【壇珠(たんじゅ)】(ミユ)メモリーブログ 3次元生活日記

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宇宙はどうなっているの?私って何?
そんな幼心に抱いた疑問をきっかけに
真理探求を楽しむイタリア在住【壇珠(たんじゅ)】(ミユ)のブログ

2019年7月・8月、訪日します!

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2019/7/19 東京『秘行イントロダクションクラス』
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▼noteより転載
 

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で127日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

 

127日目、今日は体調もよく、空も快晴だ!!
今日はそのため気分もよく、せいせいした、これでいいのだ感がいっぱいだ。だから外の世界にわーっと飛び出したいような気分。
しかし、わたしは今日もパソコンの前にいる。実際に外に出るのもよいが、
ネットで何かを発信するのも世界に出る行為だと言えると思う。
今日は、さあ、外に出よう!という気分で毎日投稿を書くのだ。
いい気持ちだ!

日課をこなすのは面倒な日もある。でも、面倒な作業というのは、その中に変な面白さがあって、それが好きだ。

昔わたしが小さかった頃、わたしは祖父母と父母妹との6人で暮らしていた。その頃、祖母や母が膨大な数の小さな部品を扱う内職をやっていた。
箱に入って届くそれは、どれだけやっても終わらないように見えた。
わたしはそれを手伝うのが好きだった。面倒臭さの中に面白みがあって、それが味わいたくてやってしまうのだった。やめられなくてずっとやっていると、最初は偉いなあと言われるのに、しつこすぎて、途中からもう止めろと言われたものだった。

こんなにたくさんやるのか!と思っていると作業はとても面倒に思えるのに、ひとつやる、またひとつをやる、と思っていると、いつも最初の一個をやったときの面白さを味わえた。そして、だんだんうまく、だんだん早くなるのが快感だったのを覚えている。

この毎日投稿にも、どこかそんな面白さを感じる。また昨日も書いたばかりで今日も明日もかよ~などと思うと大変に感じるだろうけれども、今日の一回分の更新をする!としか考えなければ、毎回が完結して楽しい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日は、いきなりだがわたしの変な習慣について書いてみようと思う!
ちょっと書くのに勇気が要ることなのだけど、自分の中のビビリは発見し次第打倒するつもりでいるから、今日もそんな自分のことなど蹴っ飛ばして書いてみよう・・・!

 

その習慣とは、最近巷でもよく言われる「身体の声を聞く」というもののうちに入るのだけれど、これはその中でも最も単純明快なものだ。わたしはこれを健康のためという意識ではなく、もうちょっと広く自分のためという感覚で、できる限り意識してやっている。


しかもわたしは、良いものを食べるとか、甘いものを食べないとか、砂糖を抜くとか肉を食べないなどの、インプットするものを調整するよりもずっとこれを大事だと思っていて、さらには、心ととても深い関係があると思っているのだ・・・!

それが何かと言うと、トイレを我慢しないこと。
赤ちゃんみたいにすぐに粗相するわけにはいかないので、多少の我慢時間はどうしても生じるけれど、とにかく我慢しない。これを生活に楽しく取り入れている。

やってみようとするとわかるのだけれど、これがまた、これまで我慢する習慣をつけてしまっている人にとっては、なかなか大変。
心まで我慢体質になってしまっているのだ!

今は人が話しているから中断させたら悪い、今は仕事中だから、今行くと自分勝手だと思われそうだから、今はそんな空気じゃないから・・・


これが、その人の、したいことを我慢する、言いたいことを言わない、もしくはしたくないことを我慢してやり続ける理由と、面白いくらいにリンクしているのだ。

 

たとえば誰かとカフェに居るとして、相手が一生懸命話していたりすると、つい我慢してしまう。自分よりも相手を優先してしまう。機嫌を損ねたくないし、失礼に当たると思って言えずに自分に我慢を強いる。
こういう習慣のある人は、人の顔色をうかがってしまう癖がついているのだと思う。

 

これを習慣にすると、不必要なものを抑えること、自分の欲しくないものでもキープすることを身体が覚えてしまう。
しかも続けると我慢強くなるため、ますますそれが強まってしまう・・・

 

今は面倒だから楽に行けるときまで我慢しよう、という癖のある人は、面倒なことを避けがちで、効率を優先するあまり、自分のためにじっくり回り道をしてあげることをいろいろなところでしないままでいたりする。

 

他にも、今自分が行きたいと言い出すと皆を待たせて迷惑になるから、というような場面で我慢しがちな人は、協調性を優先するあまり、自分の好きなようにするのを諦めてしまいがちだ・・!目立つのを恐れ、自由にやっている人に頭にきたり、嫉妬したりしがち。長いものに巻かれてしまいがちでもある。

 

なんだかだんだん占いみたいな文章になってきてしまったが、個々がトイレを我慢する理由というのは、とても奥深いものなのだ。
これをトイレ占いと名付けよう・・・!(バカ

 

わたしは、夢中になっていることがあると、ついついトイレを我慢してしまうという癖があった。これは、わたしがなにかに集中するあまり周りが見えなくなり、自分まで見えなくなり、大事なことを見落としがちなことを意味している。
ある時、自分がどれくらい水分をとって何度くらいトイレに行くのかを調べようとして、つい我慢しがちなことを発見し、赤ちゃんは何も気にしないでするのにな・・・と思ったのがキッカケで始めたことだった。

 

これを気をつけるようになってから最も顕著に感じられる変化というのは、自分が何を嫌がっていて、何が欲しいのか、それがドカーンと爆発する前に察知できるようになったこと。
身体に、トイレに行きたいときはすぐに行こう!という意識をなんとなく向けているだけで、熱中しているときに落ち着きが持てるようになったのだ。

それからも続けていると、我慢グセが治り、自然と言うべきことを我慢せずに必要なときにちゃんと言ったり、自分に必要なことを以前よりずいぶん早くスムーズに用意したりできるようになっていた。意識できていなかった範囲で自分軸が戻ってきたのだ。心の変化まであったのである。小さいことのようで、これはわたしにとってとても必要なことだったと思う。

 

これを実践するとなると、人によっては、トイレを我慢しないために、仕事の手を一旦止める。トイレのために、みんなに待ってもらう。など、迷惑だと思ってつい習慣にしている小さな恐れを、あえて打破するちょっとした勇気が必要だ。

 

でも、つい人に流されがちな人が、自分の好きにする!!行きたいなら行く!!それがどんな場面でも!!ということを、トイレから身につけるのは一番小さくて一番やりやすいことだと思う。そして、身体レベルから、自分軸を身につけるのになかなか良い習慣だ。
まさに、大人のトイレットトレーニングである。
(へたに良いネーミングができてしまった・・・!)

このように身体に不要なものを溜め込まないですっと手放す癖をつけるのは、身体にいろいろなものをインプットすること以上に大切だと思うし、心の衛生上にもよいと思うのだけれど、密かにわたしはダイエットにもよいのではないかと疑っている。

 

その他人軸の我慢体質、身体から変えてみませんか。って、なんのCM!
昨日の記事と打って変わってだいぶ俗な内容だけれど、本当に良いことなので我慢グセのある方は、是非お試しあれ!

というわけで、今日は大人のトイレットトレーニングについてであった。
それではまた、明日!!

 

 

 

 

 

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吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で126日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

 

126日目、夫の調子が悪い…あれからまだひどい咳が止まらず、わたし達は肺炎を疑い始めている。
今も隣でタブレットでアニメのピンクパンサーを観ながら咳き込んでいる。ひどい苦しみようだ…
わたしは夫に看病してもらっていたのと、持ち前の則巻力※を発揮したからか、夫の半分の日数で熱も下がり咳も止まりつつある。

※詳しくはこちらをどうぞ 【エロスは癒やし】苦しいときの則巻力
https://note.mu/michiemiyu/n/nb97a8675a258?magazine_key=m7f036d19c2ea

 

もし夫ほど悪かったら毎日投稿は確実に途切れていただろうと思う。
今後、そういう日が来ないとも限らない。その時、自分はどうしたら良いのだろう。
1日でも飛ばしてしまったら、潔くやめるのか。それとも、また次の投稿を1日目としてカウントし直せば良いのか。
はたまた、気にせずにその日を飛ばしてまた次の投稿から続きをカウントすればいいのか。これを考えなくてはならない時が来なければいいが…

とにかく続け切ってしまおう、そうしよう!!(楽観

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

わたしは前にアメブロの方にも、この毎日投稿にもちょっとだけ書いたことがあるのだけれど、とてもお気に入りの感覚を持っている。今日はそれについて改めて思うところがあるので、書いてみようと思う!!

 

わたしはいつも、もし自分が地球外知的生命体で、砂漠のような暗い星に住む半物質の幽霊みたいな身体を持ったエイリアンだとして、同じ星の同種の生命体たちからずっと、あるおとぎ話をテレパシーで聞かされているという設定で想像を巡らせる。(細かい設定に矛盾がいろいろあるのには目をつぶって・・)

 

そのおとぎ話とは、この広い宇宙の何処かに「ちきゅう」という場所があって、そこは光と色とにあふれていて、温度があって、木があり、花があり、風が吹いて、季節があり、真っ白い雪が降ったり、雨と言って水が粒になって落ちてくる現象もある夢のようなところがあるんだよ、というもの。

 

そこには暖かくてきれいな色の海があって、他の可愛い動物たちもいて、鳥が飛び、音楽があり、青という色の空に白という色の雲が浮かんでいて、人間は輝く目と手脚を持って自ら移動できる美しき生物で、感触があり、匂いがあり、何を思うも自由で、いつかはそこを離れるという切なさの中で生きるという究極の経験ができるところなんだよ、そこはこの世の楽園なんだ・・・と聞かされて育ったとしたら、どんなにそこに行ってみたいと思うだろうかと妄想する。

 

本当にあるの?と聞くと、みな、どうだろうね、この真っ暗な宇宙にそんな光るところがあったらすごいね、でもこれは、昔からの言い伝えなんだよ、本当にどこかにあるのだと昔から言われているんだよ、と言うのだ。
 
だから、もし今、わたしがそのエイリアンだとしたら、
ちきゅう、にんげん、いろ、どうぶつ・・・・・・見てみたい・・・もしそんな天国があるのなら、ほんのちょっとの時間でいいから、どうか神さま、たった1時間でいいから、その人間になってみたいよ、願っても叶わないだろうけど、味わってみたいよ・・・僕が死んだら次は人間にしてくれる?ちきゅうに生まれさせてくれる??
と思い、願い、祈るだろう。
 
そして、わたしが外に散歩やショッピングに出るときや、車に乗るとき、飛行機に乗る時、こう思うのだ。
 
神さまが、じゃあいいよ、ほんのちょっとの時間だけれど、地球に生きる人間にしてあげよう。どんな人がいいかな?と聞いてくれて、
もちろん自分は言うのだ。どんな人だっていいよ!!わあーーーっ!!!ありがとう!!!と。

そしてそれが今の自分だったら、と考えるのだ。
その気持ちで、外に出る。
明るい!!ものすごく明るい!!
太陽が頬に当たる・・・
何十万色もの色が見える・・・・
前に進む、マジで歩くことができる・・・・!
外の匂いがする。
匂いって、こんな感覚のことなんだ!!
木があって、本当に風が吹いている。
風が肌に当たるとわかる。
ものすごく気持ちがいい。風、すごいな!!
音もする。どこかからCMの音楽が流れてくる。
音楽だ!!音が組み合わさって流れて身体が踊りたがるよ!!
聞いたことしかなかった、おとぎ話だと思っていた世界が本当に目の前にある。
なんというところだろう!!

