祖父のエッセイ 三島事件 | 宮沢たかひと Powered by Ameba

大掃除をしていたら、祖父母が大事にしていた箱の中から長野市内の文学同人誌「溯行」内に祖父が投稿したエッセイを見つけました。1970年11月25日におこった三島由紀夫の割腹自殺事件について述べています。

 


私が幼少期の祖父の印象は、いつも座って何かを読んでおり、優しいけれども、若干気難しい面がありました。私は15歳時に長野市を離れ、大学卒業の1年ほど前に祖父は82歳で亡くなりましたので、もちろん祖父と文学談義などしたことはありません。他にも多くのエッセイがあり、なかなかのインテリだったようです。私も文学は好きですし、文章を書くのも苦ではありませんので、この祖父の影響を受けているのかもしれません。祖父に敬意を表し、文字起こしをしてみました。

*******************************

三島事件をどう考えるか 宮沢末雄

 

一一・二五の三島テロ事件があってからもう、十余日がすぎ、はじめ、やや、とまどいのきみだった世評も、ようやく冷静さをとりもどしたかのようである。

この事件の超重大性にかんがみ、さだめし今頃は、あらゆる人々が、否定にせよ肯定にせよ、それぞれ、ひそかに、自分の立場にケジメをつけ、或いはつけようと努めているものとおもわれる。

そこで私は、私自身のために、ここで自分なりきのささやかな三島批判を試みたいと思う。ふと考えてみるに三島は、かねて耽美派の作家でありこのたびナショナリズムの革命家としてあのような終末を遂げたわけであるが、やはりアンガジュマンの作家でありながら、今日ではマルキシズムに接近して反戦デモの先頭に立ったりしているフランスのサルトルと、その外観的なタイプがよく似ていて奇妙であるが、その中身の思想の深さなり、重なりが、あまりにもちぐはぐらしいので、ここでは敢えてこれ以上触れないことにする。

だが、それならいったい三島という人間の全貌をたしかめ、この事件の本質を探るためには、どんなてだてにたよるべきか?彼の著作など殆んど読んでいない私にはそれはまったく不可能と思われたので、已むなく次善の策として、事件直后彼の身辺にせまった、以下述べる数件のマスコミ情報を手がかりとする外なかったのである。

➀彼の家は三階建ての、くすんだ暗い感じのする、何か錯雑した容子の威丈高な家だった。暗い部屋がたくさんあり、女中が六人いた。・・・そして彼の家の環境は学習院の生活とともに、貴族的生活への理解と適応能力をはぐくんだのである。(S週刊誌)

➁三島さんは学習院時代に保田与重郎氏らの、日本浪漫派の代表的人物の強い影響を受けて出発した人です。日本浪漫派の思想というのは、いわば唯美的なナショナリズムであり彼のナショナリズムも十六才の時の『花ざかりの森』ですでに芽生え、今日までの三島文学の根底に、この思想は貫かれています。(江藤淳氏)

➂(終戦直後の頃)彼は当時を回想して次のように書いている。「もう一度原子爆弾が落っこたってどうしたって、そんなことはかまったことじゃない。僕にとって重要なのは、そのおかげで地球の形が少しでも美しくなるかどうかということだ。」と(S週刊誌)

④私はかつて三島氏と何を守るためになら命を懸けることが出来るか、という対談をしたことがある。二人の意見は食い違っていたようでその実本質的には大差なかった。三島氏は、守るべきものは、天皇制、三種の神器である。即ち、それらが表象する日本の伝統である。といった。(石原慎太郎)

⑤(事件一週間前の十一月十八日、恐らく彼が公的には最後に語った言葉。図書新聞企画で評論家古林尚氏のインタビュゥに答えたもの)「皇軍の誇りを失っている自衛隊には絶望した」「文壇には私の友達はいない、だれも理解してはくれない」「美の極致はエロティシズム、その先には死があるだけ」「<豊饒の海>が終わったらすることがない」「政府も自民党も、社会党も共産党も、戦后体制すべてが敵、すべて偽善の象徴」「人間宣言をした今の天皇には反感をもっている」「私にとって戦后というのは、どうしていいかわからないという混迷から始まった。自分がどこで自分の立脚点を持つべきかということになって、はたと困っちゃって、そして芸術至上主義みたようなところでかろうじて立脚点を持っていた。そして浪漫派の敵になって、古典派になることにしか、自分の道はないと思いつめたりした。そしてそのうちにだんだんお里が知れてきた。そして十代に受けた精神的影響、一番感じやすい時期の感情教育がだんだん芽をふいてきて、いまじゃあ、もうおさえようがなくなっちゃったんですかね・・・」
 

さて、以上列記の情報のかみ合わせによって、私はおぼろげながらも、三島由紀夫の全体像を組み立てることができたようである。即ち彼はその生いたちの環境が、いかにも貴族的フルジョア的であったばかりでなく、青春時代の教育環境や、その后の交友関係などが、いずれも保守固有の厚いカベとなっていたため、ついに救いようのないナルシシズムにおちこんでしまい、人間として最も大切な<開眼>が片ちんばに了ってしまったものと思われる。そのために、自分のま近に存在する他者の尊厳さや右翼的な足どりが恐るべきファシズムの街道へつながっているということなどが、とんと眼に入らなかったのであろう。ここまで考えてきて、この事件に対する私の否定的立場はいよいよぬきさしならぬものとなったもようである。

しかし『死』はあくまで厳粛である。彼の追いつめられた、絶望的な心情に対しては、心から同情の祈りをささげたい。

(十二・五日)

 

溯行2号 13~14 page

(立岡章平編集 1970年12月20日印刷発行 発行所:長野市吉田 1-10-15)