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▼2023年3月8日

『シン・エヴァンゲリオン:3.0+1.11』。

▽概略

 C-189~192、巨大なレイ(エヴァイマジナリー)の瞳を見て驚く北上の台詞、「これがアディショナルインパクト?変よ、これ。絶対、変!!」。

 C-398~403、ヴンダー艦尾、エヴァ改8+9+10+11+12号機に乗るマリの台詞、「神が与えた希望(虚構)の槍カシウスと絶望(現実)の槍ロンギヌス。それを失っても世界をありのままに戻したいという意志の力で創りあげた槍、ガイウス。いえ、ヴィレの槍。知恵と意志を持つ人類は、神の手助け無しにここまで来てるよ、ユイさん」

 いわゆる“人類補完計画”を阻止するという、この極めて重厚に創り込まれた筋書きが前面に押し出された庵野秀明監督の“エゴ”としての『シン・エヴァ』は、上に引用した北上とマリ、両者の台詞の意味合いの繋がりを感じ取らざるを得なかった私鏑木にとっては、個の自律性から多元的な集団文化ごとの自主権ばかりか果ては現生人類の命運に抗う“生きねば”までひっくるめた尊厳、いわゆるホッブス的な“自然権”にも通ずるようなテーマを核心とする超絶大傑作だった!!!

 且つ、映像は文句無しの“最先端”。私鏑木にとって『シン・エヴァ』の映像は見応え有り過ぎて困るレベル。恐らく、今後の息抜き時間を埋める貴重な選択肢が増えて嬉しい。つまり、繰り返し鑑賞し学び取りたいと思える位に超大好き。

 これ以上言葉にならないほど大満足!!!

 

▽『シン・エヴァ』のテーマを象徴する、各登場人物らの思想的な対の構造について

 上述した私鏑木の感想の“行間”を以下に補足する。

 まず、冒頭に引用した北上とマリの台詞は、以下に引用するゲンドウの台詞と、その意味合いに於いて対を成す。

 C-181~182、「(略)想像上の架空のエヴァだ。虚構と現実を等しく信じる生き物、人類だけが認知できる。絶望と希望が互いにトリガーと贄となり、虚構と現実が溶け合い、全てが同一の情報と化す」。

 C-292~295、シンジ「父さんは、何を望むの?」に対しゲンドウ「A.T.フィールドの存在しない、全てが等しく単一な人類の心の世界。他人との差異が無く、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみも無い、浄化された魂だけの世界。そして、ユイと私が再び会える安らぎの世界だ」。

 次に、それらがどう対を成しているかについて説明する。

 まず、上の二つの台詞でゲンドウが何を述べているか。それはまず、彼にとって人類とは、虚構と現実を認知できる地球上で唯一の存在だが、同時に他者同士の魂の違いという現実に苦しみながら、これを解消する虚構を理想視し続けるだけで実現には至れない欠陥も孕む存在だという事と、次に、よってこれを全て一つにし、苦しみを終わらせてやるんだといった人類補完計画の動機を述べている。

 そんなゲンドウの人類観に根拠を置く人類補完計画が標榜するところとについて、冒頭に引用した北上の台詞「変よ、絶対に変!」は端的に拒絶を表している。又、マリの台詞については、ロンギヌスの槍とカシウスの槍とをもってゲンドウが企てる虚構と現実との溶解、これを阻止し“ありのままに戻”すガイウスの槍をヴンダーに創らせて持ってきたよと述べている。

 では次に、ゲンドウの人類補完計画と、北上、マリの台詞とは、それぞれ何のメタファーなのかについて述べる。

 まずゲンドウの人類補完計画は、彼の台詞にある様に、A.T.フィールドで象徴される、自我と他者を隔てる境界、或いは多様な気候風土に規定された集団ごとの慣習、伝統、文化、宗教等の多元性、或いは端的に“国境”を全て取っ払ってしまえば、人類は愛憎や争いや不平等の苦しみから解放され、安らぎを得られるだろうと理想を掲げる、いわゆるグローバリズム、この国際政治学上の理想主義(リベラリズム)的な思想潮流に対する忌むべきメタファーとなっており、つまりはこれを批判、風刺している。

 次にそれに対するマリが携えて来た“ヴィレの槍”は、彼女の台詞にある様に、虚構と現実が溶け合わず、他者の境界や生き様が“ありのままに”あってほしいと願い、神という虚構に頼る事と現実を直視する事とを同時に受け入れる人類の知恵と意志、こういった多元的でプラグマティック(懐疑主義的)、或いは国際政治学上の現実主義(リアリズム)的な思想潮流に対する肯定的なメタファーとなっており、つまりはこれを讃えている。

 以上の解釈に従って、少なくとも私鏑木にとって、上に引用した北上とマリ、そしてこれに対するゲンドウの台詞とは、端的に、現実主義と理想主義の思想潮流的な葛藤を対照的に象徴するメタファーとして捉えられる。

 

▽『シン・エヴァ』に込められた“理想主義と現実主義の葛藤”について

 尚、本題から若干外れるが、その“理想主義と現実主義の思想潮流的な葛藤”について、いわゆる“景気循環”と戦争との関わりを論ずるマクロ経済的な視点から説明する。

 まず、理想主義としてのグローバリズムは、近代資本主義市場に於ける多元的な風土性や伝統性の違いを度外視し、超国家的で多国籍な金融の合理化、自由化の為の規制緩和、このいわゆる非関税障壁の撤廃を推し進める事によって、金融資産が全世界に分散し、国益同士の相互依存が深まれば、必然的に経済的なナショナリズムは雲散霧消し、国家間の軍事的な紛争も恒久的に抑止できるに違いないと、このような安直な理想を掲げては、むしろ世界大戦級の軍事的紛争を招いてきた。というのも、行き過ぎた金融の自由化は、資本家への富の集中を悪戯に助長し、経営者や労働者との格差の拡大が新たな社会分断を醸成し、よって不買、ストライキ、マフィア経済の拡大ばかりか家計消費の落ち込みで需要が縮小、供給が過剰となり(※いわゆるデフレ)、これが民間部門の投資需要が縮小に向かい始める転換点となり、必然的に資本主義市場の規模そのものが縮小に向かい、これがそもそも資本主義を支える民主主義の不安定化をもたらし、時に内政の不満を外敵に逸らし、あわよくば戦時特需に預かろうとする寡頭的な政治体制の台頭を許し、ここに至ればもはや多国籍金融による軍事紛争への抑止効果は全くの無力で、むしろ無責任に撤退するか、新たに軍需投資に向かって戦争を煽り始める、こういった裏目となる。