 

ドライブ中にこのことを思う。もうやるようになって、何年にもなる。けれど、今でもまったく新鮮なまま、外を流れる景色に涙が止まらなくなる。

夢にまで見たちきゅう。ほんとうに信じがたいほど明るい。アスファルトを美しいと思う。ガードレールを美しいと思う。怒ったおばさんを美しいと思う。なんという世界だろう、なんという景色だろう!!!
ナメクジを見て驚愕する。動いていて可愛いと思う。どこまでも続く空が、不思議でならない。

雲が動いていく、、、空の色が変わる。水色だったのに、真っ赤になってしまった!!太陽が肉眼で見えるところにあって、燃えながら隠れていく・・夜になったら、星がいっぱい空に光ってる!!!


エイリアンの皆を思い出す。
あったよ、僕本当に見たよ!!
あの話は本当だったよ!!
ねえみんな、見せてあげたいよ!!!!
ここにあのちきゅうがあったよ、おとぎ話じゃなかったんだよ!!

 

今の目の前の世界に感動できないとしたら、それは受け取る側が過去を引きずっているからだ。同じわたしたちの感性で、設定を変えるとこんなにも違って見えるのだから・・・!

先日坂爪さんにお会いしたときに、ファンタジーという言葉が好きだとおっしゃっていた。わたしも好きです、と伝えた。
わたしは、ファンタジーというのは自分の想像力を使って、どこまでも自分を楽しませる術のことを言うと思う。

それが本当かどうかなんて、まったく重要じゃないんだと思う。


もし自由に考えてよいのだとしたら、もし、こうだったら、もし、ああだったら、わたしは何を思うだろう!と思うだけで人の感性は目を覚ます。

人は本を読んでいて、その話がフィクションだと知っていても涙を流す。
その人の思考ではフィクションのままでも、感性では本当の世界になる。


だから、自分が何を感じるのかは、自分の好きにできるんだ。

世界をどう見るか、それは自分の自由にできる。
いつの間にか忘れてしまっていた、自由な想像力。
みなさんは、使っていますか。


自分がもし昆虫のように小さかったら、自分がもし、エラ呼吸ができたなら、もし自分が猫だったなら、もし自分が自分の母であったなら、もし自分がたった今死んでしまったのなら、もし5歳に戻ったのなら、もし自分が来世の自分で、今の自分を眺めたのなら。もし今、死んでしまって生き返った瞬間だったなら、もし自分が、神だったなら・・・
あなたの心は、世界をどう見るだろう・・・!

 

どんな想像だって、それを心にリアルに映し出したとき、それによって世界が違って見えるなら、それはファンタジーが魔法になる瞬間だと思う。


もし今すぐ使える魔法があるとしたら、このことだとわたしは思う。
それを使うと、世界が輝いて見えるだなんて、本物の魔法だ!

 

ここにちきゅうがあったよ。
ほんとうに天国みたいなところだよ。僕はどこまでも走ってみたい。
明日は海に触る。それから山の上にも行く。車にも乗ってみる!
そしていつかわからないけど、とにかく最後の日まで、この天国のいろんなところを見に行くよ!それから帰ったらみんなに話すんだ。泥に汚れたときも、誰かに怒られたときも、ほんとうに、色がいっぱいで光がいっぱいだったよ、って!!

 

わたしはこの想像が大好きだ。
いつも、この地球に居られることを幸せに思う。
ここを去るのを痛いほど切なく思う。
今日も生きられて、ありがとう。

というわけで、今日はファンタジーの魔法についてであった。


それではまた、明日!!

 

 

 

 

 

 

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(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

 

125日目、今日はドヨーンとした体調、ドヨーンとした天気、わたし自身もいろんな問題を抱えたドヨーンとした状況にある。
しかし、毎日投稿はこんな日もやるのだ。これは勝手に始めたことだから需要に応えているわけでもなく、無料だから収益とも関係なく、ただただ自分の自己満足のためなのだけれど、それこそが面白みなのだと思っている。

 

例えば子供の頃に鶴を折りたくて折っている時だって逆上がりを鼻穴を最大に広げて練習している時だって、あんなに面白くて夢中だったのは、誰に頼まれたわけでもなく、誰の期待も背負っておらず、一切の損得に関わっておらず、まさに自己満足100%の世界だったからだと思う。
だから今日も書くのだ。ただの満足のために三年も費やすのだ!!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

身体が痛くて大変だ…横になってばかりいるからかもしれない。痛い。しかし痛みというのはなぜ、裏面に『面白さ』を備えているのだろう。

 

この『面白さ』は言葉にするのが難しいのだけれど、生体の反応を知る面白さと、肉体を通した経験をする面白さと、受け取り方によって痛みの感じ方はまるで変化してしまう面白さがある。そしてどこかにちょっと、自分が痛みに負けるのではなく、こちらが味わいに来ているんだというような、勝っている面白みみたいなものもある。

 

だからと言ってわたしは自分から痛い思いをしようとはしないのだけど、痛い目に遭うとそれを観察する癖がある。心が傷ついた時もそうだ。一方では傷付いているのだけども、もう一方は「あいやー盛大に傷ついたな!!」などと思ってしまう。

 

昔はこのことを、結構ヤバいことなのではないか?!と思っていた。自分がわーわーと泣いたりしていても、「ひどく泣いてるなあ…!」と思う自分がいる。怒っていても、「かなり怒っているな今回は…」などと思っている。


それがいつだってあまりに冷静なものだから、自分でも不思議だったのと、なんでも平気に思ってしまう、ちょっと人でなし的な冷たい面があるのかと思って自分にドン引きだった。

今ではこの冷静な観察眼は誰にでもあるもので、使うほどに使いやすくなるものだと知っているけれど、当時はそんな自分が心配なくらいだった。

 

わたしはこんな風にいつも自分のことを観察している。わたしはきっと、売られた喧嘩は全部買ってしまうような人だと思われがちだけれど、この観察眼によって必要な時には黙していられることもある。
最近それの良い例であり、非常に驚いたことがあったから今日はそのことを書いてみたいと思う。

 

わたしは最近、とある女性に出会った。
初対面だったその人と、初めて顔を合わせた時のことだ。わたしは近眼だから近寄るまではその人の様子が見えない。しかし、その女性が近づいて来たときに、わたし自身に、わたしには大変珍しい、滅多に起こらないようなことが起こった。

 

わたしはその方が近寄ってきて、距離が5メートル近づくよりも前に自分が異常な反応をするのがわかった。なんとそれが、逃げろ!という反応だったのだ。
わたしは驚いて、しかし意に反して逃げずにいたが、今はなにか通常とは違う時なのだな…!と理解して、自分なりの危機対応モードをオンにしたままそこにいた。


いよいよ彼女が近づいてわたしのそばまで来たときには、胸からけたたましく警笛が鳴っていた。わたしはさらに驚いて、そのままその自分を観察した。

彼女はわたしに話しかけた。その時にはもう、強烈な嫌悪感に襲われ、取り繕うこともできなかった。わたしは言葉少なに会話を終え、あとはもうそちらを向かずに顔を背けたままで、しばらくして立ち上がって別の場所に移動したのだった。

 

こんなことってあるだろうか。話をする前から、顔をよく見る前から、身体が逃げ出したがるなんて滅多にあることではない。相手に悪気はないのだけれど、とても抵抗できるような嫌悪感ではなかった。

顔を見ても、話し方や話す内容を聞いても、嫌悪感は少しでも和らぐどころかさらに強烈になった。異常な事態であった…

 

一体何が起こったのか。
驚きながらも自分自身を観察していて、その嫌悪感は、なにか、彼女が彼女自身をまるで丸っきり本来の彼女とはかけ離れた人間だと思いたがっていること、その場でそれの証明のためにわたしを必要としていること、それが彼女にとって決定的に悪いことだとわたしが感じているのだけはわかった。

 

わたしはこの嫌悪感をここで本人に向かって口に出してはならないと感じた。この場をこの嫌悪感に乗じて派手なものにしてはならない。彼女が無意識に欲しがっている真っ赤な茶番に乗ってはならないと強烈に感じた。だから、わたしはとにかくそこから黙って離れた。

これにより、そのときわたしと彼女とは守られた(と、わたしは勝手に思っている)。とても良かった!

 

こう書くとなんだかわたしがとても賢そうな感じだが、そうではなくて、あっ、〇〇ちゃん、今なんか悪巧みしようとして先生になにか嘘言おうとしてる…!というのが顔をひと目見てわかった時と似ている。

不思議なことに、離れたあと、部屋のどこにいても、目で見なくても彼女がどこにいるのかがわかった。

 

その間、わたしが観察しているのは、その部屋にいる自分なのだ。自分を観察していることで、自分が危機を察している場所が間接的にわかるのだった。確認すると、やはり彼女はその位置にいるのだ。
こんなことは初めてだった。秘行はどこまで奥深い技なのだろう。そして、人間とはなんとアメージングな生物なのだろう!

