懺悔、自責。私鏑戯と犯人との決定的な違いについて | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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▼2021年10月2日

私宮尾一身上の、精神的且つ独善的な“自責の念”の本質について

 

 まず本題に先んじて、2019年7月18日から2021年2月1日までの間、その域に達する事は永久にあり得ない破産級の“糞”を破産級の“糞”として見抜けずに妄信し続けてきた私宮尾こそが、又ある種の“糞”に他ならなかった事実について謝罪いたします。

 又、その間に私宮尾が被った、しかし所詮は金銭的な損失に過ぎない被害の全てについても、元を質せば、あの大惨劇を“オタク”への八つ当たり的な感情論をもって盲目的に向き合っていた私宮尾自身の罪に対する相応の罰、こういった自業自得の結果として心得、この様に猛省するばかりです。

 “日本のアニメ業界”や“オタク”という漠然とした相手に向かって、たかが一介のアニメファンに過ぎない立場から無用に敵視を募らせてしまっていたという過ちを認め、悔い改めます。 
 今後は、私宮尾の“盲目”を生んだ自らの心の闇と真剣に向き合い直します。 

 本当に申し訳御座いませんでした。

 但し、ここからが本題ですが、あの大惨劇に対する、あくまで私宮尾個人の“負い目”については、一生を掛けて自力で償う所存です。

 尚、その私宮尾個人の“負い目”とは、一言で“自責の念”です。 

 以下、その“自責の念”について詳述します。

 まず、その“自責の念”は、私宮尾独自の“オタク”観とは、もはや全く関係ありません。只ひたすらに私宮尾ひとり、自らのみに向かって、たかが思い込みに過ぎないと分った上でも尚、理屈を越えて、償わなければ生きて行く事すらままならないと迫り続ける根源的な動揺、言わば強迫観念の類といった“自責”です。

 但し、この“自責”こそが、かつては大惨劇を知らされた当時の私宮尾に“オタク”敵視という“盲目”を派生的に抱かせもしたという事実をしっかり認識した上で、まずはその“盲目”とはすっぱりと決別し、同時に2019年7月の当初から私宮尾に抱かれていた“自責”の本質とは果たして何だったのかを、改めて本稿に於いて、記憶と感覚を遡って、真剣に考え直したいと思う次第です。

 因みに、私宮尾は特定の信教に帰属、帰依してはいません。更に言えば、私宮尾は、他者、つまりは既存の宗派、宗教法人組織やこの権威、これらが語るところの死生観に、己自身の死生観を丸投げして依存するなどといった精神姿勢を極度に嫌い、恥じる性分です。この裏を返せば、私宮尾が他者の自律性や自尊心を損なうレベルで己の死生観を押し付けたり、計略的に刷り込んだりする類の、いわば死生観にまつわる宗教的な“布教”に関わる事を極度に嫌い、恥じ、慎む性分である事実も意味します。つまり、私宮尾にとって、少なくとも死生観とは、人それぞれの人格、価値観、自尊心の数だけ無数に存在し得る相互不可侵、内心の自由の範疇という事です。又、私宮尾にとっては、例えば聖書もコーランも仏典もウパニシャッドも古事記も、全ては独自の死生観や思想信条を形成する為の、教養の下支えのほんの一部に過ぎません。要は、以下に述べる“自責の念”については、特定の宗教道徳的な観念や思想等とは完全に一線を画す、どこまでも私宮尾独自の死生観によって規定されたものとして御理解下さい。従って、本稿では私宮尾独自の死生観についての詳述は一切無用であり、控えます。

 ところで、あの事件が発覚した当初から、これを受けた世論に於いて、「事件と無関係の部外者が自責や罪悪感をアピールする事は、そんな自らの生真面目さをもって世間から承認されたいと独善に酔っている自意識過剰の類に過ぎないから、相手にするな」等と、極めて冷静な意見が散見されていましたし、これに関しては私宮尾も全く同意する立場です。只、私宮尾が以下に述べる“自責の念”に限っては、決して私宮尾自身の独善のアピールではなく、飽くまで先に述べた様に、まずもってかつて自らの“オタク”敵視の“盲目”との決別を表明しようという懺悔の一環に他なりません。それは、2019年7月から2021年2月までの間に、私宮尾が一部の公共に対して無用な不愉快を、つまりは“オタク”敵視という結論ありきの感情論の数々をばら撒いてきてしまった過ちへの、当座の償いを果たそうといった動機に基づきます。 要は、本稿が目的とするところは、決して事件に対する“自責”の告白そのものにあるのではなく、飽くまで事件後に私宮尾が犯した過ちに対する懺悔にあるのであって、又、“自責”の告白そのものは飽くまで懺悔の手段に過ぎないという事です。

