが率直なところ、劇場にて初鑑賞を終えた直後の私宮尾は、『竜とそばかすの姫』の構造的な粗を探す事に意識が引っ張られていたが、この原因は、当初の私宮尾が、『竜とそばかすの姫』が最大のテーマとするところが一体何なのかをうまくつかめていなかったからだと、今となっては思う。
 だが同時に私宮尾は劇場初鑑賞の直後から、『竜とそばかすの姫』に対して決して捨てがたい魅力を曖昧模糊に直感し、これに呼応したがっていたのも確かだった。只それは決して、私宮尾の細田守監督作品に対するブランド志向の贔屓目に起因してはいないと釈明したい。何故なら私宮尾は、細田守監督作品では『未来のミライ』と『おおかみこどもの雨と雪』は大好きな半面、『サマーウォーズ』と『バケモノの子』は全く好みに合わず、今回の『竜とそばかすの姫』の劇場鑑賞を決断する際にも、細田守監督作品に対する私宮尾の期待値が決して絶対的なものではなく、むしろ不安の方が優っていた事から、この度の劇場鑑賞の感想を反芻しまとめる際には、普段以上の冷徹さで作品と向き合うことを自らに課す決意があったと自負するからだ。
 従って以下からは、『竜とそばかすの姫』に対する誤解の払拭から始まった、私宮尾の感想の推移を土台として詳述する。

▼『竜とそばかすの姫』の鑑賞直後に私宮尾が抱いていた疑念の数々について
 さて、鑑賞直後の私宮尾がその「粗」として最も引っかかっていたのは、物語終盤に於いて、内藤鈴が大雑把な位置情報の特定だけを頼りに、土地勘の全く無い東京まで夜行バスで赴いて「恵」くんを見事に見つけ出すという、この只でさえ奇跡的なエピソードを、尚もあっさり処理して見せる事によって、いわゆるご都合主義の印象が色濃くなっている一連のシークエンスに対する疑問である。
 又、その他にも例えば、▼母親の自己犠牲の割を食わされた内藤鈴が自らもこれを継承する事をもってする成長譚とは、このテーマ性に於ける普遍性がどれだけ担保され得るのかが甚だ疑問だ、とか、▼劇中で登場するスポンサー付きのネット自警団は、まるで実際のネット社会で投稿動画の閲覧回数を稼いで企業広告料のおこぼれに預かる「収益化」の為なら薄っぺらな正義感でも何ら恥じずに演じられてしまえる類のユーチューバーを痛烈に風刺するかのような立ち位置なのだが、そもそも「U」がアカウント登録者数50億人の規模を誇るSNSプラットフォームなら、その様な粗暴極める類とは又別に、腕力よりも冷静な会話で事を穏便に解決する類の、まぁこれもだからといって決して思慮深いものとは限らなくとも、より穏やかな類の自警団グループや派閥が描かれる余地も充分にあっただろうし、こういった「U」に於けるより多様で柔軟な自己調整的な自浄の体制のディテールに依ったならば、そもそも「竜」の正体たる恵くんに順ずる家庭内暴力等の緊急を要する社会問題やこの被害者のSOSをも汲み取れる社会福祉機能によって、敢えてわざわざ内藤鈴が彼の救済に無茶を犯してまで奮闘せずとも済む、又全く別のエピソードプロットが組まれても良かったんじゃないかと、つまり、『竜とそばかすの姫』の物語構造は、ややもすれば破綻していると看做し得るのではないか?とか、▼映画パンフレットのストーリー概説には「(竜の)正体探し」に「アンベイル」とルビが振られており、この事から作中のあの蛍光色ビームの照射によってアバターを崩壊させ、現実のユーザーの姿を衆目に暴露させるギミックが、実際の、表立っては匿名性が基本となっているネット上での「個人情報特定」とこれに伴って無差別に波及する無責任な憶測や誹謗中傷のリンチ沙汰までを含んで批判的に象徴している事は明らかだが、これを踏まえた上でも、ネット自警団を只批判的に「だけ」描く事も又、これはこれで短絡ではないかと、つまり「竜」の正体がたまたま家庭内暴力を受け、且つ、明晰な人格を備える少年だったからこそ、これを救済対象と看做す物語が一定の同情を共感させただけと解釈する事も可能な訳であって、そもそもアカウント登録者数50億人の「U」の秩序の維持を図る上では、勿論、粗暴な類の自警団という形が必ずしも適切とは限らないにしても、一定の抑止力としての暴力装置的な役割は必要不可欠であろうし(※何故なら、まず「U」ではアバター同士の身体機能消耗や痛覚刺激を伴う物理的衝突が再現されるし、又そもそも、ネット自警団リーダーが自らの活動意義を説明する際に、「U」の創始者ヴォイスが、個々のユーザーはIPアドレスを辿れば個人情報特定が可能だし、他と連携されたSNSアカウントの抹消等も含め制裁措置の規定の備えによって、「U」の治安対応は既に充分図られているとしか請合わない放任主義的な運営姿勢に不満を漏らしていた、みたいなシーンから「U」の無法状態も推測できるから)、果たして『竜とそばかすの姫』に於けるそのように単純とも見受けられる善悪の構図の必然性とは、一体何が根拠とされているのかが甚だ疑問だ、とか、▼そもそも内藤鈴が「竜」に同情を寄せるだけに留まらず、彼を頑なに擁護し、更には彼の正体を突き止め、且つ、恵くんのもとまで高知から東京まで長距離の夜行バスで無謀極まりない猪突猛進を敢行したのか、この動機はもはや、母親の自己犠牲的な精神の継承をもってする内藤鈴の成長譚といった、只表立って表現されているエピソードの枠組みだけでは到底説明がつかない、従ってややもすれば物語の結末を急ぐためだけの乱暴な処理としての、いわゆるご都合主義の疑念も招きかねない、或いはこれは、作家の思想性が巧妙に貫かれはしていても決して表面には明かされる事無く、直接的な表現の一切を排除する事によって極めて抑制的に、半ば封じられたかのような、いわゆるブラックボックスなのではないか?とか、・・・。
 以上が、私宮尾が『竜とそばかすの姫』の鑑賞直後からおよそ半日の間に渡り気を取られ続けていた、この「粗」もしくは「破綻」の是非を巡る疑念の全てである。それらを更に略述すると以下の様になる。