 

人は時に、無い自信を、自分の演技や演出によってあるように見せ、自分でもそう思い込もうとしたりすることがある。もちろん、そんなときだって必要だと思う。わたしなど、若い頃これに散々失敗したクチだ。

 

けれども、自分の尊敬する人やその場で影響力を持つ人に手伝わせることでそれを決定的にしてしまうと、自分でもその心地よい思い込みがなかなか剥がせなくなってしまうこともあると思う。

 

わたしは特別なんだ、だってこんなに突拍子もないことをするし、こんなに大胆で無鉄砲だし、なによりあの人もそれをすごいと認めてくれたもの!!という自信は、まがい物だ。誰もそんなもの必要ないのだ。そんなもんじゃねぇんだ!見くびっちゃいけないんだ。

 

そんなことをしなくたって、わたしたちはすでに生まれつきひとりひとり特別だ。その点において、万人が皆同じだと思う。自信や幸福の根幹は、他者との比較に拠るものではないはずだ…!

 

どうか思い出してほしい…
わたしがひどく不器用であること、多くの人にできることができないこと、気が利かないこと、世間知らずで失敗ばかりすること、今も何も上手くなんかやれないこと、大人の階段を踏み外して転げ落ちたまま黒歴史ばかり重ねていること、常識を身につけられずに恥ばかりかくこと、社会的にも弱者であり、迷惑をかけてばかりいて謝って生きていること、etcを…!

そういう意味での自信など、もうメタクソのケチョンケチョンである。


世の中には、きちんとした資格を取り、努力を実らせて社会の役に立って活躍する人がたくさんいる。


わたしたちが公共の交通機関を利用できるのも、そこに道路があるのも、電気があるのも、インターネットを利用できるのも、パンツを履けるのも、多くの人が一緒になって社会を動かしているからだ。

 

わたしはその一員でない自分を、長いこと社会のお荷物だと思っていた。生きているだけ迷惑だと。


そして、そこから1ミクロンもベターな人間になったことはない。たしかにブロックは積めるしセメントも流し込める。まぁあとはあれだ、まつり縫いも上手い(言いたい)。けれども、自分への印象は世界にお世話になりっぱなし、という感覚のままだ…

 

それなのに、今は、自信のないまま、唸るほど欠点弱点を携帯したまま、自信のないことに苦しんではいない。おめーはクッソダメ人間だな!と言われたら、たしかにそうですね…(証拠も大量)と言うしかないのだけれど、そこと、これからを幸せに生きる自信とは、まったく別のものなのだ。

 

自分を諦めるな、という言葉がある。
けれど、わたしは自分が徹底的にそこに反してきたように思う。自分のことなんか、もうこれでいい、もう仕方ねぇ、やりようがねぇ、つける薬がねぇと思ってきたと思う。

 

ダメ出しも効力なし、無理強いも効力なし、社会についていく能力がないなら、もう自分は楽になります、死んでもいないのに勝手に極楽に行きやす…これで自分は完成形、これで良しと勝手に決めて、図々しく幸せってことにしちゃいやす…皆の努力を尻目に、ほんと、ダメなくせに「生きてるだけで」幸福とか、幸福の条件簡単過ぎてヤバいですよね、列に並ばないで勝手にゴールしちゃって、すいやせんホント…みたいに、勝手に一抜けた!してしまったに過ぎないのだ。
(実際ある日突然そう思ったわけではないけれど!)


もう探さなくなるだけだから、他者との比較で得るものではないのだ。

不動の幸福って、自分で決めるだけだ。何かの末に到達するものでもなく、手に入れるものでもなく、決めるのになにも要らない。


目の前にあるというけれど、それどころか既に浸かっているのだ。
ピッタリと一体で、これまで一度たりとも分離したことのないもの。分離のできないもの。
わたしたちが、ああ、なんて不幸なんだ!と嘆いている最中ですら、わたしたちと共にあるものだ。

 

言葉に語弊はあれど、幸福とは、その人そのもの。
だから、はじめから、なかったことなんて一度もないんだ…

わたしたちがわたしたち自身を見つめるとき、見ているものはわたしたちの幸福そのものだ。
わたしたちがわたしたち自身を感じるとき、感じているのはわたしたちの幸福そのものだ。

あなたはすでに持っている。それ、その、あなたの感じ、あなた、ただ移り変わるその、それのことなんだよ!!(日本語レベル…)

 

締めがロクでもない文になってしまったけれど、いいのだ、心だけは今日も、もうこれ以上込められないくらい込めた。

愛するあなたに楽しんでいただけましたことを祈って。そしてあの彼女にまたフレッシュに会えますように。

 

それではまた、明日!!

 

 

 

 

 

 

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124日目、まだベッドの中。熱が少し下がり、昨日よりは楽だ…今日こそはあとでパソコンに触ることができるだろうか。 
今日もここ二日と同じく、ただ横になったままで毎日投稿を書いて、FacebookやTwitterをやっているだけの日だ。傍目にはただの療養中のぐうたら状態だ。

 

けれどわたしの心にはこの毎日投稿が暗闇の中の猫の目のように密かに、煌びやかに光っていて、今日のわたしにもミッションがある喜びをくれる。
だから今日も書く。ファイトー!いっぱぁ〜つ…!!

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今日はまず、はじめに御礼を申し上げます。
これまで、裏自伝を読んでくださった方、それからサポート費を送ってくださった方、本当に本当に、ありがとうございました。
お知らせが来るたびにドキッとして、猛烈に感激しております。個別の御礼を送信できていなくて申し訳ありません。
サポートを送ってくださったお心を思うと本当に励みになります。心から感謝しております。
それから、改めて、裏自伝がどなたかの力になりますように。傷ついた女性の癒しにつながりますように。いつも祈っています。

 

最近、過激派になったわけではなく、とても穏やかに、「『無理をせず長生きする』のと『無理をして寿命を縮める』のどちらかだったら、わたしは後者の人生のほうが良いな」と思うようになった。

 

もちろん好きでもないことを無理してやる、それによって過労死する、というのは論外だけれど、自分がなにかを無理してやるとしたら、それはそれ相当に好きなことであるはずなのだ。


しかも、実際に死すほど無理をするなんて、とんでもなく好きなのだろうと思う。それが死の原因になるだなんて、幸せなことだと思えるのだ。

 

このところわたしは、長く生きるためにいろいろなことを抑えて生きる、ということに意義を見出せなくなってしまった。できるだけ長く生きようとすることが、いつの間にか魅力のある取り組みではなくなってしまっていたのだ。

 

生きるところまで生きるだろう。それまでは死ねないはずだ。死ぬまでは生きるだろう。それ以上は生きられないはずだ。長さなんて問題ではない。だから、早死にした人を「悲惨だ」と思わなくても良い気がする。みな、天命を尽くすのだと思う。

 

もしたとえば仮に、寿命がだいたい決まっているのだとしたら、これはなかなか面白いことである。

 

まず、それを調整しようとしても無駄だとなると、健康に気遣わなくてよくなる。
その寿命までは何としても生き延びるように設定されているとなると、それまではある意味不死身の無敵である。もちろん、それを試してみようとして高いところから飛び降りたりすれば死んでしまうが、そうでもない限り事故にも遭わず病気もせず、神の加護の元でその時までは生きるられるようになっているのだとしたら、なんと気楽なことだろう。
きっと多くの人がジャンクフードをたくさん食べるのではないかな!

 

そして、好きなだけ無理をするだろうと思う。
徹夜したらダメだよな、身体に悪い。病気したら良くないから、やめておこう。そう思って諦めることがなくなって、自由に好きなように夢中で何かをするのかもしれない。

 

わたしはしばらく前に湧いてきた、この気楽な発想に惹かれるようになってしまったのだ。
健康に気遣わなくていい、というのはわたしにとってものすごく解放感を感じられることだ。ということは、これまでも、なにも好き好んで気遣っていたわけではないということだ。

 

それ自体を楽しめる人ならば、たとえ気遣っても気遣わなくても同じように健康で寿命も変わらないのだとしても、楽しく健康に気遣うのだろう。
だが、わたしは気遣わずに済むなら最高だと思ってしまった。つまり、考えたくなかったのだ。身体任せ、感覚任せにしたいということだ。

 

だとしたら、今からそうすればいいのではないか、そう思ったのだった。わたしはもうすでに、好きなだけジャンクフードを食べるし、メインが肉食だし、炭水化物を大量に食べる。甘いものを食べるのは苦手でほとんど食べず、間食はほぼまったくしない。このように好きにしていて、健康診断ではまったく問題が見つからなくて褒められて、体脂肪率は17%程度だ。ならば忘れていいのではないだろうか。(たくさんの反論を覚悟の上で書いております…笑)

 

どうして自分は長く生きようとしていたのだろう。そんなことを最近思う。長寿がめでたいことだと、どうして当たり前に思い込んだのだろう。短命なのは果たして本当に不幸なことなのだろうか。
そして、なぜこんなにも、命を礼賛すればするほど、太く短く散るのもまたいい、と思いたくなるのだろう。

 

命は貴重だと思う。だから長引かせるのが良いのか、それとも好きなように使い切るのが良いのか。

 

わたしは、これすらも好きに選んで良いのだと思う。身体を大切にしながら無理をせず病気をしないように気をつけて、生木がゆっくりと燃えるように長く生きて幸せを噛みしめるも良し、可燃材のように一気に燃えて周りに火種を残して散るも良し、いろいろでいいのだと思う。

 

ただ、長く生きるほうだけが良く、短いのはそれより悪い、と洗脳されたままではいたくない。自分で考えて自分で選びたい。そうして納得の人生を生きて納得の死を迎えたいといつも思う。

 

そしてこんなことを書きながら、そう考えるわたしこそが一番長生きしそうな気もして複雑である。
おめー太く短くとか望んどったくせにクッシャクシャになっても生きとるやんけ!!みたいなことになりそうだ…人生はいつもこんな風に漫才みたいに痛快で本当に皮肉なものだもの!!