 且つ、この決別表明は、私宮尾に当初からあった“自責”の本質とはそもそも果たして何だったのか、この飽くまで派生的な“盲目”と切り離した所の、純粋な本質そのものとしての“自責”を、私宮尾自ら整理して述べる事によって、初めて果たされるとも考えます。とは言え先述したとおり、その“自責”とは、私宮尾自身の根源に於ける理屈を超えた動揺に対する省察であり、従って言葉をもってする整理がままならないであろう事は明白なので、以下の様に端的に述べるしかありません。

 

 私宮尾の“自責”の本質とは、犠牲者のアニメ制作に掛けた情熱、葛藤、苦悶、喜び、他全てが志半ばで無為に破壊されたというこの無念を、私宮尾の立場や器では到底どうにもならないと分った上でも、無理矢理にでも引継ぎ、背負いたい、差し出がましく、おこがましい事は重々承知の上で、ほんの僅かでも晴らしたい、逆に、引継ぎ、背負い、晴らす事から無関係でいられるこの先の自分など全く想定できない、この様な支離滅裂で当て所もない思いです。

 つまりは、私宮尾の“自責”とは、結局はどこまでも独り善がりの類に過ぎないのです。

 

 以上をもって私宮尾は、飽くまで事件後に自ら犯した過ちに対する懺悔を果たす為に、かつての“盲目”との決別を表明し、又これを裏付ける為に一身上の独善的な“自責”の本質について告白したに過ぎず、他意はありません。

 よって、ここに重ねてお詫びいたします。

 その間、私宮尾の八つ当たり的な感情論の数々によって気分を害された全ての方々、本当に申し訳御座いませんでした。

 

追記:

 細心の注意を払ったつもりでしたが、依然、上述した内容から不愉快や不穏を感じ取る立場があってもおかしくないかもしれません。

 従って、以下をご確認ください。

 上述に於ける私宮尾の“自責”とは、あくまで私宮尾個人の“精神的な次元に限定された”独善に過ぎず、又、「引き継ぐ」「背負う」「晴らす」等の感傷的な言辞についても、これが語義どおり物理的、具体的に拡大解釈される余地は一切存在せず、従って、例えば私宮尾がアニメーターを目指すとか、或いは、畏れ多くも「京アニ様の今後のお仕事と何らかの形でも構わないから、関わり合いたい」等といった、こうもふざけ過ぎた自己欺瞞の類の“独善”(※本稿最下部の補足を参照されたし)とは、全く、全くでもって、む・か・ん・け・い、無関係です!!!

 私宮尾はあくまで京アニ様の一介のファンに過ぎません。

 そして今後、上述の様な“自責”についても一切述べません。

 

 

※補足(2023年9月13日追記):

 「こうもふざけ過ぎた自己欺瞞の類の“独善”」という表現は、あくまで私鏑戯(※本稿執筆当時は宮尾)に対する自己批判のみを念頭しており、決して、2019年7月18日以降に、京都アニメーション様と、新規、継続を問わず、プロとして関られる有志の方々に対する如何なる批判も、全く意味していない。むしろ、と言うよりも、当然、私鏑戯は今後一生を掛けて、京アニとこれに関わる全てのプロ関係者の方々を、あくまで外野、素人の立場から絶賛応援し続ける一介のファンである。
 では、何故そもそも私鏑戯が「こうもふざけ過ぎた自己欺瞞の類の“独善”」という表現を敢えて用いざるを得なかったという理由は、私鏑戯が本稿で述べた「引き継ぐ」「背負う」「晴らす」等の言辞が、ややもすれば読み手側からは、私鏑戯に於ける筋違いな虚栄心、つまりは京都アニメーション様への売名を意図した詐欺的なパフォーマンスとして解釈される余地も大いにあり得ると危惧した点にあり、又この語弊を避けたかったからだ。要は、本稿で述べた私鏑戯の“自責”の本質は、どこまでも“独善”に過ぎないが、しかし少なくともそういった詐欺的な類の“独善”とは全く無関係だと強調する意図で「こうもふざけ過ぎた自己欺瞞の類の“独善”」という表現を用いた訳だ。
 というのも、現に、2019年7月18日直後から、あの事件に集まった衆目を少しでも多く、自らの売名に利用してやろうなどといった、このにわかには信じ難く、
破産級に詐欺的な思惑が、しかし日本のアニメ業界から遠く離れた外野の極一部に於いては実在していたし、又、私鏑戯はこの忌むべき現実について、当時、身をもって知らされた経緯がある。同時に、そういった周辺事情が、上述した様な語弊を読者側に“売名”繋がりで連想させ得ると、私鏑戯は懸念した。つまり、その域に達する事は永久にあり得ない破産級の“糞”が、事件のドサクサに乗じて一般世間を欺こうと企んだのと同様に、私鏑戯は京アニや京アニのファン層を欺いて支持を集めようと企んだのではないかといった、この様な誤解と、そして更に、京アニへの就職を目指したり、京アニと仕事上で協力関係にあったりする新人、ベテランを問わないプロの方々に対して、私鏑戯があたかも「こうもふざけ過ぎた自己欺瞞の類の“独善”」という表現を用いて、筋違いに批判したのかといった様な誤解、これらが生じる事に対する懸念である。従って、本稿に於ける「こうもふざけ過ぎた自己欺瞞の類の“独善”」という表現が、読者に対して不穏な誤解を2重の意味で与え得る、この懸念を排除する為に、以上の補足は本稿の文責上で避けられなかった。

