宮沢たかひと Powered by Ameba
■ 100年後の子供たちのために!
■ 日本の医療システムを改革するために!
■ 日本の政治を再定義するために!
■ 日本を沈没させないために!








先の祖父のエッセイに続き、今回は祖母の新聞投稿を見つけました。私が幼少時、新聞に投稿した記事を自慢げに私や妹に見せていたのを覚えていますが、記事そのものを読んだのは初めてです。何と、私が高校時代に送った手紙が題材になっています。手紙を送ったこと自体を覚えていませんので、驚きました。祖父は定年後不動産業を営んでいましたが、60歳を過ぎて独学で不動産関係の国家資格を取得したとは知りませんでした。すごいです!祖母は私がドイツ留学中の1991年6月22日亡くなり、死に目には会えませんでした。祖母に敬意を表し、文字お越しします。

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 六十一歳で会社を定年退職したおじいさんは、丈夫を幸い六法全書を開いて勉強をし、国家試験に合格、自分の事務所を持ち、事務員をたのみ仕事をしておりました。
 孫は妹たちを相手に無邪気にさわいでいたくらいに思っていましたのに、中学を卒業直ちに東京の高校を受験、入学とあわただしい上京でした。今までよそで泊まることもまれでしたので、急になれない都会で、しかも大学生の中に一人高校生がまじっての下宿生活を皆で案じておりました。
 そんな折、来ました、きました、待ちに待った孫からの初たよりが。
まず第一に「おじいさん、おばあさん元気ですか」。第二行に「おじいさんがもくもくと働いている姿は男らしくて立派です」とありました。家にいるころはさらりとしたのんき者と思っておりましたのに、この思いがけない言葉。家をはなれ下宿生活を味わい故里の家人を思っての言葉かと思い、«かわいい子には旅をさせろ≫の古語をつくづく感じました。常日ごろの家人の生活、行動が、いかに大切かをさとされた思いで、家中の者が回し読みをし、はるかに孫のよき勉学生活を祈念しました。
 以来幾度かこの言葉を思い出し、老骨に鞭打ちつつやってきました。孫は高校卒業後医大へと進み、休暇で帰省する度慰め力づけられ、成長してゆく姿にしみじみ見入っては希望を抱いておりましたのに、おじいさんは病故に、孫の卒業を目前に世を去りました。
 その時、「僕はまだ医者の卵で、おじいさんの病気を助けられなかった」と残念がりましたが、今は医者として働いております。かつて私が上京の折、大学ノートの山を見て驚きました。一頁一頁が下宿の灯火の下で、夜ふけまで頑張ったしるしだと思いました。

 上京後の第一便で、家族と孫とのはげましのきずなが出来ました。今もその一葉のハガキを大切な記念として、私の文箱にしまってあります。

(長野市・宮沢喜代江・81歳)          昭和58年4月6日 信濃毎日新聞掲載







大掃除をしていたら、祖父母が大事にしていた箱の中から長野市内の文学同人誌「溯行」内に祖父が投稿したエッセイを見つけました。1970年11月25日におこった三島由紀夫の割腹自殺事件について述べています。

 


私が幼少期の祖父の印象は、いつも座って何かを読んでおり、優しいけれども、若干気難しい面がありました。私は15歳時に長野市を離れ、大学卒業の1年ほど前に祖父は82歳で亡くなりましたので、もちろん祖父と文学談義などしたことはありません。他にも多くのエッセイがあり、なかなかのインテリだったようです。私も文学は好きですし、文章を書くのも苦ではありませんので、この祖父の影響を受けているのかもしれません。祖父に敬意を表し、文字起こしをしてみました。

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三島事件をどう考えるか 宮沢末雄

 

一一・二五の三島テロ事件があってからもう、十余日がすぎ、はじめ、やや、とまどいのきみだった世評も、ようやく冷静さをとりもどしたかのようである。

この事件の超重大性にかんがみ、さだめし今頃は、あらゆる人々が、否定にせよ肯定にせよ、それぞれ、ひそかに、自分の立場にケジメをつけ、或いはつけようと努めているものとおもわれる。

