『未来のミライ』感想 及び私鏑戯独自の“優生思想批判” | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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▼『未来のミライ』で物語られる断章の全ては、くんちゃんの“悪夢”
 『未来のミライ』を初鑑賞。
 全編通して物語られたのは、主人公の「くんちゃん」視点の“悪夢”。
 
【子供にこんな寂しい思いをさせるな、冒険させるな】が『未来のミライ』のテーマの主軸だと、私宮尾は解釈した。
 ペット犬ゆっこの人間化、未来の未来ちゃんとの邂逅、ひいじいじやお母さんの過去のくだりは、くんちゃんの子供染みた視点、感覚から必死に他者(家族)の視点、立場に想像力を馳せた、彼のやや無茶な順応と努力の証としての“悪夢”であると、私宮尾は見受けた。
 何故“悪夢”か。
 例えば、くんちゃんが人間化したペット犬のゆっこから奪ったしっぽを、嬉々として自らの尻の穴にぶっさし、まるで往年の日本アニメの魔法少女が変身する際に変身願望が叶って自意識のエクスタシーに身を震わせるが如く、或いは極めてフロイト的な深層心理への解釈を意識したかのような演出でもって快楽への目覚めを爆発させられた直後に、室内の父母の元まで駆け走り、「くんちゃん、ゆっこだよ!ワンワン!!!」と鳴き叫ぶ一連のシーンとは、これは既に、フィルム冒頭でお母さんの退院からの帰宅を迎える直前のくんちゃんがおばあちゃんの目の前で犬の物真似をしてみせるシーンが布石ともなっているところの、くんちゃんにとって自らをろくに省みてくれなくなった両親に対して寂しさを伝え、更には再び自らに対する両親の関心を引き戻す為なら、「未来ちゃんやゆっこは可愛いの、でも、くんちゃんは可愛くないの」と後のシーンで未来の未来ちゃんに寂しさの深奥を覗かせた事でも明白なとおり、くんちゃんが卑下する自らの身体を捨てて、いっその事ペット犬のゆっこに生まれ変わりたいと、こうした寂しさから歪んだ変身願望を募らせざるを得なかった彼の悲劇的な心象をファンタジックに描いている。従って、“悪夢”なのだ。

 又、未来の未来ちゃんとの邂逅の際にくんちゃんが「ハチゲーム」を「もっとやってぇ」と懇願するシーンに関しても、それと同様の解釈が可能だ。

 尚、それらのシーンに限っては、細田守監督の性癖と目される“ショタ(少年愛的嗜好)”“ケモナー(獣姦的嗜好)”的な表象は、子供を寂しがらせる事によってこの感性を歪ませた結果という位置付けで採用されている。つまり、細田守監督は当然そういった自身の性癖を公然とフィルムの上で認めながらも、同時にどこまでも恥じるべき罪や歪んだ感性の発露とか代償として、自覚的に表現しているのは明白で、従ってそれらは決して無責任で露出狂的な開き直り、或いは何の脈絡も無く只衝動的なだけの演出などではなく、どこまでもくんちゃんの寂しさ、歪んだ感性、“悪夢”に対する必然的な演出の一環に他ならない。
 親が子供に対して、自分が可愛くないから相手してくれないんだ、などと誤解を与え、寂しい気持ちにさせるのは大きな罪だし、これには相応の報いとして、その後の子供の感性の歪み、情操への支障が大きくきたされかねませんよといった風な、監督自身の自虐も兼ねた訴えを、私宮尾は直感するしかなかった。そしてそれらの、人間化したゆっこや未来の未来ちゃんとの邂逅のエピソードによって、更に後に続く、くんちゃんの妄想の数々も全ては彼の寂しさに起因した“悪夢”なのだと、物語全体の方向性が前もって暗示されている。
つまり、『未来のミライ』に於いては、決して子供の成長の逞しさ「だけ」を期待したり美化したりしない。むしろそこでは、育てる大人側の未熟さにも妥協の余地が見出されるべきなのと同様に、子供の側にも決して独りでに成長する逞しさ「だけ」が備わっている訳ではないと、よりつぶさに見守ってやれるだけの、深い洞察の眼差しが奨励されている。

 

▼『未来のミライ』に於けるテーマ性と演出思想との必然性

 くんちゃんの子供染みた、必死の想像力がもたらした悪夢の断片たちは、極上級に美しく丁寧な日本アニメ表現で貫かれながらも、思想構造的な情報量(階層)が禁欲的に抑制され、これが98分の鑑賞時間をややもすれば冗長とも体感させるが、これぞ細田監督に於ける、スマホSNS時代を生きる鑑賞者に特有な、渇望というか、風を巧みに読み解く、この対応力に支えられた唯一無二の演出の産物だと、私宮尾はむしろ好感を持てた。
 それをより詳述し直せばこうである。つまり、SNS的で断片的な情報、薄っぺらく含みの無いデジタルな短文のやり取りが主流の意思疎通がめまぐるしい、言わば「鶏は3歩歩けば何とやら」的で脆弱な感性というか日常感覚を、極当たり前に共有している現代の大方の子育て世代に向けて、片や、子供の立場に特有でトラウマ的な、どんな理不尽な境遇に対しても「良い子になろう」と無理に頑張ってしまう結果、寂しさも一身に背負い込んでしまうといった、誰もが経験しながら忘れ去りがちの厳然たる事情を、今一度省みて欲しいと訴える風な『未来のミライ』のテーマ性の主軸と、はたまた、子供視点で情報量の極めて薄い夢と現実とが敢えて平坦に、断章の繋ぎ合わせが露骨な形で物語られる構成上の手法とが、演出思想的な繋がりを成していた。
 要するに、『未来のミライ』のテーマと語り口とは共に、現代のネットやスマホ世代の未成熟な大人が不甲斐無い分だけ、割を食わされる子供の不憫さを活写せんとする思想的な立場で一貫しているという事である。

▼『未来のミライ』は『となりのトトロ』へのアンチテーゼも意図されている?
 そこから更に類推すべきは、『未来のミライ』はこのテーマ性の主軸に於いて、『となりのトトロ』に対するアンチテーゼが意図されているという点だ。
 それについては、以下の様なインタビューから細田守監督独自の思想性を参照する事によって、充分に関連性を窺い知ることができる。尚、宮崎駿の思想性を批判する文脈では大概にして、「若い女性」「子供」とを置き換える事に大した問題は無いと、私宮尾は考える(笑)。