●50億人規模のアカウント登録者数を誇る「U」に於いて、このSNS空間の秩序を乱す「竜」の問題行動とこの現実のユーザーの背景事情への対応を、敢えてわざわざ内藤鈴の孤高の同情心だけに委ねるしかない様なネット空間の描き方は、実際のネット社会に対する批判としてはリアリティに欠け、寓話化すらも成立していないのではないか?
●内藤鈴が東京の恵くんのもとまで辿り着けたエピソード展開は、果たしてご都合主義の「はったり」に過ぎなかったのか、或いは、そういった演出に必然的な意図は見出し得るのか?
●内藤鈴の成長やトラウマ克服の契機であり、又、母親から受け継いだ「優しさ」でもあり、又、彼女をして恵くんの救出の為に高知から東京へ猪突猛進させた只ならぬ動機とは、果たして本当に只の【自己犠牲】に過ぎなかったのか?



▼『竜とそばかすの姫』に対する私宮尾の疑念を払拭させた、二つの論点について
 その後、上に列挙した『竜とそばかすの姫』に対する疑念の全てが、作品に対する私宮尾の読み解きの不足に起因する誤解だと払拭されたのだが、この主な契機となったのは、劇場鑑賞に先んじて私宮尾に念頭されていた以下の二つの論点であり、これは本稿末尾にも抜粋したところの、細田守監督へのインタビュー記事への参照と、【前置き】で既述したとおり細田守監督の思想性に対する私宮尾独自の予てから論評するところとによってもたらされた。

●『竜とそばかすの姫』は、決して逞しいだけでもいられない人間が、良くも悪くも、自らの宿命から解放される物語。
●『竜とそばかすの姫』は、不完全な人間、不完全な現実社会、不完全なネット社会、これら全ての光と闇とを全て描き切る思想性に貫かれた物語。

▼「二つの論点」をもたらした、細田守監督インタビューへの私宮尾独自の解釈について
 『竜とそばかすの姫』を劇場初鑑賞し終えた次点で、私宮尾は既に『未来のミライ』の鑑賞によって、細田守監督が、本能の「逞しさ」ばかりでなくこの反面の「劣弱さ」も併せて全て表現し切ろうとする、この意味に限れば言わばアンチ宮崎駿、或いは宮崎駿にも充分匹敵し得る重厚な思想性や、洞察力の独自性を秘めている事を確認済みだった。従って、上に列挙した疑念の数々の如き程度のものが、畏れ多くも細田守監督の不本意な昇華不良としての『竜とそばかすの姫』の破綻の実際を言い当てられているとは、とてもじゃないが確信し切れなかったし、又同時に、その一見してご都合主義とも破綻ともとれかねない表層の奥に直感される、尋常でない魅力への曖昧模糊とした感触を、決して捨て切れずにもいた。
 そこでまず私宮尾は、件のインタビュー(※リンク)に於いて細田守監督が語った以下の箇所を改めて反芻した。
 曰く、

