『シン・仮面ライダー』『シン・ウルトラマン』『シン・エヴァ』『旧劇エヴァ』庵野秀明考 | 真田大豆の駄文置き場だわんにゃんがうがおおおぉ!!!

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▼2023年4月20日
 『シン・仮面ライダー』初鑑賞の感想。

 

▽私鏑戯は原作『仮面ライダー』の門外漢
 冒頭からことわっておくが、私鏑戯は石ノ森章太郎・原作の『仮面ライダー』の漫画、特撮に関して全くの門外漢だ。勿論『仮面ライダー』と聞けば、緑の仮面や赤いスカーフや黒地のライダースーツ等が思い浮かぶが、これは幼少期に一時期熱中していたガチャポン、2頭身デザインされたゴム人形をコレクションしていた際に付随した記憶によるものに過ぎず、肝心の漫画や特撮映像は1話たりとも観た事が無い。
 従って、本稿の感想は、原作からのオマージュ云々に関しては全く言及しない。

※以下、ネタバレ注意!

▽“絶望”を克服してこそ初めて“正義”を語り得る
 私鏑戯が『シン・仮面ライダー』初鑑賞で最も注目した点は、これに込められた庵野秀明独自の思想性であり、これは一言で、“絶望”を克服してこそ初めて“正義”を物語り得る、だ。
 以下に、私鏑戯独自に解釈した『シン・仮面ライダー』の思想性について詳述する。
 まず、『シン・仮面ライダー』に於ける“絶望”克服の描写は、2層構造で捉えられる。
 まず表層として描かれた、他者を恐れざるを得ない理不尽な境遇、葛藤、この“絶望”を克服する正義のヒーロー像とストーリー。
 又、深層、抽象的なテーマとして描かれた、そもそも敗戦後の日本に於いて描き得る“正義”とは何かという問いに対する答えとしての“虚無”、本質的にはどこまでもニヒルで無力でしかない見せ掛けの“正義”、これに必ず付き纏うところの“絶望の不在”による未成熟なメンタリティ、これに対するアンチテーゼ、或いは克服の推奨。
 というのも、まずかつての“大東亜”戦争とは、大日本帝国が鬼畜米英の植民地主義に抵抗する“アジアの解放”及び“大東亜国際秩序構想(※大川周明)”という“正義”を掲げて闘った戦争だったが、これに敗れた結果、敗戦国の日本社会では、たとえ虚構の物語であったとしても“正義”を描く事が困難とならざるを得なかった。何故なら、敗戦後にGHQから言論統制され新たに流布され始めた“正義”とは、かつて“大東亜”戦争で自らの命を投げ打ってでも信じていた筈の“正義”とは真逆の、飽くまで敵の都合で押し付けられた“正義”に他ならず、これを丸々受け入れたモノを、たとえ子供向けの虚構のシナリオに於いてだとしても“正義”として描く事への抵抗感は、決して拭い切れなかったからだ。それはかつて、多元主義的な国際秩序構想を標榜し、諸国それぞれの宗教伝統性に規定された経済圏とこの自主権を尊重せんと大日本帝国が掲げた、真の意味での“保守”の正義と、対する現在の日米同盟の本質的な力学としての“覇道”の正義と、これらの間に於ける決定的な違いや、或いは思想的な断絶とも言うべき近現代史への認識を欠いては、決して理解できっこない論点だ(※だからといって私鏑戯はかつての大日本帝国の大東亜戦争そのものを全肯定するかの如きイデオロギーに甘んじた思考停止的な暴論を弄したい訳でもなく、むしろ決して綺麗事だけで済まされなかった功罪それぞれを十全、且つ慎重に見極め、学ぶべきと考えるし、こういった“正義”の本質的な相対性についてのプラグマティックな考察は、追って詳述する)。

 この様に、敗戦国日本に於いて“正義”を物語る事にまずもって絶望しながら、尚も腐心し続けた系譜の一人として、おそらく『仮面ライダー』原作者の石ノ森章太郎も位置付けられるのだろうし、少なくとも『シン・仮面ライダー』監督の庵野秀明にとっても同様の認識があって、従って、『シン・仮面ライダー』の根源的なテーマは、未だ敗戦の“絶望”から目を逸らし続け、戦勝国連合から押し付けられた見せ掛けの幼稚な“希望”にうつつをぬかす、敗戦国特有の未成熟で思考停止的なメンタリティに対するアンチテーゼ、つまりはここからの“卒業”や“克服”に他ならなかったし、これを象徴する為の表層こそが、自らの理不尽な境遇から人間に“絶望”し恐れていたが、やがてこれを理解しようと葛藤し“絶望”と向き合い、耐え、克服し、乗り越えていくといった本郷猛の物語だったし、又おそらく、こういった往年の原作シリーズからの継承だった。

▼東京裁判の最中に東条英機の頭をはたく大川周明

▼玉音放送は、本来神聖な天皇の肉声が初めて流されたラジオ放送だった。

 そもそも“正義”の本質とは、所詮は戦争当事国同士が互いに持ち寄る相対的な概念に過ぎず、更には負けた“正義”は勝った“正義”に覆され、塗り替えられてしまう程度の、極めて不確かで相対的な概念であり、いわば“希望”と“絶望”との表裏一体、或いは国家主権と国民主権との間のジレンマに他ならなず、つまりは、軍事的な外交としての戦争行為を正当化する大義名分や“正義”とは、少なくとも国民主権の側から国民国家を捉える規範、ここからの逸脱だと考えられる。しかし戦後の日本は、この様な“正義”の不確かな本質をかつての敗戦の現実から学ばず、天皇が現人神から人間へと自ら降格された事を転機として、むしろ戦勝国連合から押し付けられた“正義”だけを又新たに易々と信じる様になってしまった。つまりは、本来であれば敗戦の現実を直視する事に伴っていた筈の“正義”の転換や相対性を省察すべきだったという意味も含む“絶望”、これに実際の敗戦国日本はほぼ耐えられず、より安易で思考停止的な“希望”、このかつて敵視していた筈の、大東亜共栄の“正義”とは真逆の、いわば覇道(※他者の犠牲の上で成り立つ幸福を独善的に追求する志向性)の“正義”に恥も知らずに即、鞍替えしてしまい、肝心の“正義の相対性”という本質について学ぶ機会も記憶も自ら放棄したまま、戦後70年以上を、平気な顔をして生きてきたのだ。又、そもそも近代文明に於ける戦争とは、為政者が自国の自由市場に於ける多国籍金融の近視眼的な欲望や陳情に屈し、これが諸国個々の経済ナショナリズムに貧富の格差や分断を煽る様な暴発を行政統治的に抑制できなかった無策のツケを、自国と他国の一般大衆の生命と財産に払わせるといった、これ又いわば覇道の産物の一つに他ならず、この経緯から取り返しがつかなくなった有事勃発の状況で掲げられる“正義”とは、たとえどんな綺麗事であったとしても、所詮は政治の無策を強引に補い覆い隠す為の後付け、こじ付け、おまけの類に過ぎない。つまり、こんな政治的、且つ民主主義的な失策の産物で相対的な概念に過ぎない“正義”の為だけに、たとえ我が命に代えてもだとか、国民総玉砕してでもだとか、こういったいわゆる“浪花節”のロマニズムを錯覚し、心を打ち震わせ陶酔し、国民の総意をほぼ勝ち目の無いギャンブル騒ぎにベットするが如き同調圧力に流されてしまうといった能無し集団の事を、一言で“衆愚”と呼ぶ。尚、この指摘には、かつての大日本帝国が掲げた大東亜共栄の正義であれ、アメリカが今も尚掲げ続ける“普遍的な正義”であれ、皆等しく該当する。但し、例外もあって、というのも浪花節のロマニズムに率先して陶酔する没理性的な無能とは、戦線に駆り出される不安とは無縁な中年、高齢層や既得権益層から主に排出されがちな訳で、つまり所詮は口先だけの似非“愛国心”で無責任に好戦的な世論を煽るだけ煽って、その実、若者の命を犠牲に自分だけは生き残ろうといった卑劣極まりない魂胆と、一方では戦線に特攻して自らの命を犠牲に捧げる事で祖国のより多くの民の命が救われると信じ、靖国で会おうと散っていった英霊の方々とを、断じて混同できる筈もないという事だ!