 これを更に経済学的に換言すると、いわゆる“規模・範囲の経済”とか“費用逓減・収穫逓増”などと説明されるところの、つまりは生産設備の稼働率を可能な限り最大に維持しなければ、この設備投資分に見合うだけの生産効率、コスト削減、投資回収すら決して見込めないという限界を本質として孕む資本集約型産業は、仮に市場に於ける不確実な需要の減少が起こった場合、これに対し弾力的に供給量の縮小を判断、調整する事が困難なのであり、更には仮に市場に於ける新たな需要の誕生や開拓競争が起こった場合、やはり同様の理由で、新たな生産体制構築の為の設備投資への転換を判断する事も困難とならざるを得ないのだが、ここで比較的に資本集約の“規模・範囲”が小さい中小企業の経営的な柔軟性や技術面の多様性こそが、その大企業の本質的な限界を補填する意味で重要な役回りとなるが、一方のグローバル投資家の本質的な利益追求の志向性としては、より短期的で且つより効率的な利益の最大化、回収を求めるので、従って彼らはそもそも大企業と中小企業、そして労働者とで信頼関係が継続できてこそ初めて産業の成長ばかりか利益の拡大も成立つという長期的な経営・投資戦略への関心が甚だ乏しく、あたかも投資先の企業や人材を使い捨てが可能な金のなる木として捉えるかの様に、例えば特定の技術特許や人材の獲得だけを目的とし、大幅なリストラも想定した中小企業の買収や、企業側に過度に有利な労働雇用契約への刷新で人件費削減を迫る等の経営面への干渉を強めるようになり、この結果、市場の需要の多くを占める労働者層の購買力が弱まれば必然的に企業は供給過多による不採算に陥り、いわゆる市場需給均衡論の象徴たる“神の見えざる手”の幻想が崩壊した実際としてのデフレ不況が展開、こういったマクロ経済的な観点が欠落したグローバル投資家は、尚も自らがデフレ不況の元凶だと自覚できないまま、新たな投資先を血眼に探し回り、特に金融規制や自由貿易規制等の非関税障壁、この経済的な自主権を保守し続けている経済圏を“ならずもの国家”と位置付ける様に、為政者を選挙活動等で買収して働き掛け、やがては世界経済を戦時経済に至らしめ、新たに軍需産業への投資に邁進する様になる。つまり、グローバル金融利得者にとっては、長期的で緩やかなインフレ成長よりも、短期的で急激な相場変動の方が都合が良いという事だ。

 又ここで留意すべきは、まずは、反戦や有事勃発を抑止するいわゆる軍事均衡論的な財政思想に基づく“軍備”への財政投入と、片や、上述の様に有事勃発や戦況の延長を煽って戦争の様々な犠牲を食い物にして荒稼ぎしようとする軍需産業への金融利得者と、これらの志向性の根本的な違いを理解する事だ。“軍備”への財政支出は飽くまで戦争勃発を抑止する“反戦”の一環に他ならず、逆にここで批判しているのは戦争勃発や戦況の延長を煽り、大量の戦争の犠牲者の死をもって荒稼ぎするグローバル金融利得者である。現下のウクライナ侵攻情勢に於いてもこの停戦協定妥結を阻もうと、この極めて非人道的な情報戦に躍起なウォール街の連中のロビー活動、ロックフェラー、ロスチャイルド。かの名作『シンドラーのリスト』の終盤では、当時の戦時経済下でナチスと大英帝国の双方に対して軍需投資し暴利を得ていたユダヤ系の資本家、この犬として動き回る事でしか、兵站供給事業者としての雇用契約を盾に自らのユダヤ人労働者らをナチスのジェノサイドから救出する事すら叶わなかったと、この罪悪感に打ちひしがれ涙するナチス・ドイツ人のシンドラーが描かれたし(※従ってこういった当時のユダヤ人の戦争加害と被害とを一つの物語の枠内で十全に描き切ったユダヤ人のスピルバーグは偉大だ)、又、こういった戦時経済下のダイナミズムのしわ寄せを喰らう事業経営者や他多くの戦争犠牲者を食い物にして富を築いた、その後の“有力者”の欺瞞に満ちた名誉を根こそぎぶち壊してやろうという反骨の筋書きと批判のテーマが魅力だった名作は『インサイドマン』だ(※この企画を成功させたハリウッドとこれを擁するアメリカの興行文化のダイナミズムは真の賞賛に値する)。

 要は、戦争は決して起こしてはならないからこそ、これを自衛、抑止する為の備えは国家の礎として位置付けざるを得ないし、これは決して軍事面だけでなく、いわゆる資本主義の暴走や“経済戦争”の激化や予兆を精力的な行政の適度な金融規制によって抑え込むといった、平時の民主主義的な備えも試されるという話だ。

 又、そういった軍備への財政投資と並び、防災、流通、エネルギー等の基幹インフラに対する財政投資、いわゆる国土強靭化の行政戦略こそが、そもそものデフレ、この金融市場に於ける極めて幻想的なレバレッジ文化の暴走による自由経済市場全体の投資需要の縮小を尻拭いし、“最後の貸し手”としての政府部門の需要喚起が民間部門、自由経済市場全体の投資需要を増大に転換(※デフレ脱却)させ、再び緩やかなインフレ傾向を持ち直させる、こういった言わば鼓腹撃壌、“現実主義”的な平和維持の路線がマクロ経済学上では提示されるのだが、実際の人の世は金融資本がでっち上げる目先の“理想主義”に騙され、戦争に突き進みがちだ。

 つまり、民主主義の堕落と、資本主義の暴走とが“経済戦争”の激化から有事勃発を招き、ひとたびこうなってしまえば、もはや非人道な戦時下の資本主義の泥沼から引き返す事もままならなくなってしまう。こうしたいわゆる“金融の合理化・自由化”“グローバリズム”という理想主義の弊害の側面を、人類は現下のウクライナ侵攻情勢から学び取るべきだと、私鏑木は心底思う。

 尚、以上に関する参考文献は以下のとおり。

●『危機の20年』E.H.カー著

●『大転換』カール・ポラニー著

●『日本経済学新論』中野剛志著

 さて本題に戻るが、つまり、国際政治学上の“理想主義”、リベラリズム、つまりはグローバリズムへの無批判な傾倒は、目先の理想と引き換えに長期的な不和や未来の戦争や圧倒的多数の犠牲も招きかねないので、同時に“現実主義”的な観点も踏まえる、この言わば中庸が標榜されるべきなのであり、このレベルまで達観されたテーマ性を大衆娯楽の枠組みで幾分誇張し、分かり易く表現した大傑作の例として『シン・エヴァ』も充分に挙げられるという話だ。

 要は人類平和を守る為には、適度の“A.T.フィールド”が必要不可欠という話である。

 

▽『シン・エヴァ』は、庵野秀明が宮崎駿の思想性を継承する決意表明だと解釈する点について

 又、以上の“現実主義と理想主義の葛藤”のテーマ性は他でもない宮崎駿・作『風の谷のナウシカ』も共有しており、つまり『シン・エヴァ』がこれを“継承”したとも解釈できる。

 尚、その“現実主義と理想主義の葛藤”は、いわゆる“万人の万人に対する闘争”とか“自然権”で象徴されるホッブス的で近代的な“人権”の基盤となる哲学、このある種のプラグマティック(※懐疑主義)な洞察に端を発している。

 というのも、まず“万人の万人に対する闘争”とは、いわゆる“基本的人権”という近代西欧的な理念を説明する際の、次の様な洞察を貫く前提だ。つまり、そもそも人間という存在は、集団の秩序が全く無い原始の自然状態では、外敵や夜盗や野生動物等の脅威に無防備だから決して満足に生き延びる事も死に方に恵まれる事も叶わず、つまり生存本能を追求する“自然権”を十全に充たす事が出来ないので、必然と集団(※部族、領邦、国家等)に属す様に判断せざるを得ず、この成員が自らの生存権を信任、付託して成立する中央集権的な権力・権威と、これが従える軍備に裏付けられた法治主義、この集団の秩序から生存上の恩恵を受ける様になるが、従って同時にこの集団や権力は、どこまでもこの成立の根拠たる個人の生存に係る基本的な権利、すなわち生存権を決して侵害してはならない(※権力を法で拘束する“法の支配”)。要は、人間はこの本質として、仮に原始状態に置かれれば、自らの生存本能を掛けて互いに闘争し合わざるを得ない程に、飽くまで“個”の限りに於いては理性的に脆弱な存在に過ぎないから、従って、生まれ落ちた集団の秩序に規定された己の人生を基本的に受け入れるしかないし、そもそもこの様な沿革を帯びる国民国家等の集団の秩序の極めて現実的な意義を一定に尊重せざるを得ないが、同時にそんな集団の紐帯から逸脱して他の集団に転属したり、集団そのものから頑なに距離を置いて仙人の様な隠遁を貫く生き方も“自然権”が許容する範疇なのであって、つまり必ずしも集団の紐帯に依存する生き方、いわゆるナショナリズムそのものに絶対的な原則や意義や価値があるとも限らない。少なくとも、それくらいのダイナミックレンジで“生存権”の根本を捉える視野が無ければ、自ら属する紐帯の中枢の腐敗を監視・批判する事すらままならず、よって自らの生存権を信任・付託した権力機構の健全性はおろか、自らの生存権そのものまでが脅かされかねないという懐疑主義、プラグマティズムの論点にも繋がるという訳だ。