【Hosoda: 'Japanese anime has problem with women and girls'】
↓↓↓インタビュー引用部↓↓↓
"I will not name him, but there is a great master of animation who always takes a young woman as his heroine. And to be frank I think he does it because he does not have confidence in himself as a man.
"This veneration of young women really disturbs me and I do not want to be part of it," he insisted.
He wants to free his heroines from being paragons of virtue and innocence and "this oppression of having to be like everyone else."
「彼の名前は挙げませんが、常に若い女性をヒロインとする素晴らしいアニメーションの達人がいます。率直に言って、彼は男性としての自信がないのでそうしていると思います。
「この若い女性への崇拝は私を本当に邪魔し、私はその一部になりたくない」と彼は主張した。
彼は自分のヒロインを美徳と無実のパラゴン、そして「他のみんなのようにならなければならないというこの抑圧」から解放したいと思っています。

(※日本語文はグーグル翻訳に依る)
↑↑↑インタビュー引用部↑↑↑

▼『となりのトトロ』との決定的な違いは、成長する逞しさを無条件に礼賛する価値観への是非
 言わずと知れた宮崎駿の大傑作『となりのトトロ』でも、例えば毎朝早起きして母親代わりに家族の昼食の弁当作り等を日課としながら、いざ母親の病態が悪化した報を受けると、それまで頑なに繕ってきた快活で頼もしい表情に隠されてきた寂しさが堰を切っておばあちゃんに泣きついてしまったさつきが描写されてはいるものの、これはどこまでも子供が様々な障害を乗り越えて成長する様を至上の美徳と位置付けた上で応援する宮崎駿特有の価値観に沿った、これはこれで素晴らしいテーマ性の一環に他ならない。

 それに対して、『未来のミライ』は、子供が障害を乗り越えて成長する逞しさを無条件に礼賛する思想性は、必ずしも現実に寄り添う普遍的な価値観として歓迎されるとは限らず、ややもすればむしろ子育てに不甲斐無い馬鹿な大人に自己正当化の余地を提供する害悪にも繋がりかねない不完全なもの、つまりは批判対象と看做し、従って主人公くんちゃんに強いられる悪夢との葛藤や挫折の繰り返しが、半ば嗜虐的な調子で物語られ、果ては、未だ幼児に他ならないくんちゃんと未来ちゃんはもとより、彼らの両親たるお父さん、お母さんまでもが究極のところでまともな大人というか「子の親」に成長し切らない、というよりこの限界を自覚し半ば放棄しているとも見て取れるような「現実活写」で終幕を迎える、こういった作りになっている。
 つまり、『となりのトトロ』が子供の精神的な成長譚に伴う種のカタルシスによって物語り全体の抑揚のメリハリを極めて直感し易い形で担保されているのに対し、『未来のミライ』は、どこまでも成長の限界や挫折を抱擁する種の、この真逆の性質のカタルシスによって、物語の微細に分散した起伏を極めて直感し難い形で下支えされている。

▼『未来のミライ』は全ての未成熟な「大人」に向けられた映画
 実際、『未来のミライ』には随所に『となりのトトロ』へのオマージュがあって(※例えば、くんちゃんが在宅勤務でPC作業中の父親から関心を惹く為に、テーブルにビスケットをいじらしく並べるシーン等)、しかしこのあまりに露骨なオマージュの意図が『となりのトトロ』然とした物語の形式(テンプレート)の追随への予見を敢えて鑑賞者をして誤誘導させたところからの、全くの別物を提供して意表を突く、こういった演出上の思惑にある事は、まず明白であろうし、果たしてこの後の、例えばまず再生時間13分辺り、くんちゃんが未来ちゃんのほっぺ耳びよーん鼻つんつんして泣かせた事で「産まれたばかりなのに信じられない」と鬼婆から叱られて自らも泣き、これに応じて犬も吠え、お父さんは青ざめながら未来ちゃんをあやすといったドタバタシーンから喚起される種の笑いとは、この感触が調度、私宮尾が小学生の頃初めて『となりのトトロ』をVHS鑑賞した時に、バス停で父を待つさつきとめいの隣でトトロが傘に落ちる雨音に大興奮するシーンで、かつて死ぬほど大爆笑させられた記憶と類似しながらも、その『未来のミライ』のドタバタシーンに於ける子供が観て笑いに繋がる要素は、ドタバタを構成する家族の面々の表情UPのカットをすばやく切り替えるリズム感くらいなもので、この他のドタバタ構成要素は全て子育て経験のある大人の慌てっぷりを再現し、客観視させ、感情移入させるものばかりであり、つまりこれは子供から笑いを取る為ではなく、かつて『となりのトトロ』を観て育った、決して未だ大人に成り切れていない「大人」の笑いを取る事が意図されたシーンとなっている。そこで私宮尾は『未来のミライ』が、『となりのトトロ』のオマージュ路線を偽装しながら、その実、子供よりも「大人」向けのテーマ性を主軸とする作品だと、この意表を突く種明かしを喰らったかの様な感触を伴いつつ理解し始めた。
 他にも、初めて人間化したゆっこがくんちゃんに「それは嫉妬です」と難しい言葉で語り掛けたり、未来のミライと邂逅編⇒過去の母、ひいじいじ編⇒一人ぼっちの国行き列車編・・・という流れ、構成が、物語全体の起伏を寸断させてる等、どれも子供の生理的な直感を幾分度外視してでも、子育て経験のある大人層を主な鑑賞者として意識し、訴える演出がなされている。
 とりわけ、未来の東京駅の落し物窓口で父と母の名前を答えられないくんちゃんが気まずくなるシーンは、子供よりは子育て世代の大人の立場にこそ痛烈に響くとしか考えられない。どたんばで両親の名前を答えられない罪悪感に苛まれるという窮地に子供心を追いやってしまう大人の罪は大きいのだから。
 又、再生28分辺り、仕事に忙しく構ってくれないお父さんへの腹いせで、お昼寝中の未来ちゃんの顔にビスケットを乗っけて溜飲下げたくんちゃんが中庭の階段を下りる途中、唐突に鳴り響く南国風の野鳥の鳴き声が、赤ちゃんが誤嚥で苦しみ泣く声を模しているかの様に聴こえ、私宮尾はトラウマ級にゾッとした。他にも、くんちゃんが玩具の列車で未来ちゃんの頭を叩こうとする冷や汗必至のシーンや、物語最後で、玄関の外からくんちゃんと、未だ歩けもしない未来ちゃんを呼び出すお母さんの無茶っぷりの違和感等、どの演出も子供が直感的に楽しめはしないものの、子育て経験者には痛烈な臨場感を伴って響く演出の産物が目白押しだ。