 

この太く短く、への憧れはどこから来るのだろう。
なぜ人は、長生きしましょう、長寿はおめでたいこと、と言いながら、命よりも何かを重んじて短く散った人の話に熱狂するのだろう。
なぜわたしたちは、生きたい、という遺伝子レベルの欲求を超えて死をも厭わぬほど何かを愛し尽くすことに憧れるのだろう。そこに生命を衝突させることに感動し、涙を流すのはなぜなのだろう。

 

そう、なぜリングで燃え尽きた矢吹ジョーにこれほどの賛辞が集まるのだろう。世界中の人が、あの若き最期を愛するのはなぜなのだろう。

 

もしもジョーが、「いやいや、これ以上ボクシングなんかやってっと危なっかしくてしょうがねぇや、やめたやめた、俺普通に働くわやっぱり」などと言って普通に仕事を始め、それ以降一生涯ボクシングに関わることはなく、食事のバランスに気遣って腰が曲がるまで長生きしました、という話だったら誰も見向きもしなかったはずだ。

 

それならジョー本人の望みだからまだしも、もしジョーが周囲の者たちに「これ以上ボクシングをするのはは危ないからやめなさい」とアドバイスされて、渋々いうことを聞いて我慢してやめて、一生それを心残りに思いながら大変長生きしました、という話だったらブーイングしか返ってこないのではなかろうか…
ブーイングを表す人だって、現実にジョーがそばにいたら、自分も同じようにアドバイスするに違いないはずなのに、だ。

 

その心残りを抱えた長生きは、おめでたいことなのだろうか。
ジョーがリングであの若さで燃え尽きたことは、不幸なことなのだろうか。
こう考えると、価値観が揺さぶられる。

 

人は、なんのために生きたいのだろう。この命は、生きる時間を長引かせるためにあるのではないはずだ。わたしたちはきっとどこかで、好きなもの、愛したもの、命よりも大切だと思えるもののために死にたいという欲求を持っているものなのではないだろうか…!

 

わたしはなんのために生き、死にたいのだろう。
生きる上での最大の喜びは、生きている実感そのものだ。わたしにとって生きているということは、それそのものが遊びだという感覚だ。
仕事が遊びみたいなものだったらいいな、と言う人もいるけれど、わたしはそもそも生きていることそのものが遊びだと思えば自動的に仕事も遊びのようなものになる気がする。それがつまらない仕事だって、ドラクエでレベル上げのためにずっとモンスターを倒している時間と変わらないとも思えてくる。つまらない、という経験もなかなかキツくて面白いものだ…

 

話はそれたが、この最も楽しい遊びの中で見つけられるもので、この遊びをを終わらせてもいいと思えるほど愛せるもの、とはなんだろう。禅問答のような難題である。

 

ひとつはもちろん、多くの人がそうであるように、わたしも愛する人や恩人を助けるためなら喜んで死ねる。見知らぬ人を助けるのだとしても、納得のいく良い散り方だ…!人の命はそれに値する。
でも、これ以外に自分を矢吹にしてくれるものとはなんだろう!

 

今、毎日こうしてスマホでこれを書いているのが負担になり、右腕の肘がテニス肘のようになっていてひどく痛む。しかし書くのをやめようとは思わない。これも矢吹の精神の一種だろうか…

あなた、それを続けていると死ぬわよ?
と言われて、それでも続けようと思うものがあるって素晴らしく幸せだ。そのために死ぬのはもしかしたら多くの人の望みなのかもしれない。
(もちろん、お酒やドラッグなどの中毒症状のことではない)

 

トンチみたいな話だが、
あなた、生き続けてると死ぬわよ?
と言われても、生きていることをやめるわけにはいかない。それでも続けようと思う。だから、生きているだけで素晴らしく幸せなのかもしれない。

 

我々はみな、生きて生きて、生き切ったために死ぬ。
あなたはなんのために死んだの?と聞かれたら、
「生きたんです、それに命を使い果たして死にました」と言える。
良い死でしたか?と聞かれたら、その答えに反映されるのは、生そのものへの感想なのだろう。

 

どう死ぬか、それはどう生きるか、だ。
わたしは悩むなら本気で悩み、ボンヤリするなら本気でボンヤリし、もし、愛想笑いをするとしたら本気で愛想笑いをしているような実感で生きている。
その本気度を左右するのは、どこまでそれをするのに自分で納得しているか、だと思う。

 

そしてその納得の発生源は、自分の命への愛だとわたしは思う。自分の選択や反応を、眺め愛でればただただ可愛いものである。

 

自分の悩む様子に胸が痛んでも、ボンヤリする様子が微笑ましくても、愛想笑いを哀れに思っても、わたしはすべての自分を我が子のように受け止めてあげることしかできない。わたしの場合はさらに不出来だから余計に慈悲の心が…
そしてあとは、欲しいものを好きなようにさせてやるために力一杯現実的に動くしか、自分のためにやれることなどないと思う。

 

自分をどれだけ愛しているかと聞かれたら、わたしは何と答えるだろう。わたしは、自分のことを眺めさせてもらえて幸せだ。わだスは、ミユさんが選んだごどならば、なんの文句もねぇンス。

 

だからきっと、無理をしたいなら無理をするだろう。それで死ぬのだとしても一緒に逝くしかあるまいて…自分よ、いつ何のために矢吹ってもいいからな…!!

今日は熱で結局起き上がれなかったからか命への思いをウダウダと語ってしまった…
でも、読んだお方には良い気が届くのだ。なぜなら本当にそう信じて書いているからなのだ。

 

それではまた、明日…!!

 

 

 

 

 

 

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▼noteより転載
 

 

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で123日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

 

123日目、まだ熱で寝込んでいる。わたしは以前からちょこちょこといろいろなところに書いてきた通り、風邪をひくのがなぜか好きだ。
苦しいには苦しいし、苦しみはそのまま苦しみなのだが、身体が「やるときゃやるぜ感」に満ちていて、普段眠っている何かが発動しているのが好きだ。風邪はドラマティックだ。浄化であり必然であり秩序であり戦争だ。我が身体よ、暴れるがよい!と思う。

 

こんな中で投稿するのは大変だ。けれども、こんな時にしか書けないことを書きそうな気もする。毎日書くことをしていると、自分の山あり谷ありが反映されるのが嬉しい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

風邪の面白いところは「こじらせる」ことがある、ということだと思う。こじらせるというのは、解決を難しくするということだ。
でも、問題を最小限にしか発露しないようにしようとか、問題は解決しなければならないという現状保守派の考えを捨てると、こじらせる方がずっと良いのかもしれないと思う。

 

問題がさらに大きくなる、というときは、もともとその人にこじらせるポテンシャルがあるからこじらせるのだと思う。病み上がりなのにふざけて裸で雪にダイブしたってなんともないこともあれば、こじらせないようにストーブの前で毛布にくるまっていても悪化することもある。

 

あんな無茶するからこじらせたのよ!と言われるとき、無茶しなくたってこじれたんだよ、今こじれなくたってそのうちこじれたんだよ、と思う。
原因と結果はそんな風には結びついていないと思う。

 

もしくは、なぜか病み上がりに無理をしたいときは、こじらせるポテンシャルを発揮したいからそんな衝動が湧くのかもしれないと思ってしまう。

 

そして、膿を出しきるほうに進んだことを、勝手にひとりで「俺は満足だ…!」と思う。
要は、本人の満足というのは、他者には決められないし、わからないことだと思うのだ。

 

風邪をこじらせた人に、「〜をしたのがダメだったんだ」「〜が悪かったんだ」「次からは同じ失敗をするな」と言うのは余計なお世話かもしれない。
身体は満足しているのかもしれない。だから、「ちゃんと悪くなれるのは健全な証拠でもあると思います!」と言いたい気がする。

 

二日前、坂爪さんに「ミユさんの不審者感がすごい」と言われた。わたしはハッとした。
ハッとしたのは、確かにそうなのだろうという気がしたからだった。わたしは多分、挙動不審なのだと思う。

 

坂爪さんにそう言われて、数々の「不審だね」と言われた場面が走馬灯のように思い出された。
近所のデパートに行って、夫がフラフラと家電を見ていたりすると、夫に見つからないように信じられない速さで買うものを揃えて驚かそうなどと思い立つ。
わたしは売り場をそろそろと移動して隠れながら進み、パンチェッタのパックを手に入れて見つからないように戻るミッションに当たっていて、物陰から夫を凝視して隙を狙っているときに、娘に背後から声をかけられ、何をしているんだと、あからさまにおかしいぞと言われたりする。不審者でいるとき、わたしは自然体であり、自分の本領を発揮しているのだと思う。

 

坂爪さんはそんなわたしを笑った。わたしも笑った。

 

ひろ子さんの家にいても、何かの目的でモソモソしている時に見つかって、ミユちゃんあなたこんなところで何してるの、と言われることがある。わたしはそんなとき、暗闇でアイラインが引けるかどうか、を試していたり、単にその位置に居たいだけだったりする。
ひろ子さんはいつも、そんなわたしを追求しない。可愛いわねあなた、などと言って笑ってくれる。

 

風邪をこじらせるポテンシャルのように、わたしにはもうそもそもの不審者のポテンシャルがあるため、それを無理に抑えて生きるとどこかに歪みが出るのだと思う。だから、不審者感をこじらせて発揮しているときに、それをどうやって隠すのかをアドバイスするより、わたしのことなど笑ってほしい。

 

今日はこのことを思い出して、わたしは何かに溶け込もうと努力したことがなかったなと思った。

 

多分正確には、溶け込もうと努力してもそもそも溶け込み方がわかっていなくて無駄な努力に終わったか、もしくはこの色濃い不審者感を隠すとなると、考え方からなにからすべてを変えて、それが神経系統への命令もなにもかもを変えて…ということが必須だなんて途方もなく大変だと直観的に理解して諦めたかのどちらかである。

 

でも考えてもみると、子供というのは皆不審者だ。
彼らは鼻の下にストローを横向きに挟んでニタニタして歩いていたりする。不審である。周囲から見ると、目的がわからないことをしているから不審なのだと思う。

 

でもわたしたち大人だって、自分にしかわからない、自分だけの満足のために、何かの得になどならないことをすれば良いと思う。
別にそれで不審に見える必要はないけれど、その満足感たるや、バカにならないものなのだ。
そしてこの宇宙は、その満足感がさらなる面白い満足感を連れてくるようにデザインされている。
次のやりたいこと、が出てくるということだ!