 

 

▼2024年1月24日追記

私鏑戯と京アニ放火犯との決定的な違いについて
 

本稿の概要

●いわゆる“オタク”であるか否かによって人間性を判断できると思い違いする愚かさは、この語彙の汎用に富んだ実際と向き合わない怠慢に起因する。

●京アニ放火犯の誇大妄想癖を映し鏡に見立て、事件背景に於ける何らかの自戒をひねり出そうとする者は、同時に、京アニ放火犯と自身との決定的な違いについても同等の熱量で省察し、より多角的で均衡した視点と、より健全な精神とを保つべきだ。

●京アニ放火犯と私鏑戯とは決して“同類”ではない。

●人よ、道を踏み外すな、心を強く持て!

●“オタク”や“弱者”であるか否かに関わらず、罪人は罪人として罰されるべきだ。

 

 私鏑戯は、予てから『響け!ユーフォニアム』『聲の形』『リズと青い鳥』等の大傑作タイトルだけでなく、これらを作り出す技能者を大切にする社風ブランドも含め、京アニが大好き。

 従って、京アニ放火事件を受けた直後から約1年半の間は特に、私鏑戯の精神状態は極度の動揺によって少なからず病的に不安定だったし、これは最近読んだフロイト著『人はなぜ戦争をするのか』(光文社文庫)のp105~108で述べられている“自己告発”、この鬱症状の典型例についての内容とも、今となってはそっくり重なって思い返されてしまうくらいには、まともな判断力を喪失していた。

 従って、当時の私鏑戯は、放火犯のオタク趣味が報じられたというだけの些細な情報、この真実の上澄みの極一部だけをもって、私鏑戯自身も含むいわゆる“オタク”という属性で連なる全ての人間に対して“告発”、否、今となっては単なる八つ当たりの感情論に囚われた“悪意”を傍若無人に、SNS上でばら撒いてしまっていた。猛省である。

 只、確かにその“告発”の理屈にも極僅かな一理は認められるかもしれない。しかし猛省すべき本質は、その極僅かな一理を極めて病的に過大評価し、不当な“告発”にまで仕立て上げてしまったという、この判断の誤りにあった。