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 ともあれ、そういった敗戦国日本特有の精神的な欺瞞は、例えば次の様な形で具体化される。つまり、たとえ観念的には“正義”が幻想に過ぎないと分かったつもりでいたとしても、いざ戦争が勃発して“正義”同士の衝突への分析力(※インテリジェンス)が試される正念場になった時、例えば、現下のウクライナ侵攻情勢という、実質的に米国の覇権主義的な“正義”の主導の下でロシアの弱体化を狙う、どこまでも管理された代理戦争、これに於けるロシアとウクライナの停戦妥結を支持する主張とは、当然、ウクライナにそこそこの軍事支援をして戦況を長期化させ、ロシアが軍事的にも経済的にも疲弊していく期間をより長期で確保したい米国主導の覇権主義的な“正義”にとっては極めて不都合だから、従って、これをロシアによるプロパガンダにまんまと流される事だなどと断じるバイアスが西側諸国のメディアの言論界隈で支配的となり、逆にウクライナを軍事支援する西欧諸国や米国によるプロパガンダに立脚している自らの立場には全く無批判でいられてしまう、こういったナンセンスが多々弄される。それは戦争当事国いずれかの“正義”という幻想を、結局のところは絶対視してしまっている証左であると同時に、片や戦況が長引く限り、焼け野原で愛する家族に差し迫る脅威に怯えて暮らすしかない非武装のウクライナ人ばかりでなく、戦線に従軍し常に死と隣り合わせなロシア、ウクライナ双方の兵士の若者たち、そして日本の国益や安全保障まで含む、こういった“現実”とはまともに向き合えていない、つまりこれは、敗戦国日本特有の、かつての敗戦の“絶望”から“正義”の本質を学び損ねたままの未成熟なメンタリティの露呈という事だ。こういった文脈に於ける“絶望の不在”こそを『シン・仮面ライダー』は、未成熟で幼くコミュ障なメンタリティとして隠喩、批判し、根源的に憂い、この自覚と克服とを促している。

 尚、以上の趣旨の前提としては、同時に、有事勃発を抑止する為の軍事均衡論を土台とする徹底的な軍備への財政投資と、そもそも守るべき国民の平時の景気対策として、デフレ不況時には財政均衡思想を凍結した上での積極財政主義や、更に現下のウクライナ侵攻情勢から学ぶなら日本国独自の核保有まで支持する等の、この一貫した鼓腹撃壌の“反戦主義”が私鏑戯独自に意識されている。つまり、少なくとも私鏑戯にとっては、日本の核軍備と反戦・平和主義とが自主独立の保守思想の下で全く矛盾せず、むしろ一貫している。

 又、当然、米国、EU、ウクライナ等の西側諸国との外交関係を軽んじる様な趣旨は、決して意図していない。たまさか、仮に中国共産党独裁体制下の人民解放軍が軍事的な先制攻撃を仕掛けてきた場合、日本はこれを見過ごして無条件降伏に徹しろなどと、この様に愚かな主張にも、私鏑戯は与しない。但し、肝心の核保有や自衛隊の交戦規定(※いわゆるネガティブリストの交戦権)すら依然とまともに整ってもいない段階で、只々“愛国心”というロマン主義にだけ偏り、いわば竹槍のみで戦わざるを得ない現状を度外視する愚かさにも、私鏑戯は決して与しない。尚、この程度の事は本稿の文脈でいうところの、“正義”の幻想を打ち破る“現実”直視という意味での“絶望”の克服、この基本中の基本に過ぎず、つまり更に把握すべきは、たとえ日本が核保有できたとしても、仮に核戦争も辞さない仮想敵国が核ミサイルによる先制攻撃を行い、この複数弾中のたったの一発でも迎撃されずに日本の都市やこの周辺に位置する原発に壊滅的な打撃をもたらした場合、ここから更に日本が核ミサイルによる報復攻撃を成功させ一矢報いたとしても、仮想敵国の圧倒的な大陸規模の版図へのダメージは相対的に小さいものとならざるを得ず、つまりはそもそも日本国は核の応酬による勝算がほぼ立たないという、こういった地政学的な“絶望”だ。つまり日本国の核保有とは、飽くまで有事勃発への政治的な抑止効果に留まり、決して軍事的な自衛力足り得ない。更には、そんな勝算がほぼ立ちようもない絶望的な戦争が始まった場合、かつての大戦に於けるいわゆるヤルタ会談の様な強大国同士による、又新たな戦後レジームを規定する密約、つまりは台湾有事の発端から結末までの既定路線としてのシナリオが、ややもすれば現時点で既に某強大国間で合意済みで、着々と進められているのかもしれないと、こういった類の“絶望”も、歴史に学ぶ観点からは決して排除できない。従って、日本国は決して戦争に巻き込まれてはならない。仮に巻き込まれた場合、上記の“絶望“的な観測から、決して戦争に勝つ事はおろか、現状の固有の版図を維持する事すらままならない敗戦の末路は明白だ。従って、日本国は、有事勃発を抑止する為の、核保有も含む外交交渉に全精力を投入すべきであり、それでもこの抑止外交の障壁が突破された場合は、この時点で日本国の敗戦、隷属、分割統治の未来はほぼ確定と見るべきだ。こうなったらこうなったで又新たな隷属の日常を受け入れるしかないだろうといったものも含めての“絶望”である。尚、念を押しておくが、以上は決して、例えばサッカーのワールドカップや野球のWBCの様な国際試合を観戦する類の話ではなく、飽くまで広島、長崎への原爆投下並みかこれ以上の戦禍と犠牲を含みながらも尚、不幸中の幸いにして、米国から中華へと隷属する宗主国が切り替わった日本列島の民が屈辱に耐えながら、或いは米国にされてきたものがそうだった様に、やがては再び屈辱すら忘れ去りながら“生き永らえる”という楽観を含む類の“絶望”だ。

 しかし、そもそも“失われた30年”のデフレ不況で疲弊しまくってる国民経済に対して尚も更なる増税を進め、日本の国力を不要に弱らせ続ける“壺”カルト政権が未だに50%前後の世論から支持され、つまりはこの様な外患誘致が放置され続けているのだから、この様な意味で、実質的に“壺”カルトの“統一”リベラリズムの“正義”にまんまと洗脳され、民主主義が堕落した戦後の日本国は、上記の様な仮想敵国の軍事的脅威がどうこうとは関係ない次元で、いわば勝手に自滅する亡国でしかないといった、この極めて情けない類の“絶望”こそが事の全てなのかもしれない(笑)。

 ところでさ、仮に日本全国のゆうちょ銀行のATMとかから某総連の口座に定期的な一斉送金があったとして、これって日本の外事やCIAとかがちゃんと監視した上で敢えて泳がせてるの?度々日本海に落とされる北朝鮮のミサイルの資金って日本では“壺”カルト信者以外からも流れてるんじゃないの?つまりこれ、どっからどこまでが政府の売国的な自作自演なのよ(笑)?つまり、少なくとも現在の日本国政府は、日本国民の生命と財産の安全保障とまともに向き合うだけの統治思想を持ち合わせず、目先の政権維持を米国政府に言われるままに従い受動的に営むだけの、言わば去勢され飼い慣らされた傀儡機構に過ぎないという“絶望”の話だ。