そこで私は、私自身のために、ここで自分なりきのささやかな三島批判を試みたいと思う。ふと考えてみるに三島は、かねて耽美派の作家でありこのたびナショナリズムの革命家としてあのような終末を遂げたわけであるが、やはりアンガジュマンの作家でありながら、今日ではマルキシズムに接近して反戦デモの先頭に立ったりしているフランスのサルトルと、その外観的なタイプがよく似ていて奇妙であるが、その中身の思想の深さなり、重なりが、あまりにもちぐはぐらしいので、ここでは敢えてこれ以上触れないことにする。

だが、それならいったい三島という人間の全貌をたしかめ、この事件の本質を探るためには、どんなてだてにたよるべきか?彼の著作など殆んど読んでいない私にはそれはまったく不可能と思われたので、已むなく次善の策として、事件直后彼の身辺にせまった、以下述べる数件のマスコミ情報を手がかりとする外なかったのである。

➀彼の家は三階建ての、くすんだ暗い感じのする、何か錯雑した容子の威丈高な家だった。暗い部屋がたくさんあり、女中が六人いた。・・・そして彼の家の環境は学習院の生活とともに、貴族的生活への理解と適応能力をはぐくんだのである。(S週刊誌)

➁三島さんは学習院時代に保田与重郎氏らの、日本浪漫派の代表的人物の強い影響を受けて出発した人です。日本浪漫派の思想というのは、いわば唯美的なナショナリズムであり彼のナショナリズムも十六才の時の『花ざかりの森』ですでに芽生え、今日までの三島文学の根底に、この思想は貫かれています。(江藤淳氏)

➂(終戦直後の頃)彼は当時を回想して次のように書いている。「もう一度原子爆弾が落っこたってどうしたって、そんなことはかまったことじゃない。僕にとって重要なのは、そのおかげで地球の形が少しでも美しくなるかどうかということだ。」と(S週刊誌)

④私はかつて三島氏と何を守るためになら命を懸けることが出来るか、という対談をしたことがある。二人の意見は食い違っていたようでその実本質的には大差なかった。三島氏は、守るべきものは、天皇制、三種の神器である。即ち、それらが表象する日本の伝統である。といった。(石原慎太郎)

⑤(事件一週間前の十一月十八日、恐らく彼が公的には最後に語った言葉。図書新聞企画で評論家古林尚氏のインタビュゥに答えたもの)「皇軍の誇りを失っている自衛隊には絶望した」「文壇には私の友達はいない、だれも理解してはくれない」「美の極致はエロティシズム、その先には死があるだけ」「<豊饒の海>が終わったらすることがない」「政府も自民党も、社会党も共産党も、戦后体制すべてが敵、すべて偽善の象徴」「人間宣言をした今の天皇には反感をもっている」「私にとって戦后というのは、どうしていいかわからないという混迷から始まった。自分がどこで自分の立脚点を持つべきかということになって、はたと困っちゃって、そして芸術至上主義みたようなところでかろうじて立脚点を持っていた。そして浪漫派の敵になって、古典派になることにしか、自分の道はないと思いつめたりした。そしてそのうちにだんだんお里が知れてきた。そして十代に受けた精神的影響、一番感じやすい時期の感情教育がだんだん芽をふいてきて、いまじゃあ、もうおさえようがなくなっちゃったんですかね・・・」
 

さて、以上列記の情報のかみ合わせによって、私はおぼろげながらも、三島由紀夫の全体像を組み立てることができたようである。即ち彼はその生いたちの環境が、いかにも貴族的フルジョア的であったばかりでなく、青春時代の教育環境や、その后の交友関係などが、いずれも保守固有の厚いカベとなっていたため、ついに救いようのないナルシシズムにおちこんでしまい、人間として最も大切な<開眼>が片ちんばに了ってしまったものと思われる。そのために、自分のま近に存在する他者の尊厳さや右翼的な足どりが恐るべきファシズムの街道へつながっているということなどが、とんと眼に入らなかったのであろう。ここまで考えてきて、この事件に対する私の否定的立場はいよいよぬきさしならぬものとなったもようである。

しかし『死』はあくまで厳粛である。彼の追いつめられた、絶望的な心情に対しては、心から同情の祈りをささげたい。

(十二・五日)

 

溯行2号 13~14 page

(立岡章平編集 1970年12月20日印刷発行 発行所:長野市吉田 1-10-15)
 

 

最近、ジモティーを介して、家内で不要になった品物を近隣の希望者に無料で譲っています。

 

もう7品目になりました。中には数千円で売れそうな品物もありましたが、金銭を受け取ることが煩わしいと感じ、すべて無料で譲りました。

 