 というのも、そもそもいわゆる“オタク”とは、定義も曖昧に広く日本社会に浸透した、極めて緩やかな属性、ステータスに過ぎない。又、少なくとも本稿執筆時の現在の日本社会に於いては、“オタク”という言葉の使用パターンは概ね、次の二つで大別できると思う。まず一つに、人が身の丈を超える僭越さで“凡庸”への埋没を手っ取り早く実現する為のプロフィールとして使用するパターン。又一つに、人が謙遜し、自身の能力や知識や経験を実際よりも“凡庸”であると過小評価する際の手っ取り早いプロフィールとして使用するパターン。尚、以上の二つのパターンは、人それぞれが多様に兼ね合わせ営む趣味趣向の思い入れや錬度への自己評価に応じ、巧みに、且つ同時並行的に使い分けられている。例えば、元プロボクシング日本チャンピョンと、ボクシング未経験の映像編集者やボクシング評論系Youtuber等とのそれぞれが「ボクシング“オタク”」と異口同音に自称し合いながら、互いの才能を活かし補い合って独自のエンタメ配信を充実できてしまうくらいには、“オタク”という言葉は、謙遜と僭越とのいずれをも都合に応じて柔軟に“凡庸”で装わせ、趣味人同士の出会いや、プロと素人との垣根を越える交流や、或いはビジネスの裾野の開拓、これらに資するコミュニケーションの潤滑剤として機能している。要は、“オタク”とは、飽くまでプロ、素人の立場を問わず、人同士が尊重し合うという人間関係の基本、この不文律が侵されない限りは、あらゆる趣味人同士の出会いを促し、果ては文化を豊かにする、至極使い勝手の良い言葉に過ぎない。にも関わらず、仮に、“オタク”は凶悪犯罪を助長する悪習だ等と突飛に断定してしまう極論が存在するなら、これはあたかもネットインフラの台頭そのものを、人類の闇を助長する温床として捉えてしまうが如き、主客転倒な暴論に過ぎない。これは言わば、自然法による人の根源的な欲望や営みをどれだけ理性的に仲裁し得るかという、この革新と保守とのバランス感覚を問う文明論をわざわざ持ち出すまでも無い、すなわち物事の表層のみに囚われた明白な誤謬とも言える。問題の本質は、“オタク”やネットインフラそのものではなく、飽くまでこれを使う人間に他ならないという事だ。

 従って、たとえ放火犯が“オタク”趣味の持ち主だったからといって、これが“オタク”を自認する全ての人間に、当該事件の発生に対する連帯的な呵責(罪悪感)を迫る根拠には、たとえ道義的な観点に照らしたとしても、決してなり得ない。更に、仮に事件を醸成した又別の社会背景が存在するとした場合に、これを冷静に見極める上では、そんな実際と乖離した無理筋の“告発”や“呵責”を真実として信じ込み続けてしまう誤りは、むしろ本質を遠ざける愚かさとか、物事に対する不誠実な向き合い方にしかならない。言わば、“オタク”で括れる人間全てを“犯罪者予備軍”として看做してしまう、こういった差別主義的な極論に易々と立脚してしまうくらいに、当時の私鏑戯の心は壊れていた。尚、“オタク”という極めて汎用性の高いニュアンスに通じる趣味嗜好は、人であれば誰もが持ち得る。ならば件の放火犯の“オタク”属性に注目する意味は、もはや皆無だ。いわゆる“オタク”≒犯罪者予備軍といった主張とは、俗に皮肉られるところで、犯罪者の多くは統計的にパン食、或いは米食なので、従ってパン食や米食は人間を犯罪者に仕立て上げる元凶だなどと、この様に極めて客観性に乏しく論理飛躍も甚だしい暴論の類の一つに過ぎないという事だ。たとえド素人感覚で件の犯罪心理を推し量るにしても、決して“オタク”であるか否かで人間性を判断できるかの様な錯覚に囚われてはならず、人間の闇の側面をより根本的、且つ構造的に洞察すべきだと、私鏑戯は考える。

 さて、本稿加筆時の2024年1月24日は、京都地裁の判決を待つ段階にあり、これまでの公判のやりとりが既に多く報じられた。犯人の責任能力を問う争点を軸に、彼の誇大妄想の数々が法廷で検証された。事件発生当日に犯人が口にした「パクりやがって!」で象徴されるところの、彼の誇大妄想の数々を支えてきた犯罪心理的な病根を、私鏑戯が直感で推し量れば、ここからは、過程をすっ飛ばして結果だけ得ようとする傲慢さ、或いは、いわゆる“努力”や“向上心”や“共感性”といった情緒を育む情操教育環境に恵まれなかった彼の生い立ち、従って、自身の身の丈や他者の才能、実績を推し量るに必要な最低限の専門知識、経験すら持ち合わせず、無頓着なまま、道理を逸脱した自身への報いや権利だけを厚顔無恥に主張する、こういった物事に対する底無しの不誠実さや、極めて未熟なままの感性が窺える様でもある。でなければ、彼は少なくとも「パクりやがって!」等と被害妄想を募らせずに済んだ筈なのだから。

 当然、この様な直感のみによって結論を急いてしまう私鏑戯の安直さも含め、物事に対する不誠実な感性は、犯人の誇大妄想癖を映し鏡に見立て、自戒すべきなのかもしれないし、少なからず、これを執筆する私鏑戯には、依然そう発想されてしまう。