 果たして、上述した様な懐疑主義、この自ら属する社会の中枢に未来を託せるか否かを検証し続けるという意味では、物事に絶対的な原理原則は決して存在し得ないとする観点を、日本古来の風土性に照らせば“もののあはれ”とも言い換えられ、又この言わば“現実主義”的な観点で生命の自律性、つまり“自然権”の尊厳を物語った『風の谷のナウシカ』に於いて、このテーマ性を象徴するナウシカの最後の台詞こそが“生きねば”だった。

 つまり以上をまとめれば、『シン・エヴァ』と『風の谷のナウシカ』は“現実主義と理想主義との葛藤”、“ホッブス的な自然権”に端を発する“プラグマティズム”、これらをテーマの根幹に秘める思想性に於いて一致する。従って『シン・エヴァ』は、庵野秀明が宮崎駿の思想性を継承する決意表明の側面が濃厚だと、私鏑木は解釈する訳だ。

 尚、これを端的に言い換えれば、さしずめ『シン・エヴァ』のゲンドウの思想性は『風の谷のナウシカ』の墓所の古代人のそれに相当し、又『シン・エヴァ』の葛城ミサトやシンジ含むヴィレ勢を結束させた思想性は『風の谷のナウシカ』のナウシカのそれに相当するとも言える。

 又、この“継承”云々を根拠とするところから、私鏑木は、俗に『シン・エヴァ』のテーマが庵野秀明の宮崎駿に対する、いわゆる“師匠殺し”“父親殺し”だなどとみなす解釈は、その実、庵野秀明の分身の一人に他ならないゲンドウを、同様の分身たるシンジが葬り去るという物語の内実を見落とし、どこまでも表象だけに鑑賞眼を奪われたが故の、もはや誤謬に過ぎないとも考える。少なくとも、ゲンドウの台詞から読み取れる、いわゆるグローバリズムを隠喩するが如き彼の思想性と、一方の宮崎駿の“もののあはれ”的な思想性とは、互いに方向性が真逆であり、従ってゲンドウが宮崎駿ではない事だけは確実と言わざるを得ない。ならば『シン・エヴァ』に込められたテーマとは、決して“父親殺し”ではなく、どこまでも“庵野秀明自身の葛藤の克服”であり、且つ“人類の思想潮流的な葛藤”の筈だと、私鏑木は解釈する。

 つまり、『シン・エヴァ』の“父親殺し”というモチーフ、この表層の構造から、よりにもよって庵野秀明の宮崎駿に対する“師匠殺し”を連想し、片や、庵野秀明自身の自己葛藤を見出せない“俗説”とは、宮崎駿と庵野秀明の師弟関係に於ける思想的な繋がりや庵野秀明の内観哲学的なバックグラウンドに対する無頓着、無知の産物に過ぎない。

 尚、かつての“旧劇エヴァ”もグローバリズム批判は濃厚だったが、『シン・エヴァ』ではこれを更に分かり易く、より確実に鑑賞者に伝える仕上がりとなっており、これを庵野秀明独自の思想性の変化・成長と解釈する事も可能だ。

 

▽“エヴァからの卒業”について

 最後にもう一点。

 『シン・エヴァ』が批判する理想主義、リベラリズム、虚構には、当然“アニメ”や“エヴァンゲリオン”自身もメタ的に含まれると私鏑木は解釈する。つまり、国際政治学上では理想主義の無垢と現実主義の不毛とが互いに依存し合う事によって初めて、人類平和の礎が整うと言われる様に、大衆社会に於いてもアニメ等の虚構の消費と実生活とのバランスを崩せばろくな結果にならないが、同時にこれらがいずれも人々にとって必要不可欠だというメタ的なテーマ性が同時並行的に表現されていると私鏑木は解釈する。只、その後者の部分だけ殊更フォーカスしてしまう場合、ともすれば『シン・エヴァ』のテーマが“エヴァから卒業して恋人作って結婚して本当の幸せを掴め”といった訴え“だけ”にあると断定的に矮小化し易くもなるだろう。勿論、その解釈自体は間違いじゃないが、同時にその解釈“だけ”で済まされてしまうのはあまりにもったいないし、より幅広い解釈の余地を見極めたいものだ。だからといって、上述の私鏑木独自の解釈が私以外の他人にとっても“正解”だなどと押し付ける意図は一切無い。『シン・エヴァ』の感想を巡る、人それぞれのA.T.フィールドが尊重され合う限り。因みに、私鏑木にとって、あの終幕間際の宇部新川駅でシンジとマリが「行こう!」と駆け出すシーケンスは、エヴァイマジナリーのマイナス宇宙から二人が帰還した事によって起こった因果律の改変の結果として解釈される。つまり、同シーケンスは『シン・エヴァ』という物語の結末として見事に組み込まれた、いわゆる“超弦理論”も踏まえたSF的なエピソードの一環に他ならず、逆に何ら脈絡も無く、唐突なメタ表現を意図しただけのシーンなどとしては、決して映らなかった。従って、私鏑木にとっては、そこから当然の如く読み取れる“エヴァからの卒業”云々のテーマ性についても、どこまでも数多くある内の、比較的に表層部にあたる一つに過ぎないとまで位置付けられる。尚、これも又私鏑木が『シン・エヴァ』を初鑑賞した余韻に従った個人的な感想に過ぎない。

 

▽結論

 ともあれ、以上の補足を終え、改めて述べる。

 これ以上言葉にならないほど私鏑木は『シン・エヴァ』に大満足!!!

 

▼2023年3月5日

 『進撃の巨人 ファイナル完結編前編』


 40:25~、ライナー「終わりにして欲しい、誰かに…」に対するミカサの「え?」のASMR感が大好き。
 45:53~、キヨミ・アズマビトの横顔を描く“線”が凄く良い。これは直後の46:45~彼女の以下の台詞を強調する為なのか、このカットだけ原作の画風に沿った“線”の誇張を廃していたので一際新鮮に映り、意表を突かれた。