▼『未来のミライ』は子の親としての細田監督自身の至らなさも曝け出す誠実な映画
 以上の私宮尾の『未来のミライ』への感触も又、巷に聴こえる“細田監督の親馬鹿ホームムービー”の範疇に留まるのかも知れない。だが少なくとも私宮尾はその前評判から受けていた鑑賞前までのてきとーな先入観が、本稿冒頭から述べてきた様な強烈なテーマ性と表現レベルによって見事に覆された感が、今、半端ない。
 その強烈なテーマ性とは、細田守監督自らに対する“子供に寂しい思いをさせるな、無理な冒険をさせるな、親の不甲斐無さを軽はずみに正当化するな、そもそも子供に対しても、子育て親世代に対しても、成長の逞しさだけを無条件に讃えるな”といった自戒、子を育てる親としての謙虚さ、過剰なまでの自信の無さ、恐怖、責任感、これらに誠実でありたいとする彼自身の願望だ。
 従って、私宮尾の『未来のミライ』初鑑賞の感想の結論は、“こんな切実で誠実を極めた親馬鹿ホームムービーなら全然あり、むしろ大好き”である。

 おまけに『未来のミライ』は『おおかみこどもの雨と雪』のテーマ性が更に謙虚さを増して発展したかの様な感触もあって、尚更大好きだ。具体的に再生28分辺り、「うまくいかなくて当然だよ、くんちゃんの時は何もしなかったんだし。そのくせ私の顔色ばかりうかがって」である。『おおかみこどもの雨と雪』ではお父さんの子育てはほとんど描かれず、女手一つの子育てがエンターテイメントとして前面に押し出された。勿論それはそれで他に代え難い完成された魅力な事も確かなのだが、『未来のミライ』では、登場人物のお父さん一人に投影される以上の、作品全体の構造的なレベルで、おそらく細田監督自身の子育てに対する苦悩や自戒を昇華しようという使命感があって、ややもすればこれによって、かつて子育未経験の時点での企画だった『おおかみこども』へのけじめを図った部分もあったんじゃなかろうか?

▼『未来のミライ』に於ける細田守監督の作家性
 私宮尾は特段、細田守監督のファンという訳でもないし、彼のプライベートが覗き見える事自体に『未来のミライ』の魅力を見出してる訳でもない。只、親馬鹿とあしらわれるのも承知の上で、自ら映画として表現するに値すると信じて疑わない世界観や思想性を、国民規模の公けから期待され、これを想定する興行の中心的な立場で、図太く堂々と表現してのけた作家根性にこそ感動したのだ。
 未来の東京駅で「銀の鈴の下でお母さんが・・・猫の鈴の下でお父さんがお待ちです」の優しくも強烈に印象に残る画面設計演出も大好き。
 又、最も記憶に残ってるのは「乗車、出来ます・・・」と独りぼっちの国行き新幹線から逃げ出そうと必死なくんちゃんのシーン。それは、くんちゃん本人は深刻なのに、彼に付けられたアニメ表現の動きがコミカルさを狙っているものだから、不謹慎な類の笑いがどうしても堪えられない、つまりメタ的に残酷な仕上がりとなっている、演出思想が極めて深いシーン。それは例えば『この世界のさらにいくつもの片隅に』に於いて、原爆投下後に広島の実家に通える理由ができた状況にほっとしてしまっている己を「歪んどる」と自覚するすずさんが描かれていたように、『未来のミライ』でも、不甲斐無い親を律するテーマ性を物語の主軸としながらも、子供の深刻な苦悩をこの可愛さ故に茶化して表現してしまう「歪んだ」視点が、敢えて意図的に演出されてるシーンとしても説明可能な訳で、こういった人間の情念による矛盾を作品のテーマ性の下で従わせ、多角的に再現し、抱擁、救済の契機を提供できる作家的な才能の例として『未来のミライ』も充分に位置付けられると思う。
 『未来のミライ』は、おそらく大人と子供が一緒に観て楽しめる作品ではないし、ましてや『となりのトトロ』と同列の子守の道具に位置付け子供に鑑賞させる親は一種のサイコパスってくらいの、あくまで「大人」向けアニメだと思う。その観る者を選ぶ感が強烈な所も私宮尾にとっての重大な大好きポイント。細田守監督は、いわゆる“国民的劇場版アニメ”の興行市場に於いて期待されているであろう、宮崎駿が敷いた既存の要請に対し、安直に乗っかるどころか、むしろアンチテーゼを含む独自の思想性の構築路線を打ち出しながら、文化的な新境地の開拓に極めて挑戦的であり続けられる、日本アニメ業界全体の中でも数少ない才能の一人である事に間違いないと、私宮尾は考える。細田守監督はあらゆる意味で妥協、迎合から遠い、ストイックな、故に期待し甲斐のある部類の天才だ。
 やっぱ細田守監督、凄いなぁ。
 『竜とそばかすの姫』上映中かぁ。観に行くべかぁ・・・。
 只、『サマーウォーズ』『バケモノの子』みたいな予定調和の勢いが目立ち過ぎるのは、好きになれないんだけどなぁ。
 迷うなぁ。

 

※本稿を執筆した後日に鑑賞した『竜とそばかすの姫』の感想は以下↓↓↓。私鏑戯は、細田守監督作品中で『竜とそばかすの姫』が最も大好き!!!

 

 
 

※私鏑戯独自の“優生思想批判”(2023年11月20日)

 

▼執筆の動機について

 まず念を押すが、宮崎駿独自の思想性たる“生きねば”や、細田守独自の思想性たる自滅欲動の解放は、本稿に於ける主な批判対象たる“優生思想”を真正面から拒絶する。何故なら、宮崎駿も細田守も人それぞれの能動的な意思を尊重する思想で一致する一方で、“優生思想”は人それぞれの能動的な意思を切り捨て、蹂躙するからだ。又、『響け!ユーフォニアム』シリーズに貫徹される“才能の残酷さ”といったテーマ性も、決して“優生思想”に与するものであろう筈も無く、飽くまで青春の過渡期で思い巡らされる運命への挫折や、自己嫌悪や、努力の達成感や、他者への嫉妬や慮りや賞賛、これら全てをひっくるめた青い心象のダイナミズムの再現である。従って、この様に偉大な思想性や作品群は、決して本稿に於ける批判対象である筈もなく、むしろ大絶賛の対象に他ならない。

 さて、『未来のミライ』を大絶賛する本題の後に、私鏑戯独自の“優生思想批判”を以下に述べる。

 何故なら、まず本稿の『未来のミライ』への感想に於いて私鏑戯は、細田守の宮崎駿に対する思想的なアンチテーゼが含まれると言及しており、更にそんな両者それぞれの洞察力やこの昇華クオリティが半ば比肩するとも捉えられる、この師弟間の思想対決の臨場感こそを主たるニュアンスとして込めたつもりだったが、仮にこれが読者をしてうまく伝わらないばかりか、ともすれば私鏑戯が宮崎駿と細田守の両者の作品に対して同時に大絶賛を惜しまない事や、或いはこれに加えて京アニ版『響け!ユーフォニアム』アニメシリーズに於いて首尾一貫するテーマ性たる“才能の残酷さ”の昇華クオリティをも同時に大絶賛する事等に対して、私鏑戯の鑑賞者としての思想的な矛盾が、当ブログの読者によって誤読されかねないといった懸念を、私鏑戯自身が禅問答的に抱いたからだ。