人気のある品物については一日待つと20件ほどの取得希望メールが来ます。おもしろいと思ったのは、品物を掲示すると数十秒で取得希望のメールがくる場合があることです。取得希望者の中には「いいね」が数百もあるヒト(すなわち、取引を数百回しているベテラン)がいます。ジモティー取引のベテランなのでしょうが、業者の可能性もあるのではないかと推測しています。また、いきなり取引日時と場所を指定してくる、常識を疑わざるを得ないヒトもいます。

 

私のポリシーとしては、独身あるいは子育て中の若い世代のヒトを中心に、メールの文面が丁寧かつ常識的なヒトを選んで譲渡先を選別しています。主に夜、取引場所として指定した近所の公園の路上で待ち合わせ、品物を渡し、取引は数十秒で終了。

 

先方は品物をもらって喜び、こちらは家内のスペースが広くなり、廃棄に伴う余計な出費は無し。WIN-WIN 取引で双方ハッピー!

 

ジモティー、助かっています!!

■世代間格差と民主主義について

 

 今、政治の世界のみならず、日本全体で起こっている重大事象は、世代間格差である。年金、雇用、家族のあり方、出生率などに、長寿になりすぎた高齢者たちと、多すぎる高齢者たちを支えなければいけない実働世代との間に溝が生まれている。さらにデジタル技術が必要不可欠な技術になるにつれ、その進歩についていけない高齢者たち(digital divide)と、デジタルを自由に扱う世代との間の溝でもある。そして、国家と地方自治体の税収が減り、限られたパイをどのように振り分けるのかを決めなければ、日本国家そのものが危うくなる状況にまで追い込まれている。

 考えなければいけないのは、長寿の意味である。日本人は急激に長寿になりすぎた。高齢者は残された長い余命をどう過ごしていいかわからず、日本のあらゆる組織の中で長老リーダーが跋扈するようになり、政界にも高齢者が居座り、古いセンスでリーダーシップをとるために社会の活力が失われ、若者の働き場所はなくなり、希望を持てない社会になりつつある。限られた社会保障費は多くが高齢者世代に向けられ、若い世代にはわずかしか向かない。長寿化は悪いことではないが、国民の中に、長寿化に見合った社会システム、資源配分哲学、リーダー選択の方法論、高齢者のあるべき生き方、等の規範と共通認識が存在しないことに問題がある。誰もがいずれは高齢化するのであるから、高齢化社会を見据えた上での「国家のあり方」と「人の生き方」を考え直さなくてはならない。

 

 具体的には、各組織でリーダーは30歳代後半から~40歳代後半がいい。男性の場合は45歳から男性ホルモンが低下し始め、男の更年期障害に入り、リーダーとしての闘争心や機敏性などが徐々に衰えるから。その一方で、連想記憶力、考察力、バランスの良い判断力等が優れるようになる。リーダーをやって苦労したヒトは、高齢になってからも若いリーダーに優れたアドバイスのできるオブザーバーになればよい。ここの、若いリーダーと補佐役としてのかつてのリーダーの間に良好なチェックアンドバランスが機能して、優れた意思決定がなされるはずである。

 50歳代を目前にしたかつてのリーダーは、老後をどのように迎えるか、死期をどのように迎えるか、真剣に考察しながら人生の第二ステージに入る。今の日本人は、急激に寿命が延びたがために、これらの考察が不十分なため、老いてからあわてふためいているという状況なので、この考察は極めて重要である。50~60歳代前半は、若い時代には未発達な連想記憶力や構想力が優れる。今の60歳代は元気だから、50歳前後から新しい勉強を始め、人生を楽しみながら新たに起業や独立をするに十分な時間がある。50歳まで培った人生経験が生かされるであろう。組織に貢献し、子供の教育費を稼がねばならない時代は過ぎているのであるから、NPOなどを介してボランテイアに専念し、若い世代と対等の立場で交流するのは脳の活性化につながる。

 

 但し、若い世代が肝に銘じなければならないのは、20~30年して、自分が高齢者になるとき潔く若い世代にイニシアチブを譲ることである。しがみついてはいけない。しがみついてしまっては、また元に戻ってしまう。

 

■最後に

 

 今の国政を担う政治家には、北海道、東北地方、中国地方、四国、九州南部等を、国家としてどのように発展させるのかの哲学がない。もちろん、国立公園や国定公園として保護し、むやみな開発は慎むべきであるが、国土は狭く限られているのであるから、使える土地は有効に使うという姿勢は重要である。