 しかし、この際、次の事もはっきりと書き加えよう。

 確かに私鏑戯は、犯人と同じ“人間”という存在には違いないし、或いは、客観的に見れば“オタク”として看做される存在かもしれないし、或いは、彼と同様に、物事に対して不誠実な傾向を臭わせる人間なのかもしれない。つまり、飽くまで犯人に殺人を決断させた犯罪心理を除外した上でなら、犯人と私鏑戯との共通点を見極め、何らかの自戒を帰結させるといった視点には、“一理”あるのかもしれない。だとしてもである。ならばそんな共通点についてだけでなく、同時に、犯人と私鏑戯との決定的な違いについても同等の熱量でもって見極め、こうすることによって、従来の“自己告発”にばかり偏向してきた洞察の欠陥を是正し、より多角的で均整のとれた視点でもって事の本質と向き合い直すべきなのではないか。私鏑戯は、これに気付くのが遅過ぎた!

 果たして、犯人と私鏑戯との決定的な違いとは何か?

 上述した様に、私鏑戯は、犯人の誇大妄想の数々を支える病根を推し量る際の直感が脳髄反射的に働いてしまう程度には、犯人の誇大妄想の数々や身の丈の測れなさ、そして何よりも、京都アニメーションに対するあらゆる意味での舐め腐った態度、これらについて途方もない違和感を率直に覚える。この一点こそが、私鏑戯が犯人との決定的な違いを自覚できる根拠だ。私鏑戯と犯人との間には、共通点だけでなく、そんな決定的な違いも確実に存在する。更に率直に述べよう。京アニ放火犯と私鏑戯とに於ける決定的な違いは、両者間に於ける極僅かな共通点を遥かに圧倒する。従って、私鏑戯と犯人とをさも“同類”として錯覚させる気迷いの類は、ここに綺麗さっぱり一掃される。

 転じて、仮に件の犯人の“同類”を指摘する事が、今後何らかの意味を持つ場合、まずもって「パクりやがって!」を不当に叫び散らす様な人間性、或いは、“努力”“向上心”“共感性”“挫折”“リスペクト”、そして“悔しさ”は自身を鼓舞するモチベーションとして昇華できる“自制心”等、これらの情緒にひたすら無頓着で、且つひたすら自己愛だけで完結してしまっている未熟な人間性、こういった、より根本的、且つ社会的な課題こそが社会福祉的な救済の対象(※いわゆる“弱者”)として、或いは法治主義的な制裁の対象(※人道を踏み外した“人間の屑”)としても益々注目されるようになるだろうと、現時点の私鏑戯は予想する。いわゆる(精神的、且つ経済的な)“弱者”に対して真っ先に押し寄せる不況のしわ寄せのダイナミズムが、その様に極めて無慈悲な俯瞰や偏見をもののあはれに助長する、今後の大局の趨勢はほぼ必定だろうという事である(※これについては当ブログの別エントリでうんざりな位に言及した)。勿論、私鏑戯自身も、本稿冒頭から述べてきた様に、かつてはその余波を少なからず喰らい、フロイトを参照するところの“自己告発”にも類する極度の動揺に囚われ、平静を欠いてしまったという意味に於いては、充分に心がへタレな“弱者”の一人に違いない。従って、私鏑戯は自戒も込め、全ての“弱者”に向けて次を訴える。

 人よ、道を踏み外すな、心を強く持て!

 特に“努力”する能力すら持たない“文化的弱者(※参考記事リンク)”は次を理解しろ。富は再分配できても、人間の先天的な才能や運の優劣は、どう嫉妬しようが再分配されない。つまり、弱者はたとえ社会保障やセーフティネットを受けられるとしても、他人の才能や運や環境といった先天的な諸条件まで横取りできる権利も方法も、この世には決して存在しないという事だ。但し、その嫉妬、悔しがる気持ちを、自身を鼓舞し努力する契機として捉え直せれば、切磋琢磨の相乗効果に恵まれ、昨日よりも成長した自分を得られる。つまり、自分より優れた他人を僻む暇があったら、まずは自分自身を変えろという事だ。しかし、これすら拒絶し、何時までも“努力”できないままの自分、“嫉妬”を燻ぶらせるままの自分であり続けたいと駄々をこねるなら、せめて自分より“努力”して生きている他人の足を引っ張るな、迷惑を掛けるな、人の道を踏み外すな、上も横も見ず、羨ましがらずに、只ひたすら自分の足元だけを見つつ、世間からの偏見という当然の報いに押し潰されながら惨めに生きろ!そして、他方では“努力”を尊び生活に組み込んでいる部類の、少なからず存在する“弱者”の方々に対する世間的な偏見を不要に助長してしまっているという自らの屑人間っぷりもしっかりと弁えろ(※脚注01)