 果たして、本稿を執筆する動機は、私鏑戯が細田守作品のみならず宮崎駿作品や『響け!ユーフォニアム』等を大絶賛する事と同時に、又一方ではいわゆる“優生思想”を批判する、この様な姿勢に全く矛盾が無い事実を証明するところにあり、この要点は以下となる。

●一つに、そもそも私鏑戯は、作品それぞれの思想性に対しては、これが実際の人間や社会の一側面を本質的に反映する洞察の昇華として受け入れられ、又、たとえこの思想性同士が真逆の方向性を示そうとも、実際の現実とはその様な食い違いも併せ含んだ混沌の全体像として捉えざるを得ないという認識があり、従って、私鏑戯の鑑賞者としての思想性には何ら矛盾が無いという、この事実を証明する為。

●一つに、人間の強さと弱さとの間の優劣は、否定しようも無い客観的な事実なのであって、この内の強さに焦点を当て、いわゆる“生きねば”、つまりは人間の自律的な尊厳を表現したのが宮崎駿で、或いは“才能の残酷さ”、つまりは競争当事者の嫉妬と賞賛とが同居する心象、この青春のダイナミズムを表現したのが京アニ版『ユーフォ』で、逆に弱さに焦点を当て、いわゆる弱者救済を自滅欲動の解放で表現したのが細田守という事であって、これらそれぞれ独自の思想性、洞察を昇華した結果としての作品そのものを大絶賛する私鏑戯には、何ら、鑑賞者としての思想的な矛盾が無いという、この事実を証明する為。

●一つに、私鏑戯は、人間の強さと弱さとの間に於ける優劣という、この厳然たる実際を直視した上で、この不条理を人間自身の意思や文明力によって“可能な限り補うべき”とする、この様な独自の現実主義に立脚した上での理想主義を念頭しているという、この事実を証明する為(※脚注01)

●一つに、私鏑戯独自の“優生思想批判”とは、強者を強者たらしめる為だけの詐欺的な理想主義(リベラリズム)に対する批判を意味するという、この事実を証明する為。

 

※脚注01:

 ここで述べた“可能な限り補うべき”とは次を意味する。

 いわゆる社会的な弱者に対する社会福祉的な理念や政策や民間の取り組み、或いはノブレスオブリージュの精神等といったものは、決して無際限、無制限、無条件なものではない。何故なら、そもそも人間社会に於ける人的、物的、精神的、これら全ての分野の資源、リソースが有限だからだ。

 又、そういったあくまで有限の社会福祉の範疇と、もう一方で治安維持や法治主義の範疇とを、決して混同してはならない。つまり、たとえ犯罪責任能力を問えるか否かが曖昧なレベルの精神的な弱者が仮に重大犯罪、大量殺人を犯した場合には、極論すれば、たとえ遺族感情による報復律を措いたとしても、法治主義によって治安維持を目指す司法の統治理念、この法体系の大前提を一定に尊重する観点から、公共の防衛、精神疾患者による重大犯行への抑止、いわゆる“見せしめ”効果の判例を備える為に、件の犯罪者を死刑に処すべきとする、こういった私鏑戯の持論は決して揺るがない。要は、精神的な弱者への社会福祉や人権尊重の理念は、治安維持や法治主義という前提に対して、決して無条件に優先される訳ではないという事だ。或いは、精神的弱者を無条件に特別扱いする、このいわゆる“逆差別”は、決して私鏑戯が考える“公正・公平”ではないという極当然の話だ。

 尚、いわゆる“努力”を頭ごなしに全否定し、これが社会的な弱者が福祉を求める正当性の根拠であるかの様に捉えるばかりか、あろう事か、他方では日常生活の様々な局面で“努力”して頑張って生きている社会全般の多くの人々の尊厳まで否定し、足を引っ張る様な、こういったいわゆる自称“弱者”による嫉妬の暴発は、社会福祉の理念を実現する上では弊害でしかない。“努力”する能力すら持たない“弱者”は、たとえ福祉を受ける権利があったとしても、“努力”する能力を持つ人々の尊厳を傷つける権利までは、決して持ち得ないという事だ。

 以上の観点も加味した上で、初めて真の“公正・公平”が担保されると、私鏑戯は考える。

 

▼人間の個体間に於ける心身の強弱や能力の優劣という厳然たる実際について

 まずは現実の話。

 人間には、強い部類と弱い部類の両方が存在する。

 尚、この客観的な事実を直視する事と、弱肉強食の競争原理や優生思想を正当化する様なイデオロギーに与する事とは、全く違う。何故なら、この違いとは、分子生物学(遺伝学)的な知見の相関性を一定に受け入れる事と、政治経済的、或いは宗教的な断定を絶対視する狂信の部類に対して無批判であってしまう事との間に於ける、大きな違いと同義だからだ。いわゆる、客観か主観かの違いだ。尚、念のため強調するが、本稿の主旨は飽くまで“優生思想批判”であって、つまりは分子生物学的な背景に裏付けられた現実を直視するという客観を踏まえるが、しかし決して、優生思想の狂信という主観には与しないという事であり、従って、ここに論理的な矛盾は無い。

 繰り返す。人間には、強い奴と弱い奴がいる。これは現実の話であって、私鏑戯の主観とか願望とか偏見とか主張の類ではなく、客観的な事実の話だ。

 又、その強さと弱さとは、心(精神)と体(腕力や健康)の面で大別できる。つまり、人間は、心が強い奴と弱い奴、そして体が強い奴と弱い奴、これらの傾向や度合いが様々に組み合わさった個体差が生じる。

 又、この心と体の強弱の原因は、先天性(遺伝性)と後天性(養育環境、人間関係、社会性)とで大別できる。つまり、先天性による心と体の強弱の違いはどうにもならないが、後天性による心と体の強弱の違いは、当人自身の努力や勇気や抵抗次第で、ある程度はなんとかなる。

 又、心と体の強弱は、人間の能力の発達の優劣に影響する。つまり、一般論として、心と体の両方が強い者が、心か体かのいずれかが弱い者よりも有利であり、又、心か体かのいずれかが弱い者が、心と体の両方が弱い者よりも有利であり、又、心と体の両方が強い者が、心と体の両方が弱い者よりも圧倒的に有利である。何故なら、心と体、それぞれの強さが、人間の能力を発達させる上で重要な脳の集中力を支えるからであり、逆に、心と体、それぞれの弱さは、人間の能力を発達させる上で重要な脳の集中力を阻害するからだ。