 

もし人生に満足したければ、まずは目的などなくてもいい、大義名分もなく、なにかを活かしもしない、結果が何かにつながったりもしない、単発で終わる、ただやりたかったことをなんの打算もなくすれば良いと思う。

 

スピリチュアルなことも、豊かになるためにするとか、人を変えたくてするとか、自分を変えたくてするとか、そんな目的でいる人こそがんじがらめに動けなくなっているように思う。目的はときに人を縛る。そんな不満の募ることより、現実の中の小さな満足を何よりも大切にして良いのだと思う。

 

タンポポの綿毛を取って、全部土の穴に埋めてみたければすればいい。うるさい営業電話がかかってきて、いきなり歌ってみたければ歌えばいい。それがあなたを満足させるなら。意味などなくていい。あなたが満足する、それこそが最良のことだと思う。
それから、逆に、無理に無鉄砲なことを、無理に大胆で変なことをして自己価値感を高めようとしなくてもいい。そんな嘘を自分につくと、自分が嫌がる。結果、不満足が募ってしまう。

 

結論を出そうとしなくていい、解決しなくていい。
こじらせても良くて、不審でもいい。
そう思って生きる自由のほうが、効率と要領の良い、立ち回りのうまい、不審に見えない人生よりわたしは好きだ。というか、それを失って生きるなんて、マジで笑えないことだ…辛すぎて、死んだ方が楽な気がする。

 

不審にならないように制御して、世間に合わせ、尊敬されるように、立派に見えるように、怪しくないように、つじつまが合うように、何かを活かすように行動しようとすると、わたしたちは時にわたしたち自身を失ってしまう。それはこの世界があなたを失うということだ。これを真に望んでいる人は、果たしてこの世界のどこかにいるのだろうか?

 

きっと、好きなようにすると、恥をかいたり怒られたり笑われたり仲間はずれになったりする。
ワシのようにな…!!
でも、確実に、それを笑って歓迎してくれる人はいる。わたしがこんなに怪しくて気の利かないアホでも、優しい読者さんは存在する。フィレンツェの仲間たちはいつも優しく迎えてくれる。
ごめんねとありがとうでいっぱい。

 

わたしは今こんな幸せの中にいる。
不審者感が激しくても、どうやらこの世は歩けるようだ…!!

 

というわけで今日は、わたしは不審者に見えます、でも楽しく生きられています、というお話であった…

 

それではまた、明日!!

 

 

 

 

 

 

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▼noteより転載
 

 

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で122日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

 

122日目、100日代も約1/4に届きそうになっている。ただ落ち葉が積もるように、ただ徐々に月が満ち欠けするように、季節が巡るように、毎日が積み重なる。
毎日何かをすることの良さは、毎日が積もるというのを意識できることだと思う。毎日何かをしている人は、それを積み重ねているし、毎日なにもしていない人は、なにもしていないということを積み重ねている。
毎日していることが、そのままその人の人生だ。その人の人生の物語は、そうやって紡がれている。
いつか何かをしたいと思って生きている人は、「いつか何かをしたいと思うこと」に人生の時間を使っている。

 

毎日書いていたら、記事が120以上も溜まった。
毎日を意識するっていいな。お日様や月と共に歩むような感覚にもなる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今日は夫とモロに同じ風邪をもらって倒れていた。
今も苦しく、グググ苦しい…レ・ミゼラブル…と思っている。とにかく苦しい。このまま死んだら、自分はどう思うのだろう。

 

まず、父母が可哀想だ。わたしは大丈夫だが、父母はわたしが苦しんで死んだことをとても辛く思うだろう。親の本分とはそのようなものだろうと思う。

 

だから、このまま死んだら、誰かが病で死んだときのその親たちの悲痛さよ!と思い、これ以上人類が病で死ぬことをなんとかして止められないかと考えはじめ、いきなりやる気にみなぎってしまい、天使や神様のところに行って、もうやめたったれやーと言って、私達だって望んでなどいない!と激怒される気がする。

 

それで、ああ、自分だって病で死んだ直後からこんなにやる気に満ちて過ごしているのだもの、他の人だって大丈夫だよな!余計なお世話を焼いちまったぜテヘペロと思う気がする。

 

すると今度は、まだ生きている人が、亡くなった人のことを可哀想だったと思って泣くことをやめさせてあげたいと思いはじめ、「シネバクルシミナク、イガイトタノシイデスヨ」などという文字をどこかに浮かび上がらせようとして、力不足で「シネ」までしか書けずに人々を怖がらせてしまう気がする。

 

病で苦しんでいると、ロクでもないファンタジーを考えてしまう。

 

猛烈に寒い。関節や筋肉が痛いし、頭も痛いし喉も痛い。咳き込むと意図せずとも涙が出てきて、涙が出たことで逆反応的に自分がなんだか哀れに思えてくる。

 

だが自分は書く…!!そして今日の投稿をするという今日だけの自分ひとりの、孤独な挑戦に勝つのだ。

 

こういうことを書くと、弱った自分を鼓舞できていい。弱った自分からこんな言葉が出せたことで、こんなもんァまだまだ弱ったうちに入らねぇような気がしてくる。

 

スマホを持って書いていることにひどく苦痛を伴う。両肘の関節と手が痛い。このまま、どこまで書けるだろうか。

 

頭さ来て起ぎあがってやった。こういう時は北の訛りが出る。布団に入ぇったりするがらますます病人になるんだ!

 

病気はしても病人になるなという言葉がある。病の身体を療養するのはいいが、気持ちまで病人になってしまうな、ということだと思う。
病気をした時に精神的に一番いいのは、罪のない、不謹慎で明るいことを考えることらしい。そう、エロスなことを考えているのが一番だそうなのだ。
看護士さんを見てスケベなことばかり言う患者は治りが早いそうで、病院は女性の看護士さんが多いため、その点において男性に有利なような気がする。

 

たしかに、病気のときにはなかなかそんなことを考える気持ちになりにくい。だから、それができるという人は、なにかがとてもたくましいと思う。

 

体力や精神力や高い教養などの、努力によって高められるものとはまた違った、何か別のパワーだという気がする。それは、生命力のようなものなのだろうか。

 

性欲の強さとも比例しないし、ロマンチストなだけでもない。性エネルギーが豊富なだけでもない。
たとえば癌で入院して苦しいときなどに、うう…女の尻…などと思えたら、その不謹慎さ、場違い感、何か常識が全然通用しない感じはなんだかとてつもなくすごいもののような気がするのに、これをなんと呼ぶのかすら知らない。


そのあっけらかんパワーをなんと呼べば良いのだろう。

わたしがこれを思うとき、思い出される人物はDr.スランプ アラレちゃんの、則巻千兵衛博士だ。いつも山吹先生を口説いている則巻博士は、見境のない恋愛体質の、節操のないスケベオヤジである。
病気の最中に、則巻博士のようになれたら素晴らしいと思う。
ついでだから、仮に今、これを則巻力と呼ぶとする。

 

今わたしも病気で、熱もガンガンに上がってきているから自分の則巻力を試すにはいいチャンスなのではないかと思ったが、そもそもこんなことをこの体調で書いている時点でだいぶいい線いってるんじゃないかという気がしてきた。
議題は病に苦しむ時にエロスを求める力について、である。こんなに頭も痛いのによく書くなぁと思う。

 

わたしは男性が好きだ。男子は男子というだけで既に愛すべき可愛い存在という気がしてしまう。身体のすべての構造が美しいと思う。
人間って美しい生物だなぁとよく思う。猫とかピューマとかフクロウとか馬とか、いろんな生き物をひえー美しいな!!と思うけれども、わたしの感覚だと、人間も同じくそう見える。

 

女性も美しくて可愛い。女の人はあんまり顔貌なんか関係なく、とにかく可愛いと思う。胸がなくても、太っていても、そういうことは関係なく美しいと思ってしまう。年齢なんか何も関係なく、可愛いくて悶絶することばかりある。

 

だから、人類を創った神に、グッドデザイン賞をあげたい。
こんな感覚になると、裸体というのはどちらかといえば美術的に美しく価値がある気がしてきて、どうもエロっぽい感覚とちょっとズレてしまう。

 

だが今、身体のひどい痛みにかき消されつつもわたしの則巻力を最大に発揮してみると、どんな病院が欲しいですかと聞かれたら、自分で食べられない時にあ〜んと言って食べさせてくれる人が、グッドルッキングガイで、かつかなりの薄着をしていて、おひねりを渡すとさらに露出が増えるシステムを採用した病院、と、ここに書くのをはばかられる答えを出すことまではできた。
きっとそんな看病を受けたら、痛みを忘れ、かなり元気になると思う。ほら、考えるだけでなんか笑えてくるではないか!!

 

というわけで、今日はこのまま投稿するのが多少の迷いを誘う内容となってしまったが、きっと下ネタに罪はないと信じて更新だ…
病に限らず、心が傷ついてがっくりきた時などにも、則巻力を発揮してみるとなんだか根底が軽くなったりもする。よければ、お試しあれ!!

 

読んでくださったお方が、ちょっとでも楽しんでくれていますように。

 

それではまた、明日!!

 

 

 

 

 

 

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▼noteより転載

 

 

輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で121日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

 

121日目の今日は、坂爪さんとのライブ動画配信とお話会を終えて、フィレンツェからヴェネツィアへ戻る車内で書いている。今日までのここ2日間は合計で5時間ほどしか眠っていないのだが、わたしの身体は車内で眠るとフル充電できるという不思議な機能を搭載しているため、それを利用してたった今フルマックスまで回復したところだ。充電に約1時間かかった。なんと便利なことだろう。
わたしはこの機能なしにはこの毎日投稿をとっくの前に途切れさせていただろうと思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

坂爪さんたちと別れて家に帰る。坂爪さんと保科さんは、彼らが現れた時と同じ様子で、楽しそうに去っていった。わたしは虚無を味わっている。

 

坂爪さんと保科さんとわたしとの3人で外に喫煙に出ると、わたしはクラスのチョイ悪男子と一緒に居るような気分だった。
我々は一緒にブラブラと建物の一角や公園まで出て、自分達が世の中からはみ出していることや、世の中がわたし達からはみ出していることを笑ったりした。

 

わたしは勝手に彼らに対して、先生のご機嫌をとって得しようとしなきゃならないくらいなら死んだ方がマシ、みたいな種類の己の性質に、自ら適応しながら生きている仲間という感覚を持った。
その辺りが同じがゆえの安心感とともに話すのは、とても心躍るものだった!