 曰く「どうして、失う前に気付けないものでしょうか。只、損も得も無く、他者を尊ぶ気持ちに…」
 さて、私鏑木は『進撃の巨人』アニメ化企画の終盤が、まさかのウクライナ侵攻という世界経済に大打撃な大戦争と時期を同じくしてしまった暗澹たる事実を意識せざるを得ない。さしずめ、51:00~「ここが人類に残された最後の砦」となった飛行船基地と、ここに駆けつけたアルミンらパラディ島勢力こそは、私鏑木にとっては、現下の泥沼化し続けるウクライナ情勢の露・宇の双方とこれを無責任に軍事支援し続ける全世界に対して一刻も早い停戦協定妥結を、飽くまで表現の力で呼び掛けるが如きアニメ制作スタジオMAPPAの威風堂々たる姿と重なって見えた(※飽くまで私鏑木個人の見解です)つまり、少なくとも私鏑木にとって『進撃の巨人』という原作から読み解ける人類平和への希求のテーマとこれをアニメ化するMAPPAからは、それだけ絶大な意義と表現力を改めて確信できた。
 尚、以下に述べる感想の本題は、『進撃の巨人』本編中で“地ならし”を決行したエレンという主人公、これによる風刺の対象は、現下ウクライナ侵攻情勢に於けるプーチンだけとは限らず、むしろゼレンスキーやこの退路を塞ぎ続けるアゾフ連隊やこれを軍事支援し続ける欧米諸国とこれを股に掛けるグローバル金融資本もその例外ではないという、私鏑木独自の視点を軸とする。又これに関しては、かつての旧米ソ冷戦期のソヴィエト共産主義経済と、現下のロシアの資本主義経済とを見分ける事すら出来ない部類からの嘲笑を歓迎するものである。

 というのも、まず実際のプーチンは虚構のエレンとは違い、停戦交渉への意欲を幾度もウクライナ及び欧米諸国に伝えている。又、『進撃の巨人』も隠喩ですら描かない多国籍金融利得者が仮に実在するなら、彼らは露・宇戦争が長引くほど戦時特需で儲かる。そんなサイコパスなグローバル守銭奴に対して、先のキヨミ・アズマビトの台詞は所詮、焼け石に水程度に非力な道徳論でしかない事も確かだ。しかし同時に、例えば昨今、千羽鶴をウクライナに送りつけるとか、又はロシアがウクライナ侵攻を決断せざるを得なかった背景として、予てからNATOの軍事的な東方拡大とこれに継ぐ欧米諸国の金融攻勢の不当さがロシアの自主権を脅かしてきた重大な経緯を無視し、ウクライナ一方のみを哀れむ視野の狭い感情論だけで、目先の報道される映像が現状の全てと勘違いする安直さとか、又何よりも露・宇双方の若い従軍者や民間人が決して反戦を公けに叫べずに日々命を落とし続けている不条理を省みずに、ある意味EU諸国の盾、もとい斥候として利用されているとも言えるウクライナの、つまり極めて根拠の曖昧なウクライナの“自主権”の為に無責任な軍事支援を続けるとか、これらの非人道の数々と比べれば、私鏑木は断固として『進撃の巨人』の反戦に向けた“非力”の尊さを讃えざるを得なくなる。
 尚、核保有する当事国を巻き込んで戦争が勃発した時点で、この双方は共に外交的に敗北している。何故なら核保有する対立陣営の間で軍事的な決着がつく事は理論上有り得ず、つまり有事勃発への抑止力としての本来の効果を見込めない核の脅威の下で、軍事支援のエスカレートによる戦況の泥沼化が只悪戯に延ばせるだけ延ばされる事と、これによって互いの国民経済が犠牲になり続けるという国力の弱体化の顛末は必定だから。それでも尚、露、EU、米が互いに自衛権としての核をちらつかせ合うようになる極限に至るまで、この戦争を軍事的に支援し続けるべきとする正当性の根拠が、一体何処にあるというのか?一体全体、応援すべきウクライナの自主権の根拠とは、欧米諸国の金融利権なのか、或いは極寒、飢餓、劣悪な衛生環境、治安の崩壊等から解放されず、明日生き残る事すらままならないウクライナ国民に差し迫る想いなのか、どっちであるべきなんだ?
 少なくとも、現下の戦況の泥沼化への加担は、あたかも我を失った“無垢の巨人”という虚構とも重なって映る。
 尚、エレンが“地ならし”を頑なに止めなかった理由の無謀さについては、この先の後編で明かされるネタバレとなってしまうので、ここでは伏せる(※ここには更に別の論ずべきテーマが暗喩されている)。

 以上の様に、果たして私鏑木は『進撃の巨人』という虚構から、現下のウクライナ情勢に於ける戦況の泥沼化を支援するのか、或いは停戦妥結を望むのか、いずれを学び取るべきなのかを、鑑賞中、考えずにはいられなかった。従って私鏑木にとって『進撃の巨人』は、もはやこの原作力やアニメ化の偉業を只讃えるだけでは済まされず、ある種の背徳感を抜きにしては決して鑑賞が成立しない類の超大傑作となってしまった。“反戦”とこの為の軍事均衡論的な現実主義とのテーマを見事に昇華した同大傑作を讃えたい喜びと、片や戦争の現実に絶望する悲しみとが混在する、決して心地良いとは言えない鑑賞の余韻。尚、その“背徳感”をメタ的な表現で自覚させてくれるシーンとして、13:00~アニがアルミンに対して照れた直後に我に返って放った台詞を挙げたい。曰く「本当に何やってんだろう。今、世界中で何千、何億の人が踏み潰されてる最中に、私達・・・」。私鏑木はこの際、『進撃の巨人』云々とは関係なく、ロシアとウクライナ双方の国民的な悲劇に想いを馳せると、いたたまれなくて仕方がない。
 勿論だからこそ切実に、後編が楽しみ!

 MAPPA頑張れ!!!

 

▼2023年2月15日

 『レヴェナント』

 毎年冬になると、部屋の暖房を敢えてOFFにしていっぱい着込んで、白い息を吐きながら鑑賞したくなるほど大好きな映画。 特筆すべきは、この映像にあの音楽を着想し、見事に合わせた坂本龍一のセンスは正に世界級にやばぃと観る度に感嘆する。 勿論、本編テーマの無常観もやばくて最高!!!

 『ミッション(※デニーロ主演)』『ギャング・オブ・ニューヨーク』『オーシャン・オブ・ファイヤー』等と並んで、アメリカ新大陸に文明が入り込んだ頃の歴史とかルーツとかいったものをリアルに感じ取れる部類の中で最も大好きな映画のひとつ!

 