 

 食糧の国内需給率もできるだけ向上させるべきである。例えば、秋田地域では大規模田園をつくり、機械化を進め、農業に情熱を燃やす若者が集まるような都市にしていくのも一法である。国政および大都市行政を任される政治リーダーは一定の資質を持った政治家の中から選ばれるべきであり、それには選挙制度の改革も必要である。大都市で成果を上げた首長が国政のリーダーになる機会をつくるべきである。

●2024年2月、12年ぶりに自分で書いた上記論文を再読してみました。荒唐無稽な記載もあり、政治家になる前の素人の勝手な発想で書いた論文ですが、素人なりによく考察していたのではないかと思います。今の政治家にお願いしたいのは、国会議員も地方の首長も、それぞれの地元選挙区のことばかりでなく、広い視野で国際情勢と日本情勢を常に念頭に置きながら、それぞれの立場で政治を進めてほしいということです。

■国政を担う政治家に求められるもの

 

 橋下氏が指摘されるように、今の国政、自治体の多くの政治家たちは、どのような資質を持ち、その資質が政治リーダーに相応しいか否かの検証もされることなしに、各党の内部事情や地縁、血縁、世襲などに基づいて選ばれている。これが、国際社会から政治が二流と言われ、政治の停滞を招いている元凶である。

 

 霞が関官僚にも大きな問題がある。しかし、それなりの選抜試験を通過し、総じて基礎学力がある官僚たちをいじめて追放しても、日本国が得るものはない。むしろ、「変われない官僚たち」を「変えることができず、言うなりになっている政治家たち」に問題がある。永田町では、当選回数に応じてポストを与えられたり、党内の人事が決められるのが慣例であるが、この時代、従来の政治家としての経験は役に立たないのではないか。特に、IT全盛の時代、できるだけデジタル世代に任せる方向にむけるべきであろう。橋下氏も述べているように、政策を単発的に発信するだけではだめで、それを実行に移せるか政治家が必要とされている。100年後も安定し、繁栄する日本国となるためには、適正な時期での世代交代ができ、優れた政治リーダーが絶え間なく生まれる社会にすることである。

 

 従来の国政選挙および地方選挙においては、候補者の資質はとくに問われることなく、地元での地縁血縁を土台にして、地元での顔の広さと利益誘導の可否に応じてリーダーが選ばれてきた。しかしながら、少なくとも国政においてはこのようなプロセスでのリーダー選択では、これからの日本を引っ張っていくことは不可能である。そこで、日本国全体として、国家、都道府県、大都市、市町村それぞれにおいて、リーダーとして要求される資質を明確に定義し、その資質に見合う能力を持った人材を選挙民に提示し、その中から見識ある人材を選挙で選択するというプロセスを考えるべきあろう。資質に見合う能力とは、論理的思考力、共感力、政治的知識、法律的知識、バランス感覚、英語力、等。脳機能は加齢とともに低下して行くので、党として厳密なる年齢制限を設定するのも重要である。必ずしも学歴を偏重するものではなく、経歴の精査と多重面接で選考する。このような優れた候補者を備え、なおかつ施策が一致した政党をいくつかつくり、選挙民の投票意欲を削がないようにすれば、嫌でも投票率は向上するはずである。

 

■大都市首長に求められるもの

 

 一言でいえば、首長には「国家戦略とグローバリゼーションを念頭に置いた地方自治をビジネス感覚で行う能力」とが求められる。橋下氏らが提唱する「二層一本の仕組み」(二層は基礎自治体と広域自治体、一本は国)により、単純な上下関係でなく、それぞれの役割を相互に認識し、将来は道州制に移行しながら国家の繁栄を目指すのは道理にかなっている。その他、官僚たちと徹底して討論し、官僚たちを説得でき、あるいは官僚や市民の反対に遭遇しても、中長期的国家および大都市の展望に基づき、強引に施策を押し通せるだけの闘争能力を備えている必要がある。

 

 地方自治体の首長のみならず、国政に関わる政治家も含め、必要なのは「勉強力」と「発信力」である。現在、政治家としての豊富な経験は役に立たない。要求されるのは、テクノロジーと情勢の変化に応じて、勉強し、現状を把握し、新たな施策をスピーディに発信できる能力である。