 

だから、彼らと別れて、直視したくないほどの寂しさに襲われた。彼らとどこまでも、不良学生でいたかった。
なぜ会っている間に、もっと抱きしめなかったのだろう。坂爪さんと手をつないで歩きたいくらいだったのに。ラブレターをあげたいくらいだったのに。ほっしーとコスプレもしたかったし、侍を思わせる美しいほっしーをもっと写真に撮りたかったのに、なぜ我々は笑顔で別れたのだろう。

 

一緒にいると、俺らってしょーもないっすね、でもそれが楽しいっすね、信用を得るための嘘なんかクソ食らえだけと、真心、って言葉はイイっすね、そんなことをどこまでも語れた。わたしは踊りたかった。それくらい楽しかった。

 

別れたくないのに別れに笑顔を添えたのは、お互いにこの先を幸せで生きてくれるであろうと信頼しているからだと思う。でも、坂爪さんとの別れには、なぜか言いようのない胸の痛みを感じる。息子を見送ったような夫か恋人を見送ったような兄を見送ったような、人としてというより、大切な異性と離れた感覚がある。辛い。
なんかもっと一緒に互いを揺さぶって狂った話をして、互いに何かを吐いて、酩酊状態になって復活したいような気がする。いつか、そんな日が来ますように。

 

坂爪さんと話していて、坂爪さんとわたしに共通点を見つけた。それは、一般的な感覚では非常にリスキーなことをしているように見えても、本人にとっては無駄のない合理的な行動であるということ。

 

 

弾く坂爪さんと歌うわたし

 

彼は「坂爪さんは勇気がありますね」と言われることがよくあって、それについて、僕は過去や未来を背負うことはできないけど『今』なら背負えるから、今だけを背負ってみたにすぎない。勇気を出したというより、できることをしただけ。と話した。
わたしはそこにとても共感した。わたしも過去の後悔や未来への期待と計画を背負っていたら、その重さに耐えられないだろうと思う。だから、そこから無駄を省く方に向かった気もする。必然的なことだったと思うのだ。

 

と、ここまで書いて、たどり着いたこの家は凍りついた氷の要塞であった。寒い。どれくらい寒いのかというと、眠るな!眠ったら最後だ…!死にたくなければ眠るんじゃない!という雪女の話に出てくるワンシーンを思い浮かべずにはいられない寒さである。

 

わたしは今日のお話会で、フィレンツェ在住の愛する参加者さまたちのお話を聞くうちに、多くの人が大人になるためにたくさんのものを持たなければならなかったのだろうと思った。
計画性だとか、リスク管理だとか、戒めだとか…世の中はそういう失敗を避けるための処世術を身につけなくては、社会で生きていけないと思い込む機会にあふれているのだな、と…

 

わたしはそれを身につけられなかった。どうしても身に付かなかった。そこに絶望し、晴れ渡った真っ青な朝の空を悲しく見上げた日のことを覚えている。

 

こんな日は行楽に行きたい。なぜわたしは毎日会社に行ってオフィスに縛られて仕事をして上司の言うことを聞くのがこんなにも苦痛なのだろう。

 

なぜ好き勝手したい自分を優先してしまうのだろう。なぜ皆はそれを「仕方ないから」と納得して諦めることができるのだろう。わたしに何が欠けているために、それができないのだろう。そんなことを思った。

わたしは今から会社を辞めて、周囲から軽蔑される方がマシだ。笑われるのも見下されるのも気にならないけれど、好きでもないことをするのは耐えがたい…そう思って辞める。またダメだった、と周りに言われる。わたしは他者からのダメ扱いに少しも傷つかない自分を、超絶にダメだと、でもちょっと面白いと、そしてちょっと狂っていると思っていた。こんなことを繰り返してきた。

 

近所の暗黙のルールに従えというのも、同じだ。染まる事ができなかった。任意で、と定められているものでも、引っ越してきたばかりの者は強制的に入るべき…というような圧力が耐えがたい。

 

説明時に「一応任意ですが(わかるわよね)、新しい人は今まで皆、最初は入ってくださってます(わかるわよね)。」と言われ、わたしはその保険のようなものへの入会を断った。要らぬ不安のための保険だった。
結果、その近所のボス的な存在の隣人はそこにいた8年間、最後までわたしを無視して暮らした。

 

わたしはこうして嫌われ者になる方を選んでしまう。わたしはそのババアを嫌いにならなかった。ただ、自分が生きていると、こういう事態になってしまうのだ。きっと、多くの人はそれを、8年も無視??ひどい話ね、と言ってくれるか、そのくらいのことは目をつぶって我慢して入って、丸く収めたほうがいいよ、と言うだろうと思う。

 

でも、わたしはそれがちょっと、笑いを誘ってしまうことに思えていた。
そして、坂爪さんといると、それを一緒に笑える、そう思えた。自分の性質をさらけ出して、それを一緒に笑い飛ばしてくれる人がいたら、何に失敗しても人生は成功だと思った。そんな人が地球のどこかにいる。それだけで幸せなことだと思う。坂爪さん、生まれて生きて、わたしに出会ってくれて、ありがとう。
一緒にいる時間に、あんなに幸せにしてくれてありがとう。わたしはあなたといて嬉しくて幸せでした!!心から愛しています!!
 

子供の頃、わたしは早く大人になりたかった。自由になるのだとばかり思っていたから。
まず最高なのは学校に行かなくていいこと。それから、車でどこまでも遠くに行ける。世の中にあるいろんなものを利用してよくなるのだし、いつでも好きなところに行って好きなことをして過ごせるのだと思っていた。

 

でも、実際は違った。
社会に出るとなると、ともするとものすごくたくさんのしがらみを背負わされる。それはわたしにとって、優しいおばあさんについて行って家に入ったら、クルッと振り返ったおばあさんが大きな口を耳まで伸ばしてニタリと笑う魔女だった、というくらいのショックだった。

 

でもわたしはそのおばあさんを嫌わないだろうと思う。

わたしは、人間社会はちょうどよく難しくて、ちょうどよく厳しいといつも思う。ベストなところに調整されていてすごいなと思う。人間は苦をベースに持てるようになっているのが、幸せの素なのだと思う。
とにかく、その設定がないと、最初からすべてが極楽浄土だったら、幸せがベースだったら、そこで幸せなことが起こったときに、どうやって幸せを感じるのだろう??
だから、苦がベースなのはギフトなのだと思う。そんな大変なステージにいて、そこから笑ったり喜んだり幸せを感じたりするゲームをやっているのだと思うと面白い。

 

生きるのきっつくないっすか?このステージきっつくないっすか?あーでこーでキツイよね、クソくらえだよね、うるっせーよバーカだよね、そんな世の中で、こんな素敵なことがあったんだよ!!と言えるって、やっぱりどう考えても1番面白い。これ以上の設定が思いつかない。神よ、やはりお主、さすがだな!と思う。

 

だから、苦に出会ったら、なんなら図々しく、さて来たと。幸せの素来たぞと。これが基本だと。これがあっての幸せだしな、少なくとも自分がおかしいんじゃないしな。そういう設定だしな。と思っていいと思う。
少なくともわたしは、大変なことがやってきたときは、その渦中だって図々しく、これは幸せの予兆なのだと思っている。

 

今もわたしは自分が住んで良いと許可されている家がない。事態は二転三転して、この先のことはわからなくなっている。(またアメブロに書きます)
でも、そんなことは笑えることだと思うのだ。わたしがこれを話すと、笑ったら失礼だと思って微妙な表情をしてくれる人が多い。けれど、わたしはどんな顔で聴いてもらっても気にもしていない。みんなが楽しんでくれればいいな、としか思っていない。それに、どんな顔で聞く人も好きだ。

 

坂爪さんは、こんなに変なわたしを、少しも軽蔑せず、大切に扱ってくれた。いつも優しかったし、話を面白がって聞いてくれたし、なんでも笑ってくれた。お互いの話がやたらと面白かった。ほっしーも混ざって、大笑いを何度もした。神さま、自分は、43歳にもなってから、10歳以上も年下の男子とこうして、裸足でフルマラソンをして記録よりも血痕を残した話で一緒に馬鹿笑いできるような幸せが待ってたなんて、知らなかったよ!!!

 

そして、坂爪さんはギターを弾いて一緒に歌を歌ってくれた。あのひとときだけでも一緒にコピーバンドを組めて幸せだった。坂爪さんの歌を聞いて私は涙が出た。寂しいことを寂しいまま受け取れる人の声が、優しいギターの音色とともに胸にしみた。わたしも歌った。人の小さな幸せを願う気持ちを音にして合わせたような気がした。好きだと思う気持ちを音波にして流したような、幸せな音が細く鳴り響いた。


天使たちがパタパタと寄ってきそうな良い時間だった。みんな、いつか新曲を発表したら聴いてくれ・・・!(言ってみたかったww)

わたしの言えることは、つまはじき者ではみ出し者で、変で、協調性が乏しく、気が利かなくて空気が読めなくて、お勤めも勤まらなくて、その国の言語が話せなくて、車も運転できなくて、ついでに中年でも、生きられますよ、ということだけなのだと思う。その大変な人生を、笑いに変えるためにいろんな試行錯誤をしてきた結果、今だけを生きるのが楽だった、たったそれだけなのだと思う。

 

今を生きている人、心に余計な荷物のない人が、決して辛い目に遭わないわけでも、寂しい思いをしないわけでもない。悲しい日も侘しい日もある。
でも、生きているって、たまらなく素晴らしい。
命がある間、まだまだ自分を壊すチャンスはあるんだ。この先、もう、いくらだって、今の自分の知らない自分になって、驚くチャンスはあるんだ。
だから、自分を持っていることを楽しもう。わたしたちに与えられているのは、チャンスしかないのだと思うから。

 

みんな、大丈夫だ!!!

というわけで今日は、素晴らしい思い出についてであった。
これをすべてプロデュースしてくださって、最後までちゃんと成功させてくださったたでひろこさんhttps://note.mu/golosaに心からの感謝を・・・・それから、高熱の中で遠くまで運転してわたしを坂爪さんに会わせてくれた夫にも死ぬほどの感謝を。
そして、尊敬する参加者のみなさま、やっぱりめちゃくちゃ大好きです。
今回も、笑顔を見せてくださって、本当にありがとう。

 

それではまた、明日!!