▼2023年1月21日

 『ハケンアニメ!』をNetflixで初鑑賞。

 結論から述べると、私鏑木はこの映画、何だかんだかなり気に入った!!!
 架空のTVアニメシリーズ企画の売上げの覇権を競い合う、2陣の座組みそれぞれの大手企業プロデューサーと監督との人間ドラマを主軸に、製作スポンサー、制作スタジオ(作画、音響、制作進行)、声優スタッフ、そしてアニメ視聴者たる大衆とこの代表としての少年少女たちまで含むアニメ業界の全体像を、どこまでも御伽噺テイストの脚色を介して総覧するが如き群像劇。
 従ってこの際、映画『ハケンアニメ!』の“御伽噺テイスト”の脚色、フィクションの部分に殊更目くじら立てて、さもリアリティに欠けるなどと表面的な批判に意識を奪われる事は、同映画のテーマや企画の意図をより深く汲み取る上では一重に野暮でしかないと思うし、かく言う私鏑木は鑑賞後に“感謝”の余韻を味わえた。何故“感謝”かと言えば、映画『ハケンアニメ!』は、この原作小説が映画化された経緯を好意的に憶測する限りでは、日本映画業界から日本アニメ業界に対するエールとして直感させるのに充分な脚本が印象的だったし、これが一介のアニメ消費者に過ぎない私鏑木の心にも痛く刺さったからだ。或いは、決して同業者による内輪の馴れ合いを読み解き様も無い、より客観的に物語る視点が担保されているという安心感、これこそが、私鏑木が『ハケンアニメ!』をどこまでも嫌いになれない決定的な根拠ともなった。
 というのも、まずは絵コンテ制作のモチベーションに、アニメに心を救われたそれぞれの過去を堅持しつつ、同時により多くの視聴者に届く、売れる、成功する企画に仕上げるよう大手スポンサーから要請され、ジレンマを抱える二人のアニメ監督と、彼らを支え、理解し、時には鞭も打つ二人のプロデューサー、この同時並行で描かれるそれぞれの際どくも逞しい信頼関係がとにかくカッコ良いのだ!!!更に監督と作画スタッフ、監督と声優(※高野麻里佳が役者を務める)、監督と視聴者の少年、…等々の信頼関係の描写も、当然脚色も濃厚だが、それぞれのドラマが丁寧に描かれる。特に、架空の声優役を担当する実際の声優に「日本一の客寄せパンダになってやる!(1:21:00)」の台詞を言わせり、「全然かわいそうじゃない!(1:27:00)」と叫ぶに至る新人監督の一連の台詞の辺りは、人間ドラマとして普通に感動できた。いじめられてた少年が我が作品に興味を持った事をきっかけに友達の和に打ち解けられた顛末を目にして涙と奮起を得る新人監督という、このやや緩いオチもこの際ご愛嬌、むしろ素直に受け止めたくなる。そしてスタッフロール後のCパート(?)でしっかりと実績をモノにする有能なプロデューサーの抜け目無いカタルシス、やっぱ彼がこの映画の主人公じゃんってくらいキャラが立っててカッコ良かった!!!
 又、そもそも物語の主軸たる覇権競争の推移がアニメ風味に演出されるあの視覚効果には、この独創的なアイディアに至るまでの、野心というよりは困難さを窺い知らされた。要するに映画興行の表現として、このある種マニアックな事象を如何により多くの鑑賞者向けに成立させるかという試行錯誤の痕跡が、私鏑木には見えたような気がした。
 又、劇中で最も笑えた場面は、王子監督作『リデルライト』第6話が新人監督作『サウンドバック』に視聴率で勝った結果を受けて、おそらく製作委員会大手スポンサーの面々が大喜びするシーン(1:04:00)、この何とも愛嬌たっぷりで憎悪を忘れさせる(笑)イマジネーションだけで『ハケンアニメ!』を観た甲斐があったと極論したくなるくらい笑ったw 
 又、覇権争奪戦の“発端”を印象付ける為にかなり誇張されたシーンとして、春のアニメフェスのメインイベントで天才監督と新人監督が公開対談するという描写があるが(34:20~)、これはある種のコメディ演出として受け止めるのが正解だと思うし、仮にこの時点でサジを投げて鑑賞を打ち切ってしまうのは、あまりにも惜しい。
 いわゆる“覇権アニメ”というフレーズを嫌う先入観だけで倦厭してしまうにはあまりにももったいない、極めて良質な日本映画だと、私鏑木は強く思う。

 

▼2023年1月17日

 『ブレイブワン』。ジョディ・フォスター主演。

●あらすじ概略

 教養あるラジオDJが夫と公園を散歩中に暴漢に襲われ、彼女は命をとりとめるが、最愛の夫の命は奪われた。警察による犯人の捜査が行き詰り、怨みが解かれずに苦悩する日々の彼女には“無法者”の全てが憎悪の対象として映り、遂にはタガがはずれ、私刑を繰り返すようになる。有能な刑事が彼女の犯行を疑い始める中、最愛の夫を殺した犯人の身元が割れる。果たして彼女の心は救われるのか?彼女を追う刑事が行き着く先に見出す答えとは何か?っちゅー映画。

●『ブレイブワン』と『ジョーカー(※或いは『タクシードライバー(1976年公開)』、ジョディ・フォスター繋がりなだけに)』とに共通するテーマ性の本質
 私鏑木は『ブレイブワン(2007年公開)』を『ジョーカー(2019年公開)』と同じテーマ性の傑作として位置付ける。何故なら、まずそれらに共通するテーマ性とは、言わば階級制化とも呼ぶべき社会分断、このあたかもホッブス曰くところの“万人の万人に対する闘争”の如き無法地帯化の兆し、果ては文明を崩壊させる脅威足り得る貧富の格差拡大の放置、この行政の怠慢に対する警鐘とも看做せる。そしてこの際、怨み、私刑、闘争等が蔓延る中で、いわゆる“無敵の人”に変貌する立場は必ずしも貧困層だけとは限らず、この状況に巻き込まれざるを得ない富裕層やエリート層からも“ジョーカー”は輩出される。言わずもがな“ジョーカー”とは、依然と法治主義の理念が社会秩序として一定に形を留めている鑑賞者の現実から、既に法治主義の理念が機能不全に陥り社会正義やモラル等の一般通念の根拠の一切が喪失された無法地帯をシミュレーションする虚構を眺める際に浮上するカルチャーショックの象徴であり、このジレンマの擬人化だ。只、これに“貧困層”の身の上を不動の前提として見過ごすのは安直だ。そもそも無法地帯では私有財産権をはじめとする人権の一切が省みられなくなるので、ここではもはやナショナリズムという精神的な紐帯はおろか、階級文化そのものが暴力に屈し、木っ端微塵となる。従って、貧富の格差が行政に放置されたまま行き着く先の無法地帯で蔓延る“万人の闘争”による怨恨の連鎖には、もはや貧富や階級の垣根すら存在し得ない(※但しこの民主体制の崩壊を挽回して再び一定の社会秩序を取り戻す手段として全体主義や軍事独裁体制への転換がある。つまりこれは、かつて「衆愚政治が独裁者を生む」と民主政の限界をプラトンが指摘したところの再現に過ぎない。そこでは、まるでノブレス・オブリージュを声高に叫ぶ貧困層にのみ社会正義が宿るなどと幻想しがちな自由・平等・博愛、この近代の発端をなす美徳の一切が根本から覆り、再び相対化される。そもそも民主政で信任・付託された権力を監視する又一つの権力に他ならなかった筈の民衆自身が、この立場に伴う近代的な権利意識や精神性に耐えられず、むしろ自ら民主政を放棄し、再び無法地帯や独裁制や寡頭制を招くようになるといった、いわゆる“歴史は繰り返される”という話)。要は、“ジョーカー”の本質として、この素性に貧富の違いは関係ないので、映画『ジョーカー』のテーマの本質を十全に理解する為には、富裕層、エリート層から輩出される“ジョーカー”を描いた『ブレイブワン』も併せて観る必要があると、私鏑木が独断したって話だ。

 尚、“バットマン”は正義の価値が相対化される事に苦悩する富裕層であり、飽くまで“ジョーカー”になり切れない、憎悪の連鎖の傍観者に過ぎないので、本稿が指摘するテーマ性の本質からは外れるし、又この“ダークヒーロー”という切り口の、あらゆる意味で浮世離れした荒唐無稽さが私鏑木にとっては、所詮は腑抜けた理想主義者の泣き言、人類文明への洞察の薄っぺらさ、不誠実、不毛、幼稚にも映るという意味でどこまでも注目に値しないし、従って論じる気にもなれない。勿論エンタメの一種として興味が全く無い訳ではないし『ザ・バットマン(2022年公開)』はロバート・パティンソン主演という事もあって充分に楽しめた。だがこの際、論じるに値するのは正義の価値の相対化を包摂する更に先にある、疑わしき正義を尚も貫く勇気の尊さではないかと気付かせてくれ、前向きな気持ちにしてくれるという意味から、私鏑木は『スペンサー・コンフィデンシャル(2020年公開)『6アンダーグラウンド(2019年公開)をお薦めする。