▼1945年2月のヤルタ会談で戦後レジームの規定に合意した首脳ら。左から当時のイギリス首相チャーチル、アメリカ大統領ルーズベルト、ソ連書記長スターリン。

 だからこそ、『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』という、この自衛力と抑止力としての軍備の運用模様を丁寧に描いただけでなく、いざ核兵器よりも更に先進的で非対称性の強い軍事技術の獲得によって国際政治の主導権を握れる様な千載一遇に恵まれた場合には、たとえ平和ボケした日本国特有の統治機構ですらこれを多少及び腰ながらも志向せざるを得ないだろうと、この様に達観した現実主義的な視座で権力当事者の群像を丁寧に描いた庵野監督の両前作に関しても、私鏑戯は何ら思想的な矛盾を抱く事なく大好きでいられるし、むしろこういった庵野秀明の“シン”シリーズで抜かりなく一貫された思想性の全貌を見渡せる様な感触を得る。
 又、ショッカーが目論む人類の“統一”だとか、蝶オーグのハビタットシステムだとか、この“嘘が全く無く本音ばかりが存在する世界”こそが人間を真に解放し幸せにするといった胡散臭い考え方だとか、これらの忌むべきメタファーの全ては、敗戦の“絶望”を直視せず“正義”の本質を学び損ねたままの戦後の日本人に特有の未成熟なメンタリティが漏れなく洗脳に掛かり得る、まるで某カルト宗教の“統一”リベラリズム的な“正義”ともそっくりだ!こういった、言わば“グローバル志向のカルト宗教”を批判するテーマ性は、『エヴァ』TVシリーズ版当初から庵野作品に貫かれてきた。従って、本作に於けるショッカーがエヴァのゼーレやこの人類補完計画的なイデオロギーを踏襲しているかの様な描写も必然である他なく、或いは『エヴァ』のネルフ本部で碇ゲンドウがエヴァ初号機の頭をなめる高みからシンジに「エヴァに乗れ、嫌なら帰れ!」と檄を飛ばす、あのロケーションが、果たして“何”を元ネタにしているのかについても同様の必然性が宿るのだ。

 尚、こういった“統一”リベラリズムによって骨抜きと成り果てた敗戦国日本の思想的な隷属根性を揶揄する庵野独自の果敢な思想性、これに私鏑戯が着目する理由こそは、そもそもいわゆる“国の形”、ヴィジョン、構想、方向性、文化…等といった国民国家の総体を根幹から規定するものが制度、法律、或いは立法府の権限であり、これを更に規定するのはこの国政のシステムに主権を付託する国民、これに宿る一般通念としての思想哲学的な教養水準であり、これは表面的な“国民教育水準”よりも能動性が試される、言わば“近代的な民度”に見出されるだろうといった、いわゆる“文化防衛論”的な私見にある。というのも、まず敗戦国日本が独立国家として形骸化し始めたあらましを具体的に述べれば、これは間違いなく当時の皇室神道ばかりか、多元的国際秩序を標榜する大東亜共栄構想の思想、正義、これを歴史から抹消し、代わりに大日本帝国は只々当時の国際社会の“平和”に仇なす悪の枢軸国の一つに過ぎなかったといった、この様に戦勝国の都合で一方的に修正された思想的な“戦後レジーム”を流布する事だった(※勿論、そんな大東亜共栄の理論と実際とが必ずしも合致せず、むしろ戦況の劣勢が濃厚になるにつれて自らも帝国主義化していかざるを得なかった大日本帝国、この末路に於ける思想的な大矛盾とこれを招いた敗戦処理の戦略的な杜撰さを現実主義的に分析、批判、つまりは失敗の歴史から学ぶという事は、決して“自虐史観”であろう筈も無く、むしろ一度は大敗を喫した近代日本の未来を前向きに見据え、理想主義的な精神論への偏重故の破滅を決して繰り返えさぬよう自戒しながら、あらゆる範疇の現実主義的なオペレーションを逐次模索、実行し、積み重ねていく、こういった中庸に則した真の“愛国”の一環に他ならない)。因みに、その“戦勝国の都合”や太平洋戦争当時に於ける米国の“正義”の内実こそは、西欧列強によって植民地化されていたアジア諸“地域”の独立と自決権の“保守”を国際社会に向けて毅然と訴えた大日本帝国、この自決権を剥奪し、この犠牲の上で成立つ自由貿易市場の拡大であり、つまりは実質的な奴隷経済、帝国主義経済による新たな国際秩序を米国主導で樹立せんとする“覇道”の追求に他ならなかった。この証拠に、現代の日本国に於ける、いわゆる“愛国保守”とは、飽くまでアメリカ様の“革新左翼”的なレバレッジ金融資本主義をまるで普遍的な“正義”かの様に捉え、この体制を“保守”すべきと主張する思想的な立場を意味している(※或いは“社会進化論”を思想的な根源とする新自由主義、これを盲信する立場)。因みに、ここで述べる“革新左翼”とは、独立国固有の伝統性や文化の形を抜本的、且つ急激に作り変えようと志向する政経思想、統治思想、こういった文字通りの本質を意味する。つまり、近代西欧思想史の本来的な“保守主義”の文脈から批判的に浮き彫りになるところの、本来の語義に沿った“革新左翼”を念頭し直すならば、かつての旧ソ連主導の共産革命インターナショナリズムだろうが、現代の米国主導のグローバリズムだろうが、そして中共主導の一帯一路中華思想だろうが、全て本質的に“革新左翼”という同じ穴の狢として位置付ける他なく、従って、敗戦国日本に於いて“愛国保守”を自称するが、実質的には“拝米保守”“米のポチ自民党一強体制保守”に過ぎない彼らもこの例から漏れる筈もなく、つまりは、米主導のグローバリズムに追随するだけの傀儡を盲目的に支持する、極めて革新左翼的な衆愚の群れとしてこれを捉え直す事ができる。果たして、敗戦国日本に於ける自称“愛国保守”やいわゆる“ネトウヨ”とは、近代西欧思想やこれに深く学んでいたかつての大東亜共栄思想の本質、これに対する無知故に本来的な“保守”から思想的に断絶され、むしろ米国主導のリベラリズムに加担させられているという思想的な大矛盾を自覚できず、あまつさえ反日カルト宗教の“統一”リベラリズムとも実質的にねんごろになってしまう衆愚、或いは“戦後レジーム”の体現者そのものなのだ。こういった偽りの“保守”層やこれを取り巻く一般通念と、これによって支持される自称“保守”政治によって、戦後日本は米国主導のグローバリズムをひたすら追随し、日本国の法体系を“革新左翼”的に“構造改革”し続けてきた。しかし本来の“保守”から思想的に断絶された自覚を持てない傀儡的な“保守”にとって、グローバリズムの革新左翼性が革新左翼としてありのままに認識される事は、彼らが本来の“保守”に無知であり続ける限りは未来永劫、決して期待できない。以上の様な、思想的な“戦後レジーム”の実態こそが、敗戦国日本に於ける国民の一般通念としての思想哲学的な教養や民度を歪に規定し、更にはこれが選挙制度を通じて立法府の権限の運用のあり方や法体系の構築の経緯まで含む、日本国の形の全てを根幹から歪に規定してきたのだ。つまり、“国の形”を規定する国民独自の思想的、且つ文化的な防衛という三島由紀夫的な論点は決して過小評価されてはならないし、現にこれが疎かだったからこそ、敗戦国日本は、あの襲撃事件が起こるまで、否、あれ以来も尚、日本国中枢に於ける外患誘致的な壷だったり頭がパーンだったりする“政教癒着”をダラダラと野放しにし続けているという事だ。そもそも“政教分離”の憲法理念を犯す政党も宗教も、この正当性が見出される事は決してあり得ない。何故なら、これは決して同条項に併記される“信教の自由”とのジレンマを持ち出すまでもない、純然たる立憲主義、或いは文化防衛論的な論点に他ならないからだ(※但し、憲法条文で仮に“国教”の制定が言及される限りに於いては、“国教”と政治との関わりだけは政教分離の理念から例外足り得る事、つまり宗教伝統性の保守が踏まえられる)。又、たとえ憲法9条の改憲派、破棄派、護憲派、いずれに立脚するかという判断すらも、ここに日本国の自決権が働くか否かの本質論が疎かにされ続ける限りは、これはどこまでも形骸化した議論の域を出ないままであり、つまりは、米国やソ連や中国共産党のいずれかに追随するといった自決権無き国家の形を是認し続ける限り、日本国は否が応でも“覇道(帝国主義的なリベラリズム)”の犬として国際社会で振舞い続けざるを得ないし、ここには只の一瞬たりとも、いわゆる“非戦の誓い”等といった平和主義が純粋に叶う事は無く、代わりに他国が代理戦争を強いられ犠牲となる事によって成立つ血塗れの平和と、このツケを我が身で払わされるであろう、そう遠くない未来の本土決戦による焦土化(※かつての沖縄や現在のウクライナの様に)への不感症、この近代国家としてあるまじき道義的な破綻が性懲りも無く続くだけである。従って、例えば、沖縄米軍基地の一極負担を日本国全土に分散しろ、国防予算に財政出動を惜しむな、そして日本国独自の“非戦”の為に、核保有によって有事勃発を抑止する国防体制を一刻も早く樹立しろ、等の私鏑戯独自の“自決権”にまつわる持論も帰結される。だからこそ私鏑戯は、たとえいずれの個別具体論は措いたとしても、戦後日本の思想的な未熟さ、怠慢、欺瞞、没思想性を批判する庵野独自の思想性と、これを見事に昇華した『シン・仮面ライダー』の存在意義を、“文化防衛論”的な観点から着目せざるを得ないという訳だ。