 


 

 

 

 

 

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2019/7/20 東京『自分と響き合う・宇宙と響き合う』1DAYワークショップ
・2019/8/24・25 東京『秘行 初級』2Days(まもなく募集開始)

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▼noteより転載
 

 

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で120日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

 

120日目を明日のイベント登壇のためにフィレンツェで迎えた!今日は夫が高熱を出すというトラブルに見舞われて、こちらでの彼頼みだったプランが崩れてしまった。この、何があるかわからないという「一寸先は闇」の臨場感が改めてリアルに高まった状態で、予定通りに毎日投稿をする、というギャップの中でこれを書いている。
自分は予定通りに事が進むという驚きのない満足感よりも、予定はやっぱり未定だった!というときに、なんとかしてそれを切り抜けて、「人や自分の対処力、見くびるべからず…」という戒めを得る喜びの方に惹かれてしまう。


そんな予定調和ヘイターのじゃじゃ馬を抱えたままで毎日毎日コンスタントに投稿しようと思うというのは、いつも自己矛盾していたいというおかしな望みを持っている証拠なのではないのだろうか…

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今日はおかしな日だった。

わたしは家族と一緒にヴェネツィアの自宅からフィレンツェまで来て、夫が珍しく倒れ、たでひろこさん宅で坂爪圭吾さんhttps://note.mu/keigosakatsume
とお友達の保科さんにお会いして、みんなで発熱に苦しむ夫の横で思い思いに遊んで話しをして、何を考えて生きているのですか、とか、今何を思っているんですか、とかいう不思議な質問をしあって、みんなで美味しいご飯をご馳走になって、坂爪さんのギターに合わせてわたしが歌を歌って皆の談笑を彩る生演奏BGMを流し、眠る前にひろこさんに寒さについて心配していただき、「大丈夫じゃないことを含め大丈夫だ」ということを確認しあって皆で雑魚寝をする、という流れで、今、目の前であの坂爪さんが立てる静かな寝息を聞きながらこの毎日投稿を書いている。

 

わたしはあまり、あなたと出会うのは運命だったのね!と思うことがなく、それについてとてもドライな感覚を持っている。
それは、これだけたくさんの人のいる星の上に人が生きていれば、そりゃああなた、それぞれにたくさんの出会いが起こるのは当然でしょう、運命もなにもあるかいなというある意味冷め切った考えに因る。

けれど、今日は坂爪さんにお会いして、出会うべくして出会ったお方だと勝手に思ってしまった。それくらい、深く動かされた。それから、とても共感するところをたくさん発見したのだった。

 

坂爪さんは不思議なお方だった。なんというか、わたしから見て、神々しいほどに「生きること」の本質を体現したいがために生きているようなお方だった。

それによって受ける「生きる苦しみと矛盾をそのままに感じるがゆえの傷」に対してこんなに無防備だなんて、なんたることだ、と思った。


なのに、いや、だからこそ、単なる喜びも、人の暖かみや善良さを肯定する幸福感も、混じりっけなしで直に感じられるお方なのかもしれない…とも思った。

坂爪さんはヒリヒリするほど裸ん坊で、とても遠いと感じるほど大丈夫で、悲しいほどに一匹狼で、愛さずにいられないほどに優しかった。

 

坂爪さんと、夜の小雨の降る寒い街灯の下で小話をした。言葉が繋がらない時、坂爪さんは無理にひねり出してうまいことまとめたりしない人だった。詰まった時に、言葉が追いつかなければ、急に話を閉じて、えー、はい。と言って笑顔を向けてくれた。わたしはそれが嬉しくて、わたしもそれに対し、はい!!などと空気感に合わない返事を繰り出してしまったりした。
でも、そんなことには互いに何のとがめもないことを互いに知っている、打算のない素敵で温かな会話をした。その間、ずっと嬉しかった。

 

わたしは坂爪さんに触れて、改めて人はみな独りなのだと思った。一人一人の人が完全に独りだから、人を愛せるのだと思った。みな独りだ。どこまでも永遠に。それは我々がひとつであることを悟って「わーやられた!」と言うための、壮大な、宇宙規模のイタズラなのかも知れない。

 

生きることが、それぞれがひとりでボートを漕いでいる感覚だとして、それは実は皆が一緒に乗っている船の中で上映中の、贅沢な3D映画を観ているだけなのだとしたら、こうして生きる上でのいろいろなことが切ないのは悪くないのかも知れない。

 

その映画は、アタフタして涙を流して怒って笑って悲しんで、没頭して観られたら一番楽しんだと言えるのだと思う。もしそこに、「ま、みんな同じ船に乗ってるんだしな!」という信頼があったら、きっといくらでも安心して没頭できるだろう。

わたしは、幸せとは、その映画の内容を無難で悲しいシーンや頭にくるシーンのないものにすることではないと思う。


その大きな船に乗っているんだと気がつくこと、もしくは、その大きな船に乗っていると気がつかないほど映画に没頭して生き抜くこと、だと思う。

だから、わたしたちにもし、悲しいことがあったとしても、辛いことがあったとしても、それは人生の失敗などではないと思う。楽しいことや嬉しいことだけが人生の成功だとも思わない。


生きていると、いろいろある。飛び上がるほど嬉しくて面白いし、クソ辛くて馬鹿みたいに大変だ。
でも、一度でも、まだ死にたくないと思えたら、この映画をまだ観ていたいと思えたら、それをプロデュースしたその人の魂にとって、こんなに嬉しい賛辞はないと思う。

 

「わたしのなにがすごいって、なにせ死にたくないんだよ!」と言ってしまっていい気がする。だって、そこからして素晴らしいと思うのだ。
逆説的には、「わたしは死にたいと思いつつもまだ生きています!」という人も同じくらい素晴らしいと思う。生きる大変さ、その嵐に打ち勝ってそこに立っているのだもの。

生きたい動機が、プラモを作りたいからでも、まだやり残しがあるからでも、誰かが悲しむから死ねないと思うからだとしても、死ぬのが怖いからだとしても、その理由に良し悪しなんかない気がする。
生きたい、それだけで生命の本分を果たしていると思うから。

今日はここまで書いていたら、睡魔が本気を出して襲ってきた!寝落ちすると更新できなくなりそうだから、この辺りで。

 

それでは、また明日!!

 

 

 

 

 

 

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吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で119日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

119日目になったらば、新たな考えが湧いてきた・・!
1096日やり切れるか、と心配していた自分が嘘のようだ・・・
1096日終わった後に、ああ満足だ、しばらくはこの余韻に浸っていたい・・みたいな状態に持っていきたいとすると、あと977投稿の間に、なにかある種の、今の自分にはわからないなにかへの、到達感のようなものが必要になると思う。
さもなくば、1096日が終わってしまった、なんだかまだ書き足りないな、1096日という区切りまでに込めたかったなにかを込め切れなかったな、というような不完全燃焼感に襲われるだろう・・・せっかく3年やって、半端だったと思うよりは燃え尽きていたい。
そう思うと、それまでに、あとたった977回しかないのだ・・・!!
1000日超えというだけで巨人を倒すような気持ちでいた。
だが、それは自分を見くびっていたのだ!!

これは1096日のチャレンジだ。だから日数は大事だ。しかし、これは自分にとって1096投稿で仕上げるひとつの大きな作品みたいな位置づけになってきているのかもしれない。せっかく書いているんだもの、自分の思いを悔いなきように込めよう。そうしよう!!

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本日の話題も決まっていないのに、上に書いた気付きによって、ただやる気だけが燃え上がってうりゃあああああと思っている。

わたしは明日から、またもや毎日投稿のちょっとしたピンチを迎える。
明日の朝早く家を出てフィレンツェ入りし、現地で坂爪圭吾さんと落ち合って夜にはオンラインでのコンテンツを配信する予定。それから次の日には坂爪さんとのお話会という夢のようなプランのためちょっと忙しくなるのだ。

と、なんと上の文までを書いてから、とんでもない顔色で帰宅した夫が発熱していることが発覚した。看病しながら頼まれごとをこなしていたが悪化するばかりだ。出発前夜にまさかの事態である。
 
時間は矢のように過ぎ、すでに夜の10時を回ってしまった・・・夫は苦しんでいて、旅の支度は何も進んでおらず、わたしは眠たくて片目しか開かない。これは大ピンチだ・・

誰かが体調を崩してそれを看病するとき、わたしはいつも小学生の頃に背伸びをして読んだ『病院で死ぬということ』という題の本を思い出す。

あれを読破したとき、まだ幼かった自分は、大人になったらホスピスの医者になるのだと拳を震わせて痛烈に思った。
それが叶うことはなかったけれど、それでもあの本を読んだことを今でも本当によかったと思っている。死に方と死に場所に選択肢があるということを教えてくれた本だった。

わたしは、人の寿命は大体のところが決まっていて、それは抗えぬ宿命なのだと思う。けれど、死ぬときが年月日も時間もしっかり決まっていて、それに向かって刻一刻と時間が減っているというよりは、いつもゆるゆると変動している気がする。そして死の瞬間のみにそれは確定するのだと思っている。
この感覚のためか、わたしはなんとなくだけれど、ああ、今日のわたしは昨日より微妙に長く生きる方の軌道に乗ってるな、などということを思う。

それから、普段わたしはとても現実的なことを書くのが好きで、あまり目に見えない世界の話を書くことはないのだけれど(それは目に見えない世界のことを否定しているのではなくて、わたしがそれを書くのに向いていないから)、今日は珍しくわたしの感じている、ある目に見えない影響について書いてみると、

なぜかわたしは自分の書いたものを読んだ方や会ってお話をする人の寿命を、そのひとときだけでも、もしかしたらずっと、ちょっと長い方の軌道に乗せる感じがして、勝手にそれを信じているのだ。
変なうぬぼれ!と言われてしまったら、そうですね・・と言うしかないのだけれど、そんな気がする。

それはもしかしたら、命の長さのことではなくて、ちょっと幸運にする、ちょっと邪鬼を払う、ちょっと不要なしがらみから自由にする、ちょっと勇敢にする、という感覚なのかもしれない。
そして何故そう思うのかというと、それはわたしが自分に持っている感覚で、この毎日投稿を通して自分で自分にしてあげていることでもあるからなのだ。人は一緒にいるといろいろなものが伝播する。
わたしは自分がちょっとしたおまじないみたいに、なんとなくいい効果がある気がしている。文にすると変人っぽいけどさ・・・

説明しようとしてみると、自分のしてみたいチャレンジをすると、そのたびに自分をちょっと幸運にするとわたしは思っている。邪気を払うし、自分をちょっと自由にする。それから、ちょっと勇敢にしてくれる。
だからまた次の機会には、やってみたいけど勇気が要るな・・と思うことでも、以前よりちょっと自由に、ちょっと無邪気な心で、ちょっと人の助けとちょっと天の味方もあって、自分にプレゼントできる。これを重ねることで少しづつ運を育てられるのだとわたしは思っているのだ。

それは元々の性格でとか、生まれつき運が良いからとか、環境が揃っていたからとか、不思議な力が働いたからできるもののように見えたとしても、多くの場合地道な繰り返しの訓練の結果なのだと思う。
だから、いきなり大きなものを目指さなくても、筋トレみたいにちょっと負荷がかかるというところから始めると良いように思う! 
そして、そうして運にお水をあげて育てるのを楽しんでいる人と触れることは良いことだと思う、そんな感覚だ。

今日の投稿に、なにかちょっと勇気を出したい場面でそっと効く成分が込められていますように。ちょっと勇気を出すと、そのたびにちょっとツイてる人になる。これが誰かにとっての楽しいアイデアとなりますように!!!