 

※脚注01:

 つまり私真田は、“努力”や社会貢献を尊んで生きている部類の“弱者”の方々の実際も当然把握し、彼らを尊敬している。又、そこで言う“社会貢献”とは、必ずしも経済合理的なニュアンスのみを指さず、社会的な存在として前向きに生きる“努力”を諦めないといった、より幅広く基礎的な意味合いで用いた。例えば、信頼に足る家族(※必ずしも肉親や血縁を問わない広義で、且つ信頼に足る“家族”)の絆という社会性を大切に生きる事も“社会貢献”に含まれるという事だ。要は、私真田は、いわゆる“弱者”が社会保障やセーフティネット等の諸制度に預かる事は、彼らの当然の民主主義的な権利だと認識しているし、よもやこれを批判する意図など全く無い。
 繰り返し強調するが、私真田が本稿に於いて一貫して批判するのは、“努力”や“向上心”といった、人としての根源的な尊厳を丸っきり放棄、全否定し、只ひたすら“弱者”という免罪符にすがり、他方で“努力”に明け暮れる多くの人々(※ここには当然“努力”を尊ぶ部類の“弱者”の方々も含まれる)の尊厳を蹂躙するといった屑人間っぷり、又はこれを自己正当化し開き直るといった、最も卑劣な精神性である。
 当然、私真田は、そもそもその卑劣さが“弱者”だけに限らず、あらゆる階層、あらゆる人種に悉く、一定の割合で遍在するという実際も重々承知している。しかし同時に、現在の日本社会に於いては、そんな卑劣な群れが皆、口を揃えて“弱者”を詐称する事によって、ややもすれば社会保障制度を不当に食い潰し、私的な権利や平等ばかりを過剰に主張しがちな一部の傾向や、更にはこれを出版ビジネス的に、或いはオンラインサロンやヴァーチャル恋愛的に利用してやろう等といった、これまた卑劣な詐欺連中同士のカモの争奪合戦、こういったいわゆる“弱者”ビジネスの横行が顕著であると、これを某“破産級”な実体験も踏まえて、憂慮している。

 更には、そういった卑劣な自称“弱者”の自己愛を過剰に抱擁するが如き演出によって金銭を搾り取るビジネスモデルの副産物としての、自称“弱者”の公共に対する天井知らずな放埓っぷり、モラルハザードに対するアフターケア、いわゆる企業の社会的責任(CSR)に関しては配慮が不十分という、この商慣習上の傾向こそが、やがては埒外な嫉妬や逆恨みを動機とする重大犯罪を再発させる遠因ともなり得ると、私真田は大真面目に危惧する。何故なら、まず一般論として、社会生活とは私的な欲望を一定に抑制し、公けの秩序と協調せんと“努力”する自制心を欠いては決して営み得ない訳だが、これに参画する人生経験を全く持たぬまま、只ひたすら私的な欲望の赴くままに自己愛だけを肥大させた人間が、仮にひょんなきっかけで、それまで只飯を食わせ放題してくれていた生活基盤を失い、よって自己愛を幻想的に抱擁してくれていた娯楽サービスの供給も遮断されてしまった場合、果たして彼がこの事態の急変に対して、経済的な自立に向けて生活を立て直す等といった意欲や責任感によってまともに対応し得るかは甚だ疑問であり、むしろ自己愛を無償で充足してくれなくなった社会に対して埒外の逆恨みを募らせ、自暴自棄の破壊衝動に訴え、最悪の場合、事件沙汰も招きかねないと、私真田は、この様な憶測に一定の合理性を認めざるを得ないからだ。つまり、これは飽くまで私真田独自の、経済的、且つ身体的な強者であると同時に精神的な弱者、つまりは“弱者”詐称者に於ける悲運の顛末に関する憶測に過ぎない。

 又、この憶測は決して“弱者”詐称者≒犯罪者予備軍という様な論理飛躍や断定までは含意しない。何故なら、私真田は、いわゆる「疑わしきは罰せず」という刑事訴訟法上の原則を尊重し、よって“犯罪者予備軍”などという極めて下品なレッテル張りについても一切与したくないからだ。