 ただし、そもそも人間の能力を測る尺度は極めて多様であり、又、国柄や時代の違いによっても多様に移ろい続けるので、こういった社会的な要請に適応できるか否かは、心と体の強弱の違いによるばかりでなく、確率論的な“運”による部分も無い訳では無い。が、いずれにしても、基本的に心と体の強弱が、人間の能力の発達や社会的要請への適応に有利に働く事実に変わりは無い。又そもそも、人間の心と体の強弱を決する原因に“先天性(遺伝性)”が含まれている時点で、少なからず、人間の能力の優劣には“運”次第の側面が含まれていると言える。

 尚、人間の心と体の強弱は、当然ながら道徳感覚の発達の優劣にも影響する。これは、道徳観念を思考させる脳機能の発達も又、人間の心と体の強弱によって支えられるからだ。しかし、そもそも人間の心身の強弱を厳密に評価できる尺度なるものは何処にも存在せず、従って、例えば経済合理性の尺度だけで、さも人間の能力全般を測れるかの様に振舞う労働人材市場では、必ずしも人材の優劣を厳密に判別し切れているとは言えない。あまつさえ、そもそもの経済合理性の尺度の内実が、企業の村社会的な不正隠蔽体質にも従順たれる意思の凡庸さに大きく比重する場合、果たして人間の優劣の評価基準は根底から覆り、もはや道徳感覚なんぞは無駄でしかなくなってしまう。或いは、そういう不条理とは縁遠い就職先を見つけられる能力も又、結局は“運”次第という事なのかもしれない。

 いずれにしても、人間の個体間に於ける、心身の強弱や能力の優劣という厳然たる現実は、これが先天性と後天性の両側面によって結果されている限り、決して、“運”と“努力”のどちらかだけに対する全肯定も全否定も成立し得ない。“運”と“努力”、どちらも重要で尊い現実という事だ。

 

▼近代西欧的な優生思想の系譜に対する私鏑戯独自の批判

 さて、以上の現実を直視した上で、本稿が以下に取り上げる批判対象とは、そういった人間のありのままを直視する洞察に基づけば、いわゆる“優生思想”的なイデオロギーも正当化される等といった様な論理飛躍を、あたかも論理飛躍ではないかの様に取り繕う詭弁の全てである。つまり、私鏑戯が本稿に込める主旨とは、人間の心と体の強弱や能力の優劣という現実を直視した上で、この先天性、つまりは“運”にも多大に影響される原始的な不条理を人間自身が社会的に、或いは文明力をもってして補い、可能な限りの公正、公平を模索、実現していくべきだとする、こういった私鏑戯独自の、言わば“現実主義”に立脚した“理想主義”である。尚、そこで私鏑戯が立脚する“現実主義”とは、近代西欧的な“保守思想”の系譜、或いは理論が実際と乖離して腐敗する事を警戒する“プラグマティズム”、これらへの自負を意味し、又、これを踏まえた私鏑戯独自の“理想主義”とは、近代西欧的な“民主主義”、この自由と平等と博愛の理念によって統治される範囲の資本主義、ひいては世界各国の経済的自主権(経済ナショナリズム)が相互尊重される、いわゆる多元的国際秩序構想への標榜を意味する。従って、以下に述べる、近代西欧史上に於けるいわゆる“優生思想”的なリベラリズムの系譜に対する批判の内実とは、近代西欧的な保守思想に立脚する事をもってする、金融資本主義への批判、グローバリズムへの批判であり、又、資本主義という経済イデオロギーが民主主義という統治イデオロギーから“自由放任”の下で暴走、逸脱し続けている、この極めて革新左翼的な世界経済の現状への批判となる。

 ここでまず私鏑戯は、今この瞬間もグローバル金融市場を牛耳る新自由主義と、この思想的な根っこたる“社会進化論”、及び“自由放任主義”について説明、批判せねばなるまい。

 

▼社会進化論批判

 さて、先述した人間の運次第の適応能力について、かつて“社会進化論”は“適者生存”の概念を用いて説明したが、これは元を辿れば、ダーウィンの進化論で先んじて用いられた、飽くまで進化生物学上の概念だった。只、ダーウィンやスペンサーが生きた19世紀当時は、依然として進化生物学上の“適者生存”は、後の分子生物学の発展とこのゲノム解析による傍証を得るまでは、どこまでも仮説や推測の域を出ない概念に過ぎなかったとも言える。しかしだからこそ、少なくともその当時には仮説どまりに過ぎなかった進化生物学上の“適者生存”を無理筋に応用し、且つ当時のドイツ観念論的な“絶対者”を想定する目的論的歴史観の文脈から強引に“止揚”された結果としての“進歩史観”や“社会進化論”は、まずもって人文学史上の過渡期に於ける未熟さとか過ちとして批判され、反省されるべきだ。従って私鏑戯は、ダーウィンの進化論に於ける“適者生存”の概念を、進化生物学から社会人文学の範疇へと無理筋に応用した“社会進化論”を、非科学的で非人道的で革新左翼的な断定の産物、忌むべきイデオロギーとして批判する。

 又、たとえ先述した仮説どまり云々をさし措いたとしても、“社会進化論”は、生物学としての“進化論”や“進化生物学”に於ける“適者生存”の概念を、これを検証する時間スケールが遥かに違う、人間社会の“進歩史観”に於いて論理飛躍的に流用したのであって、この学術にあるまじき安直さは糾弾すべきだろう。つまり、“社会進化論”の権威たるハーバート・スペンサー(1820年4月27日 - 1903年12月8日)は、現代の地質学や物理学的な見地からすれば、地球の生物進化史上で約40億年もかけて繰り広げられてきたと認識される自然淘汰、この全ての“生物種”を跨いだ“適者生存”の営みを、まるで精々たったの1万年前後に過ぎない人類文明社会(※いわゆる“ムー”的な超古代文明説は除外)の“進歩史観”でも応用して物語る事が可能であるかの様に詭弁を労したのであり、つまりは論理飛躍的な断定を犯したのだ。尚、19世紀当時のダーウィンは、生物進化に必要な時間スケールを数百万年と推測していた。従って、彼とほぼ同時代人だったスペンサーの“適者生存”に対する時間スケールのとり違いは、極めて甚だしかったと言える。

 又、“進化生物学”は、全ての“生物種”を観察対象とし、より包含的な自然淘汰を、群淘汰や性淘汰等の諸説を前提としながら演繹と検証を積み重ねてきたが、これを無理筋で流用した“社会進化論”は、よりにもよって現生人類、つまりはホモ・サピエンス種、この“一種”に限定した“自然淘汰”、つまりは時間スケールも観察対象の“種”の範囲も極端に矮小で、且つ現代に至っては分子生物学的にも全くの誤謬と判明した形の“(社会進化論上の)適者生存”の虚構を、結果的にでっち上げたという訳だ。