【この(※宮崎駿作品に於ける)若い女性への崇拝は私を本当に邪魔し、私はその一部になりたくない】、
【人の善と悪を示す。この緊張が人間であることがすべてである。(『美女と野獣』の)元の話では、ビーストは最も興味深いキャラクターです。彼は醜く、この暴力を持っていますが、彼は敏感で、内部も脆弱です。美しさは単なる暗号です。それはすべて彼女の外見に関するものです。私は彼女を複雑で豊かなものにしたかったのです】。
【若者は決してそれ(※ネット社会)から離れることはできません。彼らはそれと共に成長しました。私たちはそれを受け入れ、それをよりよく使うことを学ばなければなりません】、
【人間関係は複雑で、若者にとって非常に苦痛なものになる可能性があります。困難で恐ろしいこの仮想世界も前向きになる可能性があることを示したかったのです】。

 その引用箇所から私宮尾が独自に解釈した細田守監督の思想性については以下のとおり。

●作中の女性や子供の主人公キャラに、作家自らの思想の代弁と実践をさせるに耐える、英雄的な逞しさと知性とを過剰なまでに設定してしまうが余りに結果される、若い女性像や子供像への歪んだ崇拝視を公けに流布する類の、言わば宮崎駿的な(登場人物設定の手法に於ける)思想に対する反骨精神。
●宮崎駿が追求する「豊かさ」が、人の自律性や生命力や意志の逞しさだけに偏って証明される位置付けなら、細田守監督が追求する「豊かさ」は、人の自律性や生命力や意志の逞しさだけでなく、同時に劣弱さにも依らずしては決して十全に証明されはしない位置付けとなるといった反骨精神。
●善と悪、或いは美しさと醜さ、これら両極の属性が、外側と裏側で複雑且つ裏腹に矛盾し、混在しながら、人間やこの社会の本質を極めて心もとなく儚く危うく、決して緊張の途切れないものとして形成しているといった洞察を、主人公も含む全ての登場人物の造形に対しても例外無く適用させる、細田守監督独自の制作方針。
●人間も現実社会もネット社会も全てに共通して、後ろ向きな可能性が満ちているが、しかし同時にそれらには共通して、前向きな可能性も又、満ちているのであって、この時代性の全てを描き切る事によって、決して単純な答えが導き出されよう筈もない現実問題と、この縮図としての架空の虚構とに向き合って学んでもらえる契機を公けに流布する事にこそアニメ映画制作の社会的意義を見出さんとする思想性。

 以上の四つを更にまとめたのが、上述した「二つの論点」である。

▼私宮尾独自の、宮崎駿と細田守監督との思想性の比較論評について
 尚、私宮尾独自の解釈に於いては、宮崎駿も当然、細田守監督が追求する人間の本質の複雑さを踏まえつつも、彼の場合はこのありのままをいわゆる「もののあはれ」的に再現するのではなく、いわゆる否定弁証法的な形で更に独自の止揚を畳み掛け、覆すといった思想構造次元の底知れぬ躍動を披露する。
 従って、その解釈の理屈を延長させたところの私宮尾独自の超ド級の二大巨匠に対する比較評となれば、細田守監督は宮崎駿以上に「もののあはれ」的な日本古来の風土性に忠実な表現傾向にあって、逆に宮崎駿は日本古来の風土性を手法や題材の次元で意識はするものの、その思想性の切り口がどこまでも近代西欧的な発想で見事なまでに完結されており、勿論これが優劣比較であろう筈もなく、この極限レベルの個性の対峙による日本アニメ映画作品の多様性を壮観させられる事ほどの時代的な恩恵はまず他には有り得ない、といった具合になる。
 つまり、宮崎駿も細田守監督も、私宮尾の中ではどっちも超すげーって事である。
 では次に、件の「二つの論点」が、『竜とそばかすの姫』に対して私宮尾が構造的破綻を訝る疑念を、如何に払拭させたかについて詳述する。