 少なくとも、ショッカーの“統一”リベラリズムは、マクロな次元では、地球の気候風土に規定され永く人類史上で形成されてきた多元的な固有の伝統文化やナショナリズムを、又ミクロな次元では、他者(自我)同士の隔たりや、個人の自律性や尊厳といったものを、それぞれ軽んじ、拒絶し、排除する。蜂オーグが“趣味は個性の現れ”みたいな台詞を呑気に吐いていたが、仮に彼女が仮面ライダーに敗北せず生き永らえていたとしても、ショッカーの謀略の最期では、どちみち“統一”リベラリズムの“正義”の下で、彼女の個性は蹂躙されていただろう。可哀想!
 以上の様に、実際にかつての鬼畜米英の植民地主義と現在のグローバリズムに共通する、本質的に他者を拒絶する類の“正義”が、もう一方で虚構のショッカーが掲げる“統一”の“正義”によって隠喩され、又これを虚構の仮面ライダーたる本郷猛が阻止し、自らも過去の理不尽な境遇による他者を拒みがちなコミュ障を克服するヒーロー像を体現する事によって、ここに初めて、人は“絶望”に耐えて克服する事によって“正義”のマヤカシに打ち勝てるといった、この様な『シン・仮面ライダー』の根源的な思想性、この僅かばかりの真の“希望”の昇華が達成された。
 緑川ルリ子も、疫病こそが人類を自らの過ちから解放する真の救済だなどといったコウモリオーグの言い分を拒絶したり、又は兄イチローのハビタットシステムへの拒絶や、バッタオーグ2号の一文字隼人に掛けられた多幸感の上書きを解除する事等によって、人の世の“絶望”を直視する事によって、より強く賢く振舞える様になる、こういった精神の成長の道を選んだ。因みに、緑川ルリ子が本郷猛にハビタットシステムを“いわゆる地獄よ”と説明するシーンで流れた曲が『Nulla In Mundo Pax Sincera(まことの安らぎはこの世にはなく)』というヴィヴァルディのアリア、この創世神が人類に与えた“人生”という受難を嘆く、言わば“絶望”の宗教歌だった事も、彼女が“絶望”を受け入れる覚悟を持った人物だと伝える為の演出の一環だったに違いない。


▽感想の総括
 以上が、私鏑戯独自に解釈する『シン・仮面ライダー』の思想性の全容についての概略となる。
 ここに至って私鏑戯は、まず『シン・仮面ライダー』程に、オタク(サブカルチャー)的な文脈を織り交ぜながら、且つこの高レベルの映像クオリティによって、戦後日本のメンタリティの欺瞞の本質を批判できた日本映画は、まず他には無いだろうと、この唯一無二の希少性を評価する。
 但し、私鏑戯は冒頭でも述べたとおり原作『仮面ライダー』には全く疎いため、『シン・仮面ライダー』を原作準拠で評価する事が全く不可能だ。従って、本作の性質上、本来なら評価の大方を割くべきところのオマージュ云々に関しては一切言及できない本稿の私鏑戯の感想は、どこまでも作品単体に込められた庵野秀明独自の思想性への評価だけに偏っていると認めざるを得ない。
 只、最後に述べておきたいのは、そんな原作を知らない私鏑戯でも『シン・仮面ライダー』は充分過ぎる程に楽しめる大傑作だった!映画を締めくくる最後の空撮シーンでは「よくぞここまで見事に敗戦国日本が未だに放置し続けている“けじめ”を、往年の特撮シリーズの虚構と巧妙に絡めて突きつけ、まとめあげたもんだ、天晴れじゃー!!!」と涙を我慢できなかった位に!
 あと一番大好きなシーンは、緑川ルリ子が「燃料補給」を残さず慌ててかき込んで済ませた場面。次点に、蜂オーグが着物の右肩を大きく肌蹴て戦闘態勢に入るシーン。エロカッコ良いの大好き!又、ショッカー創設者やAIのケイ等、このテロ組織の親玉は依然と健在だしライダー2号含む公安内対ショッカー班の今後の物語も匂わせていたし、他でもない庵野監督自身の口から『マスカー・ワールド』という続編の構想が既に述べられたりもしているので、嬉しいし楽しみ!!!Blu-rayも絶対買う!!!

 

▼2023年4月13~17日

 『シン・ウルトラマン』初鑑賞の感想。

▽私鏑戯は原作『ウルトラマン』ニワカ
 冒頭からことわっておくが、私鏑戯は円谷原作版(?)の『ウルトラマン』に関しては、いわゆるニワカだ。具体的には、物心もおぼつかない幼少期にVHSで『ウルトラQ』『ウルトラマン』『帰ってきたウルトラマン』をそれぞれ数話ずつだが繰り返し何度も観ていた、この曖昧な記憶とそれなりの愛着が、現在に至るも頭の片隅に留まっているという類のニワカだ。又、私鏑戯が幼少期にお絵描き趣味を始めた頃、最も熱中した模写対象こそが初代ウルトラマンのあの汚い顔の独特な魅力と、スペシウム光線を放つポーズのカッコ良さだった。八つ裂き光輪、スペシウム光線、ウルトラバリヤー、カラータイマー、ベータカプセル、バルタン星人、はやた隊員、ゴモラ、ダダ・・・等のフレーズも、当時刷り込まれたまま強烈に記憶している。又、同時期に『ウルトラ怪獣大百科』的な本を親から数冊買い与えられ、ここからVHS鑑賞以外の未知のウルトラマンの世界を摂取していた。具体的にはウルトラ怪獣の解剖図や、ウルトラ兄弟全員が十字架に張り付けられている場面紹介から、ゼットン戦の敗北よりも更に酷い絶望感を子供心に妄想し、味わっていたという、およそ体系的でなく幼稚な郷愁にしがみ付く程度のニワカだ。

 従って本稿は、『シン・ウルトラマン』に於ける原作『ウルトラマン』シリーズからのオマージュ云々に関して、ほぼ言及しない、というよりも言及できない。

※以下ネタバレ注意!