 従って、少なくとも“社会進化論”に関しては、言わば“人種差別”や“優生思想”を非科学的に正当化し、果てはこれを政治的なイデオロギーまで展開させる道も開いた人文学史上の汚点とも批判できると、私鏑戯は考える。つまり、たとえ19世紀当時の科学的な常識に照らしても、ハーバート・スペンサーが仮説どまりの“適者生存”を、ヘーゲルの目的論的歴史観による演繹の呪縛によって、傲岸不遜にも“社会進化論”や“進歩史観”という“学問”の顔を装わせて世に問うてしまった安直さや、これがナチスの優生思想やホロコーストを生む思想的な契機になってしまった事や、更には現代のグローバル金融資本主義を思想的に牛耳る優生思想、民族差別、宗教差別(※これは決して無神論者や俗権による宗教差別を意味せず、特定の宗教による又別の宗教や民族に対する差別や弾圧を意味するし、つまり、自らを絶対視する特定の唯一神教が他全ての伝統宗教の“統一”を標榜する宗教的なリベラリズムこそは、正に宗教弾圧を正当化する非人道的な思想に他ならず、ここまで注釈すればさすがに何の事か察しがつくだろう)、金融合理化によって経済圏の多元性を破壊する趨勢、つまりは後述する“自由放任主義”という経済イデオロギー、これを非経済学的、且つ非生物学的、且つ非人道的に正当化させている影響力、これらは少なくとも近代西欧文明社会が民主主義や人道を放棄しない限りは、返す返すも、歴史の汚点として批判し続けるべきと、私鏑戯は考える。

 現に、かつてヒトラーはハーバート・スペンサーの“社会進化論”から影響を受け、これを後のナチスに於けるユダヤ人差別思想やアーリア人種(※本来のコーカサス的な意味の“アーリア人”とゲルマン人種とは無縁)の優生思想に発展させた。

 尚、この思想的な系譜を更に遡れば、ハーバート・スペンサーとカール・マルクスに思想的な影響を与えたヘーゲルの目的論的歴史観や、西欧神学的で創世神話的な“絶対者”をドグマとするドイツ観念哲学の形而上学的な限界、ひいてはこれが更に思想的な祖とするスコラ哲学やプラトン的な理想主義(リベラリズム)まで際限無く遡れてしまうが、さすがに本稿ではそこまで批判対象を広げはせず、飽くまで近代西欧思想による現代社会への影響、この弊害の側面に限定した批判を前提とする。

 

▼“進化生物学”及び理化学教養のすすめ ~“社会進化論”と同じ誤りや人種差別を犯さない為に

 因みに、生物学的な“種”の定義は、基本的に交雑可能な遺伝的類似性を括る概念だ。つまり、例えば猫と犬は交雑しても決して子孫を残せない“異種(※厳密には異属、異科)”の関係で捉えられるが、一方で現生人類に於ける黄色人種、白人、黒人、ヒスパニック、他様々な“人種”同士は皆共に“ホモ・サピエンス種”という“同種”の関係であり、この事実はヒトゲノム解析によって証明済みであり、当然子孫を残せるので、従っていわゆる“人種”と慣習的に使われる一般的な概念は、生物学的な定義に沿う“種”の概念とは意味が全く違うという基礎知識を、是非とも押さえられたい。つまり、全ての“人種”は分類学的には皆“同種”なので、従って、ここからは“人種”間の遺伝的な優劣に関する如何なる科学的な根拠も、決して見出せないという事である。つまり、いわゆる“人種差別”は科学的にも、そして当然、人道的にも間違いなのだ。

 尚、本稿冒頭で現実を直視する内容として述べた、人間の個体間に於ける先天的な優劣に関しては、これが一定の相関性と客観性で確認できるし、又、この事実と、いわゆる“人種差別”が遺伝学的に誤りだとする認識とは、決して矛盾しない。何故なら、現生人類の全ての人種はホモ・サピエンス種のヒトゲノムを悉く共有している事から、現生人類の個体間の遺伝的な優劣を、全ての人種が悉く共有しており、従って、この個体間の遺伝的な優劣の人種を超えた遍在性こそが、人種同士の遺伝的な優劣という幻想を科学的に否定するからだ。つまり、どこの国にも一定数の秀才と一定数の凡人と一定数の馬鹿が、ほぼ一定の比率で存在するので、従ってここに人種間の遺伝学的な優劣や差別の根拠は決して見出せないという事だ。勿論、時間スケールを“数百万年”以上の規模で捉え直せば、現生人類たるホモ・サピエンス種の内からも、やがてはこれと交雑が困難な水準まで遺伝的な突然変異(環境適応)が累積したヒト属の亜種(異種)、この進化の分岐が起こる可能性を否定できないし、或いは太古にホモ・サピエンス種によって駆逐され絶滅したホモ・ネアンデルターレンシス種等、これらに対する現生人類との進化生物学的な適応能力の優劣を比較する事は可能かもしれないが、これは最早“人種差別”ではなく、言わば“ヒト属差別”とか亜種同士の生存競争の範疇であって、或いは自由と平等と博愛などといった近代西欧的民主主義の理念や、いわゆる“理性”という形而上学如きがほぼ通用しないであろうところの、より根源的な生物間の意思疎通や共生を模索する範疇となる。

 尚、その見地から更に次の論点が演繹される。すなわち、いわゆる“人口削減計画”といった類の、国家主権を超越したグローバルで非人道的な陰謀が仮に実在し、実行されているとすれば、これが目論む経済合理化は進化生物学的に誤りで、決して実現される事はない。何故なら、上述した様に、進化生物学上のいわゆる“中立説”に従えば、個体間の遺伝的な優劣、ないしは多様性を決定付ける遺伝子対立頻度の増減のランダム性、この変化たる遺伝的浮動には、遺伝的な変異を取り除く効果があり、これはホモ・サピエンス種という現生人類の集団規模が縮小するほど強まり、つまりは集団内での遺伝子対立頻度の増減のランダム性が弱まる。従って、仮に“人口削減計画”を実行した場合、ホモ・サピエンス種全体に遍在する個体間の遺伝的な優劣分布の比率が変動する可能性はむしろ減り、つまりは、少なくとも超国家的に目論まれたところに反して、人口削減された現生人類に於ける経済合理的な優秀人材の輩出の比率の変動は、人口削減しなかった場合よりもむしろ余計に停滞するとさえ言えるからだ。要するに、人口削減計画の実施によってより能率的な経済社会を実現しようという目論見とは、“社会進化論”と同様に“進化生物学”上の“適者生存”の時間スケールを取り違え、曲解した誤謬に基づく、全く無意味で非人道的で無知蒙昧なイデオロギーの罪と糾弾すべきだろう。社会進化論的な誤謬に基づく人口削減の陰謀は、近視眼的な経済合理性の淘汰圧による急速な適応進化や適者生存能力の増大などといった非科学的な幻想の実現を望むべくもないどころか、むしろ遺伝的浮動の効果を強め、どちらかといえば遺伝的変異の停滞を数百万年先まで招くだけと言うことだ。