●『ブレイブワン』的なエリート層から輩出される“ジョーカー”も入り乱れる民主制の没落像、ここから反動される私鏑木の人類平和希求論

 ところで軍事的、且つ経済的なナショナリズムの近代的なあり方を、自主独立国家の維持と発展の拠り所としての権力機構が疎かにし続ける場合、当該国家はやがて民族アイデンティティに依拠するナショナリズム、このどこまでもロマン主義的な理想でしか集団の紐帯を維持できなくなり、この現実逃避的な不健全さが近代国家としての強靭さを削ぎ、国家の自滅的な弱体化に直結する。挙句は旧統一の様に愛国保守を偽装したカルト宗教に篭絡され、保守派を自称する政党、メディア、論壇、国民世論がひとまとめに洗脳され振回されてしまう。いわゆる“美しい国”の美辞麗句だけにほだされて、足元の“失われた30年”の現実を直視しなくなる様な愚か過ぎる国には、もはや未来を期待する資格すら無いという事だ。つまり、これは他でもない日本国の話。

 翻って『ブレイブワン』や『ジョーカー』の舞台である米国では、『ギャング・オブ・ニューヨーク(2002年公開)』他多くの映画を通しても理解できるとおり、そもそも複数の言語・宗教・民族的なアイデンティティが共存しているので、これが合衆国全体を繋ぎとめる精神的な紐帯、つまりナショナリズムに寄与するところは殆ど無いし、むしろ弊害ですらある。この意味で根っからのリベラル国家たる合衆国に特有の統治的な課題に於ける緊迫感こそが、同国が国民統合を維持する上で軍事的、且つ経済的なナショナリズムの重大さを片時も忘れられない最大の原動力として機能しているし、この事情は中国共産党独裁体制も実質的に同じだろうと、私鏑木は考える。つまり両大国の対立は、決してイデオロギー闘争ではなく、飽くまで覇権の版図を奪い合う軍事的、且つ経済的な闘争として、より現実的に捉えるべきとも考えるし、これは旧米ソ冷戦構造、現ウクライナ侵攻、他全ての戦争の歴史にも一貫する本質に他ならない。

 つまり戦争を回避し、人類平和を標榜する上では、平和憲法や非戦の誓いなどという理想主義はもとよりロマン主義的な民族アイデンティティ“だけ”に依拠するが如き狭量で脆弱な部類のナショナリズム程度のものは全く役に立たず、むしろ弊害だ。ならば、まずは他の何よりも軍事的、且つ経済的なナショナリズムの理念と実際(法的、公共財的、技術的、情報的、人的な備え)への恒久的な財政投資こそが、個々の独立国家とこの行政機構が対内・外共に果たすべき最低限の責務だとする軍事均衡論、この近代的な平和論の現実主義的な本筋に、敗戦国日本もいよいよ向き合い直さなくてはなるまい(※国家経済の総体として投資需要が縮小傾向にあると看做せる限りの“デフレ不況”時には、その財源は税制ではなく国債に依るべきという条件付の平和希求論。尚、以上が日本国の為政者によって運用される未来など更々期待しない)。
 『ブレイブワン』と『ジョーカー』に共通するテーマ性の本質から感じ取った、近代的な民主政、これ故の没落、無法地帯化の救いの無さとでもいった風な暗澹たる余韻が、以上の様な犬も喰わぬ人類平和希求論を、私鏑木に反動させた(笑)。つまり、私鏑木にとって『ブレイブワン』は決して前向きな気持ちにしてくれる様な映画ではないが、同時に人類への洞察力と思想性と脚本力に優れた素晴らしい映画だ。
 そして最後にこれだけは言いたい!!!ジョディ・フォスターの熱演がカッコ良過ぎて惚れ々゛々しちゃった!!!

 

▼2023年1月15日

 遅ればせながらNetflixで『王様ランキング』全話(1~23話)を初鑑賞。

 人を疑う賢さと、人を信じる勇気と、人を思いやる優しさとを、全てバランスよく盛り込んだ冒険活劇。

 極めて良質なアニメーションが、そのテーマ性を贅沢に支え、観る者の直感を揺さぶる。

 一見して、大人目線からはややくどいと思われるかもしれないほど頻出する涙の描写は、しかしこのくどさこそが『王様ランキング』に込められた慈悲、共感、優しさ、これらが時に他の何よりも優り得るという理想的な価値観を、理屈を超えた視覚、直感に訴える。これが尚も様々な登場人物たちの立場、利害の違いを超えて解決の道を進もうとする賢さ、この理性的な意欲をも観る者に掻き立て、又この投影としての主人公を応援させる。従って私鏑木は、『王様ランキング』の原作漫画とアニメ化の脚本は、極めて良質で完成度が高いという感想を得た。

 尚、流血描写も容赦なく、安易には“お子様向け”アニメとしてお薦めし辛い。

 しかし、恐らく連載漫画形式の原作に忠実だった分だけ多少説明っぽい台詞回しとなっている点が気になってしまう人には気になってしまうだろう点は、むしろ親子一緒の鑑賞シチュエーションでは良いコミュニケーションのきっかけともなるだろう。

 又、私鏑木は『王様ランキング』原作漫画は未読の上で、恐らく同作特有の不思議な物語りの調子を尊重しつつもTVアニメシリーズ2クール構成にまとめ上げた脚本家や絵コンテの仕事を大絶賛したい。

 私鏑木にとってアニメ『王様ランキング』は良い意味で“ホラー”だった。何故なら私鏑木にとって、まずこの種のアニメは、いわゆる童心に帰り、頭を空っぽにして理性の防壁を取り払い、感情丸裸で鑑賞したくなる訳だが、ここに予測困難なタイミングで極めて良質な“泣き”の共感を刺激するアニメーションカットが容赦なく迫ってくるからだ(笑)。アニメ『王様ランキング』の鑑賞は、自分の涙を見せたくない相手と一緒の場合は極めてしんどい拷問とも成り得るが、逆に自分の涙を分かち合いたい相手と一緒の場合は夢心地の時間ともなるだろう。

 更に細かい感想やネタバレは、ここでは述べない。前情報が極力少ない状態がより楽しめる、そんなアニメだと思うから。

 

▼2023年1月12日

 『水星の魔女』第12話「逃げ出すよりも進むことを」

※以下の感想にはネタバレと、大よそ見当違いな憶測、予想も含まれる。
●あらすじ概略
 御三家CEOらが裏で結託し、プラント・クエタで決行したデリング総裁の襲撃テロは、非実戦仕様で兵装された改修版のエアリアルとこれに搭乗したスレッタとによって防がれ、未遂に終わった。
 しかし、襲撃作戦が失敗したという報を受けるシャディクの表情は歪む事無く、尚も想定通りの成り行きを眺めるかの如く平静を保つ。
 ジェタークCEOは爆死、デリング総裁は重傷、他、プラント・クエタの設備と人員が多大な損害を被ったテロ現場にカテドラル直轄のドミニコス、通称“魔女狩り部隊”が艦隊を引き連れて駆けつける。
 果たして、プラント・クエタでの総裁襲撃テロの責任問題はカテドラルによってどのように裁かれ、これに伴うベネリットグループの変革はどのように進むのか?