▽『シン・ウルトラマン』シナリオの概略と推測
 まず『シン・ウルトラマン』の大体のシナリオを、私鏑戯独自の推測も絡めながら、かなり雑に概略する。
 まず、現生人類ホモサピエンスの近代文明が営まれ始まるよりもずっと昔、メフィラス星人が地球に来訪、潜伏開始。その時期は、彼やウルトラマン等の外星人の途方もない寿命、年齢による時間の尺度で推し量るところの、およそ少なくとも数百万年から多ければ数億年もの過去。来訪の目的は、おそらくベータシステムで生物兵器に転用できるレベルの知的生命体としての現生人類ホモサピエンスの進化を、彼の高度な計算力で事前に予測し、この経過を見届け、やがては人類を利用して地球を含む太陽系をマルチバース(多元宇宙)の市場向けの生物兵器供給拠点に仕立て、宇宙規模の政治的、経済的な影響力を得る為か。或いは、そもそも地球上の生物進化に端からメフィラス星人が深く関与していたという裏設定も推測できる。
 次に、時は現代、メフィラス星人が『シン・ゴジラ』でゴジラを生んだとされる牧悟郎博士に接触、放射能を摂取すると同時に無毒化もする生物兵器製造の先進技術を授け、これが『シン・ゴジラ』のゴジラ誕生の契機となる。又、『シン・ゴジラ』のゴジラに並び、『シン・ウルトラマン』の冒頭から矢継ぎばやに登場した数々の禍威獣、この“放置された生物兵器”とされる、おそらく又別の外星人の遺物も、ほぼ同時期にメフィラス星人が目覚めさせ、暴れさせる。尚、“威力偵察用”は『シン・ゴジラ』のゴジラの他、『シン・ウルトラマン』冒頭の数々の禍威獣らであり、又“戦術用途”、つまり基幹産業たる電力と原子力の供給網を制圧する局地戦略兵器がネロンガとガボラだった。又、これらは全てメフィラス星人が光の星の監視者、裁定者としてのウルトラマンを地球に誘き寄せる陽動の意味合いも兼ねていたし、同時にこの圧倒的な力をデモンストレーションする為の好対照として付随して陽動されたのがザラブ星人、この現生人類が対禍威獣戦で見せたそれなりの文明力に脅威を抱き、自然破壊にかこつけて絶滅させようと謀って動いた、着ぐるみ手前半分、中身スカスカの愛嬌溢れるその人だった。或いは、メフィラス星人は必ずしも光の星の監視者だけに的を絞らず、この水準の武力、つまり地球の人類を圧倒的に制圧できる力を持つ知的生命体としての外星人を陽動できるなら、ウルトラマン以外の誰でも良かったのかもしれないが、しかしやはりザラブとは違って比較的に穏やかで“傍観”に徹する掟を行動原理の一つとする光の星の監視者こそ、メフィラス星人のより穏やかな(?)人類生物兵器転用計画への協力を取り付け易い適役として見込まれていたのかもしれない。尚、ここで留意したい点として、メフィラス星人は飽くまで必要最小限の“放置された生物兵器”を現地調達し目覚めさせただけであって、従って依然と多くの禍威獣らが地球の生態系に潜み続けていると考えられる。又、何故メフィラス星人は、現代に至って接触する人類を敢えて日本国のそれに限定したのか?これはおそらく、彼が日本政府との密約でベータボックスを譲渡する際、世界各国の偵察衛星から丸見えのロケーションでこれを執り行おうとする様な、極めて穏やかで平和ボケしている日本の風土性特有の統治機構を自らと人類との交渉の窓口にする事によって、この後の過度な技術独占や争奪戦等の無駄を極力避け、ベータシステムの人類文明へのより円滑な普及と、人類の生物兵器としての進化の加速を見込んでいたからではないかと考えられる。又、これこそが日本国だけに禍威獣が出没し、ウルトラマンも日本国に陽動された理由でもあろう。つまりこれは必ずしも日本国にとって名誉な話ではない、諧謔の描写だ(笑)。
 次に、そんなメフィラス星人の謀略にウルトラマンは協力も静観もせず、これを実力で阻止しようと対決を挑むが、この決着が付かぬ内に、光の星からゾフィという又別の監視者、裁定者が地球に来訪。地球来訪直後から神永新二という禍特対の男性と融合したウルトラマンとは違い、純粋な光の星の監視者、裁定者として現れたゾフィの身構えから、メフィラス星人は只ならぬ“厄介事”を察知し、ウルトラマンから強奪されたベータボックスを受領する事と引き換えに謀略を放棄し、地球から撤退する。ゾフィは、人類がベータシステムによって生物兵器への転用が見込める戦略資源、或いは文明レベルの進化が危惧される脅威、或いはマルチバース社会の軍事バランスを悪戯に乱しかねない火種として看做し、前任のウルトラマンに代わる地球の監視者、裁定者として、光の星の合意の下で人類の廃棄処分を決断。太陽系ごと滅却できるゼットンシステムの自律プログラムを起動させた。ところで、光の星の外星人が宇宙の監視者、裁定者という役回りであるという設定は、調度、実際の人類の国際法上で言うところの核兵器拡散防止を担うIAEAに相当する位置づけと考えられる。ならばさしずめ、ベータシステムは実際に於ける核兵器に相当し、つまりゾフィは、地球の現生人類がベータシステムという核兵器に優る新たな非対称性の強い軍事技術を自律的に使いこなせるレベルの知的生命体だと把握した時点で、本来なら監視対象の現住生物の自律性を損ねる干渉はご法度とする光の星の掟を超える、裁定者としての上位の規範に従って、ベータシステムの不要な拡散、乱用を防ぐ為に、太陽系もろとも人類の粛清を決断する他なかった。尚、人類がベータシステムを自律的に使いこなせる事を実証したのは、ウルトラマンとメフィラス星人だった。ウルトラマンは神永新二との融合によって、又メフィラス星人は浅見弘子をベータボックスで巨大化させた事によって。つまり人類によるベータシステムの活用形態は、一つに外星人との身体的な融合、又一つに硬質化と巨大化、又一つにプランクブレーン(折り畳まれた別次元空間みたいな概念?)の星間航行に於ける活用等が考えられる。
 いずれにしても、神永新二と融合し、彼の自己犠牲の精神を切り口として人類を理解し始めたウルトラマンは、ゼットンから人類を救うべく、人類の数式に変換したベータシステムに関する記述を、禍特対の一人、滝明久を通して、半ば強制的にでも人類の文明の発達を促す形で、つまり光の星の掟破りギリギリの方法で、自らと人類との共闘による、光の星の裁定に対する抵抗の活路を切り開き、果たしてゼットンを“変身後1ミリ秒で殴り飛ば”し、太陽系から遥か遠くへ撃退する事に成功する。この結果に対してゾフィ始め光の星は敬意を表し、人類の残置とウルトラマンの光の星への送還を決定。しかしウルトラマンは光の星に帰らず、代わりに神永新二の復活の為に自ら命を譲る事をゾフィに要望、これが受理された。尚、これは必ずしもウルトラマンの死を意味するとは限らず、何故なら本編でウルトラマンが神永新二に成り代わっていた時点でも、これが二人の遺伝情報が融合した状態だとメフィラス星人が決闘中に言っており、つまり神永の人格がウルトラマンと共存してはいたものの、ウルトラマンの意志が主導権を握る状態だったとも考えられ、従って神永に命を譲った後もウルトラマンは彼に主導権を移す形で人格を維持し、融合し続けていたとも考えられる。又、ゾフィがウルトラマンの命を神永に移す際、ウルトラマンの命と身体を分離させたが、これはつまりウルトラマンの身体も光の星に送還されず、おそらく地球の付近(?)のプランクブレーンに収納され続け、従って『シン・ウルトラマン』終幕後の神永がベータカプセルでウルトラマンに変身できる様になったという、この新たな物語の始まりと捉える事もできる。というのも、そもそもウルトラマンのゾフィに対する要望には、地球に残って人類が可能な限り存続できる様に助けたいというものが含まれていたし、又、ゾフィが人類を粛清すると裁定した時点よりも、人類がゼットンをウルトラマンとの共闘で撃退した後の方が、人類の軍事的な脅威のレベルはマルチバースの130億種の知的生命体から、より高く認知される様になったに違いないので、従って、『シン・ウルトラマン』の終幕とは、地球に又新たに多くの外星人や禍威獣が続々と来訪する物語の始まりとも捉えられる(笑)。つまり『シン・ウルトラマン』の終幕は人類にとっての事態の悪化を意味し、従って私鏑戯は、この続編の制作、公開を期待せずにはいられない!又、そもそもゼットンシステムを使いこなす光の星の圧倒的な軍事力こそが脅威であり、しかしこれをもってしても、人類がベータシステムの乱用によって、やがては招くであろう未来の宇宙の軍事バランスの崩壊を収拾する事が困難と危ぶまれたからこそ、ゾフィはこれを未然に防ぐ為の人類粛清を判断せざるを得なかったと考えるなら、つまりは『シン・ウルトラマン』の続編で地球に来訪する外星人らはゼットン級かこれ以上の軍事的脅威だと推測できる。正に、人類にとって“絶望”の物語の始まりという訳だ。