 しかし、それに類似する偏見が既にかなりの影響を社会的に及ぼしており、これは昨今の不況や国民感情の分断傾向に伴って、ほぼ不可抗力となりつつもある。いわゆる“弱男”とか“チー牛”等といった、差別衝動に任せたスラングの氾濫である。この様な偏見とか憶測なのか、或いは因果応報なのかが単純に判別され辛い類の集団心理への良識的な抑制は、返す返すも、経済不況の長期化、深刻化によって、無慈悲に妨げられる。これは差別感情の究極形態たる戦争を幾度も繰り返してきた人類史が証明するところだ。国民経済という“パン”が廃れてしまえば、国民的な良識という“愛”も必然的に廃れ、つまり精神的な余裕や知性が国民規模で失われ、排他主義や優生思想や国粋主義の様に極めて陳腐な類のナショナリズムが国民世論をやがて覆い尽くすであろう趨勢、この序の口の再来を目の当たりにするかの様な印象を、私真田は覚える。

 但し、排外主義や国粋主義の様に脆弱な類の民族ナショナリズムは、単純労働外国人材の流入規制緩和やインバウンド依存等による国内産業構造の脆弱化、及び貧富の格差拡大や国民経済規模(内需)の縮小によってもたらされる。つまり、排外主義の元凶は、グローバル金融利得者層が近視眼的な多文化共生のモラルを餌にして、一般大衆層の家計を騙し取る利益誘導、及びこれを無際限に許す自由放任主義(小さな政府)的な政経思想のモラルハザードなのであって、決して多文化共生に対するモラル意識の欠如そのものから直接的に民族差別問題が結果される訳ではない。行政的な無責任による外国人受け入れが、やがては治安秩序を崩壊させ、この反動としての民族差別の情勢を因果応報に生み出すという事だ。例えば、太平洋戦争当時のアメリカに於ける日系人隔離政策を参照できる。又、優生思想的な障害者差別の元凶も、上と同様の国民経済の自滅政策によって招かれる事実は、例えばかつてのナチスドイツの歴史が既に証明済みだ。勿論、私真田はそんな日本の未来を望んじゃいない。しかし歴史に学ばず、政治腐敗を監視する主権も放棄する、決して少なくない世論が流されるままに向かおうとする先は、必ずしもそうとは限らない様だ。そして、事態が悪化して気付かされる時には既に手遅れなのだ。こういった大衆の無知が一握りの富裕層の利益誘導によって、無駄に差別や戦争を繰り返すよう、操られ続けるという事だ。

 但し、少なくとも、“弱者”詐称という社会問題は、本来的に救済されるべき本当の“弱者”の社会的な立場を、むしろ不当に貶める弊害として看過できない事は確かだ。従って、私真田は次を提案したい。一つに、国家行政は“弱者”詐称の自重を呼びかける公共広告を実施する事、又一つに、“弱者”が社会保障制度を受けつつ、公共に対して最低限に弁えるべき節度に関する義務教育上のガイドラインを整備する事。

 果たして、この脚注で言わんとする結論として、私真田が上記に於いて、ひとまずは“弱者”全般に対して訴えるという体裁を表明せざるを得なかった理由とは、以上で述べた様に、まず一つに、本来的な“弱者”がいわれ無き偏見という不可抗力に屈したり、或いは下手に卑屈をこじらさぬ様に“心を強く持て”という激励の意味合いと、又一つに、“弱者”詐称者が自らを律し、道義を弁え、自律的なモラル意識を回復する様に“心を強く持て”という批判的な意味合いと、これらを同時に込めんとする意図にあった。つまり、これは決して“弱者”を一括りに批難する事を意図してはいない。

 尚、この期に及んでも、私真田が上記に於いて「“弱者”を詐称する」と指摘した具体的、且つ制度的な根拠は何処にあるのか、等といった愚問を投げ掛けてくる質問者が仮に存在する場合、彼は私真田に質問する前に、まずは自身の胸に手を当て、自らの良心に対して同じ質問を投げ掛け、これに自ら素直に答えるべきだ。何故なら、果たしてあなたが“弱者”を詐称する卑劣な人間の内の一人であるか否かについては、あなた自身の良心こそが最も良く理解している筈だからだ。要は、“弱者”詐称とは、社会保障制度に於ける性善説的な制度設計の隙を突く卑劣な手口なので、これが可能な限りは“弱者”詐称に相当する類例の制度的な根拠や位置づけそのものが道義に反する悪法の側面を孕まざるを得ないという訳で、従って、これを踏まえる本稿に於いては、制度的な根拠よりも読者一人一人の良心を参照する事こそがより重要になるという事だ。