 (株)ガンダム、エアリアル、スレッタ、そしてグエルの運命や如何に?!
●『水星の魔女』はスレッタの人間的な成長ではなく、無知故の理想主義的な現実感覚の欠落と、これによる非人間的な葛藤の無惨さを残酷に物語ろうとしているのではないかという私鏑木の予想
 第12話単体で観れば、「逃げ出すよりも進むことを」選んだ結果がスレッタ、ミオリネ、グエルそれぞれにとって明らかに凶と出た。つまりこの限りではサブタイトルが皮肉としか映らない(笑)。しかし恐らくこれも後の『水星の魔女』第2期以降で更に覆される展開の為の布石であり、一時的な不穏に過ぎないのだろう。
 例えば、スレッタの「やめなっさい!」(22:55)に対するミオリネの「人殺し」(23:40)という、いよいよ修復不能にも見える深刻な“心の擦れ違い”すらも、スレッタという主人公のそもそもの秘密が明かされながら信頼の修復と強化が物語られるだろうと、私鏑木は予想する。
 というのも、まず一見して純朴で理想主義的なキャラ立ちだった筈の主人公スレッタにとって“呪い”と“殺害”とが必ずしも繋がる概念とは限らず、味方への友情の為というよりも、信頼する母親の為なら敵を情け容赦無く殺す事も正当化できると綺麗さっぱり割り切れてしまえる、この極めて機械的な精神構造に育てられ、尚も母親の大義や謀略の都合で利用されているという洗脳の呪縛が第12話で極めて印象的に披露された事は、第2期以降に物語られるだろうプロスペラの謀略者と母親としての二面性が交錯する葛藤と、スレッタが友情(理想)と大義(現実)との選択を迫られる葛藤、これらの為の布石、いわば脚本上の又新たな“発端”の一つに違いない。
 つまり『水星の魔女』は決してスレッタの“人間”としての成長を描こうとはしておらず、飽くまでスレッタの理想主義的な無知ゆえの葛藤を、極めて残酷な形で物語ろうとしているし、これは理想主義的な無知に対する批判のテーマ性に、より強烈な普遍性を与えようとする脚本上の狙いでもあろうと、私鏑木は推測する。
 果たしてその“結末”は、スレッタの無知で機械的な精神構造で精一杯に逡巡された後に、どこまでも非人間的に下された空周りな判断が偶発的な事態の終息を招くという皮肉が多分に強調されるものになるのではないか?
 こういったスレッタに対する言わば虐待染みた犠牲の上で、ミオリネとの信頼関係は、報われ方が吊り合わない形で修復されるのではないか?
●蛇足
 以上の憶測を具体的に述べると、まずプラント・クエタに於ける総裁襲撃テロはエアリアルに搭乗し、総裁親子の窮地に居合わせたスレッタと、実弾使用で条約に違反した(7:00)“ジェターク社製MS”に搭乗したジェタークCEOとグエルによるものだと、ドミニコス艦隊の現場検証で断定され(※実際は濡衣、冤罪)、これにより、(株)ガンダムとジェターク社がグラスレー社にM&Aされる。つまりベネリットグループが実質的にグラスレー社一強体制になる。こうなると、決闘以前からシャディクが提案していたとおり、(株)ガンダムの経営権はミオリネが保有し続けるが、スレッタの処遇とエアリアルの所有権は改めて審議に掛けられる。この事態でスレッタの潔白を証言できるのはミオリネとプロスペラだけ。・・・何だかんだでスレッタとエアリアルはプロスペラと共に“フォルドの夜明け”と合流。プロスペラは“フォルドの夜明け”を新たな隠れ蓑にエアリアルの開発を進める。スレッタはテロ実行部隊の新入りとして指示が下るまで地球で待機。スレッタはミオリネを懐かしむ日々だが、同時に自分の“呪い”を全く客観視できないまま。スレッタとミオリネは、“宇宙議会連合(第10話09:15)”とベネリットグループ同盟との軍縮会議の場に同行する度に顔をあわすが、ミオリネのスレッタに対する不信は解消されぬまま時が流れる。やがて連合軍と同盟軍との全面戦争勃発。地球に亡命したミオリネの身柄を再び同盟軍に引き渡す際にこの替え玉の強化人士をスレッタが誤って殺害。これをミオリネ本人の死と勘違いしたスレッタは自暴自棄になってエアリアルに搭乗し同盟軍に神風特攻、爆死。ガンド技術が全て失われ、地球資源を争奪し合う世界大戦の幕開けと共に物語が終わる。
 以上は冗談として、『水星の魔女』の終わり方が全く予想できない。

 マジ第2期が楽しみ!!!

 

▼2022年12月30日

 『水星の魔女』第11話「地球の魔女」

●物語概略
 エアリアルを回収しにプラント・クエタへ無事に到着した(株)ガンダムの従業員達(※第10話20:00ミオリネ「エアリアル取りに行く事になった」)。
 プラント・クエタで密会するデリングとプロスペラ。
 プラント・クエタへ“搬入作業(※第10話20:00)”の為に向かっていたジェターク社の搬送船が、アーシアンのテロ実行部隊“フォルドの夜明け”に急襲、ジャックされ、積荷の“追加兵装”を奪われる(※第11話5:00)。
 デリングとジェターク社CEOが面会。ジェターク父はデリングに対し、エアリアル、及び(株)ガンダムのガンドフォーマット使用嫌疑の審理を受理しなかったカテドラルに不満を募らせるサリウス(グラスレー社CEO)を共にハメようと、この際ミオリネの身柄の危険をちらつかせる強迫染みた交渉で共謀案を持ち掛けるが、これをデリングが拒否。従って従来の計画通り、ジェターク父はシャディクにデリング襲撃を2時間後に決行するよう伝えるが、シャディクはこれに構わず直ちに襲撃を決行するよう“フォルドの夜明け”に指示。
 スレッタとミオリネが心の擦れ違いを無事に解消。しかしこの直後、プラント・クエタへの襲撃が開始され、この衝撃で身柄を引き離されてしまうスレッタとミオリネ。そこへ、プラント・クエタのCブロック分断を遂行した後の陽動作戦から離脱してデリングを単独で探索していたソフィの搭乗するMSが現れる。