▽“絶望”を耐えて生き抜く覚悟が『シン・ウルトラマン』の表現テーマの主軸
 以上の様に概略できる『シン・ウルトラマン』から私鏑戯が最も注目する点は、圧倒的な“絶望”と僅かばかりの“希望”とを好対照に描く、つまりは“絶望”の現実を耐え生き抜く覚悟を主軸として描く庵野秀明の脚本に於ける、彼独自の思想性だ。尚、こういった庵野秀明独自の“絶望”のテーマ性については、当エントリの最下項目の「庵野秀明考:私鏑戯が庵野秀明を評価する理由」にて詳述した。
 尚、『シン・ウルトラマン』は“絶望”のディテールを2層構造で描く。一つは、人類のポリティカルドラマに於ける極めて現実主義的な、例えばかつてE.H.カーが『危機の20年』で述べた“決定論の不毛さ”や“大国の独裁は国際政治に於ける自然法の様なもの”にも通じ、少なくとも“鼓腹撃壌の世作り”からの逆行を嘆く類の“絶望”だ。又一つは、その延長で語られるマルチバース(多元宇宙)規模の政治的且つ軍事的な“絶望”だ。前者に関しては、ザラブやメフィラスとの交渉で国際政治上の主導権を狙えると、たとえ平和ボケの日本国政府ですら、そんな事態に遭遇すれば発想するだろうという趣で描かれた部分によって、又後者に関しては、禍威獣は所詮、威力偵察や局地的な戦術用途に過ぎなかったと証し、自らもウルトラマンとの戦闘で拮抗していたメフィラス星人が企んでいた人類生物兵器転用計画や、人類を恒星系ごと滅却する為にゼットンを解き放ったゾフィ始め光の星の冷酷さが描かれた部分によって、それぞれの“絶望”が鬼気迫るものとして表現されていた。端的に言って、人類社会の“現実”であれ、宇宙社会の“虚構”であれ、いずれを生き抜くにしても圧倒的な“絶望”が付き纏うという、言わばかつての『シン・ゴジラ』に輪をかけて更に酷い生き地獄的な世界観が描かれた。だからこそ、『シン・ウルトラマン』は『シン・ゴジラ』よりもコミカルで笑えるネタを数多く仕込む事によって、その世界観の本質的な重苦しさを幾らか相殺し、軽減させる演出が施されていた。又もう一つ、滝明久個人の葛藤のドラマによって象徴的に描かれた、人類文明の本質的な無力感に直面する類の、この3層目の“絶望”も見落としてはならないのかもしれない。
 果たして、そんな現実主義的に達観された“絶望”の視座が支配的な語り口を土台としながら、禍威獣やら外星人やらウルトラマンやらゼットンやら、これらの虚構をリアルに描き、とどめのカタルシス、つまり僅かばかりの“希望”の描写に至っては、“並行宇宙の移動原理を利用すれば、ゼットンが放射する熱エネルギーを丸ごとプランクブレーンに移せるかもしれない”等といった空想科学を捻じ込むといった強引さによって、観る者を納得させに掛かってくるのだから、こういったリアリティとファンタジーとの落差の幅が超ド級に甚だしい類の鑑賞体験、この比類の無さに対して私鏑戯は、感動していいやら笑ってしまってもいいのやらと只々困惑したが、しかし同時に、こういった言わば混沌とした感情の揺さぶりを演出する『シン・ウルトラマン』の唯一無二な感触そのものに対しては、より根源的な感動を覚えた事も、又確かだ。
 或いは、たとえ天下国家的なレベルの“絶望”を、如何に虚構を交える工夫を凝らして克明に描いたとしても、そもそも“絶望”そのものを認知すらできない圧倒的多数の部類に対しては、話も表現も決して伝わりっこないといった、予てからの制作側の足元のメタ的な“絶望”と直面し、もはやこれを『ウルトラマン』的な空想科学でもって端から諧謔し、笑い飛ばす事でしか、今の時代性を写し取るといった意味での映画的なカタルシスは決して成立し得ない、みたいな切実な悲鳴が聞こえてくるかの様でもあったと述べておくべきか。

 いずれにしても、『シン・ウルトラマン』の脚本と映像演出が庵野秀明自身の“絶望”表現を主軸としているだろうといった、私鏑戯の手応えに変わりはない。そしてこれは間違いなく、古くはかつての『トップをねらえ!』まで遡るところから『エヴァ』シリーズや『シン・ゴジラ』まで一貫して描かれ続けてきたところの、更なる発展系に他ならないだろう。とにかくその昇華に於ける脚本の構想力が着実に強化されていると、私鏑戯は痛感し、感嘆した!
 以上の感想をまとめる為だけでも全編通して2度も鑑賞してしまった『シン・ウルトラマン』は、私鏑戯にとって極めて味わい深い大傑作映画だ。
 さて、『シン・仮面ライダー』観に行こか!

 

▼2023年4月11日

庵野秀明考:私鏑戯が庵野秀明を評価する理由

 本稿は、私鏑戯が『シン・ゴジラ』『シン・エヴァ3.0+1.11』を鑑賞し終え、又『シン・ウルトラマン』未鑑賞でBlu-ray到着を待ちわび、この後に直ぐ『シン・仮面ライダー』劇場鑑賞をと我慢している、この様な時点で執筆した。

 尚、そもそも私鏑戯が庵野秀明を本格的に評価したくなったきっかけは、つい先日(2023年3月8日)の『シン・エヴァ』初鑑賞で、彼が宮崎駿ばりの独自性に優れた思想性をこれでもかと丁寧に表現してくれていたといった手応えを得た事にあり、何故ならかつて『旧劇場版エヴァ』の時点では、同様の思想性に対する私鏑戯の感想がどこまでも憶測に過ぎないかもしれないと確信できない程に、その昇華センスのキレが良い意味でぶっ飛び過ぎていたからだ(笑)。その思想性云々の評価に関しては、以下のエントリで詳述した。むしろ本稿のタイトルの下で扱う内容としては、以下エントリが最も本質に迫っている。

↓『シン・エヴァ:3.0+1.11』初鑑賞の感想エントリ


▽“希望”に逃げず、“絶望”の苦しみを耐えて生き続ける覚悟を表現テーマとする庵野秀明
 以下の動画05:58~、庵野秀明が次の様な事を述べている。
「自殺は絶望ではなく、希望の産物でしかない。というのもそもそも人間は基本的には絶望する事ができない。或いは絶望を知りたくて生きているという側面もあるかも知れない」。