 又、これを更に具体的に述べると、現在の日本国に於ける少子高齢化に対する明らかに自滅的で詐欺的な内閣・中央官庁行政の腐敗は、もはや実質的な“日本人削減計画”に他ならず、たとえこれによって日本国民の内の多くを占める低所得者、貧困層が社会保障や税控除や可処分所得を減らされ結婚、子育てできずに血筋を絶やしていく事による人口減少の動態を作ろうと幾ら謀略しても、ここから結果される未来とは、日本の内需市場規模そのものの縮小であり、且つ、約8000万人程度まで激減した人口全体の内で高所得者層と低所得者層との比率が決して変動しない事態であり、これらによって構成される日本経済の衰退に他ならない。只でさえ、エネルギー資源を圧倒的に輸入依存する国民経済の大前提で、迂闊に人口削減を許し、これによる内需市場規模を減らし、国内産業構造の多様性を失えば、この急激な業種の淘汰から又新たに非生産層、低所得者層が大量に輩出されるであろうといった亡国の未来は歴然だからだ。もうどーにでもなーれ♪つまり、ここにも“社会進化論”に根を持つ新自由主義的なイデオロギーの無知と罪が確認できるという事だ。

 又、世代を超えて受け継がれる遺伝的な類似性、血液型、骨格、肌や頭髪や眼の色、持病、精神的な傾向、等々・・・、これらは全て、ホモ・サピエンス種のヒトゲノムが、親世代の両性から半分ずつ受け継がれ、複製されていく子世代の遺伝子、この全体の内の極微々たる部分に過ぎない。つまり、全人種に遍在する個体間の能力の優劣を遺伝的に決定する因子とは、少なくともそんな外見等の分かり易い次元の発生を司る因子である確率は極めて低いとも考えられるし、ましてや肌の色や頭蓋骨の形態的な違い等が人種間の優劣の根拠になりえよう筈も無いのだ。

 これに対する反論として、仮に例えばスポーツの国際試合や、年俸上位選手の国籍分布や、或いは個人資産長者番付上位の国籍分布等を持ち出す向きがあるとすれば、これは浅はかな誤りだ。何故なら、スポーツ競技や資本主義の規範が要請する能力とは、現生人類の生存能力の全体の内の極一部に過ぎないのであって、この文明の一過性の要請に適応する能力だけをもって、地球上の生物進化の時間スケールを人類が生き抜く適応能力の全てを判断する事は、重大な論理飛躍を孕むからだ。現に、“人新世”や“SDG's”等で騒ぐ近代西欧文明社会と、もう一方で未開人の狩猟採集生活や遊牧生活等、これらの“持続可能”性を比較すれば、果たしてどちらが本当の意味で“適者生存”的に優れているのか判断が難しい(※この指摘については、たとえ気候変動の主たる原因が太陽の黒点にみる活動周期であって、人間社会から輩出される温室効果ガスによる影響は微々たる物に過ぎないといった仮説を踏まえたとしても、次の文明批判の論点によって、私鏑戯の中で保留される。すなわち、資源を加工する技術と、自然への排泄、廃棄、循環の技術の発展度合いが、少なくとも21世紀現在の文明では明らかにつり合っていないし、この事態は少なからず人類自身の生存圏を狭める生態系破壊や戦争という形で、現生人類自身の生存を、少なからず阻害している)。又、一見すれば世界規模の競技人口と集客力を誇るスポーツ興行や資本主義そのものも、飽くまで近代西欧文明社会特有の合理主義の産物に過ぎず、従って、この一元的な文化規範を舞台に、地球上の多元的な気候風土や資源、地政学的条件等に規定された国々の多様な固有さそのものが、一概に、画一的に、優劣で評価されるなどといった事は決してあり得ない。逆に、未開人が文明人よりも優れている等といった断定も、上述した論拠によって否定される。

 そもそもヒトゲノムは必ずしも、というより大概の場合、人類の文明社会の都合に沿う意味での優秀さや適応力だけを提供してくれるとは限らない。それどころか、そもそも生物進化とは、たとえ自然淘汰圧に対してすら、必ずしも合理的な適応ばかりをみせるとは限らず、だからこそこれに要する時間スケールは少なくとも数百万年の規模に昇るだろうと、こう推測したのは他ならぬダーウィンだったのだ。従って、元来のダーウィニズムとは、社会進化論が誤解した“適者生存”とは裏腹に、合理と非合理との混沌に富んだ生物進化の多様性や不確実性と向き合う壮大な演繹だったのだ。この様な認識に立脚できない限り、人は誰でも“社会進化論”の論理飛躍や非人道の過ちを繰り返し得るという事だ。

 

▼自由放任主義批判

 ところで、“社会進化論”については、この権威たるハーバート・スペンサーの自由放任主義的な思想背景を抜きにしては決して語れない。彼が幼少期の家庭教師たる叔父から受けた自由放任主義的な合理経済の思想が、後に彼が編んだ“社会進化論”に色濃く影響を及ぼした。

 自由放任主義とは、国家がこの主権の及ぶ国土に於ける民間市場に対して極力干渉せず、法的な規制を最小限に留める事こそが、より自由で能率的な経済成長、ひいては富国の実現に繋がると考える経済思想だ。尚、自由放任主義は、いわゆる“神の見えざる手”、つまりは自由市場に於ける需要と供給の自動的な調整機能を不動のドグマとして信仰するが、これは規制知らずの超国家的な金融資本の肥大した強欲が、実体経済に於ける需要と供給のバランスを、むしろ著しく阻害し、つまりは自由市場の競争原理は自ずと自由市場そのものを崩壊させてきたという歴史的な事実によって明白に否定される。というのも、まずは2度の世界恐慌に見る“ディマンド・プル・インフレ”、この実体経済と乖離した投資需要の幻想が瞬時に崩壊した事によって信用の暴落と物価暴騰を招いた事態、或いは、これに継ぐ戦時経済に見る“コスト・プッシュ・インフレ”、この供給インフラやグローバル・フランチャイズの物理的な崩壊に伴って急激な供給縮小と需要過多、物価暴騰を招いた事態、或いは、それらの歴史の過ちに学ばず、というよりもむしろ学ぶからこそ、性懲りもなく国際経済のグローバル化と金融規制の緩和を推し進め、労働力も含む資源全般のコストや商品そのものの低価格競争、この薄利多売こそ正義とする金融経済の覇権戦争の暴走を自由放任し、慢性的な需要縮小と供給過多の“デフレ”スパイラルという世界経済全体の地盤沈下が極限に達し、もはや投資先が食い潰され荒廃しきれば、ここにきても依然として独自の金融規制を頑なに堅持し、経済自主権を保守し続ける任意の国家を“ならず者国家”とレッテルし、外交公約破棄や国際条約違反の不当なやり口で、彼らに軍事的な先制攻撃以外の選択肢を許さない程の安全保障上の窮地まで貶め、こうして開戦を煽り、果たして“正義の戦争”という又新たな投資需要を創造(※つまり“デフレ”から“コスト・プッシュ・インフレ”への急転換や軍需投資過熱による新たな投資分野を開拓)するといった、こういった言わば自由放任主義の自滅、自己欺瞞が傲岸不遜に国際社会を牛耳っている始末だ。以上のとおり、自由放任主義とは、国家による市場への干渉を極力避けさせる代わりに、極限られた金融資産家による市場への干渉を極大化させ、更には彼らの欲望の赴くままに市場経済の混乱、崩壊、戦争経済の誘引までやりたい放題させちゃいましょうといった、極めて非平和的で非民主的な経済思想なのだ。つまり、自由放任主義とは、金融資本家という極限られた強者がその他大勢の企業経営陣や労働者層という弱者の慎ましい生業まで容赦なく食い潰すという、この超極左的な経済破壊を正当化する為に、戦時経済を誘導する都度、謀略的な自滅と復活を繰り返し続ける、いわば論理不在のイデオロギー、もとい経済の民主的な自由や合理性を騙る超リベラルな幻想に過ぎない。何故なら、上述したとおり、実際のグローバリズムは、全く自由でも、民主的でも、合理的でもないからだ。