▼【一つ目の論点】『竜とそばかすの姫』は、決して逞しいだけでもいられない人間が、良くも悪くも、自らの宿命から解放される物語
 まず、「決して逞しいだけでもいられない」とは具体的にどういう事かといえば、とりわけ現代人は、自然権や人権といった近代的な法概念にややもすれば惑わされてしまい、この深奥の実際として、個々の生存本能や自律性や意志の強さ等が皆決して一律に内包されたり発揮されたりはせず、この強弱が多様に発現するという己が種の実態を見失いがちだが、例えば宮崎駿がナウシカという自律性の逞しい理想の女性像を幾ら描いたところで、これは現実離れも甚だしい理想に過ぎず、又、特に天然の海洋国境に守られ、育まれてきた日本固有の風土性に於いては、たとえ核爆弾が二発も落とされて、民族ナショナリズムという文化的な連帯が、これ以上に無いほどの存亡の危機を迎えたとしても、近代的な自主防衛体制を民主主義的な主権意識で改めて構築し直し、支えていこう等といった自律性や生存本能をまともに発揮される事は永久に訪れはしないという具合で、その理想と現実の甚だしい乖離からも痛く納得できるように、又或いは、生来から学業や仕事にバリバリと没頭できる人間と、これとは全く逆に、何をするにしても無気力で、生きること自体に価値を見出せない慢性的な鬱傾向の人間との両極端の間で、強弱が様々な生存本能の発揮のされ方がある訳で、このように決して画一ではない公けに対して、只若く逞しい女性の理想像だけを過剰に流布する宮崎駿が、細田守監督にとってはいささか不誠実に映り、これが劣弱な部類の決して小規模ではない公けの層に於いて「逞しくあらねばならない」という同調圧力を無理強いしている文化的な害悪の様にもとれる訳で、従って細田守監督は、過剰な理想を押し付ける虚構の不自由さからの解放を表現手法上の思想の軸としてすえている。
 只、ここで留意すべきは、宮崎駿も細田守監督も、それぞれの深い洞察のどちらもが、決して明快な正しさや誠実さを片方より優れて誇れるようなもの足り得ないという真実を当然、自覚済みな訳でもあって、この意味に於いて、究極のところでは細田守監督も宮崎駿に対して批判と敬意とをない交ぜで投げ掛け続けるしかないのであり、或いは、宮崎駿を批判できるのと同様な分だけ、細田守監督自らにも批判の余地が憑いて回り続けざるを得ない、要は複雑怪奇な虚構の集合に他ならない現実に対し、所詮人一人が持ち得る洞察力や思想性などといったものは、どこまでも諸刃の剣よろしく一長一短で、高が知れたもんに過ぎないと重々承知している。
 つまり、細田守監督に於ける、人間の生存本能の逞しさと劣弱さとの全てを描き切るという思想性も又、解釈の視点を変えれば、フロイト的にはタナトス、自滅願望(欲動)、或いはこれをもっと一般的な語彙に変換するところの自暴自棄とか自殺衝動などといったニュアンスの志向性とも根源的に繋がっていると演繹せざるを得ないという事である。
 そして他でもない『竜とそばかすの姫』の内藤鈴が物語終盤のクライマックスで恵くんの盾になってでも彼の父親の暴力から守り抜くという迷い無き自己犠牲的な行動にでた動機付けが、一見すれば説明不足で突拍子も無い、必然性の不在とも誤解を招きかねない演出となっているのも当然で、つまり内藤鈴にとって、「竜」に同情を傾け、彼の居場所や正体を突き止め、心の距離を縮めたがった事も、恵くんを家庭内暴力の危機から救いたがった事も、全ては他でもない鈴自身に永く背負わされてきた、かつて母親から見捨てられたトラウマの原因たる自己犠牲の身勝手さを自らも受け継ぐ事によって、母親と同じく自らの命を絶ち、この自暴自棄や自滅願望を達成する事によって自らの厭わしき人生を完全に拒絶し、母親の裏切りや自らの運命そのものに対する復讐の怨念を晴らすという最大の目的の為の手段に過ぎなかったのだ。内藤鈴は、たとえ華々しい「ベル」として人前で再び歌える様になった一定の解放感に恵まれたとしても、しかしどこまでも、彼女のより根源的なトラウマまでは決して克服できてはいなかったし、これは彼女がかつて母親の身勝手な自己犠牲から無理強いされ続けてきた寂しさによる怨念を跳ね除けるための等価的な熱量としての、自滅的な自己犠牲の踏襲をもってでしか決して晴らされることは無いと、無意識の内に直感していたところであった。従って内藤鈴は、「ベル」として歌い続ける事によってもたらされていた、言わば中途半端で気休めに過ぎないトラウマの軽減よりも、これに満足して留まらず、むしろ自らベルを脱ぎ捨ててでも「竜」の正体たる恵くん、彼只独りの信頼だけを獲得する事によってもたらされるであろう、より完璧なトラウマからの解放の可能性に身を委ねようと決断した。更にその後の内藤鈴の全ての判断、行動にも一貫する動機として、彼女の根源的で無意識的な自滅願望が機能し続けていたのだ。
 要は、内藤鈴は自らの最も理想的な死に方を提供してくれる可能性が突出していたという意味での只ならぬ魅力を、「竜」の無頼な佇まいの背景に直感し、夢や希望を見、惚れたのだ。それは決してエロスの恋ではなく、どこまでもタナトスを志向する矛盾極まりない恋であり、又或いは、内藤鈴が母親の独善的な自己犠牲によって無理強いされた極限の寂しさに起因した、大きく歪んだ恋である。
 『竜とそばかすの姫』とは、例えば宮崎駿の『風の谷のナウシカ』に於ける自律性の逞しさを至上の価値として讃えるテーマ性とは正反対の、生存本能の劣弱さを極める若い女性像の内藤鈴に於ける、幼少の頃に受けたトラウマに起因する自殺願望によって起承転結を紡ぐ、この決して賛否両論を免れないところの、恐らく日本アニメ映画史上に於いては前代未聞の、全く後ろ向きな自律性を志向する主人公の、言わば、この世の全てからの「解放」の物語だ。

