自分を愛するなら『自己天然物感』に至れ | 菅 美智恵 BLOG

菅 美智恵 BLOG

イタリアに居住。体験型の意識のワーク『秘行』を考案。
奇妙な人生を綴った「義理歩兵自伝」他、
「裏地伝」「三年計画・結婚の誓い【毎日投稿】」
「男と女の往復書簡」などをnoteのマガジンで連載。

愛されたいと思っている人は、
なにもわかっていません。

他人から愛されても愛されても、
自分で自分を愛していないと
愛に飢えるばかりなのです。
 


自分を愛するって、
なんだろう。
なかなかわかりにくいですよね。

挑戦してもうまくいかない人も多いはず。
 
 
自分を愛する。
これは、自分を好きになるのとは
違いますよ。

これがね、言葉で伝えるときに
語弊があるのです。


自己受容と書いてもなんか語弊がある。
受容するっていうと、すべてをウェルカムできなきゃいけない気がしてしまうから。

自己肯定感というのとも違う。
肯定というと、自分のすべてを肯定できないといけない気がしてしまうから。

自己愛というのとも違う。
愛というと、自分のすべてに愛情を感じなきゃいけない気がしてしまうから。
 
 

そこで考えた。
なんと呼ぶのがしっくりくるのだろうか。
そして思いついたのが
 

『自己天然物感』
 

これでございます。


自分は天然の創造物であるからして、


季節のように、
空のように風のように、
動物のように、
食物連鎖のように、


つまりはこの宇宙、
この自然のシステムのように、

いじくる必要のない
『天然物』であるという
感覚のことです。
 
愛するとか好きになるというのとは、
ちょっと違うでしょう?
 
 
自然界、自然物って、


許すも許さないも、
受け入れるも受け入れないも、
肯定するも否定するも、
愛するも愛さないもない。


わたしは冬を許さない!だから自然とは認めないとか
梅雨を受け入れない!だから自然界とは認めないとか
曇りの日を否定する!だから宇宙の一部と認めないとか
薔薇の棘を愛さない!だから自然物と認めないとか

言っていても仕方がないのと同じで、


自分のことは、

計算が遅いのは嫌!だから自分として受け入れんとか
背が低いのは嫌い!だからそこは自分として許さんとか
会話が下手なのが嫌!だからそこは自分と認めんとか


言っていても、仕方がないのですよ。

そういうものなので、
そういう天然物なので、
仕方がないのだという感覚です。

だってそれなんだもの。
どうしようもない。

嵐が来て天気が悪くて、
海に行けなくて悔しいというとき、

ハッ!俺は認めねぇよ?!
こんな天気、受け入れないね!!
言うてても仕方がないのと同じなのですよ。
 
受け入れるも受け入れないも
ないの。
 
自己天然物感があれば、
心はいつも静かに満たされています。
自然界を直さなくちゃならないとは
思わないのと同じで、
自分を否定して直すことに
追い立てなくなるからです。

これってね、
他人から愛されても愛されても、
感じられないよ?



ちょうど、

自分で鏡を見たときに、
鼻毛が出ていて、
眉メイクが左右非対称になっちゃってて、
髪がボサボサで、
ジャージを着て目ヤニがついているときに、

いくら周りから綺麗だとか可愛いだとか、
俺は好きだよとか
わたしは愛らしいと思うとか言われても、

いや待て。
お前らがなんと言おうと、
自分これじゃ嫌なんスわ!!!

と思う感覚と同じよ。

自分の心で思えたことしか、
受け入れられないのよ。

なんなら、
こんな自分がいいだなんて
そんなお前らの言うことなんか
二度と信じねぇからなと
思うじゃない?!

つまり、
自分で嫌だと思ったままだと、
誰から愛されても、
逆に人間不信になるばかりなのよ。

自分を愛そうとか
受け入れようとかして
できずにいる人は、

努力の方向性がおかしいの。

そうじゃなくて、
自分は天然物なんだから
こういうものなんだと、

自分からある意味で
手を離してしまうことを
言うのです。

自己天然物感、

これがある人は、他人から愛されたら
心が満たされるかもしれないだなんて、
思わないのです。