 本稿の執筆は、上の庵野秀明の言説に私鏑戯が今更感銘を受けた事をきっかけとしている。
 実に面白い。
 確かに、自殺とは、この世の苦しみからおさらばできるだとか、解放されるに違いないだとかいった、この確たる根拠も無い、あくまで楽観や希望に基づく自滅的な暴力行為だとも考えられる。この点を踏まえれば、自殺とは“絶望”よりもむしろ“希望”の産物として解釈する事もできる。逆に、この理屈の延長で考えるところの“絶望の産物”とは何かと問えば、これを善く言えば、自殺せずにこの世の苦しみという現実に耐え、受け入れ続ける覚悟とか、或いは悪く言えば、不毛な達観とか“決定論(※運命論)”等となるだろう。つまり、自殺はどこまでも自らの希望に突き動かされる営みだからより明るく気楽で簡単だが、逆に生き続ける事はどこまでも自らの絶望と向き合い、耐え続ける営みだからより暗く重く困難だ。従って、人間は基本的に絶望する事ができないし、これに耐えられないからこそ生きて希望にすがって宗教(※これはカルトに限らずより普遍的で多元的な宗教文化全般)や娯楽に依存し現実逃避をするか、或いは新たな黄泉の世界に飛び立とうと希望を抱いて自殺するしかないのだが、でも同時に心のどこかで絶望に耐え忍んでみせると反骨の精神を秘めているのかもしれないといった、このように一見すれば人間の生存本能を前提とする凡庸な感覚とは逆転した、庵野秀明独自の内観哲学に帰結する。
 で、ここで問題となるのは、他でもない『エヴァ』の表現テーマの根幹に、以上の様な庵野秀明独自の極めて聡明で、片や凡庸な一般の感性からは逆転した内観哲学が前提として横たわっており、これがよりにもよって不特定多数の鑑賞者を客とする娯楽アニメという形式を纏っているという意味での“落差”だ。確かに、『エヴァ』のコアなファンに限っては、その逆転した内観哲学にこそ共感し、孤独な心が救われた数奇な部類も少なからず実在したのだろうが、その他大勢の『エヴァ』ブームの追随者に関しては、その逆転した内観哲学に対する好奇と嫌悪のない交ぜな違和感、不気味さの本質には無頓着なまま、ひとまずはこの表層から感じ取れる部分だけをもって、いわゆる“前衛的なアニメ”という程度に捉え、これに熱狂する自分を演じていたのだろう。

 尚、この両者の違いは、善く言えば“感受性”に富んでいるか否かであり、悪く言えば“自閉気味”とか“自意識過剰”とかであるか否か、だと思う。つまりこの文脈では“感受性”と“自閉”とは紙一重で、“僥倖”であると同時に“コンプレックス”でもある。

 更にこの論点を掘り下げると、庵野秀明を“非凡”たらしめている諸条件の内の一つこそが、正に“感受性”と“自閉”との紙一重の内包だとも言え、又、そんな彼の“非凡”から生まれた『エヴァ』の真髄を深く理解し、痛く共感できる部類の鑑賞者にも同様の“感受性”と“自閉”との紙一重が内包されている、こういった傾向を推し量る事ができる。つまり『エヴァ』の真髄を理解できるか否かを決するのは、鑑賞者個々の後天的な知識や経験や洞察力や意志等よりも、半ば先天的な特質としての、良くも悪くも“自閉”故の“非凡”、この傾向に依る所が圧倒的に大きい。が、実際は必ずしもそう単純ではなく、例えば『エヴァ』の真髄を理解できる“凡庸”の部類も当然存在するし、むしろ理解できず“感受性”に乏しく“凡庸”で“自閉”気味な部類こそが、飽くまで実感としては、圧倒的多数として捉え易い。いずれにしても、それ位『エヴァ』のテーマ性の核心は、いわゆる“難解”であると同時に、庵野秀明という“非凡”にとっては率直な本音に他ならないという、こういった創り手と受け手の間のどーしょーもない“落差”があって、これを表層の映像制作センスで補い、娯楽アニメ企画として空前絶後の大成功まで持っていった彼のアニメ監督としての“非凡”にこそ、結局のところは焦点が収斂せざるを得ない話だ。
 さて、聡明な読者なら既にお気付きだろうが、つまり庵野秀明は『エヴァ』及びこの完結編としての『シン・エヴァ』で“絶望”という、この“ありのまま(※マリの台詞)”の現実の苦しみに、生きて肉薄し続ける人間の覚悟を描いたのだ。庵野秀明にとって生きる事は絶望に耐え忍ぶ事と同義であり、『シン・エヴァ』に於いてこれを受け入れたのがシンジやミサト含むヴィレ勢や第3村の住民らだったのであり、逆にこれを拒絶し現実の苦しみに終止符を打つという人類補完計画の希望に逃避し、主導したのがゲンドウだった。つまり、『シン・エヴァ』は庵野秀明自身が“絶望”を生きる覚悟に踏み出すに至るまでの、“絶望”か“希望”かで逡巡し自己葛藤していた、おそらく思春期の記憶をプロットの骨格としているとも推測が可能だ。
 以上の私鏑戯独自の解釈は、以下に引用する『シン・エヴァ』に於けるマリとゲンドウそれぞれの台詞を参照するだけでも、一定の精度が担保される。


 C-398~403、ヴンダー艦尾、エヴァ改8+9+10+11+12号機に乗るマリ「神が与えた希望(虚構)の槍カシウスと絶望(現実)の槍ロンギヌス。それを失っても世界をありのままに戻したいという意志の力で創りあげた槍、ガイウス。いえ、ヴィレの槍。知恵と意志を持つ人類は、神の手助け無しにここまで来てるよ、ユイさん」。
 C-181~182、ゲンドウ「(略)想像上の架空のエヴァだ。虚構と現実を等しく信じる生き物、人類だけが認知できる。絶望と希望が互いにトリガーと贄となり、虚構と現実が溶け合い、全てが同一の情報と化す」。
 C-292~295、シンジ「父さんは、何を望むの?」に対しゲンドウ「A.T.フィールドの存在しない、全てが等しく単一な人類の心の世界。他人との差異が無く、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみも無い、浄化された魂だけの世界。そして、ユイと私が再び会える安らぎの世界だ」。


 尚、“絶望”を生きる覚悟といった表現テーマはそもそも『エヴァ』TVシリーズや『旧劇場版エヴァ』の当初から首尾貫徹されてきていた。

 「逃げちゃ駄目だ」と他人との関わりに耐えつつも、同時に自らの存在自体が他人に対して迷惑でしかないと自分を追い詰めてしまう、この出口の見えない“自閉気味”な苦悩とは、庵野秀明特有の生きる苦しみの一端への描写であり、つまり“絶望”との対峙だ。

 又、『旧劇場版エヴァ』のキャッチコピー「だからみんな、死んでしまえばいいのに…」は、そんなシンジの“絶望”からの逃避、敗北が、彼自身と唯一の他者たるアスカだけを残して、他全ての人格や生物がLCL化、つまり自我と他者の境界が融解し、全ての人格が均一に融合して個々の自我を失う事によって魂の安らぎを得るという、この理想主義の行き着く先としての極めておぞましい人類補完計画の、ひとまずの完遂を招いてしまったという結末の皮肉を、或いは“絶望”からの逃避や敗北そのものを象徴した。只、そこではアスカという唯一の他者を生き残らせた事こそが、シンジが“絶望”を僅かでも受け入れた覚悟の証となっていた。従って、アスカの「気持ち悪い」に対するシンジの嗚咽が意味するところとは、まず第一義的には、自ら人類補完計画完遂のトリガーとなってしまったという究極に取り返しのつかない大迷惑(笑)を犯した自己嫌悪の爆発だが、転じて副次的には、そんなどーしょーもなく屑人間な自らを叱ってくれる他者、或いは現実とか“絶望”の象徴としてのアスカを彼の肉欲交じりに生き残らせてしまった、この更に輪をかけて徹底的に下衆で屑人間な・・・と自らを追い込んでしまうシンジの自己嫌悪と、安堵と、甘えと、感謝とが、永久に循環し続けるといったメンタリティである。つまり、『旧劇場版エヴァ』も後の『シン・エヴァ』と同様に、表現テーマの本質としては“絶望”を生きる覚悟を極限の形で昇華している。尚、その“極限の形”とは、『旧劇場版エヴァ』の最終カット、シンジが馬乗りになって首を絞めている相手、この“絶望”の具現たるアスカから「気持ち悪い」と声を掛けて貰う事で嗚咽する、あのたった数秒程度の最終カットだけで、上述した様な逆説が幾重にも入り組んだ表現テーマの全体像を瞬時に、直感的な形で演出、昇華した当時の庵野秀明ならではの脚本コンテセンスの秀逸さへの、私鏑戯独自の大絶賛を意味する。良い意味でぶっ飛び過ぎだよ(笑)!
 要は、『エヴァ』はTVシリーズ、旧劇場版、そして『シン・エヴァ』の完結まで首尾一貫して“絶望”を生きる覚悟を描く大傑作の連なりだと、私鏑戯独自に解釈しているという話だ。