 まぁ、あくまでそういった私宮尾独自の解釈が仮に的を得ていた場合の話だが、端的には、自己犠牲の精神を更に突き抜けた自殺願望を奨励するテーマ性とも捉えられかねない物語の真相を、そう易々と気取られ、公然に知れ渡ってしまう様な演出は、極限まで封じられたであろう事は想像に難くない。只でさえ、国防意識が低く民族的な自滅願望は旺盛なくせに、一方で安楽死医療に対してだけは妙に馴染みの薄い日本に於いては尚更の事、『竜とそばかすの姫』に於ける自滅願望への解放を物語るテーマ性は、決して公然と、正攻法で堂々と表現することが憚れざるを得ない、いわゆる禁忌(タブー)である。しかし同時にその禁忌扱いのテーマ性の領域を臆する事無く映画として昇華する事に踏み切った細田守監督の気概こそは、宮崎駿の築き上げた過去の遺産を只無自覚にだらしなく食い潰してばかりでしかいられない、往々にしてテーマ性の次元の多様性に乏しかった日本アニメ映画の枠組みに於いては、極めて稀少で有望で奇跡的な才能と評価する他無いと、私宮尾は只々興奮に打ち震えるしかない。
 尚、以上の『竜とそばかすの姫』に対する私宮尾独自の、内藤鈴に於ける「自滅願望」に関する解釈の根拠は、彼女が恵くんを彼の父親の暴力から盾になって守るシーンで見せた、あの極めて無機質に描かれた無表情である。自らの正義感に武者震いする自惚れの笑みも、或いは目前の暴力に対する恐怖に戦慄する動揺の笑みや食いしばりや頬の緊張も、或いは無謀な己自身が信じられなくて漏れ出る自嘲の笑み等すらも、一切合財が付加されなかったあの無表情こそが、私宮尾をして内藤鈴の自滅願望を仮説させる決定打となった。

 (※尚、そのシーンは、小説版『竜とそばかすの姫』に於いては、内藤鈴の「誰にも見下させない」という独白が軸として伴っていて、これは私宮尾が映画本編から受けた印象とやや食い違うかもしれないし、はたまた「誰にも見下させない」こそが彼女の自滅願望への頑なな意志や覚悟の象徴ともとれるし、とにかく彼女の明白な意志が示されている。しかし私宮尾は、あくまで小説版と映画本編は別物として捉えるし、又、文字として明白な形で敢えて禁忌のテーマに触れる事が憚れて当然の小説版よりも、映像の絵作りや演出でより複雑な表現が可能な映画本編にこそ細田守監督の本音が込められている筈だと身勝手な解釈を重ねるが故に、敢えてここでは映画本編鑑賞による解釈を優先し述べた)。