 尚、この緊急事態時にデリングはシェルターへ避難、プロスペラはエアリアルの起動を急がせる。
●デリングとプロスペラの共謀の謎
 4:00~プロスペラ「クワイエット・ゼロ」って何?!又、4:10~「エルノラ・サマヤで構いません」で、プロスペラが第0話「プロローグ」のエリクト・サマヤの母ちゃんと同一人物だと確認。そして4:20~「(株)ガンダムもいいカモフラージュになっています」、一体彼女が秘密裏に進めているのは何?!
●スレッタに対するミオリネの感謝と覚悟
 ミオリネの台詞15:30~「あんたが花婿なんかになっちゃったから(略)会社作るはめになって、クソ親父にチクチク小言いわれて、頭下げて」に続く「良かったって言ってんの!!!私が逃げなくてよくなったのは、あんたのおかげなの!」。つまり、スレッタへのボディーパンチを境とする前半の台詞は、全てミオリネの照れ隠しによる反語的な叫び。要は、スレッタがホルダーになってくれたおかげで、当初の地球への逃避計画よりも、スレッタとエアリアルを守り返してやる為の(株)ガンダム設立こそが、同時にミオリネ自身もベネリットグループ総裁世襲の束縛から遠ざけさせるという、このより確かな前途が切り拓かれたし、更におまけで、何だかんだクソ親父デリングから対等に向き合ってもらえる時間まで持てるようになったという感謝が吐露された訳だ。
 尚、スレッタと出会う以前までのミオリネは地球に逃げたがっていたが、11話時点では(株)ガンダムの社長としてこの株主たる父親デリングから“逃げない”事を自らに課している。つまり先のミオリネの台詞に於ける「逃げなくてよくなった」とは、ミオリネとデリング、この不仲な親子の当事者同士だけではにっちもさっちもいかなくなっていた状況を突破させてくれたスレッタという存在抜きには、とてもじゃないが維持できないという条件付きの、ミオリネの覚悟を含んでいる。逃げる以外に無かった自分を、逃げずに立ち向かえるようにしてくれてありがとう。或いは、総裁たる父親ですらどうする事もできなかった権力構造の呪縛から私を救い出し、更には、たとえ株主と経営者との関係であったとしても、父親から対等に扱ってもらえる様な、夢にも観なかった時間を過ごせるようにしてくれて、ありがとうスレッタってな感じ。
 従って、スレッタが勝手に疎外感を募らせて塞ぎ込んでしまっている惨状に、それまで彼女に感謝の気持ちを素直に伝え切れていなかったという責任の一端を、たとえ(株)ガンダムの経営に忙殺されていたミオリネであったとしても、さすがに自覚せざるを得なかったんだろう。ミオリネの涙はスレッタに許しを請う罪悪感の現れだろうし、こんな本音の部分なんか尚更スレッタに見られたくないに決まってる、という私鏑木の解釈の話。
 只ひっかかるのは、そんなスレッタとミオリネの心の擦れ違いを全く別の角度から招き込んだ元凶として、スレッタの純朴さや不器用さの奥底に“ガンドの呪い”が秘められいるんじゃないかという只ならぬ予感。だってそんなスレッタの人格をプロスペラが都合よく手懐けて利用している感が半端ないんだもーん。13:00~「スレッタ、泣いてる?Cブロックの78ハンガー、会いにいらっしゃい」とプロスペラがスレッタをエアリアルのコックピットへと誘導、この鬼畜の所業(笑)!
 ところで、19:15「運がよければ生き残れるさ」って、あれれシャディク君、あんたミオリネに冷た過ぎやしませんか?!
 あとソフィたん可愛い。

 

▼2022年12月29日

 アニメ制作スタジオ“オレンジ”のショートアニメ『HOME』

 まず言いたい。前作の短編『そばへ』に続き、こんな熱量とクオリティが尋常じゃない大傑作をYOUTUBE公式チャンネルで無料配信してくれるオレンジ様はサービス精神過剰の神だ!!!
 『HOME』は7分31秒の短編アニメ。

 火星探査SF、出会いと別れ、ホラー要素、萌え要素、自己犠牲や慈悲の共感性等を醸す手堅い脚本力、そして超絶作画クオリティで構成。
 冒頭、巨大な宇宙船が火星の大気を突き破って不時着。このカットは敢えて広角パースを採用する事によって、宇宙船のディテールが伸びやかに美しく強調される。短編といえど豊かな絵作りに余念が無く、丁寧な演出!
 2:45~遺体安置所(?)で初登場する幽霊ちゃんがとにかく可愛い!!!
 3:09~主人公が逃げ込んだ鏡張りの空間の背景美術が凄い!!!“オレンジ”様の真骨頂であるコンセプトアートが成せる業!!!
 3:20~幽霊ちゃんから逃れようとする主人公を“付けPAN”且つ“T.U./T.B.”する奥で目まぐるしく“背動”する3DCG背景美術!!!3DCGカメラワークの表現幅が2Dアニメや実写の人力撮影よりも格段に増大し、自由過ぎる分だけ、プラン構成のセンスが試され、露見せざるを得ない中、その超一級レベルの背景美術の官能と迫力を見事に活写!!!これは技術の進化への適応を云々する次元を遥かに超越したアニメ表現、もとい、もはやイマジネーションの進化!!!
 4:20~逃走する主人公が足場を踏み外し落下する危機を、幽霊ちゃんが救出するシーケンス。飽くまで火星重力を前提として大迫力に“背景動画”される3DCG背景美術、主人公の足場で散る火の粉のエフェクト作画、彼を追う3次元に縦横無尽なカメラワーク、そもそもキャラセルの曲線とオブジェクトの可動間接の多さを繊細、且つ大胆に操るCGアニメーターの超絶センス、これらが極めて有機的な印象を画面全体で強めながら、同時に3DCGキャラセルの彩色だけは日本アニメ特有のベタ塗りを敢えて採用する事、これによって起こるヴィジュアルの落差が、良い意味で倒錯的な、極めて心地良いリアリティを実現している!!!
 5:05~幽霊ちゃんが落下する主人公に縄を投げて巻きとり、間髪無く引っ張り戻す、この際の物理的な抵抗力を利用して主人公の落下速度を減らし、救出。この一連の物理現象を、火星重力を前提とした大迫力アクションシーンとして表現するという絵コンテ段階の発想がもぅぶっ飛び過ぎていて、やばいよ(笑)!!!未だかつて挑戦どころか着想すら誰もした事の無い、つまりいわゆる“既視感”が一切排除された意味でのオリジナリティ、しかも極めて複雑な物理表現を見事にアニメーションに落とし込んだCGアニメーターの作画技術とこれを支える身体感覚が抜群なセンスには、興奮に次ぐ興奮の嵐!!!
 5:45~主人公を追い続けようとする幽霊ちゃんが自らの遺体を軸とする行動限界に阻まれ、再び孤独の境遇に振り戻されると分かるや、それまで絶やさずにいた勝気な笑顔が一変して悲涙に崩れ落ちるシーケンス。本来動く筈の無い遺体が幽霊ちゃんの抗いと連動して引っ張られるという、このアニメならではの“嘘”を敢えて露骨、且つメタ的に活用し、幽霊ちゃんに対する鑑賞者の同情、共感、涙をさも御伽噺的に煽る、あぁこのクソ憎ったらしい最上級の演出(大号泣)!!!更に劇伴も最高!!!このコンテ切った監督やべぇよ凄ぇよ大天才だよ!!!!!!
 6:20~主人公のセリフ「還ろう、地球へ」のシーンで、敢えて幽霊ちゃんに喜ぶ勢いに任せて抱きつかせる等の芝居をさせなかった絵コンテの英断に脱帽!!!これは極めて背徳的な美意識に包まれた幽霊ちゃんの中性的なキャラデザで鑑賞者の根源的な下心を生殺しにしておきながら(笑)、短編全体のテーマ性は飽くまで、いわゆるルッキズムを問わない次元の純粋な慈悲、自己犠牲、共感性の尊さですよと言い張る為のセクシャル表現の抑制、すなわち“わび・さび・萌え”の極致である(グヘヘ)!!!
 ところで以上に述べた大傑作短編アニメ『HOME』は「織笠晃彦初監督作品」らしい。つまりアニメ制作スタジオ“オレンジ”様には、『HOME』だけでなく前作短編『そばへ』やTVアニメシリーズ『宝石の国』『BEASTARS』そして新作『トライガン』等、極めて品質の高い絵コンテ演出、脚本、2Dと3D両方のキャラと背景美術の作画、キャラデザ、コンセプトアート、更に原作定性評価人材まで、おそらく複数の制作チームで整えられる程のノウハウや信頼や才能が分厚く備わっているのだろう。空恐ろしい制作スタジオだぜ“オレンジ”(大歓喜)!!!
 ジブリ、京アニ、オレンジって位に大好きだし期待してます『トライガン』!!!

 “オレンジ”の前作短編『そばへ』

監督:石井俊匡(『未来のミライ』助監)
声:福原遥
キャラデザ:秦綾子(『未来のミライ』作監)
コンセプトアート:長砂賀洋(『Moom』)
音楽:牛尾憲輔(『聲の形』『リズと青い鳥』)
プロデューサー:武井克弘 和氣澄賢(『宝石の国』)
制作:オレンジ