▽庵野秀明の実績の総体こそが、彼の制作動機としての“閉塞感の打破”に真実味を与える
 ところで、上のインタビューが撮られた時期は『エヴァ』TVシリーズ放送初期の1995年末辺りで、つまり1960年生まれの庵野秀明が35歳当時の言説と推定できる。若い!
 又、庵野秀明は当時から日本のアニメ業界の閉塞感、つまりはおそらくアニメ好きが高じて業界に居場所を見出した部類だけで構成される業界特有の閉塞感、これに対する違和感こそが『エヴァ』の表現テーマの一つだったと述べる。この“閉塞感”について更に私鏑戯独自の推測で掘り下げると、それは自らのメンタリティにしか興味が無く、この外側で流布される多元的で複雑な“現実の物語”には一向に視野が広がらず、従って年齢を幾ら重ねても自己客観視できないままの、言わば“自閉気味”なメンタリティ、或いはこういった感性で創られた作品ばかりが溢れかえり、消費され続ける産業構造に対しての“違和感”だったとも言えるのではないか。尚、その状況は現在に至るもさして本質的に変わるところは無い。
 果たして、時を経て同シリーズの完結を飾った『シン・エヴァ』への反応は案の定、同作に込められたテーマの全体像は差し置かれ、代わりにこの極一部分に過ぎない、いわゆる“エヴァからの卒業”を受け入れられず脳髄反射的な拒否反応を露呈する“自閉気味”な抵抗感からの嫌悪や逆上だけが大方を占めるといった結果となった。そもそも、『エヴァ』TVシリーズ制作当初から庵野秀明が表現テーマとして、そんな“自閉気味な閉塞感に対する違和感”を据えていたし、これが『シン・エヴァ』まで首尾一貫されたのだから、その“大方の嫌悪や逆上”の結果こそは自明の理、当然の帰結という他あるまい。この上で尚も劇場興行収益100億円なのだから『シン・エヴァ』は企画として非の打ち所の無い大成功、大傑作だった。
 尚、そもそも『エヴァ』の制作コンセプトの本質とは、庵野秀明自らもそんな“自閉気味”な感性の持ち主の一人に他ならないと自負し、まずは彼こそが師匠の宮崎駿とは違って自らの“時代性”や“人生の物語”を持ち合わせない空っぽな人間だとコンプレックスを自覚する下で、しかし同時に、自らの幼少期に遭遇した、敗戦後(※←この歴史感覚こそが庵野秀明を庵野秀明たらしめている!円谷英二『ハワイ・マレー沖海戦』という源流。つまり彼は必ずしも“空っぽ”ではないと私鏑戯は考える)の特撮作品群、この一見して虚構に過ぎなくても、この制作陣の思想や物語まで併せ含めれば充分に“現実の物語”足り得る、時代の営みとの関わりという人生の財産に拠って立つ事で、初めて彼自身の“自閉”を乗り越えて自己客観視を果たそうという、庵野秀明自らに課された試みにあったのではと、私鏑戯は独断する。又そこで言う、庵野秀明の特撮との関わり方の根幹とは、いわゆる“パロディ”だ。つまり庵野秀明の自己客観視の具体的な手段は、往年の特撮作品へのパロディが根幹となっていると言える。尚、この“パロディ”は決して“ぱくり”ではなく、又決して“焼き直し”にも留まらない。それは冒頭に挙げた庵野独自の内観哲学が表現テーマの主軸として揺るがず反映された類の“パロディ”だ。少なくとも『エヴァ』を円谷特撮『ウルトラマン』の単なる“焼き直し”として位置付ける事は誰にも出来ないといった、極めて高度で優れた“パロディ”。ここまでくると、もはや庵野秀明は決して“自閉気味”でも“空っぽ”でもなく、むしろ自己(※或いは人類)客観視という、そもそもの文学や映画の王道を極め、更にこれに類稀な才能と実力が伴う大天才だと、私鏑戯は評価せざるを得ない。
 翻って、庵野秀明にとっての“閉塞感”は他大勢の凡庸な感性にとっての“解放感”足り得るし、逆に庵野秀明にとっての“閉塞感の打破”は他大勢の凡庸な感性にとっての“閉塞感”足り得ると考える論点についても述べておきたい。端的に、作品の多様性を念頭に置く論点だ。
 そもそも本稿の冒頭から参照している庵野秀明にとっての“閉塞感”とは、彼が非凡か否かに関わらず、飽くまで彼自身と彼の作品に共感する鑑賞者にとって理解し易い“閉塞感”に過ぎず、つまりこれはどこまでも相対的に捉えるべき多様性の一端に他ならい。これを換言すれば、“閉塞感の打破”という制作動機の正当性そのものは普遍であり、従って“閉塞感の打破”という制作動機を作品に昇華する制作者は、決して庵野秀明だけに限定されない。更に言えば、仮に庵野秀明の制作スタイルや作品群のユニバースな世界観に対して又他方の価値観から“閉塞感”を感じてこれを打破しようといった制作動機にも同様の普遍性が宿る。更に言えば、そもそも“閉塞感の打破”とは、創作に関わる者なら誰もが多かれ少なかれ内に秘める制作動機の数多くある内の一つに過ぎず、従ってこれに関してさも庵野秀明の専売特許の如く誤解される理由とは、一重に庵野秀明の『エヴァ』他多くの実績の偉大さ、つまりはこれを構成する庵野自身の監督、演出家、脚本家、コンテマン、アニメーターとしての技能の優秀さだけでなく、彼の元に集結したキャラデザ、メカ設計、実写パート及びプリヴィズ制作班、作監、原画、動画、背景、CG特効仕上げ、音響、作曲家、制作進行、製作プロデューサー等の各分野の才能の連携の積み重ねの結果こそがモノを言っているという、この厳然たる因果を度外視する主客転倒にあるのであって、決して“閉塞感の打破”という制作動機そのものだけに成功の秘訣か神秘か何かが宿っている訳ではない。
 つまり、私鏑戯は本稿に於ける庵野秀明への賞賛の根拠を、決して彼の“閉塞感の打破”という制作動機だけに置かず、飽くまで彼の表現テーマに於ける思想性や手法や制作スタイルや作品完成に至るまで関わる全ての具体的な営みまで含めるところをもって庵野秀明を賞賛するものである。
 従って、『エヴァ』に対して閉塞感を感じる部類の制作者や鑑賞者を批難する意図は、本稿に於いて基本的には存在しない。

 但し、それは『エヴァ』の閉塞感を受けて、これを没理性的な逆上で発散する部類に関しては例外となる。つまり、本稿に於いて先述した「いわゆる“エヴァからの卒業”を受け入れられず脳髄反射的な拒否反応を露呈する“自閉気味”な抵抗感からの嫌悪や逆上」と指摘した対象は、その部類に限定される。自らの自閉気味な劣等感をやり過ぎレベルで自覚した上で、これを理性的に戒め、尚も“絶望”に肉薄しようともがく庵野秀明の生き様に対して、もう一方では自らの自閉気味な欠点に無自覚なまま没理性的な言動を恥知らずに発散する部類とは、しかしどこまでも関わり合いたくないから基本的に批難する気すら起きないのが私鏑戯の率直な本音、実際なのだが、それでもいざ批難したという理屈上の客観的な事実だけは認めておかないと、後々余計な弁明に頭を煩わされる事にもなりかねないので、敢えて“閉塞感の打破”という制作動機の相対性及び作品の多様性を念頭する論点に付随させる形で、“批難の対象”について整理し、言及した。
 そもそも私鏑戯は、スコセッシ映画もマーベル映画もアニメも実写も宮崎駿もポケモンも、全てが所詮は鑑賞者たる私鏑戯自身の好みの埒外に於いて、広く深く複雑で多様に展開する“ありのまま”であれてこそ、初めて本当の意味での閉塞感が打破され続け、この文化的に豊かな土壌が維持されると考える。だからこそ、庵野秀明の様な儚げだが同時に思想的に芯の通った非凡な才能を讃えずにもいられないという訳である。