▼【二つ目の論点】『竜とそばかすの姫』は、不完全な人間、不完全な現実社会、不完全なネット社会、これら全ての光と闇とを全て描き切る思想性に貫かれた物語
 この二つ目の論点から私宮尾がまず気付かされた事は、そもそも細田守監督の前作『サマーウォーズ』でも描かれた、予定調和が甚だ際立つ大団円が『竜とそばかすの姫』でも踏襲されるであろうといった決め付けが、劇場での初鑑賞を終えて半日を過ぎようとする辺りまで、尚も無自覚の内に犯されっ放しでいたという、己が恥ずべき思考の怠慢である。只、その決め付けが『竜とそばかすの姫』に於ける演出によっても、むしろ確信犯的に助長され、言わば細田守監督の手のひらの上でミスリードされていたであろう側面にも注目したい。つまりそれは、私宮尾が知る限りでは『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』から定番となっているあの開幕冒頭に描かれる円周、周縁、境界を示すような横一線が遥か遠方から徐々に迫り来るだとか、ここから更に仮想空間の全貌として描かれる球体を外側と内側から概観させる、この一連の演出に対する既視感が『竜とそばかすの姫』でも仕組まれており、これによってかつての『サマーウォーズ』と同様に、あくまでシステムエラーさえ起きなければ性善説的なユーザー達によって理想郷足り続けられる仮想空間の理想像だけが、再度、偏って描かるのだろうなと、鑑賞者をして敢えて予見させ易いように演出されたのは、ほぼ明白だろう。しかし、『竜とそばかすの姫』の鑑賞者は皆、ここで描かれた「U」に象徴されるネット社会像が必ずしも理想郷としてだけでなく、むしろここに巣食う、匿名性を悪用する誹謗中傷や集団リンチや個人情報特定に血眼な集団心理の陰湿さまでもを寓話的に描き出している、こうした極めて実際のネット社会に近い再現が成されていたと、ほぼ同意するだろう。ましてや『サマーウォーズ』からの踏襲をまんまと予見させられていた私宮尾などに至っては、まずその大きな違いに、ありゃりゃ!?と意表を突かれた感触があったのも確かなのだが、これでも尚、その「踏襲」への思い込みが完全に解かれなかったが故に、少なくとも私宮尾に於いては、既述したとおり、「U」が50億人規模のアカウント登録者数を誇りながらも、「竜」の様なならず者に対する柔軟で多様な運営対応ができていない風に描かれてしまった部分は、『サマーウォーズ』と同様に、実際のネット社会に対する理想郷的な側面にだけスポットを当てた様な中途半端な寓話化が再び成され、ディテールへの考証の不備が露見した結果だろうだとか、これが『竜とそばかすの姫』の構造的な破綻の原因となっているのでは?という疑念を、愚かにも抱かざるを得なかったという訳だ。
 従って、私宮尾は改めて件の「二つ目の論点」を念頭し直す必要があった。
 そこで次に理解が啓けた点とは、細田守監督は『竜とそばかすの姫』を制作するにあたっては、ネット社会を理想郷として描く気なんぞ端からさらさら無かったという事実についてだ。
 それを「事実」と看做せる証拠こそが、既に上にも引用済みの細田守監督のインタビューである。そこで細田守監督は、ネット社会と現実社会のそれぞれの人間関係に共通する複雑さ、困難、苦痛、恐怖の可能性と、この反面としての前向きな可能性とを、個々の人間の内に混在する善と悪との緊張によって構成させた上で全て描き切り、更に劇中に於いてはその完璧な答えの提示など決して不可能な、「より良く使う事」について鑑賞者が独自に学びたいと思えるような契機として『竜とそばかすの姫』を世に問うたと、まぁこれはあくまで私宮尾独自の解釈に過ぎないが、これに近い事を述べている。そこからは少なくとも細田守監督がもはやネット社会を只の理想郷としてだけ描く事に何ら意味を見出していない思想性の片鱗が痛烈に伝わってくる。
 更に推測を深めれば、そこには当然、あの京アニ放火大量殺害事件に対する細田守監督独自のアンサー、自負、使命感も含まれているだろう。
 しかし同時に、人間やネット社会の前向きな可能性も示し続ける。
 要は、『竜とそばかすの姫』に於ける細田守監督は、かつて『サマーウォーズ』の頃とはうって変わって、ネット社会を構成するユーザーを性善説的に描く事を徹底して拒絶しているという事だ。