 

▼民主主義と資本主義を同時に踏まえなければ、共産主義やグローバリズムをまともに批判できない

 尚、以上は決して資本主義に対する否定だとか、たまさか共産主義やマルクス主義の推奨などであろう筈もなく、飽くまで近代西欧的な民主主義という“リベラル”な統治イデオロギーの基本に立脚し、この自由と平等と博愛の理念を踏まえる意味でのまともな資本主義を希求するところを大前提としている。そもそも、民主主義という統治イデオロギーを抜きにして資本主義をまともに考える事も、はたまた共産主義をまともに批判する事も決して叶わない。

 私鏑戯は、むしろ問いたい。上述した様な自由放任主義的なグローバリズムの暴走を、そもそもの民主主義の自由と平等と博愛が否定、破壊される次元まで許し続けても問題無いのかと。尚、マルクス共産主義はこれ一つで統治イデオロギーと経済イデオロギーを含む総合的な思想体系だった訳だが、ならばこれを批判する側は、資本主義という経済イデオロギーと併せ、民主主義という統治イデオロギーも同時に踏まえなくては、自身の意見を形成する思想的な土台がまともに備わる事は無いと言える。翻って、読者の日常を取り巻く現実社会の何処に、自由と平等と博愛の理念が中庸を成す民主主義的な資本主義、この本来の理想が実現されているというのか?そもそもグローバリズムとは、本当に資本主義なのか?果たして、こういったグローバリズムの“創造的破壊”の様相こそが、かつてのソ連共産主義のインターナショナリズムを超える極左思想の到達点であり、同時に人類の自然法的な必然、つまりは人類の愚かさ故の生存戦略的な限界なのではないかと、私鏑戯はこういった現実を前にして、常々絶望を覚えている。

 

▼“進化論”を無理筋に応用した“社会進化論”の弊害

 さて、以上の様な自由放任主義の思想背景を色濃く持つ“社会進化論”が矮小に語る“適者生存”とは、とりもなおさず現生人類同士に於ける弱肉強食の競争原理を、進化生物学上の自然淘汰を安直になぞらえて正当化する、つまりは“優生思想”だ。例えば、自然界に於いてはキリンが高く長い首で、或いはシマウマが縞模様の皮膚色素で、それぞれ自然適応し、“適者生存”の進化を遂げたのと同様に、一方の人間社会に於いても、飽くまで進化生物学的な時間尺度と比べれば圧倒的に近視眼的な経済合理性のみに適応した能力、こんな矮小な“強者”だけが、より豊かで幸福な人類社会の実現に貢献できる、正に“適者生存”の名に相応しく、神に選ばれし特別な人種だ、等といった具合にトチ狂った思想という事だ。

 因みに、自然界に於ける“適者生存”とは、太古からの自然適応が繰り返される度に、合理的な側面と非合理的な側面とが同時に起こる形で成されてきたと、分子生物学のゲノム解析、この極めて精緻な傍証によって演繹済みである。つまり、“社会進化論”的な優生思想が経済合理的な環境適応能力だけで人間の能力全般を評価したかの様に振舞い、あまつさえ“適者生存”の資格の有無を安直に断定してしまうのとは全く違って、自然界に於ける悠久の時を経た元来の“適者生存”の実態は、たとえ自然適応の見地からも合理と非合理の渾然一体、つまりは一長一短を原則としてきたという事であって、これはもはや弱肉強食ですらない(※この内容を読み知った書籍を現時点の私鏑戯の記憶が曖昧なために示す事ができない)。又、自然淘汰を解釈する前提の違いに於ける、自然選択説か遺伝的浮動の中立説かの後者に拠る場合には、もはや生物進化の推進力は“適者生存”ですらなく、飽くまで無目的で無作為抽出による対立遺伝子頻度の増減のランダム性とこの変化でしかない。つまり、言わば経済合理的な強者を強者であり続けさせる為だけに自滅と復活を繰り返す自由放任主義という、この逆説的に極めて“作為的”な“社会進化論”の優生思想的な特性は、そんな自然界に於ける“遺伝的浮動”の“無作為的”な側面、つまりは“適者生存”と比べ非合理的な進化の力学についての知見を全く度外視する、極めて視野狭窄で客観性に乏しい、利益誘導を意図した似非アカデミズムとでも言えよう。現に、人間の文明史に於いては、そんな作為的で“社会進化論”的な優生思想に基づくグローバリズムの膨張が繰り返される度に、近視眼的な経済合理性だけでは決して図り切れない死後という未知を思念する遍在的、伝統的、且つ多元的な価値体系を保守せんと抵抗する民族自決の気運や宗教テロリズムという極限の反動等を必ず招き、やがては覇権の版図の栄枯盛衰の連環が幾度も帰結されてきた。この事実は、“社会進化論”に於ける“進歩史観”が相対化される歴史的な根拠でもある。

 従って、近代西欧史上の優生思想的な系譜として位置付けられる“社会進化論”や自由放任の新自由主義的な行政思想、及びグローバリズムは、近視眼的な経済合理性の価値基準だけでその支配構造の維持を正当化されるに過ぎない金融資本的な強者の利益誘導を志向し、極めて作為的で矮小な“適者生存”を騙る狂信カルトの類のリベラリズムだと、少なくとも私鏑戯は批判するものである。

 元来、資本主義とは、民主主義の自由と平等と博愛とによる中庸の統治理念によって統御されてこそ、初めて“民主性”を失わずに機能し続けられる経済イデオロギーであり、又同時に、現生人類の自然法なのだから。

 

おわり