何を創るにも、書くでも描くでも、踊るでも歌うでも、ただ黙って一緒にいる時間を創るのだというときも、その最中に自分が感じていること、それが作品や空気をとおして人に伝わっていくものだと思う。

だから、毎日投稿は、毎日のことであるから、自分にも、読んでくださる方にも、楽しい時間であって欲しい。それによって、ちょっとずつ心の滋養となる、養命酒や青汁のようなものであれたらと願っているのだ。フフフ・・・

さて・・・ちょっと気絶&片付け&執筆で、朝の4時半となってしまったぞ・・・!もう今日はここで書く楽しみを明日に持ち越して、夫の様子を見て、シャワーと旅支度と台所を片付けて出発の準備だ!
 
というわけで、今日はなんのまとまりもない記事となってしまったけれど、今日もちょっと勇気を出して、楽しく書けてよかった。
読んでくださりありがとう。

それでは、また明日!!!

 

 

 

 

 

 

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▼noteより転載
 

 

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で118日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

 

118日目はちょっと寝坊した!と言っても朝7時過ぎだったのだけれど、わたしの仕事には自分で設けない限り休日というものはないため、毎日が仕事日なのだ!!
それは、逆に言うと毎日SNS漬けになっているのがそのまま仕事になっているとも言える。毎日遊んでいるようなものなのかもしれない・・・
わたしは、遊びは大変な方が好きだ。静かで地道な積み重ねが苦手な怠け者だったくせに、なぜか、これは大変だ・・・!というときには自分に猪木のビンタを食らわせて気合い入れてやってやる!みたいなおかしな闘志を持っている。

 

昔、前夫と借りていた借家には、車が二台駐められるほどの大きさの土の庭があった。そこは、全面が見たこともないほどぎっしりと凶暴なドクダミに覆われていて、ちょっと土を掘ってみると、白く長い根がまるで丼の中で汁をすべて吸ってしまったうどんのようにギュウギュウにひしめきあっていた。それを目にしたとき、全身を鳥肌に襲われた。

 

わたしはそこを畑にしようと思っていたのだが、このままでは不可能である。
わたしは、戦いの火蓋は切って落とされた・・・といきなり思い、小さなシャベルと素手を使用して口角から泡を吹きながら全面積のドクダミを駆逐したことがある。朝から晩まで庭に刺さっていたが、全駆逐を完遂するのに2週間かかった。強敵であった・・・・しかし、本当に本当に面白かったのだ。だから、これも遊びだと思う。

その間一日に何度か前夫が「ミチエサンミチエサン、アノ、チョットハヤスンデ、メシクッテクダサイ」などと何か言いに来るのだが、夢中だったためほとんどその言葉の意味が解明できなかった。その頃彼はわたしのことを、フォレスト・ガンプみたいだったと言っていたが、多分何かのリミッターが壊れているのだと思う。

これを毎日投稿の力に活かせれば良いのになあ・・・と思う・・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
昔のわたしは強靭であった。強靭さを発揮したことばかりが記憶に残っている。とにかくそのほとんどが土と石との戦いだった気がする。今の自分にも、あんなことができるのだろうか・・・きっと同じようにはいくまい・・

しかし、最近の一日のスケジュールを思い起こしてみると、ここ数日は朝5時すぎに起きてツイッターやフェイスブックコメントへの返信をして、そのまま23日のイベントの打ち合わせをして、終了後すぐ事務局とお話しをして、急いで昼食を食べてから毎日投稿の準備をして書き上げて投稿し、それから夕食を食べて本の執筆のエディターの準備をして、ほぼ走って台所に行き、だああーーっと片付けをして神の速さで(ホント)洗濯物を畳んで、次の日の毎日投稿の下準備とリトリートのコンテンツのアイデアをメモりながらまたツイッターとフェイスブックにお返事をして夜1時ころにぶっ倒れる、みたいな一日を過ごしている。


実感としては一日中遊んでいる気分だが、それを仕事時間と考えると、一日に18時間は仕事をしている。
これが自分のスタンダードな一日だ。

 

だから、日本でイベントをしている間は、これらの仕事を電車の中や移動の車の中でこなしていて、『限界への挑戦』感がロッキーのテーマと共に全身で感じられる。ときどき、KOを食らって、酔っ払ったおじさんみたいに駅のホームのベンチで気絶したりしていた。それで目覚めるといきなり朝起きたときよりパワフルになっていて、人間の回復能力のすごさ、見くびるべからず・・・!と思ったりした。

 

自分は年を取った。昔は徹夜が続いたあとでも畑仕事と家事と模様替えと仕事を一気にやれたのに、今は毎日眠らないと疲れて使い物にならない。
わたしは、いつか死ぬんだなと潔くそう思う。

わたしは、毎日毎日、自分は死ぬんだなと思っている。当たり前なのだけれど、死ぬということをいつも覚悟したくて常にそれを頭に置いてしまう。


これは、年月をかけてやっていると、とても面白い心理作用がある。

死ぬと思う。本当に死ぬんだと。
はじめは目をそらしてしまっていた。頭が考えるのをどうにも避けようとして、このことを真正面から捉えられない感じがあった。
でも、その自分が大事なことから目をそらしているようでムカつくから、また心の変なチャレンジとしてやってしまう。やってしまう自分を、なんで自分はこんなに変なんだろうと思いながらやっていた。

 

はじめは、どうやって死ぬんだろうということばかりをよく思っていた。
老衰か、病か、事故か災害か通り魔か、人を救助して散るのか、どうなんだろう、、というように。でも、これは考えていてもわからないから、だんだん飽きてくると考えなくなる。

そして、それでもやっていると、徐々に実感を増すようになってくる。

 

この身体から命が抜けて、心臓が止まって、この身体に血が巡らなくなるんだな、冷たくなってさ。この物体は燃やしてもらって別のものになるんだな、形なくなるんだな。・・・これ、世界にひとつしかないのにな、その点においてはそう思えば結構貴重だよな。毎日老いて形が変わって、若かったときのフォルムは失われていってるけどさ・・・その点では、みんな、同じか・・・・


と思うようになった。はじめのうちは、なんだか涙が出てきたりしていたが、それもいつしか止まった。

よく自分の葬式の事を思った。わたしの心はヤワだったのだろう、自分の死体を想像するのすら難しかった。今は微笑みと共に想像できるが、当時はうまくやれなかった。

 

こういう事を考えていて、わたしに最後に残ったのが、いつの日かこの地球から去るということ、この肉体のある五感をもった感覚は生きていてこそなのだ、ということだった。これだけがポツンと残った。

わたしが赤ちゃんだった頃、かすかな記憶で、ものに触る感覚、音、味、匂い、それらをただただ、ただただ、確認したかったのを覚えている。


自分の身体の形を自分で知っていくような作業で、確認、満足、確認、満足、ということの繰り返しだった。五感を得たことで好奇心が爆発していたと思う。死んだら、あんなに面白いと思っていた五感を使うということを、やれなくなるんだなと思った。そう思うと、水に触るのが面白く思える。

 

いいえ、人間は死んだあとも意識が残って、五感も好きなように自分で創り出せるのです、という意見があるかもしれない。でも、死んだあと実際にどうなるのかを知りたいわけでもなく、それを知らなければこれを考える価値がないというわけでもないと思うのだ。


もしかしたら、なぁ~んだ、死んだあとも味わえるのか~と思うのかもしれない。でも、今はこの肉体がなくなるんだと思い、そこから連想されることと対峙するのが、わたしにとってとても興味深いことなのだ。

何年もかけてこれをやってきて、これまでずっと、とにかく死ぬのがめっっっっっっっっちゃ切なかった。地球とバイバイかよ、木が、木漏れ日が、夕日が、海が、朝日が、雪が、見られなくなるのかよ!!と・・

何年もそれが続いた。その間に、その切なさがもたらしてくれたのは、ああ去りたくない、ここが大好きだ、五感が大好きだ、マジで面白れぇよ!!


触れるってすごい!音楽が聞けるってすごいよ?!味を味わうってすごいし、匂いを感じるってすごいじゃん??歩いて移動したり、走ったり、お湯に浸かったりできるって半端なくすごいよ!!どんだけすごいシステムがいくつも働いてそれが成り立ってんだよ?!宇宙の全システムがないと無理だしよ!!つうことは、オイ・・・あの月がないと、わたしは息を吸えないんじゃないかよ!!なんてこった!!なあ、そうだろう?!という、眼の前にあることを暑苦しいほどに面白すぎると思う心だった。

 

わたしは、これで、生きていることをめちゃくちゃ面白がれるようになった。

今は、死を思うと、とてつもないギフトのように思う。
生きていることと同じくらいに、すごいことだと思う。
やー、どうなっちゃうんだろう!!こんなにわからないだなんて、考えてみれば生きる上での最大の謎の答えを見に行くときなのだと思う。


最大のプレゼントは、死んだときに受け取るのかもしれない。宇宙のはからいは、いつでも粋だ。

死んだあとのことはなーんにもわからないけれど、この生きているということをこんなに面白いものとしてデザインしてくれた宇宙の用意するものだもの、面白いに違いない。
誰になんと説明されても、わたしは勝手にそう思っている。


勝手にいい方に解釈しすぎ、と言われたら褒め言葉だ・・・頭の中がお花畑どころか、極楽浄土だぜ~!
・・・バカって、幸せだね。

ということで、今日は自分という人が死について考えてみた結果、について書いてみたけれど、これを読んでくださった間が、あなたにとって少しでも楽しみを感じる時間であってくれましたように・・・

 

それではまた、明日!!!