 従って『竜とそばかすの姫』は、『美女と野獣』をモチーフとして採用する事によって、例えば、能力至上的か或いは権威崇拝的かいずれかに突出してやや屈折したともとれる天才女子高生ヒロちゃんの老数学教師への恋慕や、又、嫉妬への警戒が決して払拭し切れない時点から始まった友人ルカちゃんとの友情や、又、内藤鈴のトラウマに於ける母親への愛憎が入り組んだ矛盾の構造や、又、好奇と嫉妬とが混在する「U」の群集心理や、又、自滅願望を最大の目的とする手段としての恋愛感情というエロスとタナトスが同居する矛盾構造や、又、この裏を返せば自己愛と自己犠牲と利他的愛とが混在するより普遍的な矛盾構造や、又、内藤鈴の猪突猛進を後押しする父親のメール文、「鈴。君は、母さんに育てられて、人の気持ちが分る優しい子になった。その人に、優しくしてあげなさい」は、果たして彼女の「優しさ」が母親の自己犠牲を踏襲する自滅願望に根ざしている事までもを理解した上で、たとえ利他的な死を選んででも己が運命の苦境からの解放に突き進め!といった、愛娘に対する残酷なまでの応援ではなかったかと想像させて止まない、この矛盾・緊張の構造や、又、「U」に象徴されるネット社会に於ける群衆の前向きな可能性はあくまで内藤鈴、只独りの内にあるBelle(ベル)というこれまた前向きな可能性を引き出す役割「だけ」に終始した訳であって、同時に、「U」に於ける群衆の後ろ向きな可能性はどこまでも陰湿な嫉妬、誹謗中傷、個人情報特定の曝し上げ、集団リンチ沙汰等を如実に招き続けたのであって、この厳然たる「U」の闇の側面は決して、「竜」の正体たる恵くんからの信頼を獲得し、彼を家庭内暴力から救出する事と、これによって初めて達成され得る、内藤鈴の真の意味でのトラウマからの解放といった物語の最も大きな本筋の結末を到達させる上では、何ら一切寄与するところは、少なくとも映画本編では描かれなかったといった風な、ネット社会の光と闇が混在して描かれた矛盾・緊張の構造、・・・等、これら総じて細田守監督が件のインタビューで言及したところの「緊張(或いは矛盾)」の構造を、あらゆる階層の次元の隅々まで一貫させ、従って、必然性に溢れんばかりの完成度を見事に達成させている。
 尚、 第一のクライマックスのベル復活コンサートは、恵くんたった一人に向けられ、彼の信頼を獲得する為の手段に過ぎなかった。つまり、復活コンサートにむらがる大勢のAs達は、その時「ベル」が既に「竜」の正体を知った上で、彼の救出の為に駆けつけるべき所在地を、恵くんからの信頼を獲得した上で彼から伝えてもらう手段として、彼女の正体を曝け出してまで歌っているという真意を、廃校した公民館に集まっていたヒロちゃん、忍くん、ルカちゃん、カミシン、聖歌隊の面々、以外は誰一人として知り得ていなかった。
 又、内藤鈴が家庭内暴力の証拠映像を送り付けた相手は、恵くんの父親、只一人だった。つまり内藤鈴は、徹頭徹尾、恵くんの救出に掛ける自己犠牲をもってする自滅願望の成就による自己のかつてから背負わされてきたトラウマからの解放が、結局のところ極めて私事(わたくしごと)に過ぎないと直感できていた上で、この問題解決に於いて父親と身近な友人や知人以外の一切の公けの助けや後ろ盾を借りたり巻き込んだりする事を拒絶した。それは内藤鈴が現実とネットの両方の人間社会に渡る光と闇の混沌を見極めた上で、恵くんを救出する至上命題の為には、その闇の一切を拒絶し、距離をはっきりと保つべきだと自らを律し、彼女なりにけじめを貫く固い信念の現れだった。更には、そういった内藤鈴に於ける自滅願望に掛けられた固い意志という、一見矛盾するもこれまた人間の崇高な精神性の形の一つだと、映画のテーマ性として昇華し仕立て上げ抜いた細田守監督の、社会的な禁忌に怯まない孤高の勇気と洞察力に、私宮尾は只々脱帽するしかない。


※※※以下、『竜とそばかすの姫』の感想(※ネタバレ.ver) 精神的弱者に引導を渡す「解放の物語」 【後編】に続く※※※

 

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細田守監督へのインタビュー記事
Hosoda: 'Japanese anime has problem with women and girls'
 