 そもそも本稿、及び本エントリは、後述する様に、一貫して“人倫”の範疇を念頭して述べているので、そんな私真田による趣旨に読者が納得できるか否かは、一重に、私真田と読者との間に於ける“人倫”に関する見解が合致するか、或いは平行をたどるかに掛かっている。そして我が民主主義社会では、たとえ屑人間であっても言論の自由が保障されており、これを私真田が否定しようも無い。従って、他力本願も大概にしろ、そこまで面倒見れるか、という事だ。

 

 尚、以上は決していわゆる“自己責任論”ではなく、飽くまで自由と平等と博愛を同時に実現しようとする民主主義の理念に基づいた公正、公平の範疇に他ならない。従って、上の訴えを否定する者は、何もかも無条件に平等たるべきだと主張する共産主義者と疑われても仕方がない。何故なら、自由競争の原則を全否定し、完全に排除すべきなどと極論に走る考え方は、もはや民主主義的な統治イデオロギーから一線を画す共産主義への思想転向の露呈そのものだからだ。因みに、かつてソ連共産主義は、ボルシェヴィキの特権階級化という思想的な大矛盾、限界を露呈し、自ら共産主義体制の崩壊を招き、歴史の表舞台から去った。つまり、共産主義的な平等一辺倒のリベラリズムが現生人類の自然法の前で如何に役立たずな戯言に過ぎないかについては、既に歴史によって明白に証明されている。転じて、“自由競争”に傾き過ぎる新自由主義的な“自己責任論”も、或いは“平等”に傾き過ぎる共産主義的、監視社会的な足の引っ張り合いも、いずれも等しく愚かで、与するに値しない思潮だと、私鏑戯は考える。勿論、“弱者”に対する福祉制度も大事だが、だからといって、“弱者”が“強者”に嫉妬を拗らせ足を引っ張ったり、あまつさえ放火大量殺人を犯すも、犯罪責任能力の有無や、劣悪な家庭環境の生い立ち等を理由に無罪放免させる等といった、この様に無際限で不当な権利まで“弱者”に許してはならないし、こういったいわゆる“逆差別”の暴走は、かつてソ連崩壊時のボルシェヴィキの特権階級化とも共通する権力腐敗の一種と言っても過言ではなく、つまり私鏑戯は、これこそ非民主主義的な“不平等”と看做す。権力の集中によって腐敗してしまうのは、必ずしも政治家や高級官僚や宗教家や資本家等の“強者”だけとは限らず、時に“弱者”もこの例外足り得ないという事だ。そもそも民主主義とは、“自由競争”にも“平等”にも偏り過ぎず、いずれの限度も弁えるべきとする中庸の理念に基礎付けられている(※尚、いわゆる“三権分立”や、“裁判は多数の者の利害や感覚によって左右されるべきものではなく、論理と証拠に基づいた理性的かつ合理的な判断でなければならない”といった法治主義の一環も、これら全ては自由、平等、博愛を同時に実現しようとする民主主義の根本理念によって基礎付けられている)。要するに、上の訴えは、飽くまで福祉社会の人的、物的、道義的な資源の有限性を踏まえた上での、人として至極当然な人倫の範疇という事だ。

 又、繰り返し念を押すが、そこには“オタク”であるか否かで人間性を判断する等といった暴論が入り込む余地は一切無い。彼が既に道を踏み外した人間の屑とか“破産級の糞”であるか否かを見極める事と、或いは彼が“弱者”であるか否かを見極める事と、或いは彼が“オタク”であるか否かを問われる事とは、それぞれ全く関係が無く、それぞれが独立した評価基準だからだ。

 言い換えれば、人間の屑や“破産級の糞”が罰される理由は、彼が罪を犯したからに他ならず、これと彼が“オタク”や“弱者”であるか否かは、全く関係が無い。同時に、人間の屑や“破産級の糞”が“オタク”や“弱者”であるか否かという評価基準によって情状酌量される道理も、決してあり得ない。何故なら、“弱者”や“オタク”とは、人間の屑や“破産級の糞”と無関係だからこそ、罪人が罰を逃れる免罪符にも決してなり得ないからである。“弱者”“オタク”であろうがなかろうが、罪人は罪人として罰されるべきなのだ。

※尚、私真田独自の“弱者”論、及び優生思想批判については以下リンク先エントリの後半部『※私鏑戯独自の“優生思想批判”』を参照あれ。