※※※インタビュー抜粋※※※
 The dystopian tropes about the net that run through so many movies, including Spielberg's "Ready Player One", are not doing anyone any favours, particularly women, Hosoda told AFP at the Cannes film festival, where his latest feature "Belle" is premiering. Father of a young girl himself, the Japanese master wants to empower her generation to take control of their digital destinies rather than cower in fear.
 "They have grown up with the net... yet are constantly told how malevolent and dangerous it is," he said.
 Rather than being burned by online abuse and harassment as she acquires billions of followers, Suzu uses her online avatar to overcome the haters and her own hang-ups.
 "Human relations can be complex and extremely painful for young people. I wanted to show that this virtual world, which can be hard and horrible, can also be positive," said Hosoda.
 Suzu and her computer geek friend are far from the women that usually populate Japanese anime -- which is where Hosoda takes issue with Miyazaki, the Oscar-winning legend behind classics such as "Spirited Away".
 "You only have to watch Japanese animation to see how young women are underestimated and not taken seriously in Japanese society," he said. "It really annoys me to see how young women are often seen in Japanese animation -- treated as sacred -- which has nothing to do with the reality of who they are," Hosoda said, with evident frustration. "I will not name him, but there is a great master of animation who always takes a young woman as his heroine. And to be frank I think he does it because he does not have confidence in himself as a man. "This veneration of young women really disturbs me and I do not want to be part of it," he insisted.
 He wants to free his heroines from being paragons of virtue and innocence and "this oppression of having to be like everyone else."
 The director prefers stories that "show the good and the bad in people. This tension is what being human is all about."
Which is why he was also drawn to bringing "Beauty and the Beast" up to date. "In the original story the Beast is the most interesting character. He is ugly and has this violence but he is sensitive and vulnerable inside too. "Beauty is just a cipher. It is all about her looks. I wanted to make her as complex and rich."
 "I keep returning to the internet. First with 'Digimon' and then with 'Summer Wars' in 2009 and now again." And he is more convinced than ever that we cannot keep dismissing it as the source of all evil. "Young people can never separate themselves from it. They grew up with it. We have to accept it and learn to use it better."

 スピルバーグの「レディ・プレイヤー1」を含む非常に多くの映画を駆け巡るネットについてのディストピアの比喩は、特に女性に何の恩恵も与えていない、と細田はカンヌ映画祭でAFPに語った。少女自身の父親である日本のマスターは、恐れを抱くのではなく、世代がデジタルの運命をコントロールできるようにしたいと考えています。
 「彼らはネットで成長しました...それでも、それがどれほど悪意があり危険であるかを常に言われています」と彼は言いました。
 数十億人のフォロワーを獲得する際にオンラインでの虐待や嫌がらせに悩まされるのではなく、鈴はオンラインアバターを使用して嫌がらせや自分のハングアップを克服します。
 「人間関係は複雑で、若者にとって非常に苦痛なものになる可能性があります。困難で恐ろしいこの仮想世界も前向きになる可能性があることを示したかったのです」と細田氏は語った。
 鈴と彼女のコンピューターオタクの友人は、日本のアニメに通常登場する女性とはかけ離れています。細田守は、「千と千尋の神隠し」などの古典の背後にあるオスカー受賞の伝説である宮崎に問題を抱えています。
 「日本のアニメを見るだけで、若い女性が日本社会で過小評価され、真剣に受け止められていないことがわかります」と彼は言いました。「神聖なものとして扱われる日本のアニメで若い女性がどのように見られるかを見るのは本当にイライラします。それは彼らが誰であるかという現実とは何の関係もありません」と細田は明らかに不満を持って言った。「彼の名前は挙げませんが、常に若い女性をヒロインとする素晴らしいアニメーションの達人がいます。率直に言って、彼は男性としての自信がないのでそうしていると思います。「この若い女性への崇拝は私を本当に邪魔し、私はその一部になりたくない」と彼は主張した。
 彼は自分のヒロインを美徳と無実のパラゴン、そして「他のみんなのようにならなければならないというこの抑圧」から解放したいと思っています。
 監督は「人の善と悪を示す。この緊張が人間であることがすべてである」という物語を好む。そのため、彼は「美女と野獣」を最新のものにすることに惹かれました。「元の話では、ビーストは最も興味深いキャラクターです。彼は醜く、この暴力を持っていますが、彼は敏感で、内部も脆弱です。「美しさは単なる暗号です。それはすべて彼女の外見に関するものです。私は彼女を複雑で豊かなものにしたかったのです。」
 「私はインターネットに戻り続けています。最初は「デジモン」で、次に2009年に「サマーウォーズ」で、そして今またまた。」そして彼は、私たちがそれをすべての悪の源として却下し続けることはできないとこれまで以上に確信しています。「若者は決してそれから離れることはできません。彼らはそれと共に成長しました。私たちはそれを受け入れ、それをよりよく使うことを学ばなければなりません。」
(※日本語文章はグーグル翻訳に依った)
※※※インタビュー抜粋